◇

 冬夜くんとお昼を一緒に食べるようになって、二週間が経とうとしていた。

 あの日、得意なお菓子を作ってほしいと言われたにもかかわらず、僕はクッキーを作っていった。
 簡単なものになってしまったのに、冬夜くんがとても嬉しそうに受け取ってくれたから、申し訳なさが勝ってしまったことは、しばらく忘れられないと思う。

 それ以来、自分が納得できるものを冬夜くんに渡すようにしている。
 といっても、冬夜くんに「毎日作ってきてもらうのは、申し訳ないから」と言われたので、ときどきだけど。

「昊くん、なに作ってるの?」

 僕がキッチンでお菓子作りを進めていたら、お風呂上がりの妃奈がやってきた。
 それも、当たり前のように自分もわけてもらえると思っているような顔で。
 妃奈も、冬夜くんくらい素直だったら、可愛く思えるのに。
 って、なにを勝手に比べているんだろう。
 こんなの、どっちに対しても失礼にあたるじゃないか。

「マフィンだよ」
「やった。昊くんのマフィン、超美味しいから好きなんだよね」

 まるで、もう食べているかのような幸せそうな顔。
 こういう反応をされると、妃奈に作っているつもりはないのに、わけてあげようかと思ってしまう。

「でもいいの? テスト週間にそんなことして。ママに怒られるんじゃない?」
「高校生は来週からだからいいんだよ。妃奈こそ、勉強しなくていいの?」

 僕が言い返すと、妃奈は僕に向かって舌を出し、二階に上がってしまった。
 あれだけ不機嫌そうにしていても、焼きあがるころには何食わぬ顔をして戻ってくるんだろうけど。

 そして僕は、慣れた手つきでマフィンを完成させた。
 いつも通りの完成度に、つい笑みがこぼれる。
 ついでに、予想通り、妃奈はスマホを片手に戻ってきた。
 焼きあがったマフィンを写真に収めると、「これストーリーにあげていい?」なんて言うから、僕はよくわからないまま頷いた。

「じゃ、いっただきまーす」
「待って!」

 妃奈がマフィンに触れそうになった瞬間、僕はそれを止めた。
 というのも、妃奈が手を伸ばした先にあるマフィンが、一番綺麗に出来上がったやつだったから。
 だけど、そんなことを知らない妃奈は不機嫌かつ不思議そうに、僕の顔を見てきた。

「こっちならいいから」

 そう言って竹串を刺した跡があるマフィンを渡すと、妃奈はわかりやすくふてくされた。
 ただ、不満そうにしつつも、しっかりとそれを食べている。

「昊くんさあ。もしかして好きな人でもできた?」

 普通の雑談のトーン。
 いつものように「これ作れそう?」っておねだりしてくるみたいに。
 なんてことないように、妃奈は言い放った。

 スキナヒト。
 スキ……
 好き!?

「いや、え!?」
「うるさ……」

 妃奈は鋭く僕を睨んだ。
 慌てて口を塞ぎつつ、さっきの妃奈が言ったことを冷静に再生させる。

『好きな人でもできた?』

 たしかに妃奈はそう言った。

「な、なんでそう思ったの」
「んー、勘?」

 随分と適当なことを言いながら、妃奈はふたつ目を食べようと手を伸ばしている。

「……昊くん、最近よくスマホ見ながらにやにやしてるじゃん。あれ、誰かとメッセのやり取りしてたんでしょ? 反応的に和希くんじゃなさそうだし、ほかに仲良くなった人がいるのかなあって。あと、さっきのも、綺麗なやつをあげたい人がいるんじゃない?」

 僕が納得できないみたい表情でいたのに気付いたことで、面倒そうにしつつも丁寧に教えてくれた。
 たしかにさっきの反応はそう思われても仕方ないのかもしれないけど、スマホを見てにやけていたのは、本当だろうか。
 でも、ここで妃奈が嘘をつく必要もない。
 そうなると、僕は……

「いや、なんでそんな絶望顔? 普通、好きな人できたら、毎日幸せー!楽しー!みたいにならない?」
「僕、好きな人がいたことないから、わかんないよ……」
「あー、ぽい」

