トップノートの香りと君と―焙煎部の恋―



 どうでもいい話をしている時間が俺はたまらなく好きだ。
 小学生の時に好きだった給食の献立とか、中学生の時の面白かった授業のエピソードとか。
 茶道部と焙煎部の部長どうしが交際を始めたのは文化の融合とプロセスを追求する姿勢の体現だとか。
 先輩の名前のニキと俺の苗字のミキは、音が似ていて双子みたいだとか。
「西島先輩。これから仁樹先輩って呼んでいい?」
「ほら。そういうとこ」
「どういうとこ?」
「おまえ自覚してないけど結構ぐいぐい来るよな」
「嫌?」
「嫌なワケないじゃん」
「仁樹先輩って 呼ぶときに心の中でニキはカタカナで呼び掛けるから」
「カタカナ?」
「俺の名前呼ぶ時は心の中でカタカナでミキって呼んで下さい」
「なんでだよ」
「音が似ていて嬉しい」
「どーでもいいけどそういうとこな」
「何?」
「尊いってこと」
 そんな一日経ったら話したことさえ忘れてしまいそうな何気ない会話が俺の日々の滋養になっている。

 
 この焙煎部を立ち上げた叔父が高校生だったのは二十年も前の話だと聴いていた。
 今でも珈琲の香りに日々包まれている叔父に“ 高校生活が青空みたいな色になったのはあなたのおかげだ ”と先週御礼を言ったら驚いていたっけ。
 恋愛に関しては中学時代は土砂降りの雨色だったと前置きしてから伝えた言葉。
 西島先輩、もとい仁樹先輩。
 仁樹先輩と出逢わせてくれた珈琲という飲み物を、俺は心から愛してやまない。




「なぁ夏に来てたアイツにおまえなんて言った?あの時は三十分ほど睨まれてたからさ。寿命縮まったじゃん」
「あ。気付いてました?」 
「あたりまえ」
「焙煎部の先輩しか眼中にないって」
「こっわ!直球ストレート三木選手」
「うん」
「おまえド真ん中に投げすぎだっつの」
「先輩が睨まれてたシチュエーション。1年以上前にもありましたよね」
「そうだっけ」
「猫かぶる女子の話してた俺のクラスメイト」
「あぁ!眼鏡掛けてた奴な。あったあった!」

 仁樹先輩の軽快な物言いに俺は目を細めて笑ってから、珈琲カップにそっと口をつけた。
 1日一杯だけの珈琲を、放課後のこの時間に飲むと決めている。

「じゃあその人が言ってたこと。俺についてはどう思う?猫かぶってるかどうかって話だけど」
「二面性って意味だったら、まぁ。清純そうに見えるけど蠱惑的ってとこが」
「…」
「なんだよ」
「蠱惑的な俺のお願い。聞いてくれますか」
「いいよ」
「眼鏡のクラスメイトが言いそうな台詞だって俺の耳元で言った言葉。もう一回言ってほしい。時間経ちすぎて絶対忘れてるだろうけど」
「急にぶっ込んでくるじゃん」
「忘れてくれてていいんです。俺はあの言葉思い出して何回も死にかけてる」
「おまえ言い方が極端だなぁ」
「あの言葉がニキ先輩の本心だったら良かったのに」
「ふぅん」
「やっぱりこれは恋かもしれない」
「だから恋だっつの」
「ですね」
「おまえが魚じゃなくても俺が喰ってやるよ」
「…え?」
「あの時言った“魚だったら喰ってやる”ってのも俺の本心だったけど冗談ってことにした。時期尚早って思ってさ」

 仁樹先輩がそう言った言葉が少し時間を置いて俺の耳に届いたような気がした。
 立ち上がって、自分より七㌢背の高い男の胸元のシャツを引っ張る。
 古い手廻し焙煎機が置いてある木のテーブルの奥にある棚の陰に相手を押し込んだ。


「どんな味がした?」
「おまえいつもそれ聞く」
「俺がさっき飲んだ珈琲。ニキ先輩わかった?」
「グアテマラ。ミキ甘い香りがした」

 果物を思わせる華やかな香りと酸味。さっき自分で丁寧に珈琲を淹れて楽しんだ。
 その余韻をこの人は確かに受け取っている。
 俺には同じ甘い香りのキリマンジャロと区別がつかない。野性味あふれる味がするという言葉を聞くと、いつも仁樹先輩の目を連想してしまう豆の種類。
 俺はいくつかの豆の袋を戸棚から出してカウンターに置いた。
 カウンターの前に座って、何粒かの豆を手のひらで包みこんで揺らす。
 手摘みされたコーヒーチェリーは大切に扱われ、海を渡ってここまで来た。
 枝や葉を傷付けたりしないように優しく手摘みするらしい。そのことを仁樹から一年前の春に教えてもらった。
 俺も自分の抱えているこの気持ちを、穏やかな放課後の時間と目の前にいる人への愛しさを、大切に心で扱っているところだ。