昼休みになると、僕の教室はざわついていた。特に、女子。

「ソラ先輩、いますか」

 その原因は、ドアの前に立っている市宮くん。
 ここを訪ねてくるやいなや、すぐに僕の名前を口にしたから、女子の視線が痛い。
 そのせいもあって、僕はすぐに市宮くんに見つかった。
 視線が交わり、僕はつい、視線を逸らしてしまった。
 飛んで火に入る夏の虫にはなりたくなくて。

 だけど、市宮くんは容赦なく僕のほうへ近寄ってきた。

「先輩、お昼一緒に食べませんか」

 まさかの、お昼のお誘い。

「いい、けど……」

 断る理由もないため、そう答えたものの、どうして僕を誘いにきたのか、わからなかった。
 普通は初めて言葉を交わした翌日、こうしてお昼のお誘いをするものなのだろうか。
 それも、先輩相手に。
 さすがに、僕はそこまでコミュニケーション能力が高くないから、不思議で仕方ない。

 だけど、市宮くんがほんの少しだけ表情を和らげたから、僕は難しいことを考えるのをやめた。
 市宮くんなりに、縦のつながりがほしいと思っているのかもしれない。
 そして近くの席から椅子を借りようと思ったけど、教室内にいる女子からの視線がこちらに集中していることに気付いた。
 こんなに見られていては、僕が落ち着かない。

「ここはちょっと落ち着かないから、移動しようか。和希くんはどうする?」

 僕は弁当箱を手にしながら、すでに定位置にいた和希くんに問いかける。

「あー……俺はいいや。部活の奴らと食べてくる」
「そっか、わかった。じゃあ市宮くん、行こう」

 教室を出るとき、一部の女子から不満そうな声が上がった気がしたけど、僕はそれを聞かなかったことにした。

 廊下を歩けば、やっぱり市宮くんは視線を集めた。
 かっこいいから見られているのか、一年生がここにいるのが珍しくて見られているのか。
 どちらも有り得るだろうけど、前者の割合が多そうだ。
 僕だって、昨日は市宮くんのまとう空気から目が離せなかったし。

「どこに行く、んですか」

 さすがかっこいい人は違うな、なんて思っていると、市宮くんが後ろから声をかけてきた。
 妙にぎこちない敬語が、ますます微笑ましさを増した。
 僕が少し声を漏らして笑うと、市宮くんは口を曲げた。

「敬語じゃなくてもいいよ。話しにくいでしょ?」
「でも……」

 躊躇うということは、中学時代は上下関係が厳しかったのだろうか。
 僕は気にしないから、市宮くんが過ごしやすいようにしてくれたらいいのにと思うけど、市宮くんが気にするのなら、敬語のままでもいいと言うべきだろうか。

「……わかった」

 そんなことを考えているうちに、市宮くんが言った。
 それでも、ほんの少しだけ抵抗があるのが見て取れる。
 年下だと認識したからだろうか、かっこいいはずなのに、可愛く見えてくる。
 なんて、本人にとっては不本意だろうから、言わないけど。

 そして僕たちは、人が少ない空き教室に入った。

「そういえば、まだ自己紹介してなかったよね? 夏村昊、二年です。よろしくね」
「……市宮冬夜、一年。昨日は、年上って知らずに失礼な態度を取って、ごめん」
「ううん、気にしないで」

 僕たちは軽く言葉を交わしながら、お弁当を広げていく。
 といっても、市宮くんのお昼はコンビニのおにぎり。

「お昼、それだけなの?」
「まあ」

 市宮くんは無愛想に言った。
 なんだか壁を作られたような気がするけど、まだ知り合って間もない僕が踏み込んでいいとも思えない。
 だから、「そっか」なんて当たり障りのない返答しかできなかった。

