トップノートの香りと君と―焙煎部の恋―

 

 今日の豆はエチオピア、タンザニア、メキシコ、グアテマラ。
 それぞれ30㌘使おう。
 これを60㍉リットルのお湯で抽出する。部員が丁寧に磨きあげた銅製のケトルでお湯を沸かして、少しだけ冷ましてから。
 深煎りブレンドのデミタス。それをゆっくりと注いでいく。


 焙煎部。
 図書室の横の教室。扉を開けると漂ってくる珈琲の香り。
 図工室に置いてあるような木のどっしりとした机。そこに置かれた古い手廻し焙煎機。
 理科室にあるようなガラス張りの木製の棚の中には、真空管式アンプにターンテーブル。
 普段レコードは使わない。
 部活の時間だけは休み時間と同じくスマホを使用する許可が出ているから、部室に一番に来た生徒が自分のスマホを定位置に置いてSpotifyで好きな曲を流す。
 今日はスマホからではなくオーディオ装置から曲が流れている。KENWOODのセパレートコンポ。
 XK-330から響く音は柔らかい。ターンテーブルで聴くレコードの音とどれくらい違うんだろう。
 
 
「でさ、三木。聞いてくれよ。そいつの猫かぶりっぷりがスゲェの。もう背中のファスナーが見えなくなっちゃうくらい毛皮と同化してんじゃねぇの?って思ったわ」
 クラスメイトの喋る声が、カップから立ち昇る湯気を揺らした気がした。
「三木は裏表なくて正直だよな。名前とおんなじで」
 カウンターに立つ俺は、クラスメイトの言葉がまったく心に届かないなと思いながら顔を挙げた。
 俺の名前と同じ?
 三木祥慈(みき しょうじ)のショウジが正直とかぶるってこと?
 全然、会話が面白くない。
 それでも今はことを荒立てたくない。
 “聴いてるよ“と無言で伝えるために大きく頷く。
 俺の柔らかいダークブラウンの髪がさらりと束になって揺れた。それを客はじっと見る。
 今日初めて焙煎部に客として来たクラスメイトとは五月になってから話すようになったばかり。彼が注文した深煎りブレンドを本人の前にそっと置く。
「お。デミタス来た。苦味を味わうぜぇ」
 このクラスメイトは中身の無い会話をしながらも、眼鏡の奥の目は狡猾にカウンターの奥を探っていた。
 俺が心を寄せている先輩というのがコイツなのかどうかという獰猛な眼差しを、俺の右隣にいる人物に向けている。
 …こっわ!
 このクラスメイト。
 俺に興味あるってガチだったんだ…。


―俺、心を寄せている人がいる。

 それは、俺が咄嗟についた嘘だった。
 学活で性の多様性だとかLGBTQだとかSOGIだとかを学ぶ時間があって、なぜか不思議なことに学活が終わってから初めて特殊なモテ期が来た。
 同性から告白のようなことをされた。
 しかも同時に2名からだったので驚愕した。
 それは人生初だ。
 女子からだったら、ささやかながら経験はあったけれど。
 マイノリティーへの差別感情も嫌悪感もなく、どちらかといえば恋愛には距離を取りがちな俺だけれど、これは喜んでいいのだろうか。
 異性より同性から興味を持たれる何かしら素質みたいなものが、実は俺にはあったりするんだろうか。
 それはさておき。
 自分について掘り下げる前にまず!
 予防線を張っておかないと喰われる…!
 喰われると思ったのは、高校生になった途端にクラスの女子から絡まれるようになり、「女子にしたいくらい綺麗だよね~」と頻繁に言われるようになっていたから。
 そんなこと今まで言われたことがない。中学生まではあまりクラスメイトから絡まれることもなかったから不思議なんだけど、これもさておき。
 そういう愛にもつれこんだとしたら、きっと俺は女子の立場に置かれるんだよね?
 そう一瞬で判断して相手に手渡したのが架空の想い人についての情報だった。
 そのときに焙煎部の西島先輩の顔が浮かんできたのは、何故だったんだろう。
 知り合ったばかりで得体が知れないのに、何だか絶妙な距離感を取られて感心したから、かな。
 初対面の時の俺に対する彼の仕草が幼い頃から俺をフォローする父親と姉にそっくりで、俺の誰にも知られたくないあの秘密を知ってんの?って驚いたこともあって。
 言葉を交わす前なのに、俺のことを知っているかのようにするりと(ふところ)に飛び込まれたというか何というか。
 それが不思議と居心地が悪くなかった…という稀有な出会い方だったからかもしれない。
 どうして架空の相手を異性にしなかったんだろうという問いは数日後に生まれたけれど、あの瞬間は何故か疑問に思うこともなく。
 西島先輩には悪いけど具体的に一瞬だけ俺の仮想想い人になって頂いて脳裏にイケメンを思い浮かべながら言ったからリアリティがあったんだろうけど、大人しそうな他クラスの吹奏楽部の同級生は「そっか!」と顔を赤らめて直ぐに引いてくれた。
 もう一人。引いてくれなかったクラスメイトを焙煎部に招待する流れになってしまった、五月中旬の放課後。
  それが今日。
 
