「俺、先輩のことが好きかも」
僕の目の前にいるのは、よく女の子たちにかっこいいと噂されている後輩。
彼の瞳は少し茶色なんだと気付いてしまうくらいの距離感で、彼は言った。
人気者が、僕をからかう嘘をついている。
そう言うには無理があるくらい、彼は真剣な瞳をしていた。
◇
あんなにも暑くてしんどかった夏は、すっかりと終わってしまった。
毎日天気が安定しなくて、秋がやってくるのだと感じる。
だけど、肌寒い中での雨は最悪だ。
冷たい風と、冷たい雨。
傘をさしているけど、あまり意味がないらしい。
ズボンが濡れてしまって、膝が冷え切ってしまっているのがわかる。
こんなに風が強くなると知っていたら、出かけなかったのに。
曇っているけど傘を持っていれば大丈夫だろう、なんて根拠なく出かけた午前中の自分を恨みたくなる。
そんなことを考えていると、また強い風が吹いて、目を瞑る。
今日はついていないな。
そうしてまたため息をついたときだった。
駅の前を通ろうとした僕の足は止まり、目の前の光景に釘付けになってしまった。
綺麗な黒髪が風になびき、その隙間から、雨はいつ止むのだろうかと空を見上げる顔が覗く。
まるで映画のワンシーンみたいだ。
だけど、そうして目を奪われているのは僕だけではなかった。
彼のそばを通る女性たちも、彼に視線をやりながら通り過ぎている。
背も高く、こんなにも憂いを帯びた表情を浮かべていては、注目の的になるのも当然だろうけど。
その瞬間だった。
横から強い風が吹いてきた。
傘がひっくり返りそうになって、僕は傘を握りしめる。
風が落ち着いてから視線を戻すと、さっきの彼は雨に濡れている。
顔を見れば、苛立ちを覚えているのが容易にわかる。
首を横に振り、右手で前髪をくしゃくしゃにしている。
傘がなくて困っているくらいだ。
きっと、タオルもないだろう。
「……あの」
僕が声をかけると、彼の瞳が僕のほうに向く。
僕が急に声をかけたからか、彼は少し驚いた表情を見せる。
それも、知らない人。
同性だとしても、警戒されるのも無理ない。
「よかったら、タオル使いますか?」
カバンからハンドタオルを取り出すと、彼は不思議そうな目をして僕を見ている。
やっぱり、余計なお世話だっただろうか。
実の妹にも「うざい」と言われるくらいだ。
他人からしてみれば、もっと鬱陶しいのかもしれない。
「……ありがとう」
タオルを引き下げようとしたとき、僕の手が軽くなった。
彼は僕のタオルで顔を拭いている。
どんな仕草も絵になるくらいかっこいいなんて、すごいな。
「昊くん!」
僕が再び彼から目を離せないでいると、すぐ近くで名前を呼ばれた。
声がしたほうを向くと、お父さんの車が真横に停まっていた。
妹の妃奈が車から顔を出しているけど、不機嫌そうなのは、僕が遅いからなのか、湿気で髪の毛の調子が悪いからか。
きっと、両方だろう。
だけど、妃奈は僕の近くにいる彼の存在に気付くと、不貞腐れた顔をやめ、前髪を整え始めた。
なんだか、面倒なことになりそうな予感がする。
はやくここを離れるのが最善だろう。
「あの」
僕が車のほうへ行こうとすると、彼に呼び止められた。
「はい?」
「これ……」
彼が言うのは、タオルのこと。
妃奈の登場ですっかり忘れていた。
「あげますよ。そうだ、傘もどうぞ。僕、車で帰れるので」
彼は戸惑っていたけど、僕は押し付けるように傘を渡すと、車のドアを開ける。
「妃奈、奥につめて」
そう言っても、妃奈は動こうとしない。
それどころか、僕のほうを見ようとしない。
そんなに彼のことが気になるのだろうか。
たしかに、かっこいいとは思うけど……
「あの! 冬夜くんですよね?」
まるで男性アイドルを前にしたかのような反応。
それも、名前まで知っているなんて。
「妃奈、知ってるの?」
僕が尋ねると、妃奈は目を見開いた。
「市宮冬夜くん! 昊くんと同じ高校の一年生だよ! 知らないの!?」
むしろ、どうして中学生の妃奈が知っているのか不明だけど。
改めて彼の顔を見ても、僕は見覚えがなく、小さく首を傾げる。
まあ、僕は部活に入っていないし、後輩と関わることが少ないから、わかるわけがないのだけど。
それに対して、妃奈が小さな声で「信じられない」とかこぼしているけど、僕は聞き流すことにした。
