トップノートの香りと君と―焙煎部の恋―

 

 義憤にかられると我が身を顧みずに突っ走る。
 一般的にヒーローと言えば、そんなふうに自分の正義に真っ直ぐなアツい男のイメージを心に浮かべる。
 西島先輩は決してそんなタイプではないけれど。
 ルールに縛られずに生きているような飄々とした態度や多くを語らずにさり気なく俺をフォローする姿に、ヒーロー気質を感じることがある。
 そんなこと言ったら、当の本人は鼻で笑うに決まっているけれど。
 すきあらば俺の制服を脱がせようとするとんでもない男にさまざまな局面で救われていると感じる俺は、もしかしたらヤバいのかもしれない。
 弟みたいに思ってるわけじゃない、他の男と仲良くしてるのを見て面白くないって言われて。
 結局なんだかよく分からないけど、嬉しいような、くすぐったいような気持ちになった俺。

 もしかして、じゃなくて。
 確実にヤバいのか?
 ヤバいとヤバくないの境界は何?
 これってフツー?
 誰か、普通の男子高校生の心理を教えてくれないかな。

 フツーが何かを考えることに突き詰めすぎていた俺は、誰かにもたれかかりたい気持ちになっていた。

 
 七月。
 いよいよ文化祭1週間前。
 七夕と珈琲とアオハル。

 普段、俺が独り占めのようにしていた西島先輩。その先輩が文化祭準備に入った段階で、多くの実行委員と行動を共にするようになって、俺はモヤっとした。
 モヤっとする俺に俺自身が衝撃を受けた。
 なんだこの感情は。 
 西島先輩がアウトローのヒーローだろうが女生徒にとって純なヒーローだろうが、ヒーローはみんなのものだ。
 俺だけが独占しちゃダメじゃん。
 そうは思うのだけど、気が付くと黒い感情が腹の底に滲み出てきていて。
 俺は落ち着かずに部室の中を歩きまわった。
 この気持ちをくしゃくしゃに丸めてポケットの中にしまい込みたい。
 ポケットに隠すだけじゃなくて、海辺にでも行って燃やしてしまいたい。



「三木。おまえ大丈夫?」

 珈琲を淹れているときに魂を飛ばしていると、西島先輩が俺の顔を覗き込んできた。
 あ。
 俺のところに来てくれた。
 って。
 来てくれたって何だよ。
 俺、今とっさに嬉しそうな顔したよね?
 子どもみたいじゃん。
 前までの俺だったら。
 また西島先輩、俺のとこに来たぞ逃げろ!って思ってたよな。
 いつのまに俺は、先輩にこんなにも(なつ)いちゃったんだろう。

「…海の中に潜ってましたね」

 これは、俺と西島先輩の間だけで通じる言い回しだ。
 他の生徒だったら気にもしないざわめきや音が俺にとっては苦痛になるため、時々俺は自分を守るために意識して魂を飛ばす。
 外部をシャットアウトする。
 まるで海に潜るようにして。
 普段、教室でタブレットを使う際のキーボードの打鍵音や椅子のぶつかる音の対処はできるようになっているけれど、行事が近付くと環境音の質が変わってきてエネルギーを多大に使う。
 賑やかに文化祭準備をする生徒の雑踏音が、俺の頭や耳の奥にぎりぎりと捩じ込まれるように響く。
 今回は俺も文化祭のワクワクを初めて体験しているから、その沸き立つ気持ちが症状を軽くしてくれていたけど。
 西島先輩にまつわる、あれやこれやの気持ちのモヤモヤが、新たに俺の心を重たくさせていた。
 何だろうこれ。
 はぁ。
 すかっとしたい。
 なんだかカッコ悪い。

「三木は何モヤってんの」      
「え?俺顔に出てます?」
「うん。憂いを帯びてる」
「……」

 あんたのせいですよ!
 俺はそう言いたくなった。
 でも。
 よくよく考えたら、西島先輩は1㍉も悪くないよな。
 悪いのは俺。経験値が足りなさすぎ。俺はどうして西島先輩を独り占めしたいと思うんだろう。
 