 当の西島仁樹(にしじま にき)は気付いているのかいないのか、流れる曲に合わせて機嫌良く体を揺らして珈琲豆をミルで挽いていた。
 西島先輩の切れ長の目は実は野性味に溢れているけれど、普段はマイルドな笑みで巧妙に隠されている。
 Rick Priceの『Not A Day Goes By』が焙煎部の部室を優しく甘く、哀愁のようなもので充たしていく。
 焙煎部の初代部長が残していった古いCD。
 西島先輩が時々かけるこの曲を、今では俺も口ずさむことができる。

「猫をかぶるって悪いことかな」

 俺は素直な気持ちを言葉にした。
 クラスメイトの言った言葉が7分遅れて意識に届き、気が付けば答えてしまっていた。
 スルーしようと思ってたのに。
「いいとこ見せたいって俺も思う。だらしない部分とかは覆い隠して」 
「へぇ?三木にもだらしないトコあったりするんだ?俺は見てみたい」
 西島先輩から俺に視線を移したクラスメイトが声を低くして言葉にする。そして「珈琲うまい」としみじみした口調で深煎り珈琲の感想を言った。
 注がれた相手の視線の質感に俺のアラームが反応し、自分の素を晒すなよと別の自分が警告を入れる。
 俺はスイッチを切り替えて、予防線のための演技をすることにした。
 俺のどこが正直…だって?
 演技する俺、腹黒いんじゃない?
「教室ではまぁ素を出せてると思う。格好悪い自分を見せないようにしてるのはこの部活の時間かな」
 俺がこう呟きながら西島先輩をちらりと見て、目線をゆっくりとクラスメイトに戻すと相手は押し黙った。


 クラスメイトの男は眼鏡を外して溜息をつき、珈琲の御礼を言ってするりと席を立って帰っていく。
 その様子を見て、ホッとした。
(これでもう大丈夫。…諦めてくれたよね?)
 自分用の珈琲を抽出していた俺は、脱力した後の気楽さでゆったりとした心持ちになった。
 ほんとは、自分自身でいたいに決まってる。演技なんかしないで、ありのままをさらけ出して。
 はぁ。疲れた…。
 好きな世界に浸りたい。
 去年の夏の海で見た魚のことを思い出す。  
 銀色の小さな魚が浅瀬で姿を隠す時の一瞬の煌めき。

「俺は前世が魚だったんじゃないかなと思う時があって」

 俺がぼんやりと心に浮かぶままに話し出すと、直火式のコーヒーロースターの手入れをしていた西島先輩が手を止めて俺の方に向き直った。
「魚?」
「はい。水があるところが心地いいんです。大きな河が流れているのを電車の窓から見るのも好きだし、旅をするのなら海の近くがいいとも思ってるし」
 木の丸椅子に腰を降ろし、俺は顧問の男性教師の真似をしてカウンターに頬杖をついて目を閉じた。
 先程自分でドリップしたばかりの珈琲から、温かくて豊かな時間が立ちのぼって創り出されているような心持ちになる。
 焙煎部の時間はゆったりと流れていく。

 
 焙煎部という珍しい部活動の部員は全員で55名。
 こんなに人数が多いのにはワケがある。
 一応ぎり進学校と言われている我が高校では、帰宅部と言われる生徒を生み出さないために部活動に所属する意思がない生徒でも所属できるユルイ部活を作る必要があった。それが我が焙煎部だ。
 生徒会活動をしていたことにも部活動をしていたことにもできる新しい文化活動を形にしよう!というコンセプトがあったみたいで。
 そんな作戦を平成が始まった頃ぐらいに当時の進路指導の教員が練った結果、焙煎部というユニークな委員会&部活動が生まれた。
“ 私は高校生活の三年間は焙煎部に所属して珈琲の奥深さを探求していました ”
“ 僕は焙煎部と繋がる委員会のメンバーになって一年間生徒同士の交流を企画し、豊かな文化活動を支えました ”
 内申点アップのためだとしてもオリジナリティ溢れすぎじゃない?
 焙煎部ってネーミングもすごいけど。
 何もしていなかった…より、何かはしていたという既成事実を作るためだとしても、よく数十年も続いてるよな。
 全員顔を合わせる日は決してない。
 当たり前。
 だって本来は帰宅部なんだから。
 たぶん、今の焙煎部で珈琲好きで入部したのは俺以外には数名だけだと思う。
 焙煎部は毎日やっているけれど、月1の豆会議に何度か出席するだけで部活動やってましたと内申書や将来の履歴書には書けるから実際に毎日来る生徒はいない。
 だいたい10人前後が緩く出入りしている。
 今日のように珍しく2人きりという日もある。客として他の部活動の生徒が寄ることもある。
 顧問はだいたい毎日ふらりとやってきて木のカウンターでエスプレッソを飲んでいく。役得ってやつ。
 実際に焙煎部の珈琲のクオリティはなかなかのものだと思う。
 木のカウンターは初代部長の手作りだ。そのカウンターにいくつか文庫本が並べられている。全てカバーが取られて剥き出しになった象牙色の背表紙。
 三木という朱色の印が文庫本の上部に全ての頁にまたがって押されている。
 そう。
 俺と同じ名字。
 実はこの高校に焙煎部を立ち上げた時に中心になった生徒は俺の叔父だ。
 つまり初代部長。
 今も部室のそこかしこに大好きな叔父の残したものがある。それが俺が焙煎部に入部した一番の理由だった。
 あの人と同じ高校に入って、同じ香りに包まれたい。
 そんなふうに小学校の高学年くらいから強く想っていたっけ。
 カウンターの向こうで深煎り珈琲を静かに抽出している叔父の優しい顔。
 追憶の中にいて、たゆたっていた。西島先輩が俺の耳元に顔を寄せて囁く。

