◇ ◇ ◇

思川桜、ひとひら。

〈この調べと ともに〉
 サクラ色
 作詞・作曲 アンジェラ・アキ

   ♪

Ⅰ.教え by オシエ

 花びらが一片(ひとひら)。

 駅のホームを舞う。
 そして私の肩をかすめ、ゆっくりと黄色い点字ブロックの上にひらりと落ちた。
 そうなると、花びらとしての存在感が急激に失われる。

 いつも、思う。
 桜の樹なんて見当たらないのに。
 どこから花びらは舞い降りてくるんだろうって。

 JR小山駅。
 十二番・十三番線、赤羽新宿・上野東京方面のホームには、お目当てのものは無かった。
 彼女と私をつないでいたものは、跡形もなく。

 微かな残滓は、花びら一片。

 〇

「着きましたよ」
 タクシーの運転手はわざわざ車を降り、手で後部のドアを開けてくれ、付き添いの母と私は、高校の門の前に降り立つ。

 すいすいと門に吸い込まれていく女子高生の姿。今は冬休み中のはずなので、部活だろうか。補習授業だろうか。
 濃紺のセーラー服に、清潔感のある真っ白で大きな襟カバー。
 伝統を感じさせる制服は一目見て気に入った。
 きっと男子はこういう制服の子と並んで歩くのが憧れなんだろうなあ。
 新しい学校での生活を妄想する。

 立派な石垣にはめ込まれた長四角の黒い石。そこに彫られている学校名に目を遣る。

 栃木県立桜野女子高等学校

 え! 
 なんで『女子』がつく? ここ、県立高校でしょ?

「ねえ母さん、ひょっとしてここ女子高?」
「あら、言ってなかったっけ?」
「うん、父さんも母さんも、『県立桜野高校』としか言ってなかったよ」
「……と言ってもね、関東の公立は、たいてい男子校、女子高と別れてるわよ」
「そんなこと知らないよ」
 私は騙されたと思った……父と母に。

 両親は、転勤をきっかけとして二人の故郷である栃木県に一年前から引っ越していた。小さいながらも家を建て、ささやかながらも『故郷に錦』を飾った。
 私は北海道旭川の高校に入学したばかりだったので、一年様子を見て編入しよう、ということになっていたのだ。

 旭川の高校は(もちろん)男女共学で、しかも私服での通学が許されていた。校風も自由で、生徒ひとりひとりの自主性が重んじられていた。居心地がいいので私はそのまま卒業するまで旭川にいたかったが、下宿代もかかるし、知り合いのいない場所にずっと女子ひとり置いておくことが心配とのことで、親からは予定通り一年で編入試験を受けなさいとプレッシャーがかかった。
 転校先が女子高であることを言いそびれたのか、ネガティブ要素を少しでも減らすために敢えて言わなかったのか。恐らく後者だろう。

「ちょっと母さん!」
 ぶんぶくれる私と母の前を、二人組の生徒が通りがかり、歩を緩めた。
「ひょっとして、編入する子け?」
 栗色のショートヘアの女子が私に聞いてきた。

「え、まあ……これから試験だから、受かるかどうかまだわかんないけど」
 わざと落ちてやろうか?
「優秀なんだな、じゃないとここ、試験なんか受けさせてくんねって聞いてるよ」
 これが栃木弁か……北海道弁に似てなくもないが、語尾のイントネーションにクセがあって……ちょっと怖い。
「そんなことないです……それよりあの、ここはホントに女子高なんですか?」
「教えてあげんべか? ここは、去年から女子高になったんだべさ」
「こら、オシエ! ウソを教えたらだめだ……あのさ、ここはもともと女子高さ」
 連れの生徒が、オシエと呼んだ子の頭をコツンと小突き、彼女を玄関の方に引っ張っていった。

「試験がんばんな、待ってっからさ」

 引っ張られながらも、オシエさんは白い歯を見せて、手を振った。
 私も手を振り返す。
 それが、通称オシエ、本名 橋田紀志江(はしだ きしえ)との出会いだった。


Ⅱ.再会 in 両毛線

 うちの両親が建てた家は、両毛線というローカル線の始発、小山駅の隣りの思川(おもいがわ)駅にある。名前の響きはいいが、無人駅で南口から続く道は一応商店街だけど、道幅は狭く、店舗の軒はすぐに途切れる。道のその先は田んぼが広がり、その中に住宅が点在している。
 両毛線は単線で、朝夕の通勤通学時間帯は一時間に上下線それぞれ二本。それ以外の時間は一時間に一本。そんな運転間隔だから、よくNHKでローカル線の特集をやるときの光景、つまり車両の中に学生がポツンポツンと座って本を読んでいるようなシーンをイメージしていた。

 それは大間違いだった。

 転入試験に無事合格し(数学はボロボロだったので、いく分オマケしてくれたのではないか……)、高二の新学期から晴れて栃木県立桜野女子高等学校に通うことになった。
 思川駅の無人の駅舎を抜け、階段を上がって、スイカの定期を自動改札――スタンドにカードリーダーみたいなのがついているやつ――にピッと当てて、改札内の階段でホームに降りる。そこで電車を待っているのはほとんど高校生だが、その数は少ない。

 四両編成の列車が駅のホームに滑り込んできた。しかし……

 第一の洗礼……電車が停まってもドアが開かない。

 どうすればいいの! とあせって見まわすと、左右で待っていた高校生たちが、何やらドア横のボタンを押している。
 手動式なんだ! 慌てて私もボタンを探して押した。プシューという排気音とともにドアが開く。

 第二の洗礼……超満員で乗れない!