「珈琲に合わせる図書、おまえは何にするの?」

 西島先輩の問いに、俺は気持ちを切り替えた。
 そうだ。
 あと三日で決めないといけない。
 展示の準備も最終段階だ。
 神谷も三浦も、お気に入りの珈琲に合わせる図書を既に決めたって言っていた。
 珈琲豆はすぐに決めることができたんだけど。
 今、俺が手元で淹れている。

「…どうしようって迷ってて。俺あまり本読まないから姉に相談したんです。そうしたら本を貸してくれて。俺、自分が読んでない本を文化祭で()したくないから、今回初めてあれこれたくさん読んでる。俺。文学少年になっちゃったらどうしよう?」

 俺が流れるように言葉を繰り出したら、先輩は一回顔を伏せて肩を震わせ、顔をあげると「わはは!」と目を細めて大爆笑した。
 先輩は馬鹿笑いしていてもカッコいいのが、ズルい。

「文学少年って何だよ」
「続きが気になって気になって。俺、電車で本を読むようになって」
「へぇ?」
「電車の中ってだいたい皆スマホ見てるじゃないですか」
「うん」
「俺は前からスマホに縛られるの嫌いだから、通学の時は窓の外の景色見て頭の中を空っぽにしてたんですけど。今は本ばかり見てる」 
「文化祭プロジェクト。まんま乗っかってるじゃん」
「…ほんとだ」

 焙煎委員と図書委員がコラボした、スターブックスプロジェクト。
 本を読み終えたあとの、言葉にうまくできない気持ち。
 珈琲を飲んだときの、特別な俺だけの余韻。
 それを合わせていく企画。
 我が校の今年の文化祭のテーマ。
 『新しいワタシと本と珈琲と』

 自慢じゃないけど、珈琲愛に関して言えば、俺は筋金入りだと思う。

 大好きな叔父の真似をしたくて、こっそり小学生になる前から飲んでいた。
 眠れなくなることなんてなかった。
 叔父が淹れる珈琲を飲んで、その苦みを心から美味しいと思えたのが7歳になった日だった。

 飲む前の香りだけで満たされるようになったのも、まだ低学年の時だった記憶がある。
 泣いた顔で叔父のところへ行って特別に時間をかけて淹れてもらった時だったから。
 9歳頃だったかな。
 小学3年生のときだ。
 あの時、カップから立ちのぼる香りを胸に吸い込んで、大きく息を吐いた。
 音に怯えた俺が笑い者にされた放課後の辛い気持ちを、その吐息に溶かして俺は手放した。

 その日から、一度も学校では涙を見せていない。
 泣いてばかりいた、小さい体だった頃の俺の革命。
 その日に立ち合ってくれた、優しい叔父。

 叔父は俺の他にお客さんが来ていないとき、本ばかり読んでいた。その姿も子ども心にかっこいいとは思ったけれど、俺はとうとう本を読むということには気持ちが向かないまま高校生になった。
 珈琲と本は叔父のイメージに繋がっていて、俺にとって身近なものだ。それでも、俺に関して言えば個人的にその二つを繋げようと思うことはなかった。
 いつのまにか、俺もまんまと文化祭スローガンの波に乗せられてるっていうか。
 最近になってようやく本を手に取るようになって。
 読みながら「珈琲を飲みたいなぁ」って希求してる。

「今は何読んでる?」

 西島先輩は、自然な仕草で俺に顔を近付けてきた。
 そして、すっと一瞬目を閉じた。
 きっと、俺がさっき淹れた珈琲の香りを胸に吸い込んでいるんだろう。
 俺は西島先輩のまつ毛が柔らかく動くのを見て綺麗だなと思いながら、ぼんやりとマグカップを口に運んだ。
 年上の男のまつ毛が、綺麗?
 うん。
 綺麗だと思う。
 俺は素直にそう認めてから、一口ゆっくりと珈琲を飲んだ。
 オレンジと蜂蜜のような、爽やかな後味を楽しんでから俺は先輩の問いに答えた。

「吉本ばななさんの本」
「なんてタイトル?」
「“はーばーらいと”」
「その物語にはさ、どんな珈琲が合いそう?」
「えぇと。この小説。最初から海の描写があって」
「うん」
「俺は読んでいて海に行きたくなったんです。今、飲んでるシトラスって名前がついてる浅煎りのブレンド、合いそうかも。海辺を歩きながら飲むのにいいかも。この珈琲、爽やかな香りがするし」
「うん。柑橘系のクールな感じ。この珈琲に海が舞台になってる小説か。いいじゃん」
 
