トップノートの香りと君と―焙煎部の恋―


 俺が西島先輩と最初に会ったのは、入学してクラスメイトの顔もまだ覚えていない四月中旬の春らしい陽気に包まれた放課後だった。
 焙煎部に入部した日。
 焙煎部が普段になくざわついていて、俺は最初から身を硬くしていた。

 俺には誰にも知られたくない秘密があった。
 聴覚過敏。
 尖っている音と甲高い音が苦手だ。
 体調が優れない場合は症状が強く出る。
 誰しも感覚が過敏だったり鈍感だったりのデコボコは多少あってそれが個性ってことになっているけれど、それは多様性を声高に叫ぶ世の綺麗事だと思う。
 グレイゾーンを超えると途端に他人に受け入れてもらえなくなるという事実に、俺は小学1年生で気が付いた。
 イヤマフをつけると友だちとの関係に歪みが生じる。そう感じて2年生になってから音を遮断するのを止めた。
 イヤマフを利用することで安心して過ごしたり、周りにうまく配慮されるケースもあるんだろうけど、俺の性格がThe日本人なのか周りと違うことをすることが苦痛だったのでフツーを演じてきた。
 器用に演じることができた。
 たぶん。
 フツーに見えていると思う。
 人混みにいるとぐったり疲れてしまうし、大人数の会話も苦手だから友だちは少ない。
 でも、それでいい。
 付き合いの悪い俺を受け入れてくれる相手だけでいい。そんなふうにちょっと(ハス)に構えた15歳に仕上がっていた、春。

 新入生の顔合わせ初日で自己紹介をする準備をしていた3年生が黒板に顧問と部長の名前をチョークで書いていた時、俺は悪い予感がしたんだった。
 この堅めのチョーク。
 乾いた黒板。
 ヤバいヤツ。
 逃げなきゃ。
 危険信号を察して、俺は真ん中の席をそっと立って部室の後ろを目指した。
 あくまで冷静を装って。
 不安が強まる余りに俺は微笑みさえ浮かべていたかもしれない。
 いちばん後ろの席まで来た刹那、チョークが引っ掛かる摩擦音が教室に響いた。
 俺が咄嗟にうずくまって耳を塞ぐと、庇うように大きな手が俺の両手に重ねられた。
 驚いて顔を上げると西島先輩が真面目な顔で俺を見て、大きく頷いてから俺の両手の上に重ねた手を離した。
 後ろの席に座っていた西島先輩とは俺はその時に初めて目を合わせたわけだけど、以前から親しくしていた間柄のように俺を抱え込むように咄嗟に床に膝をついてかがんでくれていたんだった。
 大丈夫だ…というように、力強い眼差しで俺の目を見ていた。 
 5秒くらい。
 机の陰にしゃがみ込んでいたから前からの人には見られずに済んだと思う。
 俺が震えを隠しながら立ち上がると「どうした〜?」とチョークを手にした3年生が尋ねてきた。
「…あの」
 俺が腕に出てきている鳥肌をさすりながら口ごもっていると席に座り直した西島先輩が応じてくれた。
「部長〜。俺の長い脚に新入生を引っ掛けちゃった」
 そう言って皆に注目されている俺に「ごめんね?」と笑い掛けてくれて。
 俺は、自分が女子だったら恋に落ちてたな…と両手の甲に残った温かみと体の震えを味わいながら西島先輩の整った顔を見ることしか出来なかった。
 声も出せず。

 自分の体を抱きしめたままで。

 

      ● ● ● ● ●



 入部した日は西島先輩に結局一言も話しかけられないままだったのだけど。
 焙煎部に幽霊部員が多い中でガチ部員として毎日部室に顔を出している俺は、同じく毎日顔を出している西島先輩と喋る機会も多くて。
 俺は積極的に友だちを作るタイプではないから交友関係は極端に狭いけれど、それでも性格的には気を許した相手に対しては人懐っこいほうだと思う。
 2歳上に姉がいて俺は小さな頃から姉に世話をやかれてぬくぬく育ってきたから、安心できる相手だと見抜くと他に対してバリアを張っているのが嘘みたいにぐっと深くまで(なつ)くほうかもしれない。
 それでも西島先輩はやはり得体がしれなくて、俺は自分でも気を許してよいのか悪いのかが判断できないままでいた。
 それなのに。
 西島先輩は俺が腹黒宣言をした日から、何故か前以上に絡んでくるようになった。
「今日も腹黒いのか?」
 西島先輩がそう言うと俺は咄嗟に腹を押さえる。
 また一瞬でウエスト周りを裸にされてはたまらない。
 初日に真面目な顔で俺を守ってくれた西島先輩。
 あの時の西島先輩は何だったんたろう。
 まるで別人みたいだ。
「残念!たまに見たくなるんだよな柔肌(やわはだ)
「だから!部室でセクハラ止めて下さい」
「部室じゃなかったらいいんだ」
「んなわけない」
「だよなぁ」
「今日は校長室に出前するんですから早く焙煎して」
「あ〜外部とカンファあるっつってたな」
「焙煎部自慢するって教頭先生から言われてるんです。心込めてクオリティ上げて下さい」
「えぇ〜。相手の顔も知らないのに」
「活動費の予算かかってますから!」
 なんで1年生の俺が上級生に指示する羽目になってるんだろう。
 でも。
 俺は知っている。
 西島先輩が珈琲豆を扱う時に優しい手付きをしていることを。
 まるで珈琲と対話しているかのようにドリップしていることも。
 西島先輩によって抽出された珈琲は極上で、部長も顧問もここぞという時の焙煎は西島先輩指名一択だった。
 俺は西島先輩の技を盗みたくて焙煎部が珍しく部員で溢れているような日でも、西島先輩の側にいる。
 だから、西島先輩から絡まれやすいってことになるんだけど。
 背に腹は代えられない。
 あ。
 でも腹は見せてたまるか。



