『クロは可愛いね』
 大きな指先で頭をサワサワと撫でてくれるのは、私と同じ年ぐらいの女性。
 開いた口からは「ニャア」と声が出て、それは高くて小さい。
 差し出されたプラスチックの平皿に入っているのは白くて甘い香りがして、舌でペロペロすればミルクのような乳製品の味がする。
 これってもしかして、猫が赤ちゃんだった時の記憶?

『ほら、カリカリだよ』
 次に見えた場面は、茶色の粒状のものが同じ平皿にサラサラと入れられるところだった。
 聞こえた声は男性のもので、顔を上げた先にいるのは私と同じ世代の若い人だった。
 口に入ってくるものを噛むと確かにカリカリしていて、猫が言う通り魚の風味が効いており、ゴックンとすると幸せな気持ちで満たされる。

 こうして時間がどんどんと過ぎていき、毛繕いする体は大きくなっていって、お皿にのるご飯はミルクからキャットフードに変わり、量も増えていった。

 男性と女性が、二人並んでスマホを覗いている隙間に、当たり前のように入り込む体。仰向けに無防備に寝そべり、喉元をゴロゴロとされると心地良く、思わず「ニャアー」と甘えた声が出る。
 温かくて、穏やかで、優しい。そんな時間が過ぎていく。

 ───やっぱり猫は、飼い猫だったんだね。こんなに可愛がられていたのに、どうして捨てられてしまったのだろう?
 男性と女性は同棲カップルぽくって、仲良さそうなのに。


『アンタの子どもっぽいところ、嫌だとグチってたニャ。しっかりしないとアイソ尽かされるニャ』
『……はぁ? んなこと、思ってんのかよっ!』
『ちょ、ちょっと待って! 私、何も言ってないしっ!』
 どこからか聞こえた声に、ソファで寝そべっていた男性が立ち上がり、椅子に座ってスマホを触っていた女性が周囲を見渡す。
 ───今の声って?

『ケッコンする気はニャイって、笑ってたニャ。ウソはダメだニャ』
『えっ? ちょっと待って! 嘘なの!』
 女性は男性に、見ていた雑誌を投げつけたかと思えば、甲高い声で「やっぱり! 嘘つき!」と叫び出す。
『いや、誰がそんなこと言ったんだよ!』
 日頃のうっぷんなのか、激しく言い争う口調は強く、ビクッとなった体は全身に渡り、小さく、丸くなってしまった。

「だめニャ。二人には仲良くいてほしいニャ。何でアタイはこんなチカラあるニャ?」
 目を強く閉じ、身を震わせながら、耳がペタンと落ちてくる。

 ───力? 話せる能力のこと? それとも、まだ何か持ち合わせているの?


『ごめんね。住むところ見つかったら、必ず迎えに来るからね』
 飼い主の女性に、抱き抱えられて連れて来られたのは、木々が多く茂る自然豊かな場所。
 だけど今は冬のようで、木には一本も葉が付いておらず、草花も咲かない。昼ごろだろうに、薄暗い場所だった。
 そんな一本の大きな木樹の前で、地面に降ろされる。
 猫を抱えていた小さな手は頭を撫でてきたけど、それは離れていき、そっと背を向けられた。

『ニャア……』
 トテトテとその背中を追いかけるも、女性は『付いて来ないで!』と声を荒げる。
 ピクンとなった体は、まるで凍り付いたように動かなくなり、小さくなって消えていく姿を眺める。
『ニャア、ニャア……』
 届かない声を、ひたすらに出しながら。

 どんよりとした空下からフワッと舞うのは小さな結晶。かろうじて動く首を上げると、チラチラと白い雪が降り注ぎ、身動きが取れない体に次々と当たっては消えていく。

 体を刺すような冷風が吹き、身を凍り付かせるような雪は容赦なく小さな体に積もっていき、吐き出される息は真っ白で、時折呼吸が詰まり息苦しくなる。

 のし掛かる雪が重くなってきて、その場にしゃがみ込み、身を丸くして、ただその場に震える。

『仕方がないニャ。アタイが悪いニャ』
 寒さでガタガタとなる口元は一切動いていないのに、そんな声がどこからか聞こえてくる。

 そんな猫に差し出してくれる手は、もうなかった。