 西島先輩がいつものように、さらに俺の口元に顔を近付けて小さな声で「いいね」と言った。
 その仕草に、俺の心臓に衝撃が走った。
 俺の頬骨の辺りに熱がこもった。
 そのせいなのか、気が付けば頭痛が消えていて。
 からだが熱くなったことで、頭が冷えて痛みが引いていてしまったんだろうか。
 そして。
 あっという間に、さっきまで迷っていた宿題が片付いてしまった。
 推しの本。
 そっか。こんなふうに気楽に決めたらいいんだ。
 海に行きたくなる物語。
 まだ読みかけなんだけど。
 ちょうど昨日の帰りの電車で読んでいたら中学生の男女のキスシーンが出てきて、電車のなかで「うわぁ!」って一人で声を出しちゃったっけ。
 恥ずかしかったな。でも、なんかアオハルだな、いいなって思って。
 いいなって思えた俺自身のことも、いいなって思えた。そんな気持ちにさせてくれる本だった。
 西島先輩の言葉を聴いたら、もう、この本しかないって思える。
 また、先輩に助けられちゃったな。

「西島先輩は?何の本にしたの」
「あ~。“キャッチャー・イン・ザ・ライ” にした。J.D.サリンジャー。新しい翻訳のやつ」
「え?なんかかっこよすぎません?先輩、ちゃんと読んだ?」
「読んだよ、昔。古い翻訳で読んだから、今回ひさしぶりに読み直したらやっぱ面白い」
「昔っていつ。先輩。まだたかだか16年しか生きてないじゃん」
「17年生きてるよ。7年前だったら昔って言っていいだろ」
「早熟・・・」
「どこがだよ」
「俺。小学生の時は漫画ばかり読んでた」
 俺はそう言って、溜息をついた。

 ぜんぜん追いつけない。
 西島先輩、チャラそうな外見なのに、中身はしっかりしてんだな。
 外見だけで判断してた俺。
 よっぽど頭悪いし、子どもだ。
 俺は恥ずかしくなって、少し拗ねたような態度で先輩から目を背けた。

「お~い。こっち見ろよ」
「やです。なんか恥ずかしいんですもん」
「何がだよ」
「俺が子どもなのが」
「子どもだとは思わないけど。素直でかわいいよな。あ、それが子どもなのか」
「否定してよ!」
「いいじゃん。正直でさ」
 そう言って西島先輩が俺のこめかみを両手で包んで、ぐりぐりと親指で強く押してきた。
「痛い~。さっき頭痛が消えました。今日は結構です!」
 俺が悲痛な声をあげると、先輩は今度は声を出さずに笑った。
「そうそう、この香り。モカだろ。いい豆選んだな」
「…なんで香りだけで豆の種類までわかっちゃうんだろ。ほんと先輩には、かなわない」
「かなわないって正直に言える三木に、俺はかなわない」

 向こうから焙煎部の部長が歩いてきたのを見て西島先輩は軽く手を上げ、俺を見下ろして「この珈琲を海辺で歩きながら飲むのを想像してる三木が、可愛い」と優しく言った。
 俺は吸い込んでいた息を、一瞬止めてしまう。
 また胸が少し苦しくなった。
 可愛い…。
 可笑しい…じゃなくて?
 この形容詞を先輩から言われるのは、初めてだ。
 
「あ!西島先輩」

 俺はあっちへ行こうとする先輩に、慌てて尋ねた。

「文化祭プロジェクトの珈琲豆は何にしたんですか」

 知りたかった。
 西島先輩の好みの珈琲。

「俺はマンデリンにする」

 座ったままの俺の肩をトンと軽く叩いて、先輩は背中を向けて部長のところへ向かった。

 マンデリン。
 しっかりとした苦味とコク。
 ハーブやシナモンのような上品な風味。
 俺は、サリンジャーの小説を手にして視線を落としながらマンデリン珈琲を口に運ぶ西島先輩を心に浮かべた。

 物思いにふけっている俺の手の中で、マグカップの中の珈琲はすっかり冷めてしまっていた。
 甘い香りを、まだかすかに放ちながら。

 
           
