-音文学楽- 物語を調べに乗せて

 〈この調べと ともに〉
  ロベルト・シューマン
   子供の情景 Op.15

 ♪

つくづく自分は恵まれていたな、と朦朧(もうろう)とし始めた意識の中で、私は自分の人生を評価する。

隣りの部屋を特別に借り、妻と子ども三人の家族が付き添ってくれている。
会社の秘書室長、役員の連中は、誰かが必ず日参している。まあ、こっちの方はある程度打算も含まれているだろうが。「打算と真心の境界線」って意外と曖昧なんだと、ある程度の社会的地位を築いてから理解した。残念ながら、親族や友人にもそれがあることは認めざるを得ない。

先週までは、役員連中から会社の出来事について報告を受けたり、案件によっては相談を持ちかけられたりもした。
しかし、今週に入ってから、それがぱったりと止んだ。意味することは明白だ。
その分、家族とともに過ごす時間が増えたことはありがたい。妻は、恋人時代からの思い出話をとうとうと語ってくれるし、長女と長男は父親としての私の厳しさ、たまに見せた(という)優しさ、そして意外に抜けている一面を彼女彼らの経験として語ってくれる。

これらの思い出話は私の「心のアルバム」の整理には役立った。すぐにメモリーから消去されてしまう、いやメモリー自体が消失してしまうとは言え。

夜は病室から人を払い、独りで眠る。ナースコールのボタンも放置する。今さら何があったって構うものか。もうそういう段階に来ているのだから。

家族や会社の連中や見舞に来た友人の思い出話を反芻し、自分の記憶、夢に定着させようと目を閉じる。この期に及んでの、まったく無駄な行ないだが。

しかしだ。
心に浮かぶのは……

昼寝から目覚めたら、枕元に置いてあった、三歳の誕生日プレゼントのプラレールの手触り。

これも三歳のころか、住んでいた長崎の教会で聴いた、パイプオルガンの、「遠き山に陽は落ちて」の響き。

木によじ登って蝉のやかましい声を聞いていたところ。肩にとまっていたミドリカメムシがいきなり飛び立ち、あまりの臭いに木から落ちて大泣きし、慰めてくれた姉の声。

小一の時、隣りの女の子が僕のハーモニカの演奏を褒めてくれた時の嬉しさ。

暑い昼下がり、空き地の道端をクネクネと這っていた蛇への好奇心。

僕が転校する日、隣りの席の子が校舎の片隅に連れて行き、数えきれないくらいキスをしてくれた時に初めてわかった彼女への思い。

みかんの葉にくっついていたアゲハの幼虫を掴んだら、鮮やかなピンクの触覚を出して、強烈な柑橘類の匂いの妖しさ。

僕が母に怒られて、家から閉め出されたとき、同じアパートに住んでいたクラスメイトの女の子が僕を彼女の家に入れてくれ、刻んだ沢山のキャベツと小麦粉と干しエビなんかがボウルいっぱいに入っている具材で、お好み焼きをご馳走してくれた時に流した涙。

学芸会が終わって暗く淋しくなった体育館の脇を吹き去る秋風と拾ったシイの実の色艶……

これらの思い出の映像が走馬灯と呼べるのかどうかはわからない。それぞれのシーンはあまりにもゆっくりと流れ、しかも鮮明だったからだ。

妻との初デート。みなに祝福されて挙げられた結婚式。夕方に始まった陣痛からようやく明け方に生まれた長男。気心の知れた仲間と立ち上げた会社。そこでの数々の苦労とそれを克服した達成感。その結果、実現した株式上場の祝賀パーティー。
大人になってからの思い出だって、どれもこれも素晴らしい。

でも。
この世を去る間際になって、初めて知る。

記憶に留めようと努力して定着させた思い出と、記憶に焼きついて消すこともできない思い出、この二種類があることだ。そして、後者の殆どが、物心ついて間もない頃のもの。最も輝いているはずの、いわゆる青春時代には、ろくな思い出がない。家庭環境が原因だ。私の人生で一番悔やまれる点ではある。もしこの時期、もう少し心を閉ざしていなかったら、思い出のポートフォリオはまったく違うものになっていたかもしれない。だが、今さらどうのこうの言っても仕方がない。

これらのことから、今、このタイミングで結論づける。

私にとっては、「子ども」が本当の人生だったのだ、と。



翌日の午前、幸運にも目を覚ますことができた。
土曜で学校が休みの孫娘が、電子の鍵盤楽器を私の病室に持ち込み、スイッチを入れて弾き始める。

曲は、シューマン 「子供の情景」より、トロイメライ。
私はその調べに、夕べの夢……思い出の続きを乗せる。

この世を去る私に寄り添い、電子ピアノを奏でる少女。
見守る家族と会社の仲間。

――三歳のぼくには、このベッドはちょっと大きいかな――

ひょっとしたら、大勢の看取りの人々がいるこの部屋で、唯一心を通わせてくれているのは、ピアノを弾く彼女だけなのかも知れない。今の私のように。子供である彼女だけが。

その小曲の最後の音が奏でられる前に、私は……