「これ。恋かもしれない」
無意識に交差点の信号待ちで声に出してしまった。
焙煎部の活動がなく、俺は珍しく早い時間帯に最寄りの駅まで歩いていた。
そっと夏の始まりの空気が揺れる。
明日から夏休みが始まる。
「お兄ちゃんと同じこと言ってる」
右下から幼い声がして、俺は驚いて相手を見た。
誰もいないと思ったのに!
ドギマギしながら見下ろすと、ランドセルを背負った小学生が俺の顔をガン見していた。
高学年だと思われる華奢な男子。
彼の長めの髪が、整った顔を中性的に見せている。
暑い陽射しの中にいるのに、この小学生の周りにだけは涼しい風が吹いているような、そんなクールな眼差しを持つ子どもだった。
「おにぃサン可愛いね」
「は?」
今、このコ何て言った?
可愛いって聴こえたけど。まさかね。
「ごめん。何って?」
俺がそう聴き返した時だった。
暴力的な音が捩じ込まれ、俺は瞬時に両手で耳を覆った。
アクセルを強く踏んだタイヤの音。
不安を煽るけたたましい音に甲高いクラクションが被さり、俺は一気に血の気を失う。
顔を見合わせていた俺たちは、互いに同じポーズを取っている相手をそれぞれに青ざめた顔で認めた。
何だこれ。
鏡見てるみたい。
いや。
今はどうでもいい。
ヤバい。
この場を離れないと。
少年。
会話途中でごめんね。
俺は小学生に心で謝って無言で背を向け、来た道を慌ててダッシュして引き返した。
50㍍手前に公園があったのを覚えていた俺は、安全基地に駆け込むことしか頭になかった。交差点から離れるにつれ、心臓のドキドキがゆっくりと凪いできた。俺はようやく耳から手を外すことができた。
(ベンチあった…)
ホッとして座ろうとして身体の向きを変えた時、小学生が側にいることに気付いた。
「わっ!きみいたの!」
今日は心臓へのアタックが多い一日だ。
胸に手を当てながら俺がへなへなとベンチに座ると、彼は頷いて俺の前にそっと来た。
「さっきから気配なさすぎ…」
大きく溜息をついて、ベンチの横を左手で示した。
座ったら?と無言で尋ねたわけだけど、彼は大人びた表情で頷き、俺の左横に腰を降ろした。
どうして俺は、栗色のランドセルを背負った小学生と一緒にベンチに座ってるんだ?
蝉の鳴き声が公園に溢れていたけれど、俺は苦痛ではなかった。うるさいとも感じない。昔から蝉が急に鳴き始めても俺は平気だった。
ジャワジャワと鳴く音を聴いて「煩いな」と眉をひそめる大人を見た時びっくりしたっけ。
人によってこんなに感覚って違うんだって。
横の少年を見ると、彼も今は耳を塞がず、表情も柔らかくなっている。
「きみ。大丈夫だった?大きな音が苦手なんだよね」
俺と同じで。
「うん。おにぃサンもそうじゃん?」
「…うん。まぁ。そう」
「おにぃサン。可愛い」
「はい?…可愛い?俺が?」
待て待て待て待て。
なんだ、このシチュエーションは?
俺。
口説かれてる?
小学生から可愛いって言われてる俺。
見知らぬ小学生と二人きりで公園にいる俺。
俺、補導される?
あれ。俺、混乱してる。
俺が小学生に迫ってるわけじゃないよな。
「おにぃサンの名前は何?」
「ぇえ…」
「顔が好き。第一印象大事だよね」
「…え?」
「まだおにぃサンのこと何も知らないけど」
「…うん」
「好きだなって思った」
マジか。
この春以降、男子に告白されるのは三人目だ。
このモテ期は尋常じゃない。何かある。
やっぱり俺の何かが変わったんだ。
焙煎部に入ってからだ。
俺が焙煎…された?
