私が【夏目堂】で働きはじめて一週間が経った。
本の売り場は私が担当し、夏目さんはカフェに専念……のはずだったけれど、私が慣れるまではそういうわけにもいかなかった。古本の買い取りのときは、夏目さんを呼ばなきゃいけない。その他にも、入ったばかりの私にはどうしようもないイレギュラーな対応が多かった。
せめて普通の接客はしっかりしようと意気込んだ私は、すぐに本の配置を覚えた。何を聞かれても答えられるようにするためだ。だけど、やってくるお客さんはマイペースに本を選び、お目当ての本を自分で見つけて、買っていく。カフェには購入した本を持ち込めるので、お茶しながら読んでいく人も多かった。
基本的に、私はじっとレジ横に座っているだけで良かった。お会計だって、電子マネーに対応しているから、現金のやり取りも日に数えるほどだ。
むしろ、ヒメのほうが看板猫として存分に働いていた。
我が物顔で本棚の平置きスペースにふんぞり返り、床に寝転び、運動したくなったら縦横無尽に走りまわった。
そんなヒメを、お客さんたちは愛した。大半の人は、ヒメをなでていく。話しかけたり、店に置いている猫用のおもちゃで遊んであげる人もいた。
「ヒメって、ホンマに看板猫ですね。というか、わがままなお姫さまみたい」
私が言うと、夏目さんはけらけら笑った。
「だから言うたやろ? 名前の通りなんやから」
ヒメは三毛猫のなかでも「飛び三毛」という種類なんだそうだ。毛の割合が、白が最も多くて、あとは飛び飛びで黒と茶が入っているからだ。
猫は気まぐれだと知ってはいたけれど、ヒメはまさに気まぐれプリンセスだった。
面接のときに甘えん坊だったのは、とびきり機嫌が良かっただけなんだと気づいた。嘘みたいに私を無視する日もある。私がショックを受けていると、夏目さんはやさしく慰めてくれる。
「あんまり気にせんとき。塩対応が当たり前やと思っといたほうがええで。あたしかって、声かけてもスルーされる日もあるんやから」
十二月に入ると、だいぶ【夏目堂】に慣れてきた。夏目さんからまかされる仕事も増えてきた。
毎日、お昼の2時から3時の間だけ、エアポケットのようにお客さんが途絶える。その間、夏目さんはカフェを閉めて、私に留守をまかせて、ミニクーパーで買い出しに行く。
夏目さんが私を信頼してくれているのが嬉しかった。
昼食は、賄いが出るから持参したり、外食に出る必要もなかった。十二時になると、一階は夏目さんにお願いして、私は二階に上がった。かつては、夏目さんのおじいさんとおばあさんの居住スペースだった。今は夏目さんが住んでいる。
コタツの上には、いつも夏目さんが用意してくれた賄いが並んでいた。カフェで提供しているホットドッグやホットサンドなどの軽食の日もあれば、簡単な丼をつくってくれる日もあった。これまたカフェで提供している手作りのチーズケーキ付きだ。
そして、クリスマスが近づいてきた金曜日の夜――。
この日、古本市で夏目さんが仕入れてきた本を整理する作業を手伝ったので、終わったときには夜7時を過ぎていた。
「よかったら晩ごはん食べていかへん?」
私はお言葉に甘えることにした。すっかり夏目さんの料理の虜だ。
夏目さんがつくってくれたオムライスとコーンスープをいっしょに食して、明日から土日で休めるという喜びと満腹感に浸りながら、差し向かいでお喋りした。
時間を気にせず、彼女とまったりと会話するのは初めてに近かった。店に慣れてきたとはいえ、夏目さんの美貌に慣れたわけじゃない。こうして向かい合うのは、まだ緊張する。
「ホンマに美羽ちゃんが来てくれて助かったわ。いつもありがとうね」
「いえ……まだそんなにお役に立ててませんけど……」
「そんなことないって。ホンマに助かってるんよ」
真剣な表情で、夏目さんは言った。
「でも……夏目さんは、なんで私なんかを雇ってくれたんですか? 和田さんの紹介があったのは確かですけど……」
