私の実家は町の東端にあり、古本屋の【夏目堂】は西端にあった。

 晴天の朝、私は【夏目堂】をめざして自転車を走らせていた。町は東西に広くのびているから、自転車でも二十分はかかる。
 頬をなでる風は、なるほどテレビで言っていたように秋の訪れを感じさせるもので、ひんやりして心地がいい。うんざりするほど長かった夏には暴力的だった陽射しも、まるで別物のようにやさしい。もっとも、私は今年の夏の大半をクーラーのきいた部屋でやりすごしたのだけれど。

 N大学のキャンパスを通り過ぎ、路地に入って迷路のような住宅街を進んでいく。あらかじめ道順を地図アプリで確認してはいたけれど、おぼろげな記憶とそう変わらない、奥まった場所に、【夏目堂】はあった。

 しかし、その外観は記憶の中のものとは大きく異なっていた。

 古めかしい二階建て住宅の一階を店舗にした、昔ながらの古本屋――という店構えだったのが、今風の白壁の店舗に生まれ変わっている。窓も大きくなって、外からも中の様子がよく見える。壁にはかわいらしくデザインされた【夏目堂】の看板がかかっている。

 横のガレージには真っ赤なミニクーパーが止まっていた。事前に電話したとき、「ガレージに自転車を止めていい」と言われたので、端っこに停めさせてもらった。

 窓から中の様子をうかがっても、まだ開店前で薄暗く、人影はない。おそるおそるドアを開けて、中に入る。
 ドアベルが、チリンチリンと音を立てた。

 ――ニャア!

 するどい猫の鳴き声がして、私は飛び上がらんばかりに驚いた。

「び、びっくりしたあ」

 中央にある本棚に平積みされた本の上に、猫が寝そべっていたのだ。薄闇のなか、猫の目はぎらりと光っていて、さながらお店の番人のようだ。

 猫は身体を起こして大きく伸びをすると、軽やかに床に飛び降りて、トコトコと私に近づいてきた。外からの明かりで、猫の毛並みがようやく見えた。

 (ひたい)の左半分から後頭部にかけては茶色で、右半分は黒色になっている。ピンと立てたしっぽは黒と茶が入り混じったマーブル状。あとは背中に申し訳程度に斑点が入っているだけで、身体の大半は真っ白。
 角度によっては白猫に見える三毛猫だ。少しふっくらした体型なのが愛らしい。

「か、かわいい……」

 思わず口からこぼれ出て、私はしゃがみ込んで手をのばした。喉元をさすると、三毛猫はぐるぐると喉を鳴らして目を細めた。猫に触れるのは松山市の公園で近づいてきた野良猫をなでて以来だ。やっぱり手ざわりが何とも言えない。

 今度は頭をなでてやると、三毛猫は私の手をすりぬけて、私の周囲を回りはじめた。

 ――ニャ―ン。

 高い声で鳴いて、顔や胴、しっぽを私に(こす)りつけながら、せわしなく動く。あんまりぐるぐる回るので、こっちの目が回りそう。お店のオーナーさんより先に、熱烈にお出迎えしてくれた……のはいいけれど。

「ああっ……」

 私の服に猫の毛がびっしりと付いているのに気づいて、慌てて立ち上がる。何を着ていけばいいのかわからなかったので、とりあえず無難にセットアップの黒のテーラードジャケットとテーパードパンツという格好だった。ただでさえ毛がつきやすいのに、黒だから余計に目立つ。

 すると、奥の階段から女性が下りてきた。

「ごめんなさい。開店は10時からなんですよ~」

 電話で話したときと同じハスキーボイス。申し訳なさそうに謝る女性を見て、私は立ちすくんだ。すらりとした長身で、息を呑むほどの美人だったからだ。
 電話の印象では、「ハキハキした明るい人だな」とは思ったけれど、こんなに美人だとは予想外だった。年齢は私より少し上だと思う。

「あの……えっと……お電話した仲原美羽ですが……」
「あっ、バイトの面接の! ごめんね~。N大の学生さんかと思って……」
「はあ……」

 就活中の学生と間違われたらしい。若く見られて喜んでいいのかは微妙なところだ。去年までは社会の荒波に揉まれていたワケだし。最近、美容院に行けてなくてぼさぼさだった黒髪をひっつめ髪にして取り(つくろ)い、リクルートスーツみたいな野暮(やぼ)ったいものを着ていれば無理からぬコトだけれど。

