猫も杓子も、他人のことに興味があるらしい。
女が二人集まれば噂話が始まるが、男の人だって噂話が大好きだ。そしてそれは大抵、根拠のない臆測だったり、妬みや蔑みを帯びたものになる。
会社が昼休みに入ると、同じ部署の年が近い四人でランチに行くのがお決まりだ。東京・豊島区のJR駒込駅の周辺には飲食店が意外と少ないので、なんとなく曜日ごとのローテーションが決まっていた。
今日は金曜日だから、ということで贔屓にしている定食屋にさっさと入って四人掛けのテーブル席を確保した。料理を注文すると、さっそく噂話が始まる。
「派遣の小澤さん、何度言っても入力ミスが直んないのよね」
「あー、そうそう! 注意したら露骨にイヤな顔するしさ~。やりにくいったら!」
宮野さんが口火を切ると、森さんもどこか嬉し気に同調した。二人とも私の一年先輩だ。
ああ、また始まったか……と、私は心の内で嘆息する。最近、派遣で来るようになった小澤さんに、みんなは不満が溜まっているらしい。
「あの派遣会社、ロクなのを寄こさないからなぁ。またハズレですね」
四人の中で唯一の男性社員で、私の一年後輩の武田くんも吐き捨てるように言った。小澤さんはくじ引きの景品か何かなのだろうか。
さらには化粧が濃いだの、ネイルが派手だの、みんなの小澤さん批判は止まらない。それには加わらないで、うんうん、と関心だけはあるフリをしている私を見て、
「仲原さんも、小澤さんには迷惑かけられてるんじゃないですか?」
と、武田くんが水を向けてきた。
「というか、美羽が一番の被害者でしょ。今度ガツンと言ってやったほうがいいよ」
宮野さんに言われて、私は曖昧な表情を浮かべつつ、言葉を絞りだす。
「えっと……派遣っていっても、小澤さんは正社員と同じくらいの仕事量を割り振られてますし、まだウチに来てくれて日も浅いですから……。そのうち慣れてくるかと……」
わかってる。みんなが聞きたかったのは、こんな正論じゃないってコト。ほら、三人とも苦笑いを浮かべてる。
「相変わらず美羽は優しいわね。あたしらと違って……」
「そんな……」
森さんに、どこか棘のある言葉を投げかけられ、私は言葉に詰まった。
(つまらない女だと思われているんだろうな……)
三人の心の内が読めてしまって、胃がきりきりと痛む。
料理がすべてテーブルに揃うと噂話は一旦途切れ、しばらくは各々食べることに集中したが、誰からともなく「今年の紅白歌合戦は出場歌手がショボい」という話を始め、その話題で盛り上がった。そういった他愛もない雑談でも、私は上手く会話に入れない。所在なさをごまかすために、ひっきりなしに日替わり定食のおかずを口に運び、何度も水を飲む。
やがて話題は、口やかましい上司に対する愚痴へと移った。三人は料理を食べつつ、上司への恨み言を吐きだすのに忙しい。そんな会話を聞きながら食べるカニクリームコロッケは味がしない。
昨日の三人は、「入社一年目の社員が揃いも揃ってマイペースすぎる」という話で盛り上がっていたっけ。みんなは、誰かの悪口を言い合うことで絆を深めているらしい。
駒込に本社を置く、小さな文具メーカー。ここは、狭いムラ社会だ。空前の文房具ブームと言われながらも、その時流に乗れず、綱渡りの経営が続いている。上司はいつもイライラしていて、社内はピリピリした雰囲気に支配されている。狭い世界の癖に、部署間の連携が取れていないから、業務が非効率なまま進むことも多い。
入社三年目の私は上司に目をつけられないよう立ち回ることに必死だったし、年の近い同僚とも今一つ打ち解けられない。
私はすっかり、この会社に嫌気が差していた。
会社だけではない。この世にもうんざりしていた。他人の噂話なんかに興味はないし、さらに言えば自分のコトだってどうでもいい。
◆
「別れてほしい」
大学三年生の時から付き合っている、一つ年上の渉に切り出されたのは先週――十一月も終わりかけの日曜日だった。
話があるからとカフェに呼び出されたとき、「クリスマスデートの計画かな」くらいに思っていた私は、「他に好きな女ができた」と渉に打ち明けられ、呆然としてしまった。誇張でも何でもなく、視界は真っ暗になり、店内は無音になった……気がした。
それでも私は必死に動揺を抑え、口を開いた。
「……まあ、そろそろ潮時かな……とは思ってたよ」
「そうか……。もう四年も付き合ってるもんな、俺たち」
私に食い下がるつもりがないと悟ると、渉は露骨にほっとした表情を浮かべた。
「今までありがとうな、美羽。幸せになれよ」
別れぎわ、渉にそう言われたのは覚えている。私は、気が弱い割にはプライドが高い。すがりつき、「別れないで」と泣くことを良しとはしなかった。自分でも驚くほどあっさりと別れを受け入れたが、アパートに帰ってから怒りがこみあげた。
(私は渉といっしょに幸せになりたかったんだ!)
