「……ゆうま……っ」
三度目の寝言が聞こえた瞬間、俺は息を止めた。
今のは、確実に、ただの寝言の域を超えていた。
湿り気を帯びた吐息がカーテンの隙間を抜けてこちらまで届いたような気がして、全身の毛穴がざわ立つ。
湊は、どんな夢を見ているんだ。
夢の中の俺は、湊に一体何をされているんだ。
考え始めると、真っ暗な天井がぐるぐると回り出すような錯覚に陥った。
結局、俺は一睡もできないまま、窓の外が白み始めるのを待つことになった。
午前七時。
カーテンの向こう側で、カサリ、とシーツが擦れる音がした。
湊が起きた合図だ。
俺は咄嗟に目を閉じ、狸寝入りを決め込む。
今の顔を見られたら、絶対に「変だ」と察せられる自信があった。
「……悠真、いつまで寝てる。起きろ」
低い、いつもの温度のない声。
数時間前に聞いた、あの甘ったるい声の主と同一人物だとは到底思えない。
俺は「う、うーん……」とわざとらしく寝惚けたふりをして、ゆっくりと身体を起こした。
「……おはよ、湊……」
「おはよう。ひどい顔だぞ。慣れない環境で枕が合わなかったか?」
湊は既に身支度を整え、パリッとした白シャツを着こなしていた。
寝癖一つない髪、冷徹なまでに整った顔立ち。
あんな切ない寝言を言っていた男の欠片(かけら)も見当たらない。
「あー、まあ、そんな感じ。ちょっと目が冴えちゃって」
「そうか。朝飯はできてる。顔を洗ってこい」
リビングへ向かう湊の背中を、俺は呆然と見送った。
洗面所で鏡を見ると、そこには確かに、クマの浮き出た無残な顔の大学生が映っている。
(……なんであいつは、あんなに平然としてるんだよ。自分があんな声出してたなんて、一ミリも自覚ないのかよ……)
冷たい水で顔を洗い、バタバタとリビングへ向かう。
そこには、昨日の段ボールの山が嘘のような、整頓されたダイニングテーブルがあった。
置かれていたのは、厚切りのトースト、半熟の目玉焼き、それから彩り豊かなサラダ。
「……え、これ湊が作ったの?」
「他に誰がいる。座れ、冷めるぞ」
湊はコーヒーを飲みながら、タブレットでニュースをチェックしている。
俺は恐る恐る椅子に座り、トーストを一口齧った。
……美味い。
悔しいことに、絶妙な焼き加減だ。
「昨日の引っ越しの片付け、午前中で終わらせるぞ。午後は大学だろ」
「あ、ああ。そうだな。助かるよ、湊は手際がいいからさ」
「お前がトロすぎるだけだ。……悠真」
急に名前を呼ばれ、俺の肩がびくんと跳ねる。
「……な、何?」
「さっきから、なんで俺の顔を見ない。……何か隠してるだろ」
鋭い。
こいつは昔から、俺の動揺を見抜くのが天才的に早かった。
湊の切れ長の瞳が、じっと俺を射抜く。
その瞳の奥に、昨夜のあの「甘い熱」を探してしまう自分に気づき、俺は慌ててサラダに顔を埋めた。
「隠してねーよ! ただ、寝不足で頭が回ってないだけだって」
「ならいいが。……体調が悪いなら言え。ルームシェアの初日に倒れられたら、寝覚めが悪い」
ぶっきらぼうな言い方。
だけど、その言葉の裏に微かな気遣いが透けて見えるのが、いつもの湊だ。
高校時代、部活で足を挫いたときも、文句を言いながら保健室まで背負ってくれたのはこいつだった。
友情。そう、これは友情だ。
昨夜の寝言だって、きっと夢の中で俺が宝くじでも当てて、湊の分まで山分けせずに逃げようとしたとか、そういう次元の話に違いない。
そう。そうに決まってる。
自分に言い聞かせ、俺は無理やり平静を装って朝食を平らげた。
しかし、運命の歯車は無情にも、俺の「平穏」を粉砕しにかかってくる。
引っ越しの片付けを終え、俺たちは一緒に大学へ向かった。
キャンパスを歩けば、案の定、湊への視線が突き刺さる。