「ヒメ、アカンよ」

 まだ私の足に、念入りに全身を擦りつけている三毛猫を見て、女性がたしなめる。ヒメというのが、この猫の名前らしい。

 ――ニャ。

 ヒメは不満げに短く鳴くと、私から離れて、最初に寝そべっていた本棚へと戻った。売り物の本の上に載っているけど、女性はそれについては(とが)めない。

「あらら、毛がいっぱい付いてもうてるね。ちょっと待ってて」

 女性はレジ脇に置いていたカーペット用のクリーナーを持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

 礼を言って、自分で毛を取っていく。女性はその様子を見ながら、
「随分とあなたのことが気に入ったみたいやね」
 と愉快そうに笑った。

「そうみたいです」

 私は苦笑いして、我関せずとばかりに本の上に鎮座(ちんざ)しているヒメを見やる。

「かわいい三毛ちゃんですね」
「かわいいでしょう? うちの看板猫なんよ。ヒメっていう名前でね、その名のとおり、ここのお姫さま」

 たしかに、大切に育てられてきたんだとわかる。自由奔放なお姫さま……という感じだけど。

 大体の毛が取れると、女性は奥のカフェスペースに案内してくれた。簡素な厨房と、L字型のカウンター席。あとは小さなテーブル席が二つ。

「どうぞ~。こっちにかけて」

 厨房に入った女性が指し示したのは、カウンター中央の席だ。腰かけて、持参したバッグに手をかける。

「あなた、コーヒーは大丈夫?」
「あっ、はい」
「アイスでもええかな?」
「はい。ありがとうございます」

 コーヒーをご馳走してくれるらしい。女性が準備してくれている間に、バッグから履歴書を取り出す。誤字や不備がないか、ざっと確認して、貼りつけてある証明写真をじっと見た。なんとも冴えない顔の女で、我ながらイヤになる。

 女性がアイスコーヒーを出してくれたので、礼を言って、履歴書を手渡す。

「よろしくお願いします」
「はいはい。仲原美羽さんね。あたしは夏目乃亜(のあ)です。一応、ここのオーナーをやらせてもらってます。よろしくね。……あっ、遠慮しないで飲んでね」

 夏目さんは基本的に関西弁だけど、時折、標準語のイントネーションが混じることに私は気づいていた。

 夏目さんが履歴書に目を通している間に、私はアイスコーヒーにシロップとクリームを入れた。ブラックは苦手だ。一口飲むと、甘味のあとに程よい苦味が感じられた。久しぶりに外で人と接したから緊張していたらしい。渇いていた喉が冷たい珈琲液で潤されてほっとする。

「東京で働いてはったんやね。あたしも数年前まで東京におったんよ」

 ああ、やっぱり。そう思ったのが顔に出たらしい。

「あれ、わかる?」
「ええ。イントネーションで、なんとなく……。私もそうなので」
「あはは。あたしは奈良市で生まれ育ったし、こっちに戻ってきたら、一気に関西弁に戻るかと思ったけど、そうでもないんよね。まあ、どっちでもええんやけど」

 そう言って、笑う夏目さんは、改めてじっくり見ても美人だ。丁寧にケアしてある茶髪を短くカットして、ボーイッシュな風貌ながら、女の色香に満ちていた。宝塚の男役みたいで、男よりも女にモテるタイプだ。
 それに比べて、自分のなんと惨めなことか。

「――うちは土日が休みで、平日だけの営業なんよ。N大の学生さんとか教授がよく来てくれるからね。おじいちゃん……前のオーナーの頃からの方針やから。いまのところ朝10時に開けて、夕方5時には閉めてるんよ。あたしも三か月前に始めたばっかりやし、もう少し慣れてきたら6時までやってもええかな、って思てるけどね。……それで、シフトの希望はある?」
「え……?」
「準備があるから、朝9時半には出てほしいんやけど、フルタイムでいけそう?」
「はい」
「休みはどうする?」
「まあ、土日がお休みなら、とりあえず平日五日は大丈夫ですけど……」
「助かるわー。じゃあ、いつから来れる? 明日からでもええんやけど……」
「えっ……明日って……あの……」
「うん、採用やで」
「ええっ……」