 始発の小山駅――栃木県南部で最も人口が多い小山市にある――でたくさんの高校生が乗り込み、両毛線の各駅にある学校に向かう。私の行き先は小山→思川(今ここ)のもう一駅先の栃木駅だ。栃木駅には複数の公私立高校があり、さらにこの路線の先には、佐野、足利、桐生などの駅に高校がある。そこに通う生徒たちはみな、通学の足として両毛線を使う。だから、車両の中は高校生でいっぱいだ。ドアが開いたら、乗っている生徒たちが溢れ出そうな状況で、とてもそこに割り込んで乗れそうなスペースは(度胸も)ない。いったん乗ってみようと試みたが、片足をドアのヘリに乗せても中に入れない。(ド田舎駅から乗ってくんなよ!)と中から押し返そうとしている悪意みたいなものも感じられなくはない。


「ちょっと、乗っけてあげてよ!」

 という声とともに、車内から手がにゅっと伸びてきて、私の腕をつかんだ。ぐいと引っ張られ、車内にわずかにできたスペースに体をねじ込む。手を貸してくれた生徒は私に向き合っていた……というかほとんど密着していた。無茶苦茶近い場所にある顔に見覚えがある。確か……
「オシエ……さん?」
「あら、よくアタシのあだ名、覚えててくれたね!」
 髪と同じ栗色の瞳がにっこりと笑い、眼前で私を見つめる。
「あ、ありがとう……電車に乗れなくてどうしようかと思ってた」
「教えてあげっけど、特に朝はスゴイからね。ムリクリ乗り込まないと遅刻しちゃうよ」
「うん、今度から頑張る」
 私は彼女の体の凹凸を感じながら、約六分間、身動きできずにじっとしていた。せっかくの新品のセーラー服がシワになることが懸念される。

「おめでと」
「え?」
「転入試験、ちゃんと受かったんだ」
「あ、ありがとう」
「名前は?」
「あ、ごめん……佐伯菊乃(さえき きくの)……二年生」
「そっかあ、終業式の時、担任の先生が言ってた、ウチのクラスに来る転校生って、佐伯さんのことだったんだ!」
「お、同じクラス!?」
「ほだよ、二年三組。あ、アタシの名前は、橋田紀志江。よろしくね」
「よろしく……あれ? オシエさんじゃなくて、キシエさんなの?」
「そうそう。教えてあげっけどね、アタシってさ、全然自覚無いんだけどさ、『教えてあげっけど』とか『教えてあげんべか』とか口癖みたいでさ、いつの間にかキシエじゃなくてオシエになっちゃった。ハハハ」
 ……今も『教えてあげっけど』って言ってた。

 栃木駅に着くと、私達は車両から吐き出され、そのまま通称オシエと一緒に学校に向かった。
 途中、カトリック教会の脇を通ると小さな川が流れ、水面には沢山の鯉の姿が見えた。川沿いは公園や遊歩道になっていて、そこをセーラー服の女子高生が並んで歩いていく。
 その中にオシエと私もいた。満開を過ぎた桜から、無数の花びらがヒラヒラと舞い、地面に薄く積もっていた。

「オシエ(教え)とキクノ(聞くの)かあ。アタシ達、いいコンビになれっかもね」
 彼女は私の頭に舞い降りてきた花びらをそっと指でつまんで、そうつぶやいた。


Ⅲ.立ちそば on ホーム

 橋田紀志江。通称オシエは、あだ名の通り学内のこと、クラスメイトのこと、栃木の街や県民性? など、色々なことを教えてくれた。転校して間もない私が困らないように。不安がらないように。そして、少しでも楽しく女子校生活を楽しく過ごせるようにだよって言って。

 実は私、転校には慣れっこだった。正確に言えば、慣れっこのはずだった。父親が転勤族のため、小学校は福岡の北九州に始まり、東京、札幌、そして旭川市内で二校と、五回も学校が変わった。旭川の中学に入学し、一年の夏、父親に転勤の話がきた。場所は釧路。父と母は私たち兄妹――兄と私と妹――に淡々とそのことを伝えた。今までそうだったように、子供たちは何も言わずについてきてくれると思ったのだろう。
 しかし、私はブチ切れた。反抗期まっさかりだったし、ブラバンの部活に入って毎日のように仲間と練習に明け暮れ、楽しくて仕方がなかったからだ。そんな宝物のような日々を奪われてなるものか。合計、一リットル……オーバーか。百㏄くらい涙を流して泣き腫らし、自分の部屋に閉じこもった。父は結局単身で釧路に赴任した。

 家族をバラバラにしてしまったという負い目もあったので、高校に入って一年目の冬に父から内地――北海道では本州をそう呼ぶ――に戻ってこいとの連絡があった時は、さすがに断り切れなかった。
 小学校で重ねた転校で身につけたのは、『みんなとすぐに仲良くなる、でも仲良くなり過ぎない』という処世術だった。あまり親しくなりすぎると、別れるときがつらい。別れの時は必ずやってくるので、その時に備えてのことだ。

 誰にも話したことがない『転校の処世術』をオシエに話した。転校して間もない頃なのに、他人によくこんなことを話したなと思う。多分彼女は、教えるだけでなく、人の話を聞くのもうまかったからだと思う。『ふんふん、そんで?』 と本当に興味深げに話のその先を催促してくれる。あ、一応『オシエ』、『キクノ』と、私たちは名前(実はあだ名)で呼び合う仲にはなっていた。

「五回も転校!?」
 彼女は目を丸くして驚いた。右手の親指と人差し指でアゴを触り、何かを考えている。
「キクノは、コスモポリタンなんだねえ。転校してきた時からずっと淡々としてっからさ。納得いったよ」
「コスモポリタン?」
「うん、世界を股にかけ、世界を自分の国って考えてる人」
「……いや、私の場合、日本の中だけでの話だし、それを全部自分のナワバリだなんて考えてないし」
「コスモポリタン……少しナポリタンに似てんべさ、そんなスパゲッティあるかな?」
 なんか話が横道にそれた。彼女は時々そういうところがある。私は、キャビアやらトリュフやら海苔やら、世界各国の具材が入った明太子スパゲティみたいなのを頭の中に思い浮かべた。最近になって某グルメドラマで知ったことだが、実際にスパゲティ・コスモポリタンというのがあって、どうやらホワイトソースがベースになっているらしい。

「『みんなとすぐに仲良くなる、でも仲良くなり過ぎない』かあ……キクノさ、それ、アタシに対してもそーなん?」
 オシエはいきなり話を戻した。そして栗色の瞳に悪戯っぽい笑みを浮かべ、私を見つめる。
「い、いや、そういう性格は直したいなあと思って……」
 うまい答えにはなってなかったけど、彼女はそれ以上追求しなかった。

