「美羽! そろそろ起きや」
階下から母の声が聞こえて、私はむくりと上半身を起こし、手にしていたスマホに充電コードを挿した。スマホの時刻表示によれば、昼の1時過ぎ。私は溜息をひとつ吐いて、ベッドから起き上がった。
一階に下りて洗顔をすませ、台所に行くと昼ごはんが用意されていた。
隣のリビングでは母がソファに座って、テレビで昼の情報番組を見ている。
「いただきます……」
私はぼそりと呟いて、遅めの昼食をとり始めた。母は時折、湯飲みに手をのばすだけで、私には何も話しかけてこない。「残暑もようやく終わって涼しくなってきた」だの、「明日は雨になりそう」だの、気温や天気の話ばかりしてるテレビ番組の音声だけが、むなしく響いている。
私は、奈良県の実家に戻ってきていた。
結局、会社を辞めるという意志は揺らぐことなく、綺麗さっぱり辞めたのは去年の十二月のことだ。正式に手続きをすると、退職届を出したあとも引き継ぎだなんだと、出社しなくちゃいけない。
上司に嫌味を言われるのは確実だし、同僚たちにあれこれ詮索されるのも目に見えている。そこでネットで調べて退職代行の業者に頼ったのだが、思ったよりもあっさりと退職手続きが済んだ。年末で忙しい時期に辞めてやったのは、私の心身をこれでもかと傷めつけてくれた会社への、せめてもの復讐となった。
正月には実家に帰省するのが恒例だったが、両親に会えば決心が鈍ってしまう。「友人と旅行に行く」と嘘をつき、西荻窪のアパートにとどまった。
そう。私は自分の命を絶たなきゃいけない。
部屋で首を吊ろうと思ったが、死んだことに気付かれるのは、随分後になるだろう。会社も辞めたし、大学時代の数少ない友人とも卒業後は連絡をとっていない。ましてや正月だ。死体が腐って異臭騒ぎになってから、ようやく警察が来るだろう。他の住人や大家さんに迷惑がかかってしまう。
それでは別の方法で……といっても、高い建物から飛び降りたら誰かを巻き込むかもしれない。駅のホームから飛び降りて電車に轢かれたら、ダイヤが乱れる。
死ぬなら、誰もいない所がいい。
一月も半ばを過ぎて、世間の正月気分が抜けてきた頃、私は東京を飛び出して、そのまま旅に出た。関西を通り過ぎて、さらに西へ。以前から行ってみたかった場所を回った。岡山県の倉敷、山口県の防府市、愛媛県の松山市……。
そして満足したら、いよいよ人気のない崖から飛び降りよう。
だけど私は臆病風に吹かれた。二月に入っても決心がつかず、気がつけば貯金も底をつきかけていて、これ以上、旅を続けるのは難しかった。
そんなわけで私は実家に帰り、会社を辞めたことを両親に告げた。
「早く東京に戻って、新しい仕事を探しなさい!」
母は烈火の如く怒ったが、父は私をかばってくれた。
「美羽の好きにしたらええ」
今さら東京には戻りたくなかった。
(もう、あそこには私の居場所はない……)
となれば実家に戻るしか選択肢はないが、どちらにせよ東京のアパートを引き払う必要があった。会社員の父は仕事を休んでまで東京に付き添ってくれて、二人で部屋の荷物をまとめ、あとは引っ越し業者にまかせた。
実家の二階にある私の部屋は上京した当時のままで、アニメのシールを貼った本棚なんかもそのまま残っていた。業者が届けてくれた荷物を運び入れると、やたら狭くなってしまったけれど。
「ごちそうさま」
昼ごはんを食べ終えると、自分が使った食器を洗って、いつものように二階に上がろうとしたのだけれど。
「美羽。ちょっとこっちに来なさい」
そう言って、母はテレビを消した。これは長くなりそうだ、と思わず舌打ちをしそうになった。
(久しぶりに文句言いたくなったんやろうな)
こっちに戻ってきた当初は小言の多かった母だが、最近は諦めに似た境地になったのか、ほとんど何も言ってこなかった。父も同じだ。……というより、放置されていた。
この仲原家において、私は〝腫れ物〟と化していたのだ。
最初のうちこそハローワークに通ったりしたが、思うような仕事は見つからず、次第に部屋に籠るようになった。
