俺が最近どうも本調子ではないのは、西島先輩の責任だと自信を持って言える。
あのイケメン。
距離が近すぎ!
「トップノートは柑橘の香りのシトラスタイプとフレッシュな植物の香りのグリーンに代表されるんだってさ」
「…何の話をしてるんですか?」
「香水の話」
「だから何なんです西島先輩?」
「おまえ香水つけてるみたい」
「つけてません!」
昨日の俺は、部室で俺のおでこ辺りに顔を寄せてきた西島先輩に慌ててストップをかけた。
右手で西島先輩の顔面を鷲掴みにするような感じ。
俺の瞬発力が試されているような気分になる。
腹周りを押さえたり、バスケットボールを掴むようにして瞬時に身体を逸らしたり。
もう!
俺は文化部に入ったのであって、運動部に入ったんじゃないよ。
俺はこんなふうに調子を狂わされている。
そして。
何故か香りについて考える。
シトラスやグリーンの香りは、ウッディやオリエンタルの香りと比較して持続性が弱い。
それは揮発性が高いから。
店頭で香水を選ぶ時はつけたてのトップノートばかり気になるけど、少し時間をおいてミドルノートやラストノートまでを含めて気に入るかどうかを判断したほうがいい。
これは、姉が俺に昨晩言った言葉だ。
俺が珍しく香水について尋ねたら、いくつかの香水を出してきて急にレクチャーしはじめたんだった。
いや。
香水なんて俺は1㍉の興味もないんだけど。
俺は柑橘系の果実を思わせるフレーバーの珈琲豆が好みだからなのか、西島先輩曰く俺からはシトラスタイプの香りが漂っているらしい。
俺は香水をつけたことは一度もない。残念ながら。
シトラスノート。
レモンやオレンジ、グレープフルーツなどの柑橘類の香り。
爽やかで明るくてシャープな香り。
そう言われて嫌な気はしないけど。
俺は西島先輩の言葉で香水について思いを馳せるようになってしまった。柄にもなく。
なんだか翻弄されているような気がしないでもない。
「今日はまだ珈琲飲んでないんだな」
「飲んでる暇ない」
「飲んでないのに三木は珈琲の香りがするんだよなぁ」
「焙煎の練習しまくってるんです」
「俺だって焙煎してる」
「今日も心込めて焙煎して」
「心込めてるけど俺には良い香りが授からないよ?」
「そんなの知りません」
「焙煎部で三木だけなんだよ」
「それはどうも」
最近。
焙煎部の部員たちが集っているカウンターから俺が離れると、西島先輩がもれなく必ずついてくる。
棚を開けて俺が備品を出していると今日も先輩が顔を寄せてきた。
「三木は珈琲豆に愛されてんのかな?」
「愛されてるんだったら嬉しい」
「俺も愛されたい」
そう言って西島先輩が近付けてきていた顔をコトンと俺の左肩にうずめた。
何このシチュエーション。
俺は手に持ったコーヒーフィルターを両手に持ったまま身動きできなくなってしまった。
「フィルターを補充しなきゃ」
「そうそう。早くドリップしろよ」
「先輩が邪魔してくるから!」
「邪魔してないよ」
「先輩そこをどいてください」
「えぇ~。しばらくこの香りに包まれてたい」
「いやだから文化祭まであと2週間!準備!」
俺がそう吠えると西島先輩は顔を上げて俺の目を見た。
「時間とともに香りが変化するストーリー性が魅力だって言うけどさ」
「だから!何の話ですか」
「ラストノートは香りの締めくくりらしいけど」
「今日はいつも以上に絡みますね」
「おまえは最後に甘い香りになる」
「……」
俺は言葉が出せないまま西島先輩の顔を見ていた。
甘い香りってどんな香り?