       ●  ●  ●  ●  ●


 茶寮。村地堂。
 黒大豆・丹波大納言小豆を使ったスイーツが中心の店。
 俺のクラスの甘味処の店の名前には、なぜか村地の名前がついた。
 今やクラスの希望の星みたいになってるのが、俺には可笑しい。
 文化祭準備が始まって、村地の眼鏡と髪型が変わり、態度も前より堂々として人の輪に加わることが増えた。
 村地曰く、運動部で地味に見えていた彼がサナギから蝶に変身するように見た目を変えたことは小さな革命で、多かれ少なかれ誰でも持っている変身願望を刺激したらしい。
 村地はもともと人当たりもいいし誠実な性格だから、友だちは少なくないほうだったけれど、今回イケメン化したことで圧倒的に女子の友だちが増えたみたいだ。村地本人が望んでいたとおりに。
 
「ねぇ村地。文化祭で好きな女子に告白したいって言ってたけど、こんなにモテはじめたんだから告白必要ないくらいうまくいってたりするの?」
 俺が玉子焼きを咀嚼しながら尋ねると、村地は唐揚げを頬張ったまま目を見開いて答えた。
「まさか!」
「そうなんだ」
「片想いのままだよ」
 眼鏡の細いフレームの中の村地の目が、ゆっくりと細められた。
 想い人のことを考えている恋する男の目、なんだと思う。
「どんな女子なの」
「真面目な子だよ」
「鳥の巣頭から韓国アイドル風の髪型にチェンジした村地への態度の変化は?」
「ないね。公平っていうか。クールなんだよ。誰に対しても。そこがまたいい」
「バド部でも村地の変身ぶりは話題になってるだろ」
「うん。心なしか動きにもキレが出てきたんじゃないかって言われてるくらい」
「すごい。良かったね」
「三木のおかげだよ。俺。なりたい俺になれた気がする。ふんわり計画は大成功。ありがとう。三木のお姉さんにも御礼言いたいんだ」
「礼はいいって。姉ちゃんが言ってたよ。変身プロジェクトがこんなにうまくいったのは、村地の心と体が素直だからって」
「え?何て?心が素直?」
「そう。素直な心と体。こうすればいいよと言われて素直に受け入れる心。そして新しくなった自分に合わせて胸を張って凛々しい表情や態度をより良く変えられる素直な体。それを持っている村地だから、もともとある人を惹きつける磁力が溢れだしてきたんだろうって」
「…俺、そんなふうに考えたことなかった。三木きょうだいはすげぇな。お姉さんもだけど、お姉さんの言葉を伝えてくれる三木が…好きだ!」
「なんで俺に告白してるんだよ」

 俺たちは昼休みに弁当を食べながら、二人して大笑いした。
 クラスに友だちがいるって、いい。
 三日後に告白する村地が、好きな子との関係を深められたらいいって心から思う。
 そんなふうに思えている俺に、俺はまた内心驚いた。だから。
 俺は、この親友に打ち明けることにした。
 
「あのさ。俺。友だちって思えるの、お前が初めてだよ」
「え?」

 村地がひどく驚いた顔をした。

「さっき俺に告白してくれたから、俺も告白するけどさ」
「なんで?三木は男女ともにいっぱい友だちいるじゃん」
「うん。この春から学校で自然と話せるようになったね」
「今まで違ったんだ?ぜんぜんそんな感じにみえないよ」

 村地はブロッコリ―を口元に運びかけていた箸を弁当箱の上に戻し、そっと眼鏡を外す。姉が“ 鋭く色気を纏う艶のある、シャープでソリッドなデザインのアイウェアよ ”と力説していた眼鏡だ。

「俺、聴覚過敏があって。小学校でいじられてから心に壁を作ってたから」
「…チョークと花瓶?」

 村地が心底不思議そうに、裸眼のまま俺を見ながら尋ねてきた。俺は村地のズレた言葉がツボにはまってしまって、弁当箱を取り急ぎ横にずらして机に突っ伏して笑い続けてしまう。
 こんなに明るい気持ちで自分の特性を打ち明ける日がくることになろうとは。
 高校生って、いい。
 顔をあげたら村地に言ってみよう。
 焙煎部の先輩を独り占めしたい気持ちについて。
 それがフツーなのか健全なのかわからなくて、一人でぐるぐる考えてたんだって。
 それから。
 俺も文化祭のときに、村地みたいに相手に伝えてみようって思いはじめてるって。
 “ なんだかよく分からないけれど、一緒にあなたと海辺を歩きたいって思うことがあって。この特別な気持ちは何だと思いますか ”という言葉を。