何をするでもない。あれだけ好きだった本も読む気にはなれないし、ベッドに寝っ転がってスマホで動画を見るくらいのもの。最近は猫の動画がお気に入りだ。ペットを飼ったこともないし、猫に縁もなかったが、死に場所を求めて各地をさまよったとき、近づいてきた野良猫をなでたりした。以来、何となくネコ派だ。
あとはひたすら眠るだけ。
とはいえ買い物があれば外に出るし、小遣いが欲しくなればアプリで見つけたスキマバイトをやった。だから、ひきこもりでもニートでもないんだと、自分に言い聞かせた。
「そこに座りなさい」
母が、ソファのそばのイスを目で示したので、私は渋々、座った。無視して二階に上がれば、母はヒスを起こすだろう。後が面倒なので、とりあえず話は聞こう。
「アンタいつまで寝てるんよ。お父さんなんか定年近いのに、毎日、六時には起きて会社に行ってるんやから」
「…………」
私だって、ホントに昼過ぎまで寝てるわけじゃない。部屋でダラダラと過ごしていても意外と朝型だ。いつも9時前には起きるが、親と顔を合わせる時間を減らしたくて、朝ごはんを我慢しているだけだ。
トイレは二階にもあるから、一階で過ごすのは昼夜二回の食事と、あとは風呂に入るときくらいのものだ。
「毎日、部屋で何してるんよ? 仕事、探してるんか?」
「探してるよ」
「ホンマか? お母さんにはそうは見えへんけど。部屋にとじこもってゴロゴロしてるだけやんか」
「たまにバイトしてるやん」
「スキマバイトとかいうやつやろ? あんなん働いたうちに入らへんよ。この前、テレビでやってたわ。闇バイトの温床になってるって」
ひどい偏見だ。そりゃ見るからに怪しい募集もあるけど、しっかり見極めて応募すればいい。即日報酬が振り込まれるし、何より面接がないのが助かってるのに。
私が憮然としてうつむいたのを見て、母は畳みかけてきた。
「お父さんが『今はそっとしといたれ』って言うから、そうしてきたけど……。二月にこっちに帰ってきて、もう十月やないの。アンタも東京でいろいろあったんやろうけど、そろそろしっかりせなアカンのちゃうか? ご近所の人に『美羽ちゃん帰ってきてるの?』って訊かれるけど、何て答えたらええかわからんやないの」
(私は自殺まで考えてたんや。そんなことも知らんくせに……。アンタは世間体しか頭にないんか!)
必死に抑えこんできたものが爆発しそうだった。言い返してやろうと顔を上げた私の目に映ったのは――。
母の疲れきった、妙に老けてしまった顔だった。まともに母の顔を見たのは、いつぶりだろうか。
(こんなにシワが深かったっけ……?)
私のせいだ……と思うと、胸がちくりと痛んだ。怒りにまかせて吐き出しかけた言葉も呑み込むしかない。
「私かって、このままでええとは思てへんよ……」
そう言うのが精一杯だった。すると、母の声のトーンが幾分やわらいだ。
「ほんなら、早起きして、しっかり朝ごはん食べなさい。バイトするんやったら、その日限りのやつやなくて、ちゃんとしたやつにし」
「ちゃんとしたやつって、どんなんよ」
「ほら、N大学のそばに、【夏目堂】っていう古本屋さん、あるの知らん?」
「【夏目堂】……?」
最初はピンとこなかったが、ゆっくりと断片的な記憶が脳裏によみがえってきた。それはセピア色の、懐かしくも、気恥ずかしい思い出――。
「ああ……あの古本屋さん……」
「あそこのオーナーさんが二年前に亡くならはったんやけどね。最近になって、お孫さんが引き継いだんよ。なんや、ブックカフェいうの? 中でお茶できるようにしたらしいわ。お父さんが取引先の人から聞いてきたんやけど、そこの人手が足りひんから『猫の手も借りたい』状態なんやって。バイトで来てくれる人を探してるっていうから……」
そこまで言うと、母は私の顔をうかがい見て、
「美羽は本が好きやろ? やってみたら?」
と勧めてきた。本当なら、両親が持ってきたバイトの話なんて、乗り気にはなれないところだ。「バイトくらい自分で探すから、余計なことせんといて」って言いたくもなる。
だけど、このときの私は、不思議なくらい素直だった。
「うん。やってみよかな……」
