小説を最後まで読んで、あまりの衝撃にしばらく呼吸をするのすら忘れていた。
 葉月が私のことを、殺したいほど憎んでいるなんて、想像していなかったから。
 むしろ私のほうが、葉月を羨ましいと思って生きてきたのだから。
 葉月は私と違って、昔から人の気持ちがよく分かる子どもだったと思う。
 口数は多くないけれど、その分頭の中で考えていることが多くて、それゆえに誰かが発した言葉の裏の意味まで読み取って無駄に傷ついてしまう——葉月は、そんな子だった。
 私が葉月のことを羨ましいと思ったいちばんの出来事は、小学校に上がる直前に陽太くんのお母さんとお父さんが離婚した時のことだ。
 お母さんに捨てられるかたちで親と離れ離れになってしまった陽太くんが、いつになく落ち込んでいた。普段はあまり落ち込んでいるところは見せない子どもだったのに、ご両親が離婚した直後は、さすがの陽太くんも目に見ええて分かるほど、辛そうだった。
 そんな陽太くんをみかねて、私はなんとか彼を笑わせようと、変顔をしてみたり、「みんなで大縄跳びしない!?」と誘ってみたり、とにかく陽気なキャラで彼の心を楽しませようとした。自分は一ミリも