佐々木が去った後、冬の乾いた風が吹き抜ける中庭には、静寂だけが残った。
俺は自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえるのを感じながら、ベンチに深く腰掛けた。指先はまだ、極度の緊張からか微かに震えている。
「……悠真」
湊が、隣に静かに座った。
彼は何も言わずに俺の手を、自分の大きな両手で包み込んだ。
湊の手のひらはいつも通り熱く、その温度が伝わってくるにつれて、俺の強張っていた心も少しずつ解(ほど)けていく。
「……佐々木、怒ってたな」
「あぁ。だが、あれは拒絶の怒りじゃない。自分たちが蚊帳の外に置かれていたことへの、友情ゆえの憤りだ。……あいつは、いい友人だな」
「うん。……知ってたけど、やっぱり、すごい奴だよ、あいつは」
俺は、去っていった佐々木の背中を思い出し、少しだけ鼻の奥がツンとした。
一番恐れていた「軽蔑」はなかった。
それどころか、あいつは俺たちの「逃げ道」を塞ぐように、あえて厳しく、そして優しく、俺たちの関係を認めようとしてくれたのだ。
その夜。
俺たちのマンションのリビングには、いつもとは違う「安堵」が漂っていた。
今までは、家の中にいても、どこか「外の世界から逃げ込んでいる」という感覚が拭えなかった。
でも、たった一人、佐々木に知られただけで、俺たちのこの空間がようやく社会の一部として肯定されたような、そんな不思議な解放感があった。
「……湊。佐々木に言われたこと、覚えてるか?」
俺はキッチンで皿を洗いながら、リビングのソファで本を読んでいた湊に声をかけた。
「奪いに行く、という話か?」
「そう。……あいつ、本気だったぞ。俺が泣いたら、本当にお前の前から俺を連れ去るぞ」
湊がパタン、と本を閉じる。
彼は立ち上がり、背後から俺の腰に腕を回した。
「……そんな隙、一秒たりとも作るつもりはない。……お前を泣かせるのは、俺の腕の中だけで十分だ」
「っ、……またそういうこと言う……」
俺は照れ隠しに肘で湊を小突いたが、湊は動じない。
それどころか、俺の首筋に鼻を押し付け、深く呼吸を繰り返した。
「……悠真。佐々木にバレたことで、俺の中の『タガ』がさらに外れそうだ。……もう、あいつの前で無理に隠す必要がないと思うと、お前を連れ回して自慢したくてたまらなくなる」
「やめろよ! それじゃあ佐々木が可哀想だろ。……俺たち、まだ大学生活は続くんだからな」
俺は湊の方を向き、泡のついた手のままであいつの鼻先をちょんとつっついた。
湊は、鼻についた泡を気にする様子もなく、俺の手首を掴み、指先の一本一本を丁寧に愛でるようにキスをした。
「……分かっている。お前が望む範囲で、俺は『普通のルームメイト』を演じ続けよう。……だが、夜の寝言だけは、今まで以上に激しくなるかもしれないぞ?」
「……お前、確信犯だったのかよ」
「さぁな。……だが、今夜からはもう寝言で呼ぶ必要はない。……目の前に、お前がいるんだから」
翌朝。
大学へ向かう電車の中で、俺たちは昨日までと同じように、他人のフリをして座っていた。
だけど、ふとした瞬間に視線が合う。
湊の瞳の中に、昨日よりもずっと深い、甘い光が宿っているのを俺は見逃さなかった。
講義室に入ると、佐々木がすでに自分の席に座っていた。
俺たちが近づくと、あいつは一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに鼻を鳴らしてニッと笑った。
「よぉ、一ノ瀬。……悠真。……一限のノート、見せてやるから、学食でカツカレー奢れよな」
「……あぁ、三回分でも奢ってやる」
湊が、少しだけ口角を上げた。
俺は二人のやり取りを見ながら、胸の中が温かい何かで満たされるのを感じていた。
秘密を共有する友人ができ、隠し事のなくなった二人の距離。
ルームシェアという名の共同生活は、いよいよ「家族」に近い、深い絆へと昇華しようとしていた。
でも、俺はまだ知らない。
この数日後、湊の「独占欲」がさらなる試練——例えば、湊を追いかける女子学生グループとの衝突や、将来の進路を巡る親との対立——を引き寄せることになるなんて。
「……悠真、何ボサッとしてる。早く座れ」
湊が、俺の袖をクイッと引く。
その感触さえも、今は愛おしい。