奈良県北部のベッドタウンで生まれ育った私は、一人娘として両親のもとで何不自由なく過ごした。進学校といわれる県内の公立高校を卒業したあと、東京の有名女子大の文学部に進学。関西の大学に進むことを望んだ両親の反対を押し切っての上京だった。
本の虫で、地味でネクラ。友だちは少なく、恋愛とも無縁。そんな自分も、東京に行きさえすれば変われるかも……という期待があった。
だけど環境を変え、関西弁を捨てて標準語を話すようになっても、私自身は何も変わらなかった。むしろ人とのコミュニケーションが下手になっていった。サークルには馴染めずにすぐやめたし、仕送りだけではキツくてバイトをやるものの、人間関係が原因でどれも長続きしなかった。
渉と出会ったのは三年生のとき。同じゼミの子に人数合わせで引っ張り出された合コンに、他大学の四年生だった渉がいた。
人のコトは言えないが、渉は冴えない容姿の痩せっぽちの男だった。第一印象では恋の予感なんて微塵もしなかったけれど……。
私は古典文学を専攻していて、卒論のテーマが『枕草子』だった。それを知ると、渉は声を弾ませた。
「俺も好きだよ、清少納言! 『お高く止まってて鼻持ちならない』って紫式部が日記で批判してるけどさ、絶対に繊細な女性だったハズだよね」
「そう! そうですよね! 『枕草子』をしっかり読み込んだら分かりますよね! 中宮定子への想いとか、本当に切なくて……」
気付けば、私たちは場所を変えて、ふたりっきりで清少納言トークに花を咲かせていた。しかも編集者になりたくて出版社への就職を目指していた私に、大手出版社の内定を得ていた渉は、親切にいろいろとアドバイスしてくれた。そうして連絡を取りあううちに、自然と恋仲になった。
口下手で、アピールポイントの少ない私は就活で苦戦し、結局は出版社への就職は叶わなかった。駒込の小さな文具メーカーに拾ってもらう形になったが、社会人になってからも渉との関係は続いた。付き合いはじめた当初の燃えあがるような恋心こそしぼんでいたけれど、それでも私は渉を好きであり続けた。
でも会社の人間には、彼氏がいることをひた隠しにした。あれこれ詮索され、噂話のネタにされるくらいなら、「男と縁のない女」と侮られているほうが楽だ。
そして四年も付き合えば、〝結婚〟の二文字を意識する。
(渉と結婚して、専業主婦になって、寿退社するんだ)
「私、結婚します」
突然そう告げれば、社内での私の立ち位置は一変するだろう。内心、私を見下しているだろう宮野さんたちの歯噛みする顔を想像すると、胸がスッとする。
漠然とではあるが、そうした未来を思い描くことで辛い現実を乗り越えてきた。結婚さえすれば、好きでもない仕事をすることはない。課長の粘っこい小言に耐える必要もなければ、同僚のくだらない噂話を聞かされることもない。
だけど……。
そのささやかな逃げ道をふさがれた私は、とんでもなく惨めな存在になってしまった。
渉とは同じ方向に歩んでいると思っていたのに、そうではなかった。漫然と付き合ううちに、いつしかズレが生じていたのか。
◆
定食屋を出ると、冷たい冬の風が吹きつけて、私はぶるっと身を縮こませた。
またあの息苦しい会社に戻るのかと思うと憂鬱で、足どりは重くなる。私には構わず、颯爽と前を歩く宮野さんたち三人は、また誰かの噂話で盛り上がっているらしい。だけど、通りかかったケーキ屋から流れてきた大音量のクリスマスソングが、そんな雑音をかき消してくれた。
「もう、死んだろかな……」
さらには私の口から漏れ出た本音も、宮野さんたちには届かなかっただろう。
会社なんか辞めてしまって、自分の命も終わらせる――。
ふいに頭をもたげた甘美な誘惑に、私は身をゆだねることにした。
女が二人集まれば噂話が始まるが、男の人だって噂話が大好きだ。そしてそれは大抵、根拠のない臆測だったり、妬みや蔑みを帯びたものになる。
会社が昼休みに入ると、同じ部署の年が近い四人でランチに行くのがお決まりだ。東京・豊島区のJR駒込駅の周辺には飲食店が意外と少ないので、なんとなく曜日ごとのローテーションが決まっていた。
今日は金曜日だから、ということで贔屓にしている定食屋にさっさと入って四人掛けのテーブル席を確保した。料理を注文すると、さっそく噂話が始まる。
