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夜想協奏曲

書き始めはどうしようか。
いや、書き始めの問題じゃない。
原稿を満たす中身が希薄なのだ。

高校三年までのわずかな体験では、
時間の積み重ねが足りなさすぎる。
空間のマッピングエリアが少なさすぎる。

頭の中に棲む妄想が、餌に飢えている。
餓死寸前のところまできている。

かすかに聞こえる、虫の音。
窓を五センチだけ開ける。
虫の声は少し拡大したが、去年よりも、一昨年よりも小さくなっているような気がする。
そういえば、窓を開けて寝られる季節になった。
机に向かうことを諦め、フトンに潜り込む。

虫の音色とともに、かすかな冷気と、淡い月光と、ほんのり湿った香りが部屋に入り込む。
それを通奏低音として。

両親との思いでと諍い。友人との会話と喧嘩。
通学路の暑さ寒さ。学校の暗い教室とグラウンドの砂埃。
その情景と、嬉しさ、悔しさ、悲しさ、憤りが折り重なり、
模倣、反復されていく。

いつのまにか、そこに死のモチーフが加わる。
身近にあった死、あるいはニュースを通じて知った死。それがいつなになるのかわからない、私の死。

私よりもずっと早くに消えてしまった命。
小学校入学、中学、高校、大学、就職、結婚、子育て、
そして晩年を経験するはずだったかも知れない命。

そこに救いはないのか?

馬鹿げた仮説を想い浮かべる。
『一生の感覚』の長さって、人間だれでも同じなんじゃないかって。
生まれた時に、ガラス瓶のような『人生の容れ物』が手渡される。
名づけて、一生瓶。
大きさはみんな同じ。
小さい時に亡くなった人も、百歳を超えて亡くなった人も、同じ大きさ。
そこに入る思いでの量は、人生の時間と空間の旅の量に比例する。
でも、いっぱい詰め込むと、一つひとつの思いでは、小さくなるしかない。

同じ大きさの一生瓶の中に、
小さい時に亡くなった子の思いでのツブツブは、大きく鮮明。
百歳で亡くなった老人の思いでのツブツブは、微細でぎっしり。
どっちも同じ大きさの人生。大切な思いで。

空気、光、匂い。
記憶、感情。
そして死。

私のフトンの上でそれらは折り重なり、絡み合い、音を奏でる。
秋の夜長に、自動演奏。
その調べは、どこに向かって流れていくのだろうか?

鉛筆でなくて、スマホでなくて、
ただ、自分の頭の中に思い描いた、ささやかな物語。
それは、ヴィヴァルディの『秋』第二楽章を少し真似ていた。