 オシエは放課後も色々な場所に連れて行ってくれ、教えてくれた。

「ここ、アタシの一番好きな場所。」
 そう言って真っ先に案内してくれたのは、高校から歩いて五、六分のところにある栃木市立文学館。建物は旧栃木町役場を利用したもので、グリーンを基調とした洋風の建物だ。昔はこの辺りに栃木県庁もあったらしい。
「教えてあげっけど、アタシ実は文学少女でさ、ここで展示されている、山本有三、吉屋信子、柴田トヨの作品とかいっぱい読んでるんだ」
 山本有三は知っている。確か『路傍の石』の作者だ。あらすじは何となく覚えているような、いないような。
 オシエが文学少女というのは少し意外だった。彼女は小麦色の肌だし、身のこなしも表情も快活だから、どっちかと言えば体育会系だと思っていた。
 私達は、木造の建物の二階の床をギシギシと言わせながら常設展や企画展を見て回った。

「最近サボリ気味だけどアタシ、図書委員をやってるんだ……そうだ、夏んなったらさ、隣りの男子校の委員と一緒に交流会やんだけど、キミも来ね?」
「交流会?」
「うん、テーマの本を決めといて、グループに分かれて感想や意見を言い合うの」
「へえ、なんか面白そうだね」
「男好きなキクノは高校男子に巡り合える絶好のチャンスだし」
「あの私、男好きなんて、いつ言いましたでしょうか?」
 私はちょっとムッとしてそう訊ねた。
「冬、編入試験に来たときさ」
「い、いや、今度入る学校が女子高かどうか聞いて驚いただけで」
「驚いてたっていうか、何かがっかりしてたじゃねぇ?」
 見抜かれていた……
「いや普通、男女共学の方がいいって思うじゃない?」
「普通ならそうかもね」
 彼女は少しうつむき、表情も一瞬かげったような気がした。
「……でも、女子高もなかなかいいもんだべ?」
「……まあ、ね。オシエもいてくれるし」
 一変して彼女の顔色がぱあっと明るくなった。結構表情が変わりやすい、わかりやすい子だ。

「ねえ、キクノもこの際、図書委員になっちゃわない?」
「えーでも、私あまり本読まないし、読んでもアニメで見て知ったラノベくらいだし……」
「あ、学校の図書館にけっこうラノベ本置いてあるよ……だからさ」
「……うーん、考えとく」

 そんな風に、彼女は色々な場所に案内し、教えてくれた。

「栃木(ここ)の焼きそばは、ジャガイモが入ってんだよ、ソウルフードさ。」
 ある日の放課後、学校から駅とは反対方向にある、真っ赤でド派手な看板のお店に連れて行かれた。四百五十円の焼きそばを二人で割り勘で買い、分けて食べる。他にも二組の高校生がいたが、同じように分け合って食べている。具はジャガイモとキャベツだけだが、麺が太目でモチモチしていてソースは甘く、ジャガイモによくあった。

 別の日の放課後。
 唐突にオシエが訊ねる。
「キクノってアニメ好きだんべ? 『秒速5センチメートル』って観たことある?」
「うん、あるよ。結構好き」
 確か、両毛線の先にある岩舟駅周辺が物語の舞台になっていたはずだ。
「じゃあ、いいとこ教えてあげんべか?」
「ひょっとして、岩舟に行くの?」
「ううん、その逆」

 私たちは両毛線に乗り、思川駅を通過して小山駅のホームに降りた。オシエはこの駅がある街に住んでいる。
 両毛線の専用ホームから階段に上ろうとしたとき、彼女はいきなり立ち止まったので背中にぶつかってしまった。
「いて!」
「あ、ごめんごめん……ほら、振り返って見てみ」

 言う通りに振り返ると、『のりば 6 栃木・佐野・桐生・高崎方面 8』と書かれた電飾のホームの案内表示がぶら下がっているだけだ。
「柱のあの辺にあったんだよね……アニメのシーン、思い出してみ」
「あ、ひょっとして、おそば屋さん?」
「当たり! ……でも、もうないんだよね」
 雪混じりの寒風が吹き込むホームに佇む主人公の男の子。お腹が空いて食べようかどうか迷っていた、立ち食いそばのお店。確かにそのお店がソコにあったはずだ。
「オシエは、食べたことあるの?」
「うん、閉店の少し前に一回だけ」
「そっか、食べてみたかったな」
「ほうけ? そんなら、いいこと教えてあげんべ」
 そう言って彼女は階段をずんずん上っていった。私は慌ててついていく。

 二階の連絡通路を歩き、十二番・十三番線、赤羽新宿・上野東京方面のホームに降りる。
 ホームを少し東京方面に進むと、『きそば』と電飾看板に書かれたお店があった。
「ここ、両毛線のホームにあったのと同じとこがやってる『きそば』だよ」
 そう言うとオシエは小さな自販機に小銭をチャリンチャリンと入れ、『天ぷらそば』のボタンを押した。
「あ、割り勘!」
 私は慌てて財布から代金の半額分の小銭を取り出し、彼女に渡した。
「もう、いいのにさ」
「だーめ」

 天ぷらそばは、すぐにカウンターの上に置かれた。
 天ぷらといっても、小エビの入ったかき揚げだ。わりと硬そう。
 オシエは割りばしを二膳ケースから取り出し、一つを私に手渡してもう一膳をパチンと割り、かき揚げを器用に二等分した。
「さあ、どうぞ」
 お言葉に甘えて先にいただく。代わりバンコで一人前のおそばを食べる。
『取り皿、あげようか?』とお店の人が親切に言ってくれたが、彼女は『あ、いいです』と断った。

 おそばの麺は少し黒っぽく太目で、甘くて濃いつゆとよく合う。
 かき揚げはかじってみたり、つゆでふやけたものを割りばしですくって食べたり。
「はい、交代」
 私はオシエにドンブリを譲る。こうして、それぞれ三交代して、天ぷらそばをきれいに平らげた。
「なんか私たち、食べてばっかじゃない?」
「ハハハ」
 彼女は屈託なく笑う。
 私もつられて笑う。