 事もなげに夏目さんが言うから、私は固まってしまった。面接のはずなのに、面接らしい質問はほとんどされていない。
 あたしの職歴には、十か月におよぶ空白期間がある。そこをツッコまれたらどうしようと、あれこれ考えていたのが馬鹿みたいだ。

「あの……面接は……?」
「面接……? そんなん必要ないわあ。和田さんが信頼してはる人の娘さんやもん。そらもう、安心してまかせられるわ」

 和田さんというのは、不動産会社の人だ。私の父は建築資材の会社で働いていて、和田さんと仕事上の付き合いがある。夏目さんが【夏目堂】を引き継ぐにあたって、店舗のリフォームを担当したのが和田さんの会社だ。そういったわけで、トントン拍子で面接がセッティングされたのも、父のコネということになる。

(いい年して、私は親に頼らなきゃ、バイトも決められないのか……)

 プライドが邪魔して、私は素直に採用を喜べない。そんな感情が、またもや顔に出てしまったらしい。

「納得いかへん?」
「はあ……。あくまで面接のつもりで来たものですから……」
「美羽ちゃんは真面目なんやなあ」

 夏目さんが茶化すように言ったから、私はムッとしてしまった。

「とにかく、あたしとしては美羽ちゃんに来てほしいんよ。あとは、あなた次第。ゆっくり考えたらええよ。開店までまだ時間あるし、売り場を見てきたら? 読書が趣味って書いてたやん。本が好きなんやったら、やりがいあると思うわ」

 そう言って、夏目さんは開店に備えはじめた。

 仕方ないので、私は本の売り場に戻った。決して広くはないスペースに、上手く本棚が配置されていて、品揃えは充分なように思える。大学教授がお得意さんだけあって、レアな学術書もそこかしこにある。

 古典文学の古本が並んでいる一角に、『枕草子』関連を何冊か見つけた。そのうちの一冊を手に取り、パラパラとめくる。
 今は昔の大学時代が、ブラックコーヒーのような苦味をともなって脳裏によみがえる。嫌なこともいっぱいあったけれど、現在の自分に比べたら、ずっと生き生きしていたと思う。

 本を棚に戻し、一通り、店内を見て回る。本好きの血が騒いで、胸が高鳴ってきた。

 入口付近は新刊コーナーになっていた。以前は古書専門店だったはずだから、夏目さんの代から新刊も売ることにしたらしい。発売されたばかりの小説やエッセイ、新書などが揃っている。数は少ないが、漫画やライトノベルもある。
 児童書の棚には絵本や児童文庫が並んでいて、そこだけ丈が低くなっていた。子どもの目線に合わせているようだ。

「ヒメ、ここにいたん?」

 いつの間にか新刊コーナーの床に移動していたヒメが、寝そべって毛づくろいしている。
 私が近づくと、ヒメはゴロンと寝返りを打って、真っ白なお腹を見せた。

(これはっ! モフれということ!?)

 私はしゃがみ込んで、思う存分、ヒメのやわらかいお腹をなでた。ヒメはされるがままになっている。

(ここは、私にとって天国だ……)

 大好きな本に囲まれて仕事ができる。距離を詰めてくるのが早いけれど、夏目さんだって、裏表のない陽キャで、きっとイイ人だ。
 だらしない生活から脱却して、再起する機会が巡ってきたのに……。妙なプライドが邪魔して、その機会を放棄するところだったんだ。東京から逃げ出して、死ぬことも出来ず、部屋にとじこもるうちに、救いようのない人間に成り下がっていたらしい。

「なあ、ヒメ。私、ここでお世話になってもええんかな?」

 私の問いかけに、ヒメは「ニャア」と答えた。

「ありがとうね」

 鼻の奥がつんと痛んで、視界がにじむ。
 夏目さんに言おう。「よろしくお願いします」って。

 潤っている目元を指で(ぬぐ)うと、ヒメは立ち上がって、私の足にまたも顔を擦りつけていた。