       ●  ●  ●  ●  ●

  
         
 七夕の前夜は晴れて、星空が綺麗に見えた。
 部屋の窓から長方形に区切られた夜空が広がっていて、そこにベガがあるのかアルタイルがあるのか、星座に詳しくない俺には分からなかった。


 そして。文化祭当日。
 晴天ではないけれど、雨じゃなかった。
 良かった。
 学校行事なんて去年までの俺だったらどうでもよかったから、天気なんて気にしたことがなかったけれど。
 晴れて嬉しい、と思えた自分が、青春のど真ん中にいるんだって感じた。
 姉の史帆が最近よく口にする、アオハル。
 くすんだような表情ばかりしていた中学時代の俺と違って、春から笑顔で登校するようになったことで史帆はよくこの言葉を俺に言ってくるようになった。
 ショウ。
 いい顔になったよ。
 アオハルしてるね。
 別の高校に通学している史帆が、今日は友だちと一緒に俺の高校の文化祭に来るらしい。
 今回の七夕はたまたま土曜日だったので、今日の一日だけが文化祭。
 例年、平日に七夕があるときは七夕の日に校内だけで実施して、その週の土曜日には学外からのお客さんにも来てもらっていたらしい。
 今年は一日だけに集中している分、文化祭に注がれている皆のエネルギーが半端ないような気がする。
 アオハルってこれか。
 西島先輩のいるところで、この四文字を言われたら俺すごく恥ずかしいな。
 なんだか、否定できない気持ちがあるから。


 
 ひとくちパンケーキの店
 唐揚げ
 チョコバナナ
 ボーリング&射的体育館バージョン
 ミステリー脱出ゲーム
 ペイントアートブース
 占いの館(教員企画)
 ダンスパフォーマンス
 軽音楽ステージ
 ファッションショー
 コスプレコンテスト
 茶道&着物体験
 チャリティバザー&校内ラジオ放送
 そして…
 茶寮 村地堂

 他にもたくさんのクラス出し物と「あたらしいワタシと本と珈琲と」がテーマのスターブックスプロジェクト。
  
 俺たちの高校の文化祭は、こんなふうにプログラムが賑やかだった。
 村地のような運動部の生徒は、今日はクラスの出し物に力を注いでくれている。
 そして俺は、村地堂から出前の珈琲のオーダーが入ったときに焙煎部で心を込めてドリップする役割を担っていた。
 村地堂から入れ替わり立ち替わり、トレイを持ったクラスメイトたちがオーダーの入った珈琲を受け取りに来てくれる。

「三木くんが珈琲を淹れてるの初めて見た」
「ほんもののバリスタみたい。かっこいい」
「いつもどおりのブレザーなのがもったいない。今、接客中の村地くんのあの着物。三木くんに似合いそうじゃない?」
「ほんと。和装が似合いそう。村地君くんの着物もいいけど、三木くんには美波のあの着物のほうが似合うんじゃない」
「ほんとだ!」
 
 俺のクラスメイトの女子が好き勝手に言っている言葉を俺はスルーして一生懸命にドリップしていたけれど、同じカウンターで同じようにひたすらドリップにいそしんでいる神谷が俺の隣で笑っていた。
 珈琲を受け取った女子二人が俺に笑顔を見せ、優しく手を振って村地堂に戻っていった。

「三木くん。確かに和装が似合いそう。“ ミナミのあの着物 ”ってのが気になるけど」
「うん。聞かなかったことにする」
「村地は着物を着て接客してるんだ?」
「そう。男子も女子も1時間ずつ交替で着物でサーブするんだって」
「へぇ。本格的でいいね。さすが村地堂」
「そう。今回は茶道部の女子が着付けをしてくれてるみたい。村地すっごく素敵だったよ」
「あの鳥の巣アタマがなぁ」
「神谷。何回それ言うんだ」