 今まで知らなかった、楽しい時間。
 そんな風に、私たちの季節はすこしずつ、進んでいった。


Ⅳ.嫉妬 at 図書館

 オシエのお勧め通り、私は図書委員になった。仕事は、委員のメンバーが交代で返却された本の整理、返却し忘れている生徒への督促、時々開かれるミーティングで購入希望の図書を話し合ったり、廃棄や他の施設に寄贈する図書を整理したり。彼女から聞いた通り、ラノベの蔵書も結構充実していて、私からの購入の要望も普通に通った。これは小遣いが浮いて助かる。
 貸出手続きはバーコードリーダーを使ってセルフでやってもらい、日々の当番も週に一度回ってくる程度なので、そんなに負担感はなかった。

 図書委員になったことをきっかけに、放課後は学校の図書館に入り浸っていることが多くなっていた。オシエがたいていソコに居るからなおさら。彼女は図書館を利用して宿題も読書も済ませている。その最中はすごく集中していて近寄りがたいオーラを振りまいているけど、あまりにも退屈になって構ってちゃんモードになった私は、ついつい声をかけてしまう。そんな時でも彼女は嫌な顔をせず、『なになに、それで?』と熱心に聞いてくれる。

「ねえ、オシエ、ひとつ聞いていい?」
「なになに、言ってみ」
 そう言って、読みかけの本に栞をはさむ。
「あなたってスポーツ得意そうに見えるけど……日焼けもしてるみたいだし、以前は体育系の部活とかやってたんじゃないの?」
「おお、いい勘してるねえ。じゃあ教えてあげっか……実は中学の時、ソフトテニスやってたんだ。だけんど、三年の大会の時に変なコケ方して、足を痛めちった。だから、今でも歩き方、ちょっと気になんべ?」
「ええ? 全然気にしてなかった……じゃあ今はもう?」
「ハハハ、体育会系少女はもう引退。残ったのはこの通り、地グロの素肌と学校労災でおりた給付金だけ……あ、そのお金、親からもらって本を買いまくって使っチった。だから、文学少女はまだまだビギナーレベルだね」
「……そうだったんだ、ごめんね。話したくないこと聞いちゃって」
「ううん、ぜんぜん。あ、でさ、何で本好きになったかっていうとね……中三の夏に桜野女子(ここ)で『一日体験学習会』というのがあって行ってみたんだ。この学校入りたかったし。その時に取り上げたのが、山本有三の『路傍の石』……いいことが書いてあったんだよね」
「え、どんなこと?」
「あれ、路傍の石、読んだっつってなかったけ?」
 どき。
「ああ、だいぶ前だし、斜め読みだから……」
「まあいいよ……えーとね、『たったひとりしかいねえ自分を、たった一度しかねえ人生を、マジに生かさなかったら、人として、生まれてきた甲斐がないじゃん』ってことが書いてあったんだ……それを読んでアタシは救われた。テニスに縛りつけられなくてもいいんだって。また自分の好きなことを探せばいいんだって……そして本が好きになった」
「いい出会いがあったんだね」
 私は、そんな風に自分を変えるきっかけをつかんだオシエが少しだけ羨ましかった。

「……そう、だからキクノにも出会えた」
「え?」
「なんでもね」
 そう言って彼女は再び本を開いて栞をはずした。

 〇

 七月七日、七夕。
 制服はだいぶ前に夏服に変わっていた。
 上衣は白のブロード。ひざ丈ヒダ付きの紺のスカートで、襟とカフスは三本の白いラインが入った紺色。襟の下に巻く三角のスカーフは絶妙な淡さと深さの紺色。この日は家を出る前に鏡の前に立ち、入念に身なりを整えた。
 放課後、桜野高校(男子校)とわが桜野女子高の図書委員交流会がある。一年に一度、おり姫様と彦星様が出会う日に、こういうイベントをやるとは何とも心憎い。男子校との交流イベントは、文化祭やフォークダンスなど、年にいくつか企画されているが、七夕の日のイベントだけは図書委員の特権だ。楽しみ……のはずだったが、でも、あれ? なんかそうでもないような……

 テーマとなる図書は、住野よる著『君の膵臓をたべたい』。まだアニメ映画化される前の話だ。事前に読んで交流会に臨むが、普段ラノベしか読まない私でも、ぐいぐいと引き込まれてしまった。後半の急展開に頭の中がぐちゃぐちゃに翻弄される。夜が更けるのを忘れページをめくった。

 〇

 桜野女子高の図書館に両校の図書委員が集まった。合計四十八名。男女三人ずつ六名八グループに分かれ、この作品に関してグループごとに与えられたテーマについて意見交換し、最後にグループの代表者が発表する。

 私のグループに与えられたテーマは『もし、桜良が余命を全うしていたら、主人公の僕はどんな行動をとっただろうか』というものだった。

 グループでの意見交換を通じて思ったことは、読む人によって、こんなに考え方や好みが違うんだ、ということだった。ハッピーエンドを望む男子。バッドエンドを予想する女子生徒。メリーメリーバッドエンドというのもあるらしい。実際には桜良が余命を全うできなかったこの物語は、どれにあたるんだろうか。なんかわからなくなってきた。

 もう一つ思ったこと、というより気になったことは、別のグループになってしまったオシエは今、何をやっていて何を感じているんだろう、ということだった。

 彼女のグループのテーブルをチラ見すると、オシエは手に持つカラーのマッキーで模造紙に何やら書きこみながらウンウンと頷き、男子生徒の話を聞いている。和気あいあいと。いや、今自分がいるグループがギスギスしているわけではないが。これは『隣りの芝生』というやつだ。

 私は自分の考えを無難に発言し、無難に意見交換に参加した。グループで発表する内容は、模造紙に書きこんでくれていた男女の図書委員に全面的に任せた……いけない。集中力が途切れてしまっている。

 片や。オシエは、グループでの議論でも、全体会に移ってからの発表や意見交換の場でも、活発に発言し、他の生徒の言葉に耳を傾けていた。そんな彼女に男子生徒はもちろん、桜野女子高の生徒達も熱い視線を送っている。
 オシエからこっちにチラチラと視線を送ってくれているような気もするが、私は敢えて気づかないフリをする。つくづく嫌な性格だ。

 この場で初めて気づく。そして、気づいた自分に驚いた。
 私は男子生徒に嫉妬しているんだということを。それだけでなく、オシエと仲良く話している女子生徒達にも。要は、ここにいるみんなに嫉妬し、腹黒い感情を抱えている。それを抱えたまま、膜の中に閉じこもろうとしている。

 心の中で彼女を責める。ねえオシエ、なんでそんなにダレとでも仲良く話せるの?
 私が今、どんな気持ちでいるのか、どうしてわかってくれないの?