西島先輩は戸惑っている俺をからかうように大きく笑って、俺の手からフィルターを奪った。
焙煎部に入った同級生で、幽霊部員でない部員は俺の他に2人いた。
三浦と神谷。
三浦はボーイッシュな女子生徒で俺より背が高く、神谷は男子にしては小さな方だから、二人が並ぶと悪いけど姉弟みたいに見えてしまう。
いつも目を細めて笑っている穏やかな神谷の横で、シニカルな表情で毒舌を吐く三浦。
この二人と文化祭準備のために焙煎部1年生として顔を突き合わせることが増えてきた。
「三木くん。僕と三浦さんと文化祭当日はどんな役割分担をする?」
「焙煎は西島先輩がしてくれるから俺たちはひたすらドリップする」
俺が答えると、被せるようにして三浦が言った。
「神谷くんはあと2週間でドリップの腕上げてよ。3日前にテスト」
「僕が三浦さんのテストにパスしなかったら?」
「焙煎部の裏方でひたすら働くのよ。安心して。こきつかってやる」
「怖いよ…。三木くん助けて」
神谷が俺を見て笑いながら言う。わざと泣き笑いの表情を作ろうとしていたけれど、神谷は三浦から何を言われても本当は気にはならないんだと思う。神谷はひたすら懐が深い。
「文化祭は焙煎部員の舞台よ」
三浦はそう言って神谷の額に指を突き付けた。
三浦って元演劇部員?
「カウンター越しにお客さんから全ての動きを見られるの」
「三浦はすごいね。そんなこと俺、ひとつも考えなかった」
俺はそう言いながらテーブルに頬杖をついた。今日は3人で1年生セレクトの豆を決める。候補に挙げる豆のリストを俺は作って持ってきていた。それぞれの豆を焙煎してテーブルに置いている。
三人で喋りながらも交互にドリップして互いのマグカップに注ぎ、テイスティングをしていく。
一杯目の珈琲は三浦が抽出してくれた。三浦が淹れたのはキリマンジャロブレンドだ。贅沢な香りがする。
「立ち姿は大事よ。それにカップの置き方ひとつにもその人の姿勢が表れるでしょ」
「うん。俺もそう思う」
俺が頬杖をほどいてカウンターを振り返ると、三浦と神谷も俺の視線の先を追って西島先輩を見た。
神谷が珈琲を飲みながら唸り声を出す。
「西島先輩ってさ、所作が美しいよね。男の僕でも見惚れるよ」
「そう!神谷くん。見習いな」
さっきみたいに三浦は神谷に指を突き付けようとしたけれど、所作が美しくないと感じたんだろう。咄嗟にその手を腰に当てて胸を張り、三浦は高飛車に言い放つ。
「美しい立ち姿って珈琲を美味しく淹れるのに大切なのよ」
「はい。努力するよ。自分の見た目は変えられないけどね」
神谷は肩をすくめるような仕草をしてから、「そうだ」と思い出したような顔になって俺を見た。
「三木くん。バド部の村地と同じクラスだろう」
「うん。仲良くしてる」
「僕と同中なんだ。村地は最近急にカッコよくなったね」
「よかった。それ聴いて嬉しい」
俺は二杯目のコロンビアブレンドをドリップして二人のマグカップに一口分だけ注いだ。
「なんで三木くんが嬉しいの?」
三浦と神谷が同時に尋ねてきたので俺は笑った。
「俺の個人的な文化祭プロジェクト。村地のビフォーアフター」
「変身計画ってこと?」
「そう。俺の姉ちゃんが村地の新しい眼鏡を見立てたんだ」
「何があったの」
「詳しくは本人に聴いて。明日は姉ちゃんの予約した美容院で村地の髪型も変わる」
「え!あの鳥の巣みたいな頭。どう変わるんだろう」
人の悪口を決して言わないと思っていた神谷でさえ、村地を踏みつけるような発言をしたな、今。
「俺がイメチェンに力を貸してることはオープンにしてって逆に本人から言われてるんだ。だって眼鏡変えただけで急に村地が女子に群がられてるんだもの」