 俺も笑ってしまって、ドリップ中の手元が揺れた。
 それを見た神谷も同じように笑いだして、2人で肩を震わせていたら背中から三浦の声がした。

「見苦しいわね。男二人の内緒話」

 神谷が振り返って落ち着いた声で応じた。

「三浦さん。それはジェンダーバイアスがかかってるよ。男だろうが女だろうが内緒話は見苦しい。あと」
「なに」
「これは内緒話なんかじゃない。堂々と君にも話せる内容だよ」
「あらそう」
「そう。もしかして僕と交替の時間?」
「うん。三木くんはあと1時間お願い。神谷くん。休憩時間にどこに寄るの」
「僕はね、占いの館に行ってくる」
「神谷くんが占いに興味があるなんて知らなかった」
「僕の担任がタロット占いをしてるんだって。初めて占ってもらってくるよ」
「初めてってのがいいわね」
「そうなんだ。占ってもらう内容は君には堂々と話せないけど」
「え?なぁに。気になるじゃないの」
「気にしておいて」
 
 神谷の言い方が、なんだか大人びていた。
 いつもツンケンしている三浦が、なぜか虚をつかれたように神谷の顔を見つめている。
 三浦の方が神谷を見下ろしているシチュエーションなのに、俺は横から見ていて神谷に男の色気を感じた。
 七夕マジックだ。
 ここにも、あの77㌫の伝説の恩恵を受けられそうな二人を見つけてしまった。
 俺は気が付いたら笑顔になっていた。

 その笑顔が消えないうちに。
 村地が俺のところに着物で走ってきて、ぜえぜえと息を整えているので俺は彼の背中をさすった。
 ふだん動作がおっとりとしている村地が、息を切らしているなんてと俺は驚いた。
 でも、今日は文化祭。
 文化祭マジックが本当かどうか、俺は個人的に懐疑的だったけれど。
 村地が茶寮の仕事を終えて着物姿のまま好きな相手に告白した結果、つきあうことになったと俺の耳元で報告してくれて。
 俺は自分のことのように、喜びを隠せなかった。
 思いが通じるって、なんていいんだろう。


 俺は、たぶん今まででいちばん、テンションが上がったと思う。
 親友の恋が叶って。
 姉の史帆がフェイスペイントをした顔のまま俺のところに友人と押しかけてきて。
 ショウ!アオハルしてるね!って言われて、慌てて西島先輩のほうを見たら、最高の笑顔を返してくれて。
(この先輩の顔を見た女子は、寿命が縮んだと思う)
 占いの館から戻ってきた神谷が三浦に何かを囁いたと同時に、あの三浦が顔を赤らめたのを目の当たりにして。
  
 俺の青春。
 今しか味わえないって、よく耳にする言葉。
 これか。
 こういう瞬間のことをいうのかもしれないって、俺は思った。
 きっと、今まで外の世界をシャットアウトしていた俺が、その壁の中にある扉を開いて外に一歩踏み出すことができたから味わえているんだと思う。
 このアオハルの世界を。



 文化祭があと数時間で終わる。
 俺がさざなみのような軽い頭痛を右こめかみに感じながら図書室から帰ってきた時、焙煎部のカウンターの中で西島先輩が静かに珈琲を淹れていた。
 少しだけ口角を上げて。
 その立ち姿が涼やかで、俺はしばらく見惚れた。
 横顔だけじゃなく、もっと近寄って先輩を見ていたい。
 この気持ちは何なんだろう。
 俺はまた無限の哲学的問いのループにはまってしまいそうだったので、今こそあの言葉を伝えようと自分を鼓舞してカウンターに入っていった。

「西島先輩」
 俺が小さな声で呼び掛けると、先輩は笑った顔を上げて「ん」と応じた。

 その時。
 西島先輩のところに、図書委員の大島先輩が近付いてきた。
 ちょうど客足が途切れて、カウンターに入れ替わり立ち替わり居た焙煎部の生徒が珈琲豆の補充のために部室奥に行き、たまたま俺と西島先輩の二人になったタイミングだった。
 大島先輩が西島先輩に用事があるんだったら、俺は離れた方がいいだろうかと一瞬考えて自分の脚元に目線を落とす。
 残念。
 俺、先輩に打ち明けたかったな。
 村地に素直に言えたように。
 ありのままの俺の気持ちを。

