ピクッと体が揺れる。
 恐る恐る瞼を開けると周囲は薄暗く、カーテンの隙間から照らされる街灯の灯り。
 目元に差し出した手には肉球はなく、いつもの短い五本指が自分の意思の元で動かせる。
 ここは私の部屋で、寝ていたのは本で溢れていて寝返りが打ちにくい、いつものベッド。

「はぁぁぁ」
 大きく溜息を吐いた率直な気持ちは、「良かった」だった。だって、あんな風に自分が捨てられたらと思うと、私は……。

 じわっと溢れてくるものが抑えられず枕に顔をうずめると、頬に当たるモフモフとした柔らかな感触。
「……ニャア」
 布団から顔だけ出した猫がコイコイと私の頭を撫で、何ごともなかったかのように、プイッと顔を背けてくる。

 いつの間にか空は白み、朝を迎えようとしていた。

 猫がウチに遊びに来てくれるように一ヶ月間以上になるけど、絶対に泊まってくれなかった。
 なのに、側にいてくれたんだ。

「雪、降ったニャ。ブルブルしたニャ」
 確かにカーテンの隙間より見えるのはチラチラとした雪で、室内でも一段と寒くなった冷気に体は無意識に身震いを起こす。

「ちょうどだったニャー」
 軽く布団をぺちぺちと叩くけど。
「アンタ、心配ニャ。一人にしておけるわけないニャ」
 二つの同じ声が別のことを言い、それが私の耳に届いてくる。
 思わず猫を見つめてしまうと、猫はプイッしてベッドからピョンと飛び降りた。

「……ねぇ、どうしてあの公園に帰らないといけないの?」
 そう聞いた途端に、キュッと強く締め付けてくる胸の奥。
 それは昨日の衝撃とは比べものにならないほどに痛く、ドキドキと鼓動が速くなり、喉がヒリついてくる。

 ねえ、教えて。私はアナタを知りたいの。
 あんな辛い思いしたの?
 あんな寒い思いをしたの?
 あんな淋しい声を出したの?

 ただの夢だって言ってほしくて。違うって笑ってほしくて。私はただ、アナタの返答を待った。

「関係ないニャ……」
 振り返った姿は、目をカッと見開いて瞳孔が大きく、口を開いて犬歯を見せてきて、毛を強く逆立て、尻尾は今までに見た以上に肥大し床に叩きつける。

「あっ」
 全身の血が引いていく感覚にこれ以上の言葉は出ず、ピョンと窓に飛び乗りコイコイと手で器用に開けていく姿を、ただ呆然と眺めるしかなかった。

 窓の外はヒュウーと音を鳴らし、強風により放置してあるバケツか何かがカラカラカラカラと音を立てて転がっていき、凍てつくような冷風が容赦なく私の部屋着に通り過ぎていく。

「……猫」
 部屋着の上に黒いコートを羽織り、サンダルに足を通して、部屋を飛び出す。
 行き先は一箇所。猫と出会った自然公園へ。

 運動不足の足はもつれ、喉の奥は切れそうに痛く、吸う息は冷たくて、呼吸すら苦しい。
 でも足だけはずっと動いてて、「猫ー!」と呼ぶ声は公園内にずっと響かせて、キョロキョロと見渡す目は決して止まらない。
 裸足で指の感覚がなくなっても、冷たい冷気に喉がキリキリと痛んでも、目だけは熱くて視界がぼやけても。
 雪はただ降り続けて周囲は白く染まっていき、黒い小さな体を埋め尽くすのではないかと、ただ怖かった。

 全長二キロはあるとされる自然公園をあてもなく歩き続けると、また最初の場所に戻ってきた。
 猫と出会った、木々が茂る自然広場。
 この樹木の上で尻尾が引っかかり、「助けて」と声がして、ここに来たのが全ての始まり。
 当然ながら猫はそこにはぶら下がっていなくて、立派な枝には雪がのっていた。

「……あれ、ここって!」
 スッとしゃがんで見上げてみれば、夢で見た光景と同じ樹木の配置。
 猫は、ここに立ち尽くしていたんだ。
 体温を奪う雪が全身に降り注いでも、冷たくて重い塊がのしかかっても、身を凍らせるような風が吹き荒れても。

 私にとっては夢でも、猫にとっては夢でなかった。
 私が夢で良かったと溜息を吐いたことが、猫にとっては───。

 次は私が、身が凍り付いたかのようにその場に立ち尽くしてしまった。
 来ないと分かっている待ち人を待つことが、どれほど苦しいか。
 私は分かってるつもりだった。……でも、全然分かっていなかったね。