「そこにこだわる?」
夏目さんは呆れたように肩をすくめた。
「夏目さんは私を買いかぶりすぎなんです。東京から逃げたんですよ、私」
「えっ、なんか悪いことしたん?」
「違います! 結婚を考えてた彼氏にフラれたし、職場にも馴染めてなかったし。それでイヤになって東京を逃げ出したんです。実家に帰ってきたけど、転職もしないで、じっと部屋にとじこもってたんですよ。ほぼ、ひきこもりでした」
お酒を飲んだわけでもないのに、今夜の私は饒舌だった。話を聞いてもらいたいのかもしれない。自殺を考えていたことは重すぎるので割愛したけれど……。
「ふ~ん。でも、何もかもイヤになって逃げ出したくなることなんて、誰にでもあるやん? ええんちゃう?」
「でも強い人って、逃げずに踏ん張るんちゃうかなって……」
「ええやん、弱くても。大体、美羽ちゃんは一年足らずで立ち直ったんやし、強いほうやで。何十年もひきこもってしまう人も多いんやから」
「それはそうですけど……」
夏目さんは紅茶を一口飲むと、また口を開いた。
「あたしも東京から逃げ出したクチなんよ」
「夏目さんが……?」
「うん。あたしは学園前で生まれ育ったんやけど……」
聞けば、夏目さんの実家は学園前の高級住宅地にあるらしい。私より四つ年上だということも初めてわかった。
「父親が医者なんよ。あたし、美羽ちゃんと同じで一人娘やったから、『医者になれ』ってプレッシャーがすごくて。それで随分、反抗したんよ。高校出たら、バイトばっかりして、金貯めて、アメリカに一人旅に行ったりね」
物凄い行動力だ。
「ヨーロッパも回ったわ。そんで東京に行って、キャバクラで働いたり。もう無茶苦茶やった。そんな時に本気で恋に落ちたんよ。結婚もしてね、佐々木乃亜やった時期があったわ」
夏目さんは結婚していたのか。でも過去形ということは……。
「いっしょに高円寺でパン屋さんやったりね。でも浮気されて、派手に喧嘩別れ。また独り身になってもうて、イヤになって、奈良に帰ってきたってワケ」
私にはない、オトナの余裕みたいなものを夏目さんから感じていたけれど、濃い人生経験を経てきたからなんだ。
夏目さんは、窓際にある仏壇に目を向けた。
「帰ってきてすぐに、父方のおばあちゃんが亡くなってね。葬式のときにおじいちゃんから言われたんよ。『俺も長くはないから、古本屋を引き継いでくれへんか』って。そしたら、次の年にはおじいちゃんも亡くなってもうてね。両親と喧嘩しても、おじいちゃんとおばあちゃんは、あたしの味方してくれたもん。二人が大切にしてた【夏目堂】は、絶対に守らなアカンなって思たんよ」
仏壇には、二人の写真が飾ってある。やわらかい笑みをたたえた二人だ。
私には、見覚えのある笑顔だった。
「あの……すっかり言うタイミングを逃してたんですけど……私、お二人に会ったことがあるんです。小1の頃なんですけど……」
私は、いまやおぼろげな記憶を語った。
あの日――私は近所の女の子といっしょに自転車を走らせていた。女の子の自転車はスピードが速くて、鈍くさい私はちっとも追いつけなかった。そのうち、私は女の子を見失ってしまった。
普段は町の東端しか走らないのに、いつの間にか、学区も違う西端エリアに入り込んでしまっていた。見覚えのない風景にパニックになり、なんとか東端に戻ろうとしても、完全に迷子になってしまっていた。
とうとう私は泣きだしてしまった。そこへ、おばあさんが通りかかって、
「あらあら、迷子になったんやね。大丈夫やから泣かんとき」
と言って、そばの古本屋さんに連れて行ってくれた。そこにいたおじいさんもやさしく声をかけてくれたのを覚えている。店にはお客として子どもたちが多くいて、中に私と同じ学区の高学年の子がいた。おじいさんに頼まれ、その子が私を東端まで連れて行ってくれた。