そんなわけない。
焙煎された豆の香りが俺を包むことで、フェロモンみたいに特定の相手を惹きつけるようになった?
俺と珈琲が掛け合わされると魅力的に見えるヴェールがかかるんだろうか。
それ。
ホントの俺じゃないよ。
「豆の悪戯だよ」
「マメのイタズラ?」
「そう。珈琲豆だよ」
「おにぃサン何言ってんの?」
「君の気の迷いだよって言いたい」
「こっちの気持ちを迷いって決めつけないで」
「……」
「11歳なりに成熟してる一面もあるんだ」
「…すみません」
俺は静かに頭を下げた。
顔を挙げると、少年は切れ長の目を優しく細めて俺を見ていた。
大人だ…。
『珈琲豆の悪戯』だなんて不思議ワールド全開な言葉を発した俺の方が、精神年齢は低いかもしれない。
でも。
この局面で高校生としてどう対処すればいいかくらいは理解できる。
「好きって言ってくれてありがとう」
「うん」
「初対面で言われたの初めて」
「そう?」
「少年。俺のことは忘れてほしい」
「何言ってるの?」
あれ。
なんか間違ったかな。
あ。これ。付き合った後、別れるときに言う台詞?
ダメじゃん…。
「えっと。慣れてないんだ俺」
俺は観念して目の前の小学生に素直に打ち明けた。
「俺も初めてだよ」
「えっ!」
「誰かに直接好きだなって言ったの」
「…えっと」
俺。
どうしたら?
この少年のハジメテ好キト言ッタ人になっちゃった…。
さっき高校生として対処できるって思った俺。
前言撤回。
「年上なのにぼんやりしちゃってごめん」
「歳は関係ないよ」
「…」
いや。
小学生にフォローされてどうするんだ。
「こういうときどうするか皆目見当がつかない」
「正直だね。おにぃサンって」
「なんか最近それ言われるな…」
「まずは友だちから始めない?」
そう言われて俺は目を見開いてしまった。
「友だち……ですか」
「LIМE交換しない?」
「…交換」
「高校生が忙しいのは知ってるよ。俺は頻繁にメッセージ送ったりしないから安心してね」
少年が落ち着いた口調で言う。
先程の交差点で俺と同じポーズをして青ざめていた彼とは違う、健やかな笑顔だった。
本音を言うと。
俺は自分と同じ感覚を持つ人にいつか会えたらいいなと幼い頃から思っていた。
どういう工夫で日々乗り切っているのか。
つらいとき、どうやって回復したか。
さまざまな生活音が暴力的に溢れている日本で、どう過ごしているのか。
生の声を聴いてみたい。
専門家から助言される言葉よりも何よりも。そんなふうに思っていたけれど、ついぞそんな相手に邂逅することなく成長してしまった。
俺、学校以外で友だちできたの、初めてじゃない?
高校生になって、ようやくフツーにクラスメイトたちと話せるようになって、部活ってものを体験して学年違いの生徒との繋がりもできて、村地みたいに俺の友だちだって自信を持って言えるような存在ができて。
それでも、まだまだ俺の世界は狭いから。
って、DKが小学生と友だちになっていいの?