階下から母の声が聞こえて、私はむくりと上半身を起こし、手にしていたスマホに充電コードを挿した。スマホの時刻表示によれば、昼の1時過ぎ。私は溜息をひとつ吐いて、ベッドから起き上がった。
一階に下りて洗顔をすませ、台所に行くと昼ごはんが用意されていた。
隣のリビングでは母がソファに座って、テレビで昼の情報番組を見ている。
「いただきます……」
私はぼそりと呟いて、遅めの昼食をとり始めた。母は時折、湯飲みに手をのばすだけで、私には何も話しかけてこない。「残暑もようやく終わって涼しくなってきた」だの、「明日は雨になりそう」だの、気温や天気の話ばかりしてるテレビ番組の音声だけが、むなしく響いている。
私は、奈良県の実家に戻ってきていた。
結局、会社を辞めるという意志は揺らぐことなく、綺麗さっぱり辞めたのは去年の十二月のことだ。正式に手続きをすると、退職届を出したあとも引き継ぎだなんだと、出社しなくちゃいけない。
上司に嫌味を言われるのは確実だし、同僚たちにあれこれ詮索されるのも目に見えている。そこでネットで調べて退職代行の業者に頼ったのだが、思ったよりもあっさりと退職手続きが済んだ。年末で忙しい時期に辞めてやったのは、私の心身をこれでもかと傷めつけてくれた会社への、せめてもの復讐となった。
正月には実家に帰省するのが恒例だったが、両親に会えば決心が鈍ってしまう。「友人と旅行に行く」と嘘をつき、西荻窪のアパートにとどまった。
そう。私は自分の命を絶たなきゃいけない。
部屋で首を吊ろうと思ったが、死んだことに気付かれるのは、随分後になるだろう。会社も辞めたし、大学時代の数少ない友人とも卒業後は連絡をとっていない。ましてや正月だ。死体が腐って異臭騒ぎになってから、ようやく警察が来るだろう。他の住人や大家さんに迷惑がかかってしまう。
それでは別の方法で……といっても、高い建物から飛び降りたら誰かを巻き込むかもしれない。駅のホームから飛び降りて電車に轢かれたら、ダイヤが乱れる。
死ぬなら、誰もいない所がいい。
一月も半ばを過ぎて、世間の正月気分が抜けてきた頃、私は東京を飛び出して、そのまま旅に出た。関西を通り過ぎて、さらに西へ。以前から行ってみたかった場所を回った。岡山県の倉敷、山口県の防府市、愛媛県の松山市……。
そして満足したら、いよいよ人気のない崖から飛び降りよう。
だけど私は臆病風に吹かれた。二月に入っても決心がつかず、気がつけば貯金も底をつきかけていて、これ以上、旅を続けるのは難しかった。
そんなわけで私は実家に帰り、会社を辞めたことを両親に告げた。
「早く東京に戻って、新しい仕事を探しなさい!」
母は烈火の如く怒ったが、父は私をかばってくれた。
「美羽の好きにしたらええ」
今さら東京には戻りたくなかった。
(もう、あそこには私の居場所はない……)
となれば実家に戻るしか選択肢はないが、どちらにせよ東京のアパートを引き払う必要があった。会社員の父は仕事を休んでまで東京に付き添ってくれて、二人で部屋の荷物をまとめ、あとは引っ越し業者にまかせた。
実家の二階にある私の部屋は上京した当時のままで、アニメのシールを貼った本棚なんかもそのまま残っていた。業者が届けてくれた荷物を運び入れると、やたら狭くなってしまったけれど。
「ごちそうさま」
昼ごはんを食べ終えると、自分が使った食器を洗って、いつものように二階に上がろうとしたのだけれど。
「美羽。ちょっとこっちに来なさい」
そう言って、母はテレビを消した。これは長くなりそうだ、と思わず舌打ちをしそうになった。
(久しぶりに文句言いたくなったんやろうな)
こっちに戻ってきた当初は小言の多かった母だが、最近は諦めに似た境地になったのか、ほとんど何も言ってこなかった。父も同じだ。……というより、放置されていた。
この仲原家において、私は〝腫れ物〟と化していたのだ。
最初のうちこそハローワークに通ったりしたが、思うような仕事は見つからず、次第に部屋に籠るようになった。