「先輩のは、美味しそうだね」

 市宮くんに言われた瞬間、嬉しくて口元が緩んだ。
 市宮くんに見られたら変な人だと思われると気付いて口元を隠したけど、遅かった。

「えっと……これ、自分で作ってるんだ」
「そうなの?」

 心から驚いたような声に、僕は頷いて応える。
 すると、市宮くんはじっとお弁当の中身を見つめた。

「なにか、食べる?」

 あまりにも目を輝かせているから、思わずそう言ってしまった。
 市宮くんは顔を上げると、少し目を見開いた。

「いいの?」

 クールな印象なんて、もはやない。
 僕の目には、可愛らしい犬のように見える。

「もちろん。ちょっと待ってね」

 弁当袋の中を探り、割り箸を取り出す。

「そういうの、常備してるの?」
「うん。和希くん……えっと、さっき一緒にいた子にも、よくおかずをわけたりするからね。さて、なににする?」

 僕が尋ねると、市宮くんは「じゃあ……」と改めてお弁当箱の中身を見ていく。
 そういえば、今日は少し失敗していたんだった。
 こうしてまじまじと見られると、なんだか恥ずかしい。
 だけど、今日はやっぱりダメ、なんて今更言えるわけもなく。

「やっぱり、卵焼き食べてみたい」

 市宮くんが選んだ卵焼きを、僕はさっき取り出した箸でお弁当箱の蓋の上に置いた。

「はい、どうぞ」

 市宮くんは割り箸を受け取ると、一口でそれを食べてしまった。
 半分ずつ口に入れていくのかと思っていたから、ちょっと意外だ。

「ん、おいしい」
「本当? よかったあ」

 市宮くんの素直な感想を聞いて、変な緊張感から解放され、表情が緩む。

「先輩は、いつも自分で弁当作ってるの?」

 役目を終えた割り箸を受け取ろうとすると、そう聞かれた。

「テスト期間以外は、基本作ってるかな」

 本当は毎日作りたいけれど、お母さんに「テスト期間くらいは母親らしいことさせてよ」と言われたことがあって、勉強することにしている。
 それを聞いて、市宮くんは「すご」と呟いた。
 そこまで言われると、なんだか照れ臭い。

「大変じゃないの?」
「んー……僕にとっては当たり前というか……あ、でも、お菓子作りとかは、息抜きになるよ」
「お菓子も作るんだ……」

 僕にとって新しい反応をしてくれるからか、どんどん話すことが楽しくなってきた。

「昨日も、妹がインスタで見かけたスイーツ食べたいって急に言い出して。作ったこともないお菓子だったから、家に材料がないっていうのに、わがままを押し通されちゃって」
「先輩は優しいんだね」

 予想外の言葉に、思わず言葉が止まった。
 お母さんたちには、妃奈を甘やかしすぎって言われるし、和希くんには頼み込めばなんでもやってくれそうって言われたことがある。
 つまり、僕がしていることはよくないことだと評価されてきた。

 だけど、市宮くんは違った。
 その優しい言葉が温かくて、僕は市宮くんの目が見れなくなってしまった。
 でも、戸惑っていることに気付かれたくなくて、お弁当を食べ進めることで誤魔化す。

 昨日、雨が降る中、お菓子の材料を買いに行ってよかった。
 そのおかげで、市宮くんと出会えたから。
 なんて、恥ずかしいから絶対に市宮くんには言えないけど。

「先輩も、SNS見たりするの?」
「僕? うーん……ネットには可愛くて美味しそうなお菓子がいっぱいあるから、それを見るくらいかな」

 市宮くんの質問に素直に答えたけど、男で可愛いお菓子を探しているなんて、変だと思われてしまいそうだ。
 市宮くんの反応が気になって視線を上げると、市宮くんはなにかに納得しているように見えた。
 どうやら、僕の考えすぎだったみたいだ。