「おまえが魚なら俺が喰ってやるよ」
「…は?」

 俺が右耳に手を当てて素早く西島先輩を見上げると、透明感のあるアッシュブラウンの前髪で西島先輩の目が隠されていて表情が見えなかった。
 野性味のある目をしている時の声。
 俯いていたって、その目の光は分かる。
 この人、何言ってんの?

「今、何て言いました?」
「俺、猫だったんじゃないかなぁ。前世。気紛れだし昼寝好きだし」
 西島先輩が顔をあげると声のトーンもいつも通りに戻っていて、さっき小さな声で言った時に滲ませた欲望をなかったことにしたような陽気な顔で西島先輩は笑った。
「冗談だって!さっきの眼鏡クンだったら、そう言うんじゃないかって思ったの」
 笑う前の西島先輩の態度に一瞬だけ心がざわついた。知らなかった別の側面を見た気がして、何故だかわからないけど焦るような気持ちになった。
 別の側面だなんて、まだ西島先輩のことほとんど何も知らないのに。
 俺は自分に突っ込みを入れてから素早く気持ちを切り替えた。
「さっきの眼鏡…。俺のクラスメイトが言いそう?」
「お〜。おまえのこと狙ってたし」
「え?…何で?」
 焦った俺は立ち上がる。木の椅子がガタンと音を立てた。
「どうしてそう思うんですか。俺、男ですよ」
「うん。だから何?」
「…え。何って…」
「気付いてたんだろ?あいつの気持ち」
「……」
「モテるのも大変だな」
「違う!こんなのが初めてで。モテない人生だったから戸惑ってるんです」
「お。認めた」
「…やな感じ」
 西嶋先輩みたいに華やかな顔立ちのイケメンだったら、恋愛については百戦錬磨だろう。
 恋愛初心者の初心(うぶ)な俺は、冷やかされているような心持ちがして腹がたった。
「さっきの男は三木の好みのタイプじゃねぇの?」
「…タイプとかタイプじゃないとか考えなかった」
「何で」
「興味ない。…ってかあいつに喰われたくない」
「ふはは」
 西嶋先輩が俺の横の丸椅子に座りながら大声で笑った。俺もまた隣に座り直した。
カウンターに置いた俺のデミタスカップが少し揺れる。
「笑わないで下さいよ!」
 俺は拗ねた声で文句を言ったが、内心不思議に思った。
 俺、人の大きな笑い声って嫌いなんだけど。
 今は何故か平気。
 …どうしてだろう。
 俺は考察しながら珈琲を一口味わった。
 あ。
 今日はいい感じに淹れられてる。
 俺、少しだけ抽出うまくなったかも。
 デミタスカップをカウンターに置いて俺は少しだけ口角を上げた。
 そのタイミングで西嶋先輩が笑い終えて、何故か目を細めて優しく俺を見た。
「うん。正直でいいな」
「正直じゃないです俺」
「ひねくれてんの?」
「…腹黒いとこある」
「へぇ?そうなんだ。意外。見せてよ」
 西嶋先輩が真横に座る俺のカッターシャツをバッと引き抜いて(へそ)の辺りを日の下に晒した。
「ぎゃあッ!」
 俺は高校生になってから一番大きな声を出したと思う。
「な、な、な、何するんですか!!」
 慌てて俺は見られた肌を隠す。
「白い腹だなぁ〜」
「セクハラ禁止!」
「だよなぁ俺年上だもんなぁ」
「そういうことじゃないでしょ?」
「同級生だったら大丈夫だった?」
「令和の今はダメなんです!」
「急に見たくなってさぁ」
「…」
 俺は力が抜けてしまって、カウンターに覆いかぶさるように半身を預けた。
 カウンターのひやりとした木の冷たさを額で感じる。
「おまえ珈琲淹れるの上手くなったな」
 え?
 左頬をカウンターにつけたまま右隣に座る西嶋先輩を見上げるように顔を上げると、俺のデミタスカップを手にして珈琲を呑んでいる姿が目に飛び込んできた。
 一瞬で俺は固まる。
 俺のカップじゃん。
 何で勝手に口つけてんの?

 
 このイケメンはとんでもなく自由な男だ。