…いいよね。
恋人になるのなら犯罪だろうけど。
「うん。お気遣いありがとう」
俺たちは夏の午後の陽射しが脚元に降り注ぐ木陰で、互いのスマホをカバンから出す。
互いの連絡先を交換した。
「君はmanakiって名前なんだ」
「おにぃサンはMIKImameか。ミキさんって呼ぶね」
優しい顔で小学生に言われた俺は、また一歩、新しい世界に足を踏み出したんだという不思議な感覚に包まれていた。
額を伝う汗が、連絡先を交換したばかりのスマホを持つ右手の甲にポツンと落ちた。
夏の真ん中で、俺はmanakiという小学生の透き通った瞳から目が離せずにいた。
蝉の鳴き声を、シャワーのように浴びながら。
● ● ● ● ●
〘 ミキさん好きなものは何 〙
〘 珈琲豆とカカオ豆と小豆 〙
〘 豆ばかりじゃん 〙
〘 豆が好きなんだ 〙
〘 ミキさんの恋はどう 〙
〘 日々心焦がされてる 〙
〘 心が焙煎されてるの?〙
〘 そう。片想いだけどね 〙
〘 manakiドライヤー使う?俺ムリ 〙
〘 あれは殺人兵器。自然乾燥一択 〙
〘 殺人兵器って描写うまいな。電車のアナウンスも消えてなくなればいい 〙
〘 ミキさんの気持ちわかる。店で流れるBGMもいらないって俺も思ってる 〙
〘 manakiイヤマフ使ってる? 〙
〘 テストの時だけこれ。最高 〙
〘 そんなのあるんだ。知らなかった 〙
〘 そう。世の中は日々進化してるよ 〙
manakiは宣言通り、いつも短いメッセージばかりだ。
だいたい朝の早い時間帯にメッセージが入っている。夜には入らない。
健全な小学生だと感心する。
だから俺からメッセージを送るときも、朝早く、短く独り言をつぶやくように送っていた。
秒で返事が来たりして、そんな朝は不思議にいつも以上に明るい気持ちになった。
恋人と過ごしているだろう西島先輩のことを、考えないようにしている日々。
雨が降ったら俺が頭痛で苦しんでるんじゃないかと気にかけてくれていた西島先輩。
先輩が今は恋人に心を寄せている毎日なんだろうと思うと、俺は胸がツキンと痛んだ。
そんな痛みを一人で抱えているとき、manakiから届くメッセージが俺の心を柔らかく包み込んでくれた。
どれだけ救われただろう。
manakiのLIMEに。
フツーの高校生だったら、小学生と友だちになって助けられたような気分を味わったりしないような気がする。
俺はやっぱりフツーじゃなかったのかな。
もう、いいか。フツーの高校生にこだわらなくて。
だって、俺。
たぶん今一人だったら、きっとつらい。
俺が「恋かもしれない」と独り言を呟いてしまったことで繋がった不思議な友だち関係は、俺が高校生活を平穏に送るためになくてはならないものになった。
メッセージを送って、返事が来て。メッセージが届いて、それに応答して。
そんなことを夏休みから積み重ね、少しずつお互いの情報を交換していった。
manakiは公立の小学5年生。
俺は珈琲愛を今は爆発させている焙煎部員。
彼は飼育委員。動物愛を深めている。
俺は恋かもしれない想いで翻弄されてる。
manakiはそんな俺に攻めろと言う。
彼には高校2年生の兄がいて、その兄も片想い中らしい。
いろいろ話を聴いて耳年増になってるのか、高校生で誰か好きな人がいて悩むのはアオハルの病なのだから恋煩い上等と思えばいいと上から目線的な助言が送られてきた。
小学生に励まされることになるとは。
〘 俺が好きな相手。男の先輩なんだ 〙
ある晩、俺は夜にベランダで星空を見上げていて流れ星を偶然に見た。
俺にとって、人生初。
なんだか一人で感動してしまって、気持ちが溢れて。
本当は西島先輩にこの僥倖をすぐに言葉で言いたい。
でも。
それはもうできない。
春からの軽いやりとりは文化祭のあの日でピリオド。
日々のどーでもいいこと、美味しかったコンビニスイーツ、腹の立ったこと面白かったこと、そんな毎日の俺ニュースを焙煎部の時間で話す時間がどんどん無くなって。
西島先輩が俺に絡んでこなくなったことが、こんなにも俺の日常にダメージを与えていることを、俺は誰にも言えていなかった。
俺自身、なんだか認めたくなかった。
西島先輩に恋人ができたんだから、彼女との時間を優先するのが当たり前なんだから仕方ないじゃん。
そう繰り返し俺は自分に呟いて、そのたびに俺は自分が恋心をなかったことにしていた春と夏の自分に向き合うのだった。
(俺。素直じゃなかったな)
好きになったのが同性だったから。
認めるのにすごく時間がかかってしまった。
ただの好意と恋心の好きとの間の、グラデーションのどのあたりにあるのか、それは誰にとっても難しい問いなのかもしれないけど。好きなものは好き、だよな。
もし、俺が自分の気持ちに素直になってたら。西島先輩が好きだと天真爛漫に思うことができていたら。
そして、その気持ちを言葉にしていたら。
先輩は、文化祭のときに告白されても相手に応じなかったりした?