「わぁ。私は村地くん知らないけど変身ぶりが気になる!」
「女子から質問攻めにされてるよ」
俺は我が親友が希望通り女子に囲まれておたおたしている姿を思い出し、ひっそりと笑った。
神谷がドリップする番が来て、それぞれのカップに優しく注いでいる。その姿と三浦がダメ出しをしているのを見ながら、俺は平和だなと感じた。
そして実際、俺自身も表面上は平和に見えたと思う。
そんな風に自然に取り繕うように生きてきたし。
珈琲と図書。
今年の文化祭のテーマはこれだ。
もともと焙煎部は我が校のオリジナリティを前面に出すために、ガチの部員数が少ないのも関わらず文化祭のときは中心メンバーになってきたらしい。
今回はそこに生徒会活動としての焙煎委員と図書委員が手を組んだ。
焙煎委員をしている西島先輩が意見を言ったんだと教えてもらった。
本を読み終えたあとの、言葉にできない気持ち。
それと珈琲を飲んだときの余韻が似ているって。
誰かに話すほどでもなくても、自分の中に残っているもの。そんな話をしているうちに「おすすめの本を読む時に飲んでほしい珈琲を提案してみるのはどうだろう」という話になったようだ。
それはそれでいいんだけど。
面白そうだと俺だって思う。
今まで以上に俺が文化祭ってものに対してわくわくした気持ちを持てている!ってのは貴重で。
だから嬉しいんだけど。
(頭ズキズキするの、辛い…)
文化祭準備で賑やかで騒々しい教室に、やはりというか必然というか、俺の神経が徐々に痛めつけられていた。
メンタルは弱いほうじゃないんだけどな。
俺は自分の指をこめかみに当てながら溜息をつく。
三浦と神谷が珈琲に合う推薦図書を選ぶために隣の図書室に行ったタイミングで、俺は我慢していた痛みをゆっくりと味わっていた。
目を閉じたタイミングで真後ろから聞き慣れた声がした。
「お〜い」
俺は咄嗟に声を出す。
「セクハラ禁止って言ったでしょ…」
まだ何もされていないけど牽制は必要。
もうこうなると条件反射みたいなものだ。
西島先輩が俺の背中側に丸椅子を運んできて真後ろに座った気配がした。
頭の痛みで、振り返って先輩を睨む気力がない。
「俺、今日は腹黒くないですからね」
「今日は触んないって」
「今日はって…何ですか」
「あ、嘘。触るわ」
「は?」
「服は脱がせないから」
「当たり前」
俺はやっと目を開け、西島先輩を振り返って文句を言おうとした。
でも出来なかった。
先輩が後ろから抱きかかえるようにして俺の頭を両手で掴んだからだ。
「前向いとけよ」
「え…何?」
以前は校長室帰りに真後ろから耳を押さえられたけど、今日はこめかみの両側を押さえられた。
後ろにいる西島先輩の顔が見えなくて、そのぶん頭頂に降り注ぐ先輩の声の質感のコントラストに俺の意識が注がれる。
今は相手の表情を推測するしかない。
「先輩。何か悪さしようとしてない?」
「してない。被害モーソー」
「普段の先輩の行いが悪いんじゃん」
「悪くない」
「どの口が言うんですか。危ない台詞吐いといて」
「ん〜。それは置いといて」
「置いとけない」
「三木。おまえ頭痛に耐えてんじゃねぇの」
「えっ?」
驚いた俺が振り返ろうとした時、西島先輩が両手で俺のこめかみをゆっくりと押さえこんだ。
身動きが取れないだけでなく、先輩の大きな手の圧で一瞬だけ痛みさえ感じた。
俺は「あ…」と声を出してしまったけれど、小さな痛みが引くと同時に先程までの重たい痛みが一緒に波のように消えたことにびっくりしてしまった。
あれ。
なんだこれ。