 僕の気も知らないで、妃奈はけたけたと笑っている。
 今食べたマフィン、返してほしい。

「で、どんな子なの? 可愛い?」

 好奇心に染まった表情。
 それを知ってどうするつもりなのか。
 気になったけど、聞きたくなかった。
 聞けば、これ以上この話題が広がってしまうから。

「もうほっといて」

 思い当たる人物を素直に言えるわけもなく、僕は妃奈をリビングから追い出した。
 そんな僕たちの声が喧嘩しているように聞こえたのか、お母さんが様子を見に来たけど、僕は「なんでもない」と言って洗い物を始めた。
 洗い物をしていても、頭の中はさっきのやり取りでいっぱいだった。

 僕の、好きな人。
 僕は、冬夜くんが好き?
 妃奈の言うようなときめきよりも、動揺と混乱が強かった。

   ◇

 翌日のお昼が近付くにつれて、僕はどんどん緊張していった。それもこれも、全部妃奈のせいだ。
 妃奈があんなことを言うから、変に意識してしまって、冬夜くんとふたりきりの空間が耐えられそうになかった。
 いっそのこと、今日は用事ができたとかウソをついて、和希くんとお昼を食べようか。
 四時間目が終わってそんなふうに考えているときだった。

「ねえ、夏村くん」

 クラスメイトの女子ふたりが、僕に声をかけてきた。
 普段なら絶対に関わり合うことのなさそうな、おしゃれな女子。
 その笑顔に気圧されて「な、なに?」なんてかっこ悪い反応をしてしまった。

「夏村くんって、昼休み、いつも冬夜くんと一緒にいるじゃん?」
「うちらも冬夜くんと弁当食べたいなーって思ってて。行ってもいい?」

 その笑顔には「断るわけないよね?」と書いてあるように思えて仕方ない。
 ゆえに僕は、頷くことしかできなかった。
 ふたりは僕たちがいつもいる場所を聞くと「ありがとー」と言って教室を出て行った。

「昊、よかったのかよ」

 その一部始終を見ていた和希くんは、心配そうな表情を浮かべている。

「よかったもなにも、冬夜くんだって男の僕よりも、可愛い女の子といるほうがいいと思うし……」

 そう言いつつも、笑顔が引きつっていることが自分でもわかった。

 本当に、冬夜くんが喜ぶだろうか。
 勝手なことをして、むしろ怒ってしまわないだろうか。
 そもそも、冬夜くんは周りからイメージを作り上げられていくことに疲れていたのに。

『先輩といると、安心する』

 柔らかい表情でそんな言葉をくれた冬夜くんを、僕は裏切ったことにならないだろうか。

「全然納得してなさそうじゃん。行ってくれば?」

 和希くんに言われ、僕は教室を飛び出した。
 綺麗にできた、マフィンを手に。

 いつもの空き教室が見えてくると、僕は足のスピードを緩めた。
 ゆっくりと息を吸い、乱れた呼吸を整える。

「夏村くんみたいな地味メンといるより、うちらといたほうがよくない?」

 整い始めた息も、その言葉を聞いた瞬間に止まった気がした。
 どちらが言ったのか、わからない。
 でも、どこか怒っているようにも聞こえる。

「マジそれ。正直、つりあってないし」

 ふたりの容赦ない言葉。
 そして、それに対する冬夜くんの答え。
 どれも聞きたくなくて、僕は耳を塞いだ。
 その瞬間、手にしていたマフィンが床に落ちた。
 せっかく綺麗にできたのに、形が崩れてしまった。
 じわじわと、視界が滲んでいく。

 僕と冬夜くんがつりあっていないことは、僕が一番よくわかっている。
 だけど、こうして第三者の目から見た印象をはっきりと聞かされると、正直心に来る。

 それでも、とにかくマフィンを拾わなければと思ってその場にしゃがんだとき、手元に影ができた。
 顔を上げると、そこには女子ふたりが怖い顔をして立っている。
 なにか言われるかと身構えたけど、ふたりは舌打ちをして去って行った。