文化祭で告白すれば想いが叶う過去データ77%の成功例に抗う、前例を作ってくれた?
流星を見たことで揺さぶられた感情を、俺は一人で抱えることができなかった。
manakiにベランダでタタタと“ 俺が好きな相手。男の先輩なんだ ”とLIMEのメッセージを送った俺が、もう一度ぼんやり9月の夜空を見上げていたらスマホが震えた。
あれ。
返信来た。
こんな夜中にメッセージ送るの、俺初めてだけど。
manaki。この時間帯は眠ってるんだと思ってた。
夜にスマホ見たらだめだぞ。
小学生は。
そう思いながらも俺はmanakiから返事が来たことで、一人で嵐の中にいたような心もとなさが和らいでいるのを感じていた。
〘 いいね。教えてくれて嬉しい 〙
〘 いいね?いいのかこのままで 〙
〘 いい。ミキさんの恋にエールを送る 〙
〘 これって恋なのかな 〙
〘 恋かもしれないって言ってたじゃん 〙
〘 俺。その言葉。そんなに周りに聞こえるような声で言ってた? 〙
〘 うん。初めてミキさん見て可愛い人だなって見上げてたら、ミキさんがひとりごと言ったからびっくりした 〙
〘 ひとりごとを言う高校生。やばい 〙
〘 俺もミキさん好きだよ 〙
〘 軽く言うんだな 〙
〘 軽くなんかないよ 〙
〘 そう? 〙
〘 俺は重いよ。でも応援するよ。好きだから 〙
〘 一回しか俺たち会ってないよ 〙
〘 回数に問題ある?何回会ったらいい?じゃあいつ会う? 〙
俺はmanakiのメッセージにどう答えていいか分からなくなって、ベランダから自分の部屋に戻った。
ベッドに座って、大きく溜息をついた。
manakiが最近聴いていると言って教えてくれた曲が、柔らかく俺の部屋を充たしていた。
花を渡そうか
どんな花がいいかな
星を見上げようか
隣に君を誘って
詩を歌おうか
僕の想いをなぞる詩を
どうすれば
君に触れられるかな
いつか君に声を掛けるから
その時は僕の想いを聴いて
渡せる花は何か分からないよ
君の声を聴いてから決めるんだ
まだ瞳を覗き込めていない
僕の声も聞かせてはいない
君が振り向いてくれた時
僕のからだのどこか欠片でも
気に入ってくれたらいいのに
君が好きになってくれた欠片を
僕は最大限に強みにするから
だから
僕の強みに触れて
花を受け取って
僕の愛の甘やかさを
どれだけ君に焦がれているかを
飲み込んでくれたらいいのに
花を受け取って
僕の愛の甘やかさを
どれだけ君に焦がれているかを
飲み込んでくれたかな
じゃあ時は充ちたから
君に今から触れられるかな
《早く寝ろよ。水曜日の夕方。あの公園で会おう》
俺がメッセージを送ると、すぐにmanakiが応じた。
《うん。わかった。水曜日に。ミキさんおやすみ》
おやすみ。
manaki。
俺のことを何度も好きだって言ってくれてありがとう。
俺もそんなふうに、その言葉を相手に手渡すことができたらいいのに。
好きな相手に、花を手渡すように。
その花を受け取ってくれるかどうか、それが問題なんだけれど。



