猫が居た自然公園から十分ほど。右も左も住宅しかない道を抜けると、より一層ボロっちい二階建てアパートが見えてくる。
 都心の中小企業で、一般事務で働く私。一人暮らしの二十七歳。
 電車通勤だけどアパートは駅から徒歩三十分の距離にあり、築三十年であることから家賃は驚かれるほどに安い、ワンルームに住んでいる。

「フニャアアア! ギャアアアア!」
 アパートに着く頃には、尻尾までブンブンと振るようになっていた。これほどに歓喜してくれるなんて、猫を抱き締める力が思わず強くなってしまう。

「たっだいまー!」
 玄関ドアを開けて、久しぶりにそう言ってみる。「おかえり」を言ってくれる相手はいないけど、いいの。
 だって私の胸元には、フカフカモフモフなニャンコがいてくれるんだから!

 開いたドアからはひんやりとした空気に、室内干しの湿気が漂う。
 雨に、湿気に、寒さ。心を曇らせる三拍子が揃っているっていうのに、暗闇の中でレインジュースを軽やかに脱ぐ。慣れた動きで扇風機の横を通り過ぎ、奥の部屋を照らす電気をポチッと付ける。

「ウニャアー!」
 部屋が明るくなった途端に、抱っこしていた猫の体がビクンと波打つ。
「えっ! どうしたのぉ?」
 もしかして電気が怖いのかな?
 そう思い小さな顔を覗き込もうとした、その時。

「き、汚いニャー!」
 ワンルームの部屋に、子どものような小さな声が響いたかと思えば、跡形もなく消えていった。

「えっ? なんか聞こえた?」
 部屋の左側に目を向けると、壁際に寄せて配置した木製ベッドがあり、壁に沿って本を積み立ているが崩れてはない。
 部屋の真ん中にはミニテーブルが置いてあり、ここでご飯を食べている。その横に畳んである洗濯物は倒れた形跡はない。
 部屋の右側にはテレビとそれを置くラックがあり、BDディスクが山盛りだけど、埃の位置から動いた跡はない。

 以上をもって、この部屋には泥棒は侵入していないと結論がつき、大きく溜息を漏らす。

「それより濡れた体を洗おうね!」
 私の動きをポケッ〜と眺めていた猫は、また体をピクンッとさせ、私の腕の中で身をクネクネとさせる。

 お風呂場でそっと体を下ろし、温かなシャワーを猫にかける。すると「ウニャアアアアアー!」と声を出しながら身を捩らせて、お風呂場の壁に顔をぶつけて鳴き、ドアを爪でカリカリさせ、何度も何度も身をブルブルとさせている。

「……あれ? 猫ってたしか、水浴び好きだよね?」
「アニャア! アニャニャニャニャア!」
 私の問いに答えるように首を横にブンブンと振り、前足で床のタイルをぐじぐじと踏んで見せてくる。

「おかしいなぁ……」
 ズボンのポケットに入れ直したスマホでポチポチと検索すると、水浴びが好きなのは犬で、むしろ猫は水が嫌いだとビッシリ注意事項として書いてあった。

「うわあ、ごめーん! 間違えたわっ!」
「フシャー!」
 ピシッと尖らせた尻尾に、ペチンペチンと頬に当たる肉球にふふッと笑いながら、猫柄のバスタオルで体をバサバサと拭く。
「……フニャア」
 大きく見開いていた目がどんどんと小さくなり、逆立っていた毛が柔らかなモフモフ毛並みに戻っていく。

「ごめんね。確か、ねーこはコタツで丸くなるー。だよね?」
 ヒョイと持ち上げるともう肉球マッサージはなくなり、ミニストーブの前に連れて行った途端に、カーペットをひいた床にコロンと転がった。

「あ……、こたつがあればなぁ……」
 一畳ほどの大きさがある押し入れに目をやり溜息を吐いた私は、体がブルブルと震える。
 髪の毛はお風呂上がりみたいに湿っていて、玄関にかけたコートはポタポタと雫が落ちていた。

 猫救出大作戦でびしょ濡れになった私は、明日は土曜日で仕事が休みなことが良いことに、ゆーくりお湯に浸かる。

「ふぅー、あったまったー! ねーこちゃーん!」
 部屋に戻るとホカホカとした空気に包まれ、暖かな部屋の象徴である灯油の香りがする。

「フニャァァ……」
 目を閉じて口元をムニャムニャとさせ、足を顔付近に置き、真ん丸くなって眠っている。
「へぇ〜、本当に丸くなるんだぁ」
 黒い毛並みは整っているも、全体的にほっそりしているその体。付けられた首輪はボロボロで私が引っ張ったせいもあって、今にも取れてしまいそうだった。
 キュッと締め付けられる胸を抑え、カーテンの隙間から見える街灯に照らされた雨の線をただ眺める。

「……よしっ!」
 ミニテーブルに広告の裏面をバンッと置き、ボールペンを備える。スマホ片手にポチポチと始め、それを紙に書いていく。

 うん、いける。これなら、いける。
 小さくなって眠る猫の頭を、私はそっと撫でた。