 もともと自分の性格はあまり好きじゃないけど、この時改めて気づくことになった。私って、なんて心が狭く、臆病で、嫉妬深いんだろう。そして自分を諫める。こんな人間、誰も好きになってくれないよって。そして、『私自身も私を』好きになってくれないよって。


 九十分余りの交流会は終了したが、オシエはまだ同じグループの男女と話している。
 ちらっと睨んだ私の視線に気づいた彼女は、両脇の生徒に会釈をし、こっちにやってきた。

「お疲れ、キクノ」
「疲れてなんかないよ」いちいち棘がある。

「そう、よかった。知んねえ男子とかいたから緊張したんじゃねえかと」
「……オシエは随分楽しそうだったね」いちいち棘がある。

「うん、自分の意見をバンバン言えて、みんなのユニークな考え聞けて、すごく楽しかった」
「それはそれは」いちいち棘がある。
「キクノはどうだった? お気に入りの男子とか、めっかったかな?」
 男子のことなんか、どうでもいいんだってば。

「……もう、意地悪!」
 ちょっと大きな声が出てしまった。周りの生徒が振り向く。

「どうしたの?」
 オシエの声が少し震えている。

 私は荷物をカバンにしまい、さっさと図書室を脱出した。
 彼女は追ってこなかった。そりゃそうだろう。今年の当番で後片付けがあるんだから。

 外に出ると、鳴き始めた蝉の声がパワーアップしていた。
 その声に埋もれて、このままどこかに消えてしまいたいと思った。


Ⅴ.告白 with コイの街

 “きのうはごめん”

 というメッセージをメール――当時はまだLINEを使っていなかった――に何度か入れ、入れては消した。
 図書委員交流会の翌日は土曜で、私はベッドの上でゴロゴロしていた。
 そんな短いメッセージさえ、送るだけの勇気がなかった。いや、オシエの方から何かが届くのを待っていたのかもしれない。

 とにかく私は馬鹿だ。
 こんなに後悔して土日を悶々と過ごさなくちゃいけないのなら、あんなこと言わなきゃよかったのに。その場から逃げなきゃよかったのに。
 オシエは何も悪くない。悪いのは、頭の中で一人相撲をとって、みごとにウッチャリを食らった自分なんだから。
 でも。
 あの場あの時の私には、そうするしかなかった。そうやって彼女に強く訴えたいと思ったんだ。

 訴えるって、何を? 

 機嫌悪いってことを? 怒ってるってことを? ヤキモチ焼いてるってことを?
 そうじゃないんだ。私は間違っている。私はまだ伝えるべきことをちゃんと伝えていない。

 いい加減朝ごはんを食べなさいと階下にいる母親から声をかけられ、しかたなく一階に降りて食事を済ませ、またベッドに寝転がる。両親はこれから買い物に出かけて夕方に戻るという。
 エアコンをつけてはいるものの、四方八方から聞こえる蝉の声が体感温度を上げる。旭川でも夏は暑かったが、湿度が圧倒的に違う……ひょっとして、落ち込んでいるのは夏バテのせい? いやさっき、朝ごはんは全部きれいに平らげた。

 つい最近まで、夜はカエルの大合唱のステージだったのに、いつのまにか主役は日中の蝉に変わっていた。私はその流れにカンペキに取り残されている。うかうかしていると、虫や動物からも、季節からも取り残されてしまう。そして学校からも……オシエからも。

 ケータイを手に取って眺める。メールを打ってみて途中で消す。オシエから借りた本を手に取り、すぐに閉じる。積読(つんどく)していたラノベを手にとり、すぐに放り投げる。作り置きの昼食をはさんでこれを五セット繰り返したら、いつの間にか夕方になってしまった。結局土曜の昼間をムダに消費した。今日はお風呂も入りたくない。きっと明日もこんな感じだろう。


 居間に降りてテレビをぼーっと眺めていると、両親が帰ってきて、クルマから荷物を運び入れるのを手伝えという。一日中何もやっていなかったので拒否する権利はなかった。
 冷蔵庫の前で、ショッピングセンターで買い出してきたソコソコ有名なお店のお惣菜のパックを眺めていた時、メールの着信音が鳴った。オシエからだ。

 “ねえキクノ、明日空いてる?”

 すごくシンプル。これこそがコミュ力高い子のテクニックなのかもしれない。
 昨日はあーだったこーだったとか一切触れず……私がごちゃごちゃ返事しなくてもいいように気をつかっているのか。いや、そんなメール文を見たくないだけなのか。

 “うん、空いてるよ”
 だから、私もシンプルにメッセージを返した。

 “よかった! じゃあ、デートしない?”
 デッ、デート?

 “いいけど、何するの?”
 “蔵の街、とちぎめぐり”

 ……普段学校に通っている街で休日デートするのはどうなんだろうとも思ったが、彼女に何か考えがあるのかもしれない。
 私は、わかったと返事して、JR栃木駅の改札口で十時二十七分に待ち合わせることにした。中途半端な時間だが、一時間に一本しかない両毛線を使うので、その到着時間に合わせることになる。

 夕食の後は、お風呂に入り、着ていくものに悩み――何せ、オシエと私服で会うのは初めてだ――歯を磨いてベッドに寝転がるとタオルケットをかけて、彼女から借りた本を開いた。何ページか読むと眠くなり、重い単行本が顔の上に落下して目が覚め、再び読み始め、また眠くなり再び本が落下し……それを繰り返しているうちに本当に眠り込んでしまった。

 〇

 傘をたたんで素早く電車に乗り込むと、目の前にオシエが立っていた。

「ひょっとして、キクノ、雨女?」
「失礼な! 今までそんなこと言われたことないよ……オシエこそどうなのよ」
「アタシが雨女に見えっけ?」
「……まったく見えない」
 そう。イメージとしては、彼女なら大嵐も鎮めて太陽を輝かせてくれそうだ。