「付き合わない?」

 大島先輩が静かな声で言うのを、俺は横で聴いていた。
 俺はびっくりしてしまった。
 ストレートで簡潔な大島先輩の言葉に。
 今、俺が横にいてもよかったんだろうか。
 これって告白だよね。

「いいよ」

 西島先輩の言葉に、俺は咄嗟に顔を上げる。

 え?
 西島先輩。
 今、いいよって言った?
 やっぱり今はフリーだったんだ。
 そして。
 恋人にしようと思うのは、やっぱり女子だったんだ。
 そうか。
 そうだよね。

 俺は、静かに激しく傷ついていた。
 そして。
 傷ついて胸が苦しくなった自分自身に、驚いてもいた。
 経験したことのない種類の痛みがそこにあった。
 今まで味わったことのない大きな嵐が、俺の心のなかで暴れ始めていた。手が付けられなくなると咄嗟に判断した俺は、ゆっくりとその場を離れようとした。
 そのとき。

「三木。おまえ、なんで泣いてんの」

 西島先輩に呼び止められて、俺は驚いて振り向いた。

「え…。泣いてなんかいませんよ」

 そう言いながら、俺は気付いた。
 自分が涙を流していたことに。
 びっくりした。
 俺が泣いているなんて。
 小学3年生のときに集団でいじめられてたくさん涙を流したのを最後に、俺は泣き虫を卒業したじゃん。
 俺はもう、高校生だ。
 それなのに。
 7年ぶりに俺は涙を流してる。
 俺は西島先輩だけでなく、そこに大島先輩もいるという現実に急に立ち戻って大いに慌てた。

「ほんとだ。涙が出てるの気付きませんでした。俺、頭痛に耐えていたから、きっとそれで」
「どこにいくんだ」
「俺のクラスの村地堂に行ってきます。俺の好きな小豆スイーツを御馳走してもらう約束してるから。西島先輩にもタイヤキをお土産に持って帰ってきます。あ。大島先輩にも!」

 俺は精一杯、元気な声を出して手を振って部室を離れた。
 なんだか俺は今日の一日で、いろんな感情に揺さぶられて。
 真夏の嵐はとんでもなくて。
 そう思いながら1年2組の教室に向かっていると、急にバラバラと激しく雨が降り出してきた。

 俺の心情に呼応するように。
 



 図書委員の2年生の中で、大島先輩は目立つほうだった。
 舞台女優みたいに華のある女性だったから、横を通り過ぎた男子生徒は自然と振り返ってしまうような。
 派手さはなく、凛々しく美しい感じの。
 今年の文化祭プロジェクトのチラシに挙げられた図書は、大島先輩が推薦したと聞いていた。
 ガブリエル・バンサンの『アンジュール ある犬の物語』という絵本。
 
 俺はさっき図書室に行って、その本を手に取ってきたのだった。
 文化祭が終わるまでに、一度読んでおきたくて。

 
 休憩時間をもらって図書室にいった俺は、その絵本に言葉がひとつもなかったことで逆になんだか揺さぶられてしまった。
 言葉を手渡したいと心から希求している俺。
 それでも言葉を介さずに伝えることができる世界もあるんだという、事実。
 俺は、態度や仕草で、今まで西島先輩に伝えていたメッセージがあったんだろうかと、つい真面目に考えてしまった。
 そのことを思いつかなかったけれど。
 なぜか。
 西島先輩が俺の頭痛を和らげるために、俺のこめかみを優しく押さえてくれた仕草を思い出して。
 俺は、一人で図書室で顔を赤らめた。
 もしかして西島先輩。俺に好意を持ってくれてたりするのかな。
 その好きという気持ちのグラデーションの濃さは分からないけど。
 興味も関心もない相手には、こんなことしてくれないよね。

 そんなふうに、俺は初めて自惚れて。
 一人でふわふわとした気持ちになって。
 アルコールを飲んだこともないけど、飲んだらこんなふうに酔うのかもしれないと想像した俺。

 そんな俺だったからこそ、図書室から戻ってきて西島先輩と大島先輩のやりとりを聞いてしまって打撃を受けたんだと思う。

 大島先輩の告白を、23㌫の確率で、西島先輩が振ってくれたらいい。



 一瞬でも、そう考えた俺は。
 正真正銘の腹黒い高校生だと思う。