 校長室に俺と西島先輩の二人で珈琲を出前した。
 13人前の熱いマグカップを無事運び終えて俺はホッと人心地ついた。
 運んでいる途中で良い香りに包まれていた俺は、部室に戻ったら自分もコーヒーブレイクにしようと考えて気分をアゲた。校長室から出て目を閉じて大きく息を吸う。
 俺の体が焙煎した珈琲豆の香りに包まれているのを感じる一瞬が、俺は大好きだった。 
「三木は前期の委員会は焙煎委員じゃねえの?」
「えっ!」
 俺は目を見開いて西島先輩を見上げた。
「焙煎部入部した生徒が焙煎委員も兼ねていいんですか」
「お〜。俺はダブルでやってる」
 部室に戻りながら、知る高校生活の新事実。 
「知らなかった…。俺、広報委員にしました」
「お。だったら新しいアラビカ種の豆のドリップを記事にするよう広報委員会で話題に出してよ」
「あ、あのナッツやココアを思わせるハウスブレンド?」
「そうそう。珈琲苦手な生徒はカフェインレスに興味あるんじゃね?」
「そういう広め方もあるんですね」
「今部室にあるのはコロンビア産」
 廊下を歩きながら、珈琲の話に花が咲く。
 高校生になってクラスで仲良く話せる同級生が一人できたけれど、さすがにここまで珈琲のマニアックな話はできない。
 俺はトフィーやココアのような風味にほのかなローストの甘みが加わった、バランスのとれた味わいが特徴の珈琲を今すぐにでも飲みたいと思った。
 西島先輩にすぐ焙煎してもらお。
「委員会活動の時間も珈琲豆のことを考えられるんだ。いいな」
「なんだそれ。三木、どれだけ珈琲愛が深いの?」
「西島先輩もでしょう」
「三木ほどじゃないよ」
「コーヒーチェリーの話。良かったです」
「あぁ。手摘みされたコーヒーチェリーの話な」
「はい。手摘みされた後に大切に扱われて海を渡ってここまで来たって」
「長い旅だよなぁ」
 「珈琲の木の枝や葉を傷付けたりしないように優しく手摘みするって知りませんでした」
「三木はなんでそんなに嬉しそうなの?」
「え。だって珈琲豆が優しくされてるのを聞くと嬉しいじゃないですか」
「おまえ変わってる」
「そうですか?新しい豆、先輩早く焙煎して!」
「早くってせっつかれるの、今日2回目じゃん」
 俺はすぐにでも部室に戻りたくて、西島先輩の横をすり抜けて先に歩き出した。
 豆の挽き方はどうする?
 酸味とコクが中程度だったような…。
 中細挽きに決まり!

 その時、ふわりと世界が沈黙した。
 西島先輩が俺の耳を両手で後ろから塞いでいる。
 あ。
 ひさしぶりの感覚。
 俺は驚きながらも、いつもの条件反射で咄嗟に自分でも耳を覆った。
 素早く行動しないと後で苦しむ!
 でも、それは結果的に西島先輩の手に俺の手を重ねることになってしまった。
 入部した日と重ねる順番が逆になっただけ。
 予想どおり直後に、海に潜ったようなくぐもった世界で10分の一くらいに変換された尖った音が聴こえた。
「…これ何の音?」
 俺は西島先輩の手を掴んで、そっと自分の耳から離した。真後ろを振り返ると、西島先輩の斜め横で女子が転倒しているのが見えた。見事に伸びてうつ伏せになっている生徒に、別の女子が「大丈夫っ!?」と駆け寄っている。
 茶道で使う茶碗が粉々になっているのが俺の目に映った。
「あ。やば…」
 まともに聴いてたら鳥肌10分コースだった。
 俺が西島先輩を見上げると、真面目な顔をした西島先輩と目がぶつかった。
 俺はドキッとする。
 普段滅多に見せない真剣な表情。
 そんな顔されたら、先輩が質の高いイケメンだってことを再確認しちゃうじゃん。
 …って。
 俺まだ西島先輩の手、掴んでた!
「うわ!」
 ぺいっと手を振り払って俺は1㍍ほど真横に逃げた。
「コケると思ったんだよなぁ彼女」
 西島先輩の言葉に再度振り返って繰り広げられている茶道部の騒動に目を走らせた後、もう一度先輩を見上げた時にはいつもの飄々した表情に戻っていた。
「なんで分かったんですか」
「だってあのコ急いで廊下走ってんのに俺見て前向いてなかったんだ」
「…気づかなかった。あと」
「ん?」
「俺が音苦手なの。何も俺話してないのに」
「あ〜」
 西島先輩は俺を見て少し困ったような顔をした。
「まぁなんとなく?」
「え?なんとなく?」
 嘘だ。
 大抵の人には分からない世界だと思うけれど、西島先輩は咄嗟に陶器の割れる音が俺にどれほどのダメージを喰らわすかに気付いていた。
 俺が誰にも自分の過敏さを知られたくなかったように、西島先輩も知られたくない何かがあるんだろうなと察することができた。
 だから俺は「なんとなく分かってくださってありがとうございます」と御礼を言うことで話題を終えた。
 多かれ少なかれ、誰にだって秘密はある。











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