何をするでもない。あれだけ好きだった本も読む気にはなれないし、ベッドに寝っ転がってスマホで動画を見るくらいのもの。最近は猫の動画がお気に入りだ。ペットを飼ったこともないし、猫に縁もなかったが、死に場所を求めて各地をさまよったとき、近づいてきた野良猫をなでたりした。以来、何となくネコ派だ。
あとはひたすら眠るだけ。
とはいえ買い物があれば外に出るし、小遣いが欲しくなればアプリで見つけたスキマバイトをやった。だから、ひきこもりでもニートでもないんだと、自分に言い聞かせた。
「そこに座りなさい」
母が、ソファのそばのイスを目で示したので、私は渋々、座った。無視して二階に上がれば、母はヒスを起こすだろう。後が面倒なので、とりあえず話は聞こう。
「アンタいつまで寝てるんよ。お父さんなんか定年近いのに、毎日、六時には起きて会社に行ってるんやから」
「…………」
私だって、ホントに昼過ぎまで寝てるわけじゃない。部屋でダラダラと過ごしていても意外と朝型だ。いつも9時前には起きるが、親と顔を合わせる時間を減らしたくて、朝ごはんを我慢しているだけだ。
トイレは二階にもあるから、一階で過ごすのは昼夜二回の食事と、あとは風呂に入るときくらいのものだ。
「毎日、部屋で何してるんよ? 仕事、探してるんか?」
「探してるよ」
「ホンマか? お母さんにはそうは見えへんけど。部屋にとじこもってゴロゴロしてるだけやんか」
「たまにバイトしてるやん」
「スキマバイトとかいうやつやろ? あんなん働いたうちに入らへんよ。この前、テレビでやってたわ。闇バイトの温床になってるって」
ひどい偏見だ。そりゃ見るからに怪しい募集もあるけど、しっかり見極めて応募すればいい。即日報酬が振り込まれるし、何より面接がないのが助かってるのに。
私が憮然としてうつむいたのを見て、母は畳みかけてきた。
「お父さんが『今はそっとしといたれ』って言うから、そうしてきたけど……。二月にこっちに帰ってきて、もう十月やないの。アンタも東京でいろいろあったんやろうけど、そろそろしっかりせなアカンのちゃうか? ご近所の人に『美羽ちゃん帰ってきてるの?』って訊かれるけど、何て答えたらええかわからんやないの」
(私は自殺まで考えてたんや。そんなことも知らんくせに……。アンタは世間体しか頭にないんか!)
必死に抑えこんできたものが爆発しそうだった。言い返してやろうと顔を上げた私の目に映ったのは――。
母の疲れきった、妙に老けてしまった顔だった。まともに母の顔を見たのは、いつぶりだろうか。
(こんなにシワが深かったっけ……?)
私のせいだ……と思うと、胸がちくりと痛んだ。怒りにまかせて吐き出しかけた言葉も呑み込むしかない。
「私かって、このままでええとは思てへんよ……」
そう言うのが精一杯だった。すると、母の声のトーンが幾分やわらいだ。
「ほんなら、早起きして、しっかり朝ごはん食べなさい。バイトするんやったら、その日限りのやつやなくて、ちゃんとしたやつにし」
「ちゃんとしたやつって、どんなんよ」
「ほら、N大学のそばに、【夏目堂】っていう古本屋さん、あるの知らん?」
「【夏目堂】……?」
最初はピンとこなかったが、ゆっくりと断片的な記憶が脳裏によみがえってきた。それはセピア色の、懐かしくも、気恥ずかしい思い出――。
「ああ……あの古本屋さん……」
「あそこのオーナーさんが二年前に亡くならはったんやけどね。最近になって、お孫さんが引き継いだんよ。なんや、ブックカフェいうの? 中でお茶できるようにしたらしいわ。お父さんが取引先の人から聞いてきたんやけど、そこの人手が足りひんから『猫の手も借りたい』状態なんやって。バイトで来てくれる人を探してるっていうから……」
そこまで言うと、母は私の顔をうかがい見て、
「美羽は本が好きやろ? やってみたら?」
と勧めてきた。本当なら、両親が持ってきたバイトの話なんて、乗り気にはなれないところだ。「バイトくらい自分で探すから、余計なことせんといて」って言いたくもなる。
だけど、このときの私は、不思議なくらい素直だった。
「うん。やってみよかな……」