「……先輩?」

 二人の背中を目で追っていたら、頭上から冬夜くんの声が降ってきた。
 冬夜くんは驚きと戸惑いが混ざった顔をしている。

 でも、なんだかいつもと違うように見える。
 眩しいというか、なんというか。

「えっと……」

 ふたりにここを教えたことと、冬夜くんのことを意識していることから、冬夜くんを直視できない。

「……今の、聞いてた?」

 意外にも、冬夜くんの声色は怒っているようには聞こえなかった。
 それどころか、照れているように見える。

「……ちょっとだけ、聞いちゃった」
「うわ、ホントに?」

 冬夜くんはそう言って、両手で顔を覆った。
 冬夜くんがそんな反応をするような会話だっただろうか。
 結構、険悪なムードだったと思っていたけど。

「あんな形で知られるなんて、かっこ悪い……」
「え……」

 冬夜くんがなんのことを言っているのか本当にわからなくて、僕は声を漏らした。

「えって、先輩、聞いてたんじゃないの? 好きな人のこと貶すなって」

 冬夜くんはそこまで言って、口を塞いだ。
 今のは、空耳だろうか。
 僕にとって、かなり都合のいい言葉が聞こえたような気がする……

「冬夜くん、僕のこと……好き、なの?」

 自分でこんなことを確認するなんて、恥ずかしすぎる。
 聞き間違いだったら、とんだ勘違い野郎だ。
 でも、冬夜くんが耳まで赤くしていることと、小さく首を縦に振ったことで、勘違いではないことが証明されてしまった。

 冬夜くんが、僕を好き。

 その事実が上手く脳内処理されていかない。
 今、なにが起きているんだ?

「……先輩の答え、聞いてもいい?」

 冬夜くんはそっと、マフィンの上にあった僕の手に右手を重ねてきた。
 緊張しているのか、ひんやりとしている。
 だけど、じんわりと冬夜くんの熱が伝わってくる。

「僕は……」

 頭はあまり働いていない。
 冬夜くんと視線が交われば、ますます言葉が出てこなくなる。

『正直、つりあってないし』

 そんな中でも、さっきの言葉は消えてくれない。
 僕の視線はゆっくりと落ちていく。

「僕は、冬夜くんに幸せになってほしいって思ってる」

 願わくば、その隣に僕がいられたらって。
 この気持ちに嘘はない。
 僕がここまで駆けてきたのも、誰にも冬夜くんの隣を譲りたくないと思ったからだ。

「でも……でも、君に僕は似合わない」

 僕がそう告げると、静かに冬夜くんから表情が消えていった。
 笑っていてほしいと思っているのに、僕が、冬夜くんを傷付けている。
 その事実に胸が張り裂けそうになる。
 だけど、どうしても自信が伴わないんだ。

「さっきの、気にしてるの」

 怒りがこもった声に、僕は頷くこともできない。
 そんな僕の手を、冬夜くんは強く握りしめた。

「不安でもいい。俺の気持ちも、信じなくていい。それでも、俺の隣にいることをやめないで」

 冬夜くんの瞳が潤んでいく。
 僕は、冬夜くんのお願いに弱いんだ。
 だから、そんな顔をしないで。

「俺はただ、先輩に隣にいてほしいだけなんだよ……」

 今にも泣き出しそうな声。
 僕は、この人をここまで悲しませて、なにをしているんだろう。

「……僕も、冬夜くんのことが好きだよ」

 気付けばそう答えていた。
 その瞬間、冬夜くんは僕を抱き締めた。

「昊先輩……俺の恋人になって……」

 耳元で聞こえる、冬夜くんの柔い声。
 心臓が跳ねて、冬夜くんに聞こえてしまわないだろうかと思ったけど、僕よりも冬夜くんの心臓の音のほうが大きかった。
 お互いにそれに気付き、目が合った刹那、照れるように表情を綻ばせた。

「うん、なりたい」

 それから少しずつお互いの距離が近付き、唇が触れた。
 緊張していたからなのか、廊下が寒いからなのかわからないけど、僕たちの唇は冷たく、震えていた。

   ◇

「今日はマフィン?」

 いつもの席で、冬夜くんは僕が作ったお菓子を受け取ってくれた。
 さっき落としてしまったマフィンを。

「落としちゃったのに、いいの?」
「いいよ、気にしない」

 冬夜くんはそう言いながら、一口齧った。
 いつもなら、大げさなくらい「美味しい」って言ってくれるのに、今日は微妙な顔だ。

「もしかして、美味しくなかった……?」
「いや……俺、ドライフルーツが苦手なんだよね……」
「え!?」

 それを聞いて、僕は数回瞬きをした。
 思い返すのは、初めて二人でお弁当を食べた日のこと。

「冬夜くん、苦手なものはないって言ってなかった?」

 すると、冬夜くんは気まずそうに視線を逸らす。

「……かっこつけたかったの」

 僕の目の前にいるのは、やっぱりクールで冷たい冬夜くんなんかじゃない。
 可愛らしいところのある冬夜くん。

 だけど、この姿は誰にも教えない。
 冬夜くんが可愛いことを知っているのは、僕だけがいいから。