「派遣の小澤さん、何度言っても入力ミスが直んないのよね」
「あー、そうそう! 注意したら露骨にイヤな顔するしさ~。やりにくいったら!」
宮野さんが口火を切ると、森さんもどこか嬉し気に同調した。二人とも私の一年先輩だ。
ああ、また始まったか……と、私は心の内で嘆息する。最近、派遣で来るようになった小澤さんに、みんなは不満が溜まっているらしい。
「あの派遣会社、ロクなのを寄こさないからなぁ。またハズレですね」
四人の中で唯一の男性社員で、私の一年後輩の武田くんも吐き捨てるように言った。小澤さんはくじ引きの景品か何かなのだろうか。
さらには化粧が濃いだの、ネイルが派手だの、みんなの小澤さん批判は止まらない。それには加わらないで、うんうん、と関心だけはあるフリをしている私を見て、
「仲原さんも、小澤さんには迷惑かけられてるんじゃないですか?」
と、武田くんが水を向けてきた。
「というか、美羽が一番の被害者でしょ。今度ガツンと言ってやったほうがいいよ」
宮野さんに言われて、私は曖昧な表情を浮かべつつ、言葉を絞りだす。
「えっと……派遣っていっても、小澤さんは正社員と同じくらいの仕事量を割り振られてますし、まだウチに来てくれて日も浅いですから……。そのうち慣れてくるかと……」
わかってる。みんなが聞きたかったのは、こんな正論じゃないってコト。ほら、三人とも苦笑いを浮かべてる。
「相変わらず美羽は優しいわね。あたしらと違って……」
「そんな……」
森さんに、どこか棘のある言葉を投げかけられ、私は言葉に詰まった。
(つまらない女だと思われているんだろうな……)
三人の心の内が読めてしまって、胃がきりきりと痛む。
料理がすべてテーブルに揃うと噂話は一旦途切れ、しばらくは各々食べることに集中したが、誰からともなく「今年の紅白歌合戦は出場歌手がショボい」という話を始め、その話題で盛り上がった。そういった他愛もない雑談でも、私は上手く会話に入れない。所在なさをごまかすために、ひっきりなしに日替わり定食のおかずを口に運び、何度も水を飲む。
やがて話題は、口やかましい上司に対する愚痴へと移った。三人は料理を食べつつ、上司への恨み言を吐きだすのに忙しい。そんな会話を聞きながら食べるカニクリームコロッケは味がしない。
昨日の三人は、「入社一年目の社員が揃いも揃ってマイペースすぎる」という話で盛り上がっていたっけ。みんなは、誰かの悪口を言い合うことで絆を深めているらしい。
駒込に本社を置く、小さな文具メーカー。ここは、狭いムラ社会だ。空前の文房具ブームと言われながらも、その時流に乗れず、綱渡りの経営が続いている。上司はいつもイライラしていて、社内はピリピリした雰囲気に支配されている。狭い世界の癖に、部署間の連携が取れていないから、業務が非効率なまま進むことも多い。
入社三年目の私は上司に目をつけられないよう立ち回ることに必死だったし、年の近い同僚とも今一つ打ち解けられない。
私はすっかり、この会社に嫌気が差していた。
会社だけではない。この世にもうんざりしていた。他人の噂話なんかに興味はないし、さらに言えば自分のコトだってどうでもいい。
◆
「別れてほしい」
大学三年生の時から付き合っている、一つ年上の渉に切り出されたのは先週――十一月も終わりかけの日曜日だった。
話があるからとカフェに呼び出されたとき、「クリスマスデートの計画かな」くらいに思っていた私は、「他に好きな女ができた」と渉に打ち明けられ、呆然としてしまった。誇張でも何でもなく、視界は真っ暗になり、店内は無音になった……気がした。
それでも私は必死に動揺を抑え、口を開いた。
「……まあ、そろそろ潮時かな……とは思ってたよ」
「そうか……。もう四年も付き合ってるもんな、俺たち」
私に食い下がるつもりがないと悟ると、渉は露骨にほっとした表情を浮かべた。
「今までありがとうな、美羽。幸せになれよ」
別れぎわ、渉にそう言われたのは覚えている。私は、気が弱い割にはプライドが高い。すがりつき、「別れないで」と泣くことを良しとはしなかった。自分でも驚くほどあっさりと別れを受け入れたが、アパートに帰ってから怒りがこみあげた。
(私は渉といっしょに幸せになりたかったんだ!)