迷子になったことを親に話したら怒られると思って、秘密にしたんだ。それ以来、【夏目堂】に行くことはなかったけれど、迷子になって泣いてしまったことは、しっかり者で通っていた私にとっては恥ずべき失態だったからだ。
母から聞かされるまで、【夏目堂】の記憶は忘却の彼方にあった。
「へえ、美羽ちゃんは、おじいちゃんたちに会ってたんやねえ。そらもう、ここに来てくれたんは運命やわ」
夏目さんは嬉しそうに言って、コタツの布団をめくった。私も反対側からめくってみた。
中では、ごはんをもらったヒメが気持ちよさそうに丸まって眠っている。
「二人から受け継いだんは、【夏目堂】だけやなくて、ヒメもそうなんよ」
「ヒメも……?」
「うん。この子は6歳なんやけどね、近所の野良猫をおじいちゃんたちが引き取ったんよ。その頃から、ずっとヒメは【夏目堂】の看板猫なんやで。二人が思いっきり甘やかすもんやから、すっかりお姫さまやけどね」
外からの冷気で目が覚めたヒメは、大きなあくびをしてコタツから出てきた。
「ああ、ごめん。起こした?」
夏目さんが謝ると、ヒメは「ニャア」と返事して、甘えるような仕草をした。夏目さんにひとしきりなでられると、今度は私のほうへ来てくれた。
「ヒメ~」
嬉しくなって手をのばすと、嫌がることなく触らせてくれた。今夜のご機嫌は良好だ。
上司の機嫌をうかがうのは御免だけど、猫のご機嫌なら、いくらでもうかがいたい。
私がヒメをなでているのを見つめていた夏目さんが言った。
「なんで美羽ちゃんを採用したのかって言うたらね、そりゃもう、ヒメが採用のサインを出してたからなんよ。ヒメは用心深いところあるもん。初めて会った人を毛だらけにするほどじゃれるなんて、よっぽど気に入った証やから。ヒメは、ここのお姫さまやからね。ヒメの言うことは絶対なんよ」
夏目さんの言葉に胸がつまり、頬が火照ってくる。
私は、ヒメが飽きて動き出すまで、ずっとその柔らかい身体をなで続けた。
了
本の売り場は私が担当し、夏目さんはカフェに専念……のはずだったけれど、私が慣れるまではそういうわけにもいかなかった。古本の買い取りのときは、夏目さんを呼ばなきゃいけない。その他にも、入ったばかりの私にはどうしようもないイレギュラーな対応が多かった。
せめて普通の接客はしっかりしようと意気込んだ私は、すぐに本の配置を覚えた。何を聞かれても答えられるようにするためだ。だけど、やってくるお客さんはマイペースに本を選び、お目当ての本を自分で見つけて、買っていく。カフェには購入した本を持ち込めるので、お茶しながら読んでいく人も多かった。
基本的に、私はじっとレジ横に座っているだけで良かった。お会計だって、電子マネーに対応しているから、現金のやり取りも日に数えるほどだ。
むしろ、ヒメのほうが看板猫として存分に働いていた。
我が物顔で本棚の平置きスペースにふんぞり返り、床に寝転び、運動したくなったら縦横無尽に走りまわった。
そんなヒメを、お客さんたちは愛した。大半の人は、ヒメをなでていく。話しかけたり、店に置いている猫用のおもちゃで遊んであげる人もいた。
「ヒメって、ホンマに看板猫ですね。というか、わがままなお姫さまみたい」
私が言うと、夏目さんはけらけら笑った。
「だから言うたやろ? 名前の通りなんやから」
ヒメは三毛猫のなかでも「飛び三毛」という種類なんだそうだ。毛の割合が、白が最も多くて、あとは飛び飛びで黒と茶が入っているからだ。
猫は気まぐれだと知ってはいたけれど、ヒメはまさに気まぐれプリンセスだった。
面接のときに甘えん坊だったのは、とびきり機嫌が良かっただけなんだと気づいた。嘘みたいに私を無視する日もある。私がショックを受けていると、夏目さんはやさしく慰めてくれる。
「あんまり気にせんとき。塩対応が当たり前やと思っといたほうがええで。あたしかって、声かけてもスルーされる日もあるんやから」
