無愛想なルームメイトは、夢の中で俺に溺れている

「……ゆ、うま……待って……」

その声は、ひどく甘く、それでいて切なげに俺の名前を呼んでいた。


暗闇の中で聞こえてきた声に、俺は思わず跳ね起きそうになるのを必死でこらえ、布団の中で硬直した。

 
ここは、大学からほど近い築十五年のワンルームアパート……ではない。
今日から俺たちが暮らし始めた、2LDKの新居だ。


隣のベッド——といっても、仕切りのカーテン一枚隔てた向こう側に、一ノ瀬湊(いちのせ みなと)が寝ている。

(……いま、絶対に俺の名前呼んだよな?)

ドクドクと心臓がうるさい。


湊は、俺の高校時代からの友人だ。


シュッとした鼻筋に、少し切れ上がった涼しげな目元。
大学でも「歩く彫刻」なんて呼ばれて女子たちの視線を独り占めしている、正真正銘のイケメンである。


性格は沈着冷静、というか、はっきり言って無愛想。
そんな彼が、寝言で他人の名前を、しかもあんな熱っぽい声で呼ぶなんて、誰が信じるだろうか。


俺、瀬戸悠真(せと ゆうま)の心拍数は、完全に限界を超えていた。


事の始まりは、一ヶ月前の居酒屋だった。


大学二年生になり、お互い一人暮らしの家賃と生活費に悲鳴を上げていた頃、湊がビールグラスを置いた手つきそのままに、淡々と言い出したのだ。

「悠真、ルームシェアしないか」

その時の俺は、唐揚げを口に放り込もうとした姿勢で固まった。

「……は? 誰が?」

「俺と、お前だ。お互い仕送りも少ないし、二人の予算を合わせればもっと広いところに住める。何より、お前の栄養バランスの偏った自炊を見ていると、いつか倒れるんじゃないかと気が気じゃない」

湊はいつだってそうだ。
正論という名のナイフで、俺のグダグダな私生活をチクチクと刺してくる。


確かに俺は、自炊といっても野菜炒めとカップ麺を交互に食べるような生活だったし、湊は高校時代から家事全般を完璧にこなすタイプだった。


メリットしかない提案。
だけど、一つだけ懸念があった。

「でもさ、湊って、潔癖っていうか……他人と一緒に住むのとか一番嫌いなタイプだろ?」

「お前は『他人』じゃない」

湊は、そっぽを向いて冷めた烏龍茶を飲んだ。
その横顔があまりに綺麗で、俺はそれ以上何も言えなくなってしまった。


結局、押し切られる形で契約が進み、今日、俺たちはこの部屋に荷物を運び込んだのだ。


引っ越し作業は過酷を極めた。


三階建てのエレベーターなし物件。
重いダンボールを抱えて往復し、ようやくすべての荷物を運び終えた頃には、外はもう真っ暗だった。

「ふーっ……死ぬ。マジで死ぬ……」

リビングのフローリングに大の字になって寝転がると、湊が呆れたように俺を見下ろしてきた。

「体力がなさすぎる。明日から朝のランニングに付き合うか?」

「絶対に嫌。俺を殺す気か」

「……冗談だ。とりあえず、今日はもう寝るぞ。片付けは明日だ」

そう言って、湊は俺の腕を掴んでひょいと立たせた。
その手のひらが驚くほど大きくて熱くて、俺は少しだけ、自分が「男」であることを意識してしまった。


新しい部屋は、寝室として使う部屋をカーテンで仕切り、それぞれのプライベート空間を作ることになった。


湊の寝るスペースと俺の寝るスペース。


その距離、わずか二メートル。


カーテン越しに、湊が衣類を脱ぐ衣擦れの音が聞こえてくる。
それだけで、なぜか悪いことをしているような気分になって、俺は慌てて布団に潜り込んだ。


慣れない環境、心地よい疲労感。
すぐに眠りにつけるはずだった。


なのに、隣から聞こえてきたのが、あの「寝言」だ。

「……ゆうま……どこ、行くんだよ……」

まただ。


今度は少し寂しそうな、泣き出しそうな声。


普段のクールな湊からは想像もつかない、柔らかくて脆い響き。

(待て待て待て、落ち着け。湊はきっと、夢の中で俺と喧嘩でもしてるんだ。……そうだよな? それとも、俺をこき使って引っ越し作業をさせる夢でも見てるのか?)

そう自分に言い聞かせないと、耳の奥まで熱くなってしまいそうだった。


昼間のあいつは、あんなにぶっきらぼうで「早く寝ろ」なんて冷たく言ったくせに。


夢の中のあいつは、どうしてこんなに俺を求めているような声を出すんだろう。


カーテンの向こう側を覗き見る勇気なんて、さらさらない。


俺は布団を頭まで被り、自分の激しい鼓動を抑えるように胸を強く押さえた。


波乱のルームシェア一日目。


どうやら俺の生活は、当初の予想とは全く違う方向に転がり始めたらしい。