奈良県北部のベッドタウンで生まれ育った私は、一人娘として両親のもとで何不自由なく過ごした。進学校といわれる県内の公立高校を卒業したあと、東京の有名女子大の文学部に進学。関西の大学に進むことを望んだ両親の反対を押し切っての上京だった。
本の虫で、地味でネクラ。友だちは少なく、恋愛とも無縁。そんな自分も、東京に行きさえすれば変われるかも……という期待があった。
だけど環境を変え、関西弁を捨てて標準語を話すようになっても、私自身は何も変わらなかった。むしろ人とのコミュニケーションが下手になっていった。サークルには馴染めずにすぐやめたし、仕送りだけではキツくてバイトをやるものの、人間関係が原因でどれも長続きしなかった。
渉と出会ったのは三年生のとき。同じゼミの子に人数合わせで引っ張り出された合コンに、他大学の四年生だった渉がいた。
人のコトは言えないが、渉は冴えない容姿の痩せっぽちの男だった。第一印象では恋の予感なんて微塵もしなかったけれど……。
私は古典文学を専攻していて、卒論のテーマが『枕草子』だった。それを知ると、渉は声を弾ませた。
「俺も好きだよ、清少納言! 『お高く止まってて鼻持ちならない』って紫式部が日記で批判してるけどさ、絶対に繊細な女性だったハズだよね」
「そう! そうですよね! 『枕草子』をしっかり読み込んだら分かりますよね! 中宮定子への想いとか、本当に切なくて……」
気付けば、私たちは場所を変えて、ふたりっきりで清少納言トークに花を咲かせていた。しかも編集者になりたくて出版社への就職を目指していた私に、大手出版社の内定を得ていた渉は、親切にいろいろとアドバイスしてくれた。そうして連絡を取りあううちに、自然と恋仲になった。
口下手で、アピールポイントの少ない私は就活で苦戦し、結局は出版社への就職は叶わなかった。駒込の小さな文具メーカーに拾ってもらう形になったが、社会人になってからも渉との関係は続いた。付き合いはじめた当初の燃えあがるような恋心こそしぼんでいたけれど、それでも私は渉を好きであり続けた。
でも会社の人間には、彼氏がいることをひた隠しにした。あれこれ詮索され、噂話のネタにされるくらいなら、「男と縁のない女」と侮られているほうが楽だ。
そして四年も付き合えば、〝結婚〟の二文字を意識する。
(渉と結婚して、専業主婦になって、寿退社するんだ)
「私、結婚します」
突然そう告げれば、社内での私の立ち位置は一変するだろう。内心、私を見下しているだろう宮野さんたちの歯噛みする顔を想像すると、胸がスッとする。
漠然とではあるが、そうした未来を思い描くことで辛い現実を乗り越えてきた。結婚さえすれば、好きでもない仕事をすることはない。課長の粘っこい小言に耐える必要もなければ、同僚のくだらない噂話を聞かされることもない。
だけど……。
そのささやかな逃げ道をふさがれた私は、とんでもなく惨めな存在になってしまった。
渉とは同じ方向に歩んでいると思っていたのに、そうではなかった。漫然と付き合ううちに、いつしかズレが生じていたのか。
◆
定食屋を出ると、冷たい冬の風が吹きつけて、私はぶるっと身を縮こませた。
またあの息苦しい会社に戻るのかと思うと憂鬱で、足どりは重くなる。私には構わず、颯爽と前を歩く宮野さんたち三人は、また誰かの噂話で盛り上がっているらしい。だけど、通りかかったケーキ屋から流れてきた大音量のクリスマスソングが、そんな雑音をかき消してくれた。
「もう、死んだろかな……」
さらには私の口から漏れ出た本音も、宮野さんたちには届かなかっただろう。
会社なんか辞めてしまって、自分の命も終わらせる――。
ふいに頭をもたげた甘美な誘惑に、私は身をゆだねることにした。