本人はそれを「空気」のように受け流しているが、隣を歩く俺としては、なんとなく落ち着かない。
「一ノ瀬くーん!」
明るい声と共に、華やかな女子グループが湊に駆け寄ってきた。
「あ、おはよう。一ノ瀬くん、今日の三限の講義、隣いいかな?」
「すまない、先約がある」
湊は足を止めることなく、短く答えた。
その「先約」が誰を指すのか考えるまでもなく、湊は俺の腕を掴んで歩度を速める。
「……おい、湊。あんなに冷たくしなくてもいいだろ。せっかくのチャンスだったのに」
「チャンス? 何の」
「何のって、可愛い子と仲良くなるチャンスだろ。お前、彼女欲しくないの?」
何気なく聞いた言葉だった。
だが、湊は突然足を止め、俺の腕を掴んでいた手にグッと力を込めた。
「……いらない」
「えっ?」
「俺には、もういるから」
心臓が、跳ねた。
「……え、彼女いんの? 湊、いつの間に……」
「いない。だが、好きな奴なら、ずっと前からいる」
湊の瞳に、一瞬だけ、昨夜の寝言のときと同じような、ひどく切実で熱い色が宿った。
俺の心臓は、もはやうるさいどころではない。耳の奥で鐘が鳴っているような騒がしさだ。
湊に、好きな奴がいる。
それは、昨夜夢の中で名前を呼ばれていた「俺」……ではない、誰か別の誰かなんだろうか。
「……あ、そうなんだ。へぇ……誰、とか聞いてもいい?」
「……お前は、知らなくていい」
湊はパッと俺の腕を離すと、そのままスタスタと講義棟へ向かって歩き出してしまった。
取り残された俺は、掴まれていた腕に残る熱を、呆然と見つめることしかできなかった。
もし、あいつの好きな人が別にいるのだとしたら。
じゃあ、昨日のあの寝言は、一体なんだったんだ?
謎は深まり、俺の胸の奥には、これまで感じたことのないような「モヤり」とした感情が、黒い霧のように広がり始めていた。
三度目の寝言が聞こえた瞬間、俺は息を止めた。
今のは、確実に、ただの寝言の域を超えていた。
湿り気を帯びた吐息がカーテンの隙間を抜けてこちらまで届いたような気がして、全身の毛穴がざわ立つ。
湊は、どんな夢を見ているんだ。
夢の中の俺は、湊に一体何をされているんだ。
考え始めると、真っ暗な天井がぐるぐると回り出すような錯覚に陥った。
結局、俺は一睡もできないまま、窓の外が白み始めるのを待つことになった。
午前七時。
カーテンの向こう側で、カサリ、とシーツが擦れる音がした。
湊が起きた合図だ。
俺は咄嗟に目を閉じ、狸寝入りを決め込む。
今の顔を見られたら、絶対に「変だ」と察せられる自信があった。
「……悠真、いつまで寝てる。起きろ」
低い、いつもの温度のない声。
数時間前に聞いた、あの甘ったるい声の主と同一人物だとは到底思えない。
俺は「う、うーん……」とわざとらしく寝惚けたふりをして、ゆっくりと身体を起こした。
「……おはよ、湊……」
「おはよう。ひどい顔だぞ。慣れない環境で枕が合わなかったか?」
湊は既に身支度を整え、パリッとした白シャツを着こなしていた。
寝癖一つない髪、冷徹なまでに整った顔立ち。
あんな切ない寝言を言っていた男の欠片(かけら)も見当たらない。
「あー、まあ、そんな感じ。ちょっと目が冴えちゃって」
「そうか。朝飯はできてる。顔を洗ってこい」
リビングへ向かう湊の背中を、俺は呆然と見送った。
洗面所で鏡を見ると、そこには確かに、クマの浮き出た無残な顔の大学生が映っている。
(……なんであいつは、あんなに平然としてるんだよ。自分があんな声出してたなんて、一ミリも自覚ないのかよ……)
冷たい水で顔を洗い、バタバタとリビングへ向かう。
そこには、昨日の段ボールの山が嘘のような、整頓されたダイニングテーブルがあった。