俺たちの、本当の意味での「戦い」は、まだ始まったばかりだった。
俺は自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえるのを感じながら、ベンチに深く腰掛けた。指先はまだ、極度の緊張からか微かに震えている。
「……悠真」
湊が、隣に静かに座った。
彼は何も言わずに俺の手を、自分の大きな両手で包み込んだ。
湊の手のひらはいつも通り熱く、その温度が伝わってくるにつれて、俺の強張っていた心も少しずつ解(ほど)けていく。
「……佐々木、怒ってたな」
「あぁ。だが、あれは拒絶の怒りじゃない。自分たちが蚊帳の外に置かれていたことへの、友情ゆえの憤りだ。……あいつは、いい友人だな」
「うん。……知ってたけど、やっぱり、すごい奴だよ、あいつは」
俺は、去っていった佐々木の背中を思い出し、少しだけ鼻の奥がツンとした。
一番恐れていた「軽蔑」はなかった。
それどころか、あいつは俺たちの「逃げ道」を塞ぐように、あえて厳しく、そして優しく、俺たちの関係を認めようとしてくれたのだ。
その夜。
俺たちのマンションのリビングには、いつもとは違う「安堵」が漂っていた。
今までは、家の中にいても、どこか「外の世界から逃げ込んでいる」という感覚が拭えなかった。
でも、たった一人、佐々木に知られただけで、俺たちのこの空間がようやく社会の一部として肯定されたような、そんな不思議な解放感があった。
「……湊。佐々木に言われたこと、覚えてるか?」
俺はキッチンで皿を洗いながら、リビングのソファで本を読んでいた湊に声をかけた。
「奪いに行く、という話か?」
「そう。……あいつ、本気だったぞ。俺が泣いたら、本当にお前の前から俺を連れ去るぞ」
湊がパタン、と本を閉じる。
彼は立ち上がり、背後から俺の腰に腕を回した。
「……そんな隙、一秒たりとも作るつもりはない。……お前を泣かせるのは、俺の腕の中だけで十分だ」
「っ、……またそういうこと言う……」
俺は照れ隠しに肘で湊を小突いたが、湊は動じない。
それどころか、俺の首筋に鼻を押し付け、深く呼吸を繰り返した。
「……悠真。佐々木にバレたことで、俺の中の『タガ』がさらに外れそうだ。……もう、あいつの前で無理に隠す必要がないと思うと、お前を連れ回して自慢したくてたまらなくなる」
「やめろよ! それじゃあ佐々木が可哀想だろ。……俺たち、まだ大学生活は続くんだからな」
俺は湊の方を向き、泡のついた手のままであいつの鼻先をちょんとつっついた。
湊は、鼻についた泡を気にする様子もなく、俺の手首を掴み、指先の一本一本を丁寧に愛でるようにキスをした。
「……分かっている。お前が望む範囲で、俺は『普通のルームメイト』を演じ続けよう。……だが、夜の寝言だけは、今まで以上に激しくなるかもしれないぞ?」
「……お前、確信犯だったのかよ」
「さぁな。……だが、今夜からはもう寝言で呼ぶ必要はない。……目の前に、お前がいるんだから」
翌朝。
大学へ向かう電車の中で、俺たちは昨日までと同じように、他人のフリをして座っていた。
だけど、ふとした瞬間に視線が合う。
湊の瞳の中に、昨日よりもずっと深い、甘い光が宿っているのを俺は見逃さなかった。
講義室に入ると、佐々木がすでに自分の席に座っていた。
俺たちが近づくと、あいつは一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに鼻を鳴らしてニッと笑った。
「よぉ、一ノ瀬。……悠真。……一限のノート、見せてやるから、学食でカツカレー奢れよな」
「……あぁ、三回分でも奢ってやる」
湊が、少しだけ口角を上げた。
俺は二人のやり取りを見ながら、胸の中が温かい何かで満たされるのを感じていた。
秘密を共有する友人ができ、隠し事のなくなった二人の距離。
ルームシェアという名の共同生活は、いよいよ「家族」に近い、深い絆へと昇華しようとしていた。
でも、俺はまだ知らない。
この数日後、湊の「独占欲」がさらなる試練——例えば、湊を追いかける女子学生グループとの衝突や、将来の進路を巡る親との対立——を引き寄せることになるなんて。
「……悠真、何ボサッとしてる。早く座れ」
湊が、俺の袖をクイッと引く。
その感触さえも、今は愛おしい。
俺たちの、本当の意味での「戦い」は、まだ始まったばかりだった。