「えっと……市宮くん。同じ学校なら、それは貸すことにするね。また明日以降、返してくれたらいいから」
「え、妃奈、もっと冬夜くんと話したいんだけど!」
「はいはい、また今度ね」
僕の言葉に即座に反応したのは、妃奈だった。
ストレートな不平不満を聞きながら、僕は妃奈を車の奥に追いやり、車に乗り込む。
ドアが閉まっていく途中、ただただ立ち尽くしている市宮くんに気付いた。
こんなにも慌ただしいところを見られて、なんだか恥ずかしい。
「ねえ昊くん、どうして冬夜くんといたの? 友達になったの? じゃあ今度、うちに来てもらおうよ」
車が出発すると、妃奈は怒涛の質問攻めをしてきた。
自己完結させて話を進めているあたり、僕の返答なんてどうでもいいのだろう。
実際、妃奈が望むような答えはないから、それで構わないのだけど。
少しだけ静かにしてほしいと思いながら、僕は窓の外を眺めていた。
◇
昨日の雨が嘘だったかのように、青空が広がっている。
それでも、寒さだけが置いて行かれたみたいに冷える。
そろそろマフラーを用意したほうがいいだろうか。
そんなことを思いながら、いつもの道を歩き進めた。
「……ソラ」
そして校舎に入ろうとしたとき、ふと名前を呼ばれた。
声がしたほうを見ると、僕と同じ制服を着た市宮くんがそこにいる。
いや、着こなしが完璧すぎて、同じ服を着ているとは思えないけど。
本当に、僕と同じ学校だったんだ。
……というか、今、呼び捨てにされたような。
気のせい、だろうか。
「おはよう、市宮くん」
「おはよ」
市宮くんはどこか不愛想に挨拶を返してくれた。
こういう人を、クールと言うのだろうけど……市宮くん、僕が同級生だと思ってない?
たしかに、僕は市宮くんより少しだけ背が低いけど。
でも、そんなに先輩に見えないだろうか。
「これ、ありがと。助かった」
僕が勝手にもやもやしていると、市宮くんは僕の傘とタオルを差し出してきた。
昨日の今日で返しに来てくれるなんて、律儀な子だ。
「ううん。お役に立てたならよかった」
受け取ったタオルはふわふわで、朝一番で返すために乾かしてきてくれたんだと思うと、なんだか微笑ましくなる。
「昊、おっはよ!」
僕がタオルをカバンにしまっていると、横から誰かに突撃された。
その衝撃でタオルが落ちてしまいそうになったけど、咄嗟に強く握りしめたことで、落とさずに済んだ。
「和希くん、おはよう」
突撃してきたのは、高校から仲良くしている和希くん。
和希君はいたずらが成功したみたいに笑っている。
その楽しそうな顔を見ていると、文句が言いにくくなるから、やめてほしい。
「あれ、一年の王子じゃん。昊、なんで一緒にいんの?」
和希くんは不思議そうに市宮くんを眺めると、市宮くんは一瞬顔を顰めて目を逸らした。
もしかすると、市宮くんは見た目に関してなにか言われることが苦手なのかもしれない。
それなら、昨日も悪いことをしたな。
「昨日のお昼、雨が酷かったでしょ? 傘を貸したから、それを返しに来てくれたんだ。彼が市宮くんだってことは知らなかったけど……」
「知らなかった!? あれだけ女子がかっこいい後輩がいるって騒いでたのに!?」
和希くんは信じられないと言わんばかりに声を上げた。言われてみれば、春先、女子が浮足立っていた気がするけど、それが市宮くんだなんて、どうやって知ればよかったのか、むしろ教えてほしい。
「……先輩、なの?」
ふと、市宮くんが呟いた。
その顔には「しまった」とはっきりと書かれている。
そう言えば、まだ市宮くんの勘違いを訂正していなかった。
「えっと……うん、僕、二年なんだ」
すぐに言わなかった僕も悪いのに、市宮くんはますます申し訳なさそうにしている。
その気まずい空気を、和希くんの笑い声が吹き飛ばした。
「昊、同い年と思われてたのかよ」
和希くんが笑えば笑うほど、市宮くんは居心地悪そうにしているように見える。
たしかに僕の友達からしてみれば笑い話でしかないけど、今は市宮くんの気持ちも考えてあげてもいいと思う。
「……もういいから、行こう。市宮くん、傘、ありがとね」
僕はまだ笑っている和希くんの背中を押して、校舎に入った。
市宮くんが気にしていなければいいけど、と思ったけど、難しい話なのかもしれないとも思った。