置かれていたのは、厚切りのトースト、半熟の目玉焼き、それから彩り豊かなサラダ。
「……え、これ湊が作ったの?」
「他に誰がいる。座れ、冷めるぞ」
湊はコーヒーを飲みながら、タブレットでニュースをチェックしている。
俺は恐る恐る椅子に座り、トーストを一口齧った。
……美味い。
悔しいことに、絶妙な焼き加減だ。
「昨日の引っ越しの片付け、午前中で終わらせるぞ。午後は大学だろ」
「あ、ああ。そうだな。助かるよ、湊は手際がいいからさ」
「お前がトロすぎるだけだ。……悠真」
急に名前を呼ばれ、俺の肩がびくんと跳ねる。
「……な、何?」
「さっきから、なんで俺の顔を見ない。……何か隠してるだろ」
鋭い。
こいつは昔から、俺の動揺を見抜くのが天才的に早かった。
湊の切れ長の瞳が、じっと俺を射抜く。
その瞳の奥に、昨夜のあの「甘い熱」を探してしまう自分に気づき、俺は慌ててサラダに顔を埋めた。
「隠してねーよ! ただ、寝不足で頭が回ってないだけだって」
「ならいいが。……体調が悪いなら言え。ルームシェアの初日に倒れられたら、寝覚めが悪い」
ぶっきらぼうな言い方。
だけど、その言葉の裏に微かな気遣いが透けて見えるのが、いつもの湊だ。
高校時代、部活で足を挫いたときも、文句を言いながら保健室まで背負ってくれたのはこいつだった。
友情。そう、これは友情だ。
昨夜の寝言だって、きっと夢の中で俺が宝くじでも当てて、湊の分まで山分けせずに逃げようとしたとか、そういう次元の話に違いない。
そう。そうに決まってる。
自分に言い聞かせ、俺は無理やり平静を装って朝食を平らげた。
しかし、運命の歯車は無情にも、俺の「平穏」を粉砕しにかかってくる。
引っ越しの片付けを終え、俺たちは一緒に大学へ向かった。
キャンパスを歩けば、案の定、湊への視線が突き刺さる。
本人はそれを「空気」のように受け流しているが、隣を歩く俺としては、なんとなく落ち着かない。
「一ノ瀬くーん!」
明るい声と共に、華やかな女子グループが湊に駆け寄ってきた。
「あ、おはよう。一ノ瀬くん、今日の三限の講義、隣いいかな?」
「すまない、先約がある」
湊は足を止めることなく、短く答えた。
その「先約」が誰を指すのか考えるまでもなく、湊は俺の腕を掴んで歩度を速める。
「……おい、湊。あんなに冷たくしなくてもいいだろ。せっかくのチャンスだったのに」
「チャンス? 何の」
「何のって、可愛い子と仲良くなるチャンスだろ。お前、彼女欲しくないの?」
何気なく聞いた言葉だった。
だが、湊は突然足を止め、俺の腕を掴んでいた手にグッと力を込めた。
「……いらない」
「えっ?」
「俺には、もういるから」
心臓が、跳ねた。
「……え、彼女いんの? 湊、いつの間に……」
「いない。だが、好きな奴なら、ずっと前からいる」
湊の瞳に、一瞬だけ、昨夜の寝言のときと同じような、ひどく切実で熱い色が宿った。
俺の心臓は、もはやうるさいどころではない。耳の奥で鐘が鳴っているような騒がしさだ。
湊に、好きな奴がいる。
それは、昨夜夢の中で名前を呼ばれていた「俺」……ではない、誰か別の誰かなんだろうか。
「……あ、そうなんだ。へぇ……誰、とか聞いてもいい?」
「……お前は、知らなくていい」
湊はパッと俺の腕を離すと、そのままスタスタと講義棟へ向かって歩き出してしまった。
取り残された俺は、掴まれていた腕に残る熱を、呆然と見つめることしかできなかった。
もし、あいつの好きな人が別にいるのだとしたら。
じゃあ、昨日のあの寝言は、一体なんだったんだ?
謎は深まり、俺の胸の奥には、これまで感じたことのないような「モヤり」とした感情が、黒い霧のように広がり始めていた。