 二人とも同じ電車を利用して栃木に行くのだから、電車の中で会ってもおかしくなかった。しかも階段の位置の都合上、最後部の車両に乗る確率は高い。

 電車はゆっくりとホームを滑り出し、車窓についた水滴が後ろに流れる。
 それを眺めながら『あーあ、雨かあ』とオシエがつぶやく。彼女の服装は、濃紺のミニTシャツに、ブルーのストライプの半袖シャツを羽織り、ボトムはアイボリーのデニムのショートパンツ。そこから小麦色の足がスッと伸びている。背景は夏の晴れ空が似合うに違いない。
 一方私は、モスグリーンの半袖ブラウスに黒のミディスカート。夕べけっこう悩んだが、わりと無難なところに落ち着いた。普段下ろしている長い黒髪は、ローポニーテールでまとめてみた。どっちが雨女っぽいかというと、圧倒的多数意見で私の方に軍配があがるだろう。

「オトナカワイイいね」
 彼女は私の体の上から下まで視線を動かし、そうコメントを漏らした。
「オシエの方こそ……なんかオシエっぽくて……『さわやかな夏』って感じでいい」
「ありがと」
 そう答え、右手をあげて親指をピンと立てた。

「あの……」
 私は謝っておくべきか少し迷った。
「?」
「昨日はごめん」

「何だっけ?」
「……意地悪、とか言っちゃって」
「ああ、そのことか……いいよ、そんなの」
「いやホント謝る」
「さてはヤキモチだんべ?」
「……はい」
「おー、素直」

 彼女はフフフと笑って、その話はおしまいとなった。
 面と向かって口に出してしまうと、意外と簡単だった。
 いや、オシエが簡単にしてくれたんじゃないか?
 いいよ、とあっさり許してくれたし、ヤキモチっていう単純な言葉にまとめて片づけてくれたし。
 だから、なんでわざわざ休みの日に私を誘ってくれたかも、だいたい察しがつく。彼女はよく気の回る子なのだ。


 栃木駅に着いても、雨はシトシトと降り続いていた。予報によると、今日は一日中こんな天気らしい。空はまだらな灰色の雲に覆われ、初夏だというのに少し肌寒い。最近『蔵の街』として観光客増えてきているそうだが、今日は初老のご婦人のグループが目につく程度で、休日だというのに人影がまばらだ。

 オシエの計画では、まず始めに巴波(うずま)川を往復する遊覧船に乗る予定だったが、あいにく雨天のため運休。
 しかたがないので傘をさして、二人並んで遊歩道を歩く。
 普段の通学路は、遊歩道の途中で左に曲がるが、今日はそのまま真っ直ぐ進む。川沿いに、長い黒塀に囲まれた白壁の蔵・黒壁の民家が連結したような大きな建物が見えてきた。灰色の屋根瓦で覆われている。木製の看板には『塚田歴史伝説館』と描かれている。元は材木を扱う豪商の屋敷だったそうで、入場料を払って中に入ると、昔から使われてきた道具などが展示されていた。目を引いたのは、畳の上で三味線を弾くおばあちゃんのロボット。この界隈の伝説『うずま川悲話』を紹介してくれた。天気のせいもあってか、建物の中はひっそりと静まりかえり、陰鬱さが漂っている。

 建物を出て再び川沿いを歩く。
 橋の上から川を見下ろすと、川幅が広く、深くなっているようで、そこには沢山の鯉が泳いでいた、というよりひしめき合っていた。一匹一匹、みんな大きい。
「なんか鯉って……イメージしてるのと、実際に見るのでは随分違うね」
 私が率直な感想を漏らすと、オシエが謎のコメントを述べた。

「コイ……あ、こっちはラブ(恋)の方ね。これも案外イメージとリアルではだいぶ違うかもね」
「え、どういうこと?」
「思ってたのより、グロくてデカイ」
「……それって、エロい話?」
「どう解釈するかは、そのひと次第」
 それは何か、彼女の実体験にもとづくものなんだろうか?

 川沿いの道を離れ、街の東側、蔵の街大通り沿いに移動する。
「ここさ、なんか気がつかねぇ?」
 そう言ってオシエは傘を上げ、顔も上に向ける。
「……気のせいかな、空が広いね」
 上空は相変わらず雨空だが解放感はある。
「そう、電柱がないのよね」
「ほんとだ、ごちゃごちゃがない。スッキリしてる」
「教えてあげっけど、昔、蔵の街の景観をよくしようと電線を地中化したんだって」
「なるほど」
 この通り沿いの建物は、木造、コンクリート造りの両方とも和風で統一されている。

 通りを少し進んだ角地にファミマがあり、そこで飲み物を買うことにした。
 コンビニの店舗は周囲の建物と同様に、白と黒のトーンで統一されており、ロゴの文字色も黒っぽく、徹底している。
 オシエは伊右衛門、私はボルヴィックを買い、外に出てドアの横にあるバーに腰かけ、キャップを開けた。
「教えてあげっけど……ここはね、コンビニが建つ前は『鯉保(こいやす)』っていう旅館と宴会場だったんだって。女優さんの実家だったみたいよ」
 そう言ってオシエは女優さんの名前を教えてくれた。うちの高校のOBらしい。
「その人知ってる、結構有名じゃない!……それから確か、うちの両親、『栃木のコイヤス』で式を挙げたって言ってたような……」
「へー、そうんなん!? うちの親も鯉保だよ。昔はココで式を挙げるのが一種のステータスだったのかもね」
 うちの親とオシエのご両親に意外な接点があったことに驚き、少し嬉しくなった。

 道路沿いには『山本有三ふるさと記念館』という蔵造りの建物があって、中に入ると作家が愛用していた道具や原稿の展示などがされていた。この街は、山本有三推しのようだ。

 パーラーと名のついたお洒落な洋館のレストランで昼ご飯を食べる。
『土地のご飯』という、プレートにヘルシーなおかずが色々盛りつけられたランチメニューを一つ注文して分け合うことにし、隣りのテーブルで食べているのが美味しそうだったのでプリンは二つたのんだ。正解だった。