十二月に入ると、だいぶ【夏目堂】に慣れてきた。夏目さんからまかされる仕事も増えてきた。
毎日、お昼の2時から3時の間だけ、エアポケットのようにお客さんが途絶える。その間、夏目さんはカフェを閉めて、私に留守をまかせて、ミニクーパーで買い出しに行く。
夏目さんが私を信頼してくれているのが嬉しかった。
昼食は、賄いが出るから持参したり、外食に出る必要もなかった。十二時になると、一階は夏目さんにお願いして、私は二階に上がった。かつては、夏目さんのおじいさんとおばあさんの居住スペースだった。今は夏目さんが住んでいる。
コタツの上には、いつも夏目さんが用意してくれた賄いが並んでいた。カフェで提供しているホットドッグやホットサンドなどの軽食の日もあれば、簡単な丼をつくってくれる日もあった。これまたカフェで提供している手作りのチーズケーキ付きだ。
そして、クリスマスが近づいてきた金曜日の夜――。
この日、古本市で夏目さんが仕入れてきた本を整理する作業を手伝ったので、終わったときには夜7時を過ぎていた。
「よかったら晩ごはん食べていかへん?」
私はお言葉に甘えることにした。すっかり夏目さんの料理の虜だ。
夏目さんがつくってくれたオムライスとコーンスープをいっしょに食して、明日から土日で休めるという喜びと満腹感に浸りながら、差し向かいでお喋りした。
時間を気にせず、彼女とまったりと会話するのは初めてに近かった。店に慣れてきたとはいえ、夏目さんの美貌に慣れたわけじゃない。こうして向かい合うのは、まだ緊張する。
「ホンマに美羽ちゃんが来てくれて助かったわ。いつもありがとうね」
「いえ……まだそんなにお役に立ててませんけど……」
「そんなことないって。ホンマに助かってるんよ」
真剣な表情で、夏目さんは言った。
「でも……夏目さんは、なんで私なんかを雇ってくれたんですか? 和田さんの紹介があったのは確かですけど……」
「そこにこだわる?」
夏目さんは呆れたように肩をすくめた。
「夏目さんは私を買いかぶりすぎなんです。東京から逃げたんですよ、私」
「えっ、なんか悪いことしたん?」
「違います! 結婚を考えてた彼氏にフラれたし、職場にも馴染めてなかったし。それでイヤになって東京を逃げ出したんです。実家に帰ってきたけど、転職もしないで、じっと部屋にとじこもってたんですよ。ほぼ、ひきこもりでした」
お酒を飲んだわけでもないのに、今夜の私は饒舌だった。話を聞いてもらいたいのかもしれない。自殺を考えていたことは重すぎるので割愛したけれど……。
「ふ~ん。でも、何もかもイヤになって逃げ出したくなることなんて、誰にでもあるやん? ええんちゃう?」
「でも強い人って、逃げずに踏ん張るんちゃうかなって……」
「ええやん、弱くても。大体、美羽ちゃんは一年足らずで立ち直ったんやし、強いほうやで。何十年もひきこもってしまう人も多いんやから」
「それはそうですけど……」
夏目さんは紅茶を一口飲むと、また口を開いた。
「あたしも東京から逃げ出したクチなんよ」
「夏目さんが……?」
「うん。あたしは学園前で生まれ育ったんやけど……」
聞けば、夏目さんの実家は学園前の高級住宅地にあるらしい。私より四つ年上だということも初めてわかった。
「父親が医者なんよ。あたし、美羽ちゃんと同じで一人娘やったから、『医者になれ』ってプレッシャーがすごくて。それで随分、反抗したんよ。高校出たら、バイトばっかりして、金貯めて、アメリカに一人旅に行ったりね」
物凄い行動力だ。
「ヨーロッパも回ったわ。そんで東京に行って、キャバクラで働いたり。もう無茶苦茶やった。そんな時に本気で恋に落ちたんよ。結婚もしてね、佐々木乃亜やった時期があったわ」
夏目さんは結婚していたのか。でも過去形ということは……。