「だからか……」

 市宮くんの独り言に首を傾げる。
 それに気付いたのか、市宮くんと視線が交わった。

「いや……結構俺の写真が勝手にSNSで広められてるんだけど、先輩があんまりそういうの見ない人だから、俺のこと知らなかったんだなって思っただけ」
「市宮くんの写真が? ネットに?」

 市宮くんの言葉が理解できなくて、僕は単語を繰り返した。
 それに対して、市宮くんは首を縦に振った。
 僕が気にしすぎなのかと思ってしまうくらい、自然な表情で。

「どうして、そんなに平気そうなの」

 僕が怒りを抱くなんておかしいとわかっている。
 だけど、怒らないなんて無理だ。
 他人の写真を勝手に拡散させることも、市宮くんがこうして諦めているのも。
 どれも、納得いかない。

「……慣れたから。勝手に見た目で評価されて、どんな人間なのか、決めつけられることに」

 市宮くんは視線を落として言った。

「そんなことに慣れちゃダメだよ」

 僕の怒りは、声色に現れた。
 市宮くんはそれに驚いたような表情を見せたけど、それは一瞬で、すぐに小さく笑った。

「先輩なら、そう言ってくれると思った」

 あまりにも市宮くんが嬉しそうに言うから、僕はなぜか戸惑ってしまった。
 昨日、初めて見かけたときのような儚さはどこにもない。
 だけど、あのときよりも、今の表情のほうが胸に響いた。

「ところで」
「えっ」

 急に話題転換する声がし、僕は間抜けな声を上げてしまった。
 恥ずかしいけど、市宮くんが柔らかく笑ってくれるから、複雑な気分だ。

「俺、先輩のお菓子食べてみたいんだけど」

 僕のほうを見てくる視線が「ダメ?」とおねだりしているみたいに見える。
 正直、妃奈におねだりされるよりも可愛く見えるから困る。
 これで断ることができる人なんているのだろうか。
 僕は無理だ。

「いいよ」

 そう言った途端、市宮くんの表情はますます穏やかになった。
 本当に、昨日見かけた人と同一人物だろうかと思ってしまうくらいだ。
 しかしお菓子といってもいろいろな種類がある。

「なにがいい?」
「先輩が得意なやつ」

 市宮くんはほんの少し迷う様子を見せたけど、すぐにそう言い切った。
 あまりにもはっきりと言うから、思わず笑ってしまう。

「市宮くんが好きなものを選んでもいいのに。じゃあ……苦手なものとかある? アレルギーとか」
「なにも」
「わかった。いつ作ってこようか」
「……明日は?」

 自分が無茶を言っているという自覚があるのか、市宮くんは躊躇いながら言った。

「大丈夫だよ。でも、今日みたいに教室に来られると騒ぎになっちゃいそうだから、ここで待ち合わせにしようか」

 僕から提案すると、市宮くんは嬉しそうに頷いた。
 それからすれ違いがおきないようにと、僕たちは連絡先を交換した。
 市宮くんの名前の漢字が〝冬夜〟だと知って、心の中で名前までかっこいいんだと思った。

 そして昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴ったとき、僕たちは空き教室を出る。

「今日は急に誘ってごめん」

 ドアを閉めていると、市宮くんが申し訳なさそうに言った。

「ううん、楽しかったよ」

 そう返すと、市宮くんは安心したような表情を浮かべた。
 本当に、この時間だけで印象がガラッと変わったな。

「そうだ。明日は、下の名前で呼んでよ。昊先輩」

 あまりにも唐突なお願いに、少し驚く。

「えっと……冬夜くん?」

 妃奈たちがそう呼んでいたから、耳馴染みはあったけど、自分が呼ぶとなれば話は別だ。
 市宮くんの名前を口にしてから、一気に体温が上がった。
 名前呼びに慣れる気がしない。

「うん」

 やっぱり無理だと言おうと思ったけど、市宮くんの表情がどの瞬間よりも嬉しそうに見えたから、僕はその言葉が言えなかった。