 食後、再び巴波川沿いの遊歩道に戻る。
 雨は強くも弱くもならず、一定のペースで降り続けている。
 傘を打つ雨の音も絶えず鳴り続けていて、その音に紛れながらオシエの声が聞こえた。

「どう? 栃木の街は」
「……そうだね、こういう天気のせいか、少し静かで寂しいね。晴れていると観光客とか大勢いて、雰囲気違うのかもだけど」
「そう思うんだ……アタシもこの街のことキクノと同じように感じてるんだ。天気に関係なくね」

 巴波川は公園の敷地に流れ込んでいて、私たちはいつの間にか遊具やベンチが並んでいる広場に入っていた。雨の公園には誰もいない。


 着ている服とトーンを合わせたのか、水色の傘をさしたオシエが私に向き合う。私の傘はといえば、特に色のバランスなんか考えていないウス黄色。彼女の傘がスピーカーみたいな役割を果たし、私の傘が集音器のような役割を果たして彼女の声がくっきりとよく聞こえる。

「かつては県庁があった、昔の街。川沿いには、蔵づくりの建物……ねえ、こんな世界に入ってみて、どう感じた?」
「……そうね、外から遮断された空間。まあ、蔵ってそういうもんなんだろうね。そこだけ、違う空気が流れてる」
「アタシはね。今日ここに来て、すごく強く感じたんだ。キクノと自分だけ……二人だけがこの世界にいるんだっ……て」
「どういうこと?」
「覚悟っつーか、決心っつーか……そういうものができたの」
「?」
「二人だけの淋しい世界、二人だけの孤独な世界でも生きていけるって……キクノはどうかな?」
「……私は――前にも言ったかもだけど――人と少し距離を置いて生きてきたから、全然平気だと思う。でもオシエはそれでいいの?」
「だから、覚悟した。決心した」
「……でもさ、一昨日(おととい)の図書委員の交流会でよくわかったんだけど、オシエの周りには友達がいっぱいいて、みんながオシエとつながりたがっている……それでも、いいの?」
「私は、君……キクノ一人だけを選ぶって決めチったんだ」
「え!?」
「ほんとよ」
「……独りぼっちは寂しいけど、きっと『二人ぼっち』は、もっと寂しいよ……それでもいいの?」
「もう、しつこいなぁ。……それともキクノは嫌なのけ?」
「やなわけないじゃん、意地悪!」

 私は自分の傘をたたみ、オシエの傘の中に飛び込んだ。

 彼女の肩に顔をつけると、頭にやさしく手を回してくれた。

「……また意地悪って言ったな」
「だって、ほんと意地悪なんだもん……でもね」

「?」

「オシエ、じゃなくて紀志江……あなたのことが好き」

「……ありがとう、アタシも菊乃が大好き」

「……私もちゃんと覚悟した。あなたのおかげで決心できた」

「ありがとう」


 雨だか涙だかわからないけど、傘の中でも私たちはずぶ濡れになってしまった。
 でも、
 ずっとそうしていた。
 ずっとそうしていたかった。

 ここは通学路だけど、構うもんか。
 誰に見られても構うもんか。

 だって、私たちは二人だけの居場所、外とは違う空気と時間が流れている世界を手に入れたのだから。


Fin.ひとひら from 何処から

 それからの私たち。

 みんなと同じ教室にいながら、
 別の空間に存在した。

 卵膜の中に、二人だけ。

 薄い膜の外側で、
 私たちに気遣うクラスメイト。

 薄い膜の内側で、
 気にしなくて、いいよとオシエ。

 そうね、と。
 彼女の手をとる、私。
 心もとないシールドの中で。

 入道雲の下、
 ソフトテニスを手取り足取り。
 教えるオシエ。
 教わる私。
 共に、汗を流す。

 収穫の終わった、
 田んぼのあぜ道で。
 枯草と、寂しさを蹴とばし、
 笑い合う、私たち。

 めったに降らない雪が
 木枯らしに混ざり。
 お互いのダッフルコートをかけあい。
 暖めあい。
 寒いね、と照れあい。

 そして。

 出会いから、巡って一回り。
 桜の季節、一歩手前。

 突然の、別れが、
 当然の、ように。
 ……ほら、やっぱり。

 オシエの口から、漏れ出た。
 オシエてあげんべと。

 父さんは中国シンセンへ。
 ついていくさ、アタシは。

 だって。
 母さんが死んで、父さんは。
 一人きりの、家族だから。
 アタシもコスモポリタンになれっかな。

 そんなことも、知らないで。
 彼女ヅラしていた、私。

 どうにも、ならないの?
 どうにも、なんねえ。

 だって、アタシも。
 キクノも、まだまだコドモだ。
 だけんど。
 これで、いいのかも。

 どこが?
 なにも、いくない。

 アタシは、トクシュ。
 キクノは、ノーマル。

 ナニ、ソレ?
 ナニも変わらないよ。
 オシエとワタシ。

 キクノは、これから。
 誰でも、愛せる。
 やり直せる。

 やり直し、って何を?
 今までの私たちは、間違い?

 間違っては、いねえけど。
 正解でも、ねえ。
 もっといい答えがあるさ。
 ……たったひとりしかいねえ自分を、
 たった一度しかねえ人生を、
 マジに生かさなかったら、
 生まれてきた甲斐がないじゃん。

 こんなところで、
 有三の言葉を持ち出さないで!

 〇

 春、別れの日。

 荷物を抱えたオシエと一緒に両毛線に乗っていた。
 下校の学生でごった返す車内。

 思川駅に着き、誰かがドアを開ける。

「じゃあね、キクノ」
「あっち、ケータイ通じる?」
「多分、通じんじゃねえかな」

 私はその言葉に半信半疑だった。
 だから、ドアが閉まる間際。
 私はオシエを引きずり下ろした。

 ホームに倒れる私。
 荷物ごと覆いかぶさるオシエ。
 ホームの脇に咲く、満開の桜が眼に入る。

「こういう時、やることが大胆だね。普段はおとなしいくせに」
 そう言って空いている方の手を差し伸べ、私を引き起こした。

「電車、あと一時間来ねえよ」
「そう、だから一時間。ちょうだい」

 オシエは歩き出す。
 後をついていく私。

「どこに行きたい?」
 そう言って彼女はホームに立っている駅の周辺案内版に見入る。

「『篠塚稲荷神社塚古墳』。おもしろそうだけど、歩ってニ十分か。この荷物持ってちゃ、遠いなあ」
「その辺でいい」

「そしたら、こうすっか?」
「?」
「キクノん家行って、ご両親に挨拶すんの」
「あ、挨拶って?」
「『娘さんをください、中国に持っていきますんで』って」
 オシエは悪戯っぽく笑う。
「それでもいいよ……マジに」
 私がそう言うと、彼女の顔から笑みが消えた。
「ごめん。ふざけ過ぎた」