打ち寄せる波のようにじんわりと小さく痛みの揺り戻しが来たタイミングで、西島先輩がまた真後ろから俺の頭を包み込むようにしてこめかみの両側を押してくれた。
昼以降からずっと俺が耐えてきた鈍痛が、先輩の触れた指先から不思議な力が出されているかのごとく、今やさざ波のようになってきている。
「わぁ…。極楽」
俺が小さな声で呟くと、真後ろの西島先輩が盛大に笑った。
「ウケる。ジジイかよ」
もうジジイだってなんだっていい。
俺がそう思えるほど、身体的な心地良さは俺に安寧をもたらした。
俺の身体から力が抜けていったのが分かったのか、西島先輩は後ろから俺を抱きかかえるようにしたまま力を緩めた。
それでもこめかみをリズミカルに押す仕草を続けたまま、俺に話しかけてくる。
「なぁ。無理すんなよ。体調悪いときは」
「西島先輩には何で分かるの。俺の頭痛」
「まぁ。なんとなく」
「なんとなくが多い」
「そう。以心伝心?」
「何それ。先輩は距離が近過ぎます」
「いいじゃん。楽になっただろ?」
「…うん」
「だったら良かった」
俺はさっきから先輩の顔を見ることができないのが不思議に物足りないような心持ちがして、そんな気持ちが自分でもよく理解できなくて。
俺は身体が楽になってくるのに比例して、心の中がジャングルの樹木の根っ子に支配されはじめているような心許なさを感じて幼子のように慌てた。
「西島先輩」
「ん?」
先輩の温かい体の熱と低い声の響きを、俺の背中と頭頂がシンプルに受けとめる。
こんなに接触されてるんだから当たり前だ。
先輩。
体温高めだな。健康体。
「俺の寝室に掛時計があるんですけど」
「うん」
俺は体温は常に低め。低血圧。さらに貧血傾向あり。
「普段は全く存在自体忘れてるんですよ。音だって何も聴こえない」
「うん」
「でも俺。頭痛に悩まされる時期がくると、夜中に目覚めた時に時計の音が耳に届くようになる」
「へぇ。そんときだけ?」
「そう。しかも秒針が昇って行くときだけ。30秒ほどカタカタ響いて昇りつめた途端にシーンってなる。盛り上がったり下がったりする針の音を夜中に一人で聴いてるの、謎にシュールでしょ」
「だなぁ。気に障るんじゃね?」
「はい。俺がナーヴァスになってるって自覚するのは夜中の時計の音が聴こえる時ですね」
俺は低いテーブルに頬杖をついたまま目を閉じていた。しつこかった痛みが霧散している。
真後ろから優しく包み込むように座っている西島先輩に、俺は今や安心して身を預けていた。
両こめかみをマッサージしてもらいながら誰にも話したことがないエピソードを打ち明けている、俺。
無防備だな、と頭の片隅で思う。
「あ、三木君。なんか瞑想してる」
「西島先輩と美容室ごっこかしら」
神谷と三浦が帰ってきて俺たちのそばで囁きあっている言葉が、なんだか遠い国から届いた風の声みたいだった。
それくらい俺は、心と体を緩めていた。
昼間に耐えていた苦痛が嘘だったみたいに軽くなった頭と心を取り戻した時、俺は珈琲の香りに包まれているのを感じた。
西島先輩だって、良い香りしてるじゃん。
● ● ● ● ●
1年2組の教室に西島先輩が顔を出した時の女子の騒ぎっぷりは、俺が高校生になって初めて体験する時間だった。
黄色い声ってこれか。
俺のクラスの女子。
クールな子ばかりだと思ってたんだけど。
「ニッキー来てる!何で?」
「なほ!目に焼き付けな!」
「焙煎委員の文化祭準備?」
「かっこよ。マジやばいわ」
ニッキー?
西島先輩ってミッキーみたいに呼ばれてんの?
あ。
先輩、ニシジマニキって名前だったな。
L'histoire continue...