「いっしょに高円寺でパン屋さんやったりね。でも浮気されて、派手に喧嘩別れ。また独り身になってもうて、イヤになって、奈良に帰ってきたってワケ」
私にはない、オトナの余裕みたいなものを夏目さんから感じていたけれど、濃い人生経験を経てきたからなんだ。
夏目さんは、窓際にある仏壇に目を向けた。
「帰ってきてすぐに、父方のおばあちゃんが亡くなってね。葬式のときにおじいちゃんから言われたんよ。『俺も長くはないから、古本屋を引き継いでくれへんか』って。そしたら、次の年にはおじいちゃんも亡くなってもうてね。両親と喧嘩しても、おじいちゃんとおばあちゃんは、あたしの味方してくれたもん。二人が大切にしてた【夏目堂】は、絶対に守らなアカンなって思たんよ」
仏壇には、二人の写真が飾ってある。やわらかい笑みをたたえた二人だ。
私には、見覚えのある笑顔だった。
「あの……すっかり言うタイミングを逃してたんですけど……私、お二人に会ったことがあるんです。小1の頃なんですけど……」
私は、いまやおぼろげな記憶を語った。
あの日――私は近所の女の子といっしょに自転車を走らせていた。女の子の自転車はスピードが速くて、鈍くさい私はちっとも追いつけなかった。そのうち、私は女の子を見失ってしまった。
普段は町の東端しか走らないのに、いつの間にか、学区も違う西端エリアに入り込んでしまっていた。見覚えのない風景にパニックになり、なんとか東端に戻ろうとしても、完全に迷子になってしまっていた。
とうとう私は泣きだしてしまった。そこへ、おばあさんが通りかかって、
「あらあら、迷子になったんやね。大丈夫やから泣かんとき」
と言って、そばの古本屋さんに連れて行ってくれた。そこにいたおじいさんもやさしく声をかけてくれたのを覚えている。店にはお客として子どもたちが多くいて、中に私と同じ学区の高学年の子がいた。おじいさんに頼まれ、その子が私を東端まで連れて行ってくれた。
迷子になったことを親に話したら怒られると思って、秘密にしたんだ。それ以来、【夏目堂】に行くことはなかったけれど、迷子になって泣いてしまったことは、しっかり者で通っていた私にとっては恥ずべき失態だったからだ。
母から聞かされるまで、【夏目堂】の記憶は忘却の彼方にあった。
「へえ、美羽ちゃんは、おじいちゃんたちに会ってたんやねえ。そらもう、ここに来てくれたんは運命やわ」
夏目さんは嬉しそうに言って、コタツの布団をめくった。私も反対側からめくってみた。
中では、ごはんをもらったヒメが気持ちよさそうに丸まって眠っている。
「二人から受け継いだんは、【夏目堂】だけやなくて、ヒメもそうなんよ」
「ヒメも……?」
「うん。この子は6歳なんやけどね、近所の野良猫をおじいちゃんたちが引き取ったんよ。その頃から、ずっとヒメは【夏目堂】の看板猫なんやで。二人が思いっきり甘やかすもんやから、すっかりお姫さまやけどね」
外からの冷気で目が覚めたヒメは、大きなあくびをしてコタツから出てきた。
「ああ、ごめん。起こした?」
夏目さんが謝ると、ヒメは「ニャア」と返事して、甘えるような仕草をした。夏目さんにひとしきりなでられると、今度は私のほうへ来てくれた。
「ヒメ~」
嬉しくなって手をのばすと、嫌がることなく触らせてくれた。今夜のご機嫌は良好だ。
上司の機嫌をうかがうのは御免だけど、猫のご機嫌なら、いくらでもうかがいたい。
私がヒメをなでているのを見つめていた夏目さんが言った。
「なんで美羽ちゃんを採用したのかって言うたらね、そりゃもう、ヒメが採用のサインを出してたからなんよ。ヒメは用心深いところあるもん。初めて会った人を毛だらけにするほどじゃれるなんて、よっぽど気に入った証やから。ヒメは、ここのお姫さまやからね。ヒメの言うことは絶対なんよ」
夏目さんの言葉に胸がつまり、頬が火照ってくる。
私は、ヒメが飽きて動き出すまで、ずっとその柔らかい身体をなで続けた。
了