「まあ、その辺ブラブラすんべ」
 そう言ってオシエは階段を上り始めた。
 彼女の荷物を一つ受け取り、後をついていく。

 ほとんど人とすれ違うことなく、こじんまりとした商店街を抜ける。
 公民館の前まで来ると、陽光とともに花びらがあふれて出てくる広場があった。

「キクノ、この場所は?」
「私も入ったことないけど、確か、戦争で出征して亡くなった兵士のための記念碑があるって」

 二人で自転車止めが備え付けられている入口を通ると、そこは小さな公園になっていて、黄色と赤のペンキが塗られた滑り台とブランコがある。木々の間に石碑や石塔が見えた。
 そして広場を囲む、桜の木。花びらは公園だけでなく、周囲の道路、その道路の先まで舞っていく。

 カバンと荷物を地面に置き、二人で別々のブランコに乗る。高校生には椅子の位置が地面にギリギリすぎる。
「どれ、漕いでやっか?」
 オシエが私の後ろに回り、軽く背中を押す。
「それ以上強く押さないでよ!」
「それはどうかな? オシエだし」
「なにそのダジャレ」
 しばらくそうやって私は彼女に漕がれていた。
 やがて揺れ幅が小さくなり、オシエがブランコの鎖を持つ私の両手を掴む。
「手、冷えちったな……」「……うん、あったかい」

 私とオシエの間をゆっくりと花びらが舞い落ちる。
 そのうちの一片(ひとひら)が私の額に舞い降りたのか、彼女が指でつまむ。

 その瞬間。私がやらなければいけないことを理解した。
 ブランコから立ち上がり、オシエの栗色の瞳を見つめる。
 その瞳が閉じられた。

 私は唇を重ねる。
 柔らかく、でもやっぱり冷えていた。

 彼女の手が私の胸を探る。
 そして、厚手の制服の上からでも一ミリの誤差もなく、私の胸のてっぺんを見つけ、中指の背で優しく撫でる。

 その時、息が止まった。時も止まる。

 私と彼女の唇から唇へ、指から胸元へ、金色の熱が通いあう。

 私も負けじと彼女の胸元を探り、やり返す。
 そして私たちは時を止めたまま、ささやかな接点で繋がりあった。

 〇

『思川軒』

 広場の前にお店があり、乳白板の電飾に縦書きの太い明朝体で書かれている。
 一軒屋の店舗の横にサンプルが並んだショーウィンドウ。
 こんな時でも育ち盛りの私たちはお腹が空く。風情ある店名にも惹かれた。

「食べていくべか?」
「うん!」
 オシエの提案に即答する。

 タンメンと玉子丼を頼み、取り皿をもらって二人で分け合う。

「やさしいんさね」
 オシエがぽそった。

 え! 私が? ……自分のことを指さす。
「……タンメンと玉子丼の味なんだけんど。いいよ、キクノってことにしといてやんべ。」
「はず……」

 私たちは笑いあった。


 〇

 結局。二本分電車をやり過ごし、思川駅のホームに立つ。
 遠くに聞こえていた『カタッコトッ』がだんだん大きくなり、『ガタンゴトン』と響きも変化する。
 夕闇の中、ライトを光らせた四両編成が滑り込んできた。

 電車が停まっても、手動式のためボタンが押されたドアしか開かない。
 仕方なく、私はドア横のボタンを押す。
 プシューッと大きな音を立ててドアが開き、車内から明かりが漏れる。高校生の姿がチラホラ見えるが、部活帰りだろうか。

 オシエは荷物と一緒にヨイショと電車に乗り込み、ドアの前に立った。
 逆光のため、表情は見えない。

 お互いに手を振り始めたら、文字通り機械的にドアが閉まった。
 そしてゆっくりと電車は動き出す。

『ガタンゴトン』は再び『カタッコトッ』に変わり、夕暮れの田んぼにコダマする。
 大地は春霞でぼんやりしていて、その中を電車は進み、音とともに遠ざかっていく。

 どこか知らない世界にオシエを乗せていってしまうんじゃないかと思えて。

 〇


 また花びらが一片。

 JR小山駅のホームに舞い降りた。

 十二番・十三番線、赤羽新宿・上野東京方面のホームには、お目当てのものは無かった。
 辛うじて、かつてそこに店舗があった痕跡が、アスファルトの色の違いとして残っている。

 私は高校を卒業すると、都内の大学に入り、そのまま東京に本社がある会社に就職した。大学も職場も実家から通おうと思えば通えたが、なんとなく栃木を離れたかった。あまり実家にも寄りつかなかった。何がそうさせたのかは、わからない。

 母親が体調を崩し入院したため、慌ててここに帰ってきたが、経過は順調とのことで、東京にトンボ返りする。
 ふと、小山駅のホームにあった『きそば』を思い出し、昼ご飯も食べ損ねたので、せっかくだから食べて帰ろうとしていたところだ。

 あのお店が消えてしまったことで、忘れようとしても忘れられなかった、たった一年の思い出が……胸の内側を疼かせる思い出が、一緒に消えていくような気がした。

 気づく、ちょっとしたきっかけで。
 忘れる、ちょっとしたきっかけで。
 人との出会いと別れなんて、そんなもんで出来てるんだろう。

 みたび、花びらが舞う。

 その行方を目で追っていた先に、佇む女性。

 栗色のセミロング。髪型は変わったものの、茶目っ気のある栗色の瞳は変わらない。

「教えてあげんべ……店はなくなっちったけども、この辺でイベントがあるとさ、その店のキッチンカーが出んだよ……今度一緒に行くべか?」

 そう言ってオシエは少し首を傾(かし)げ、悪戯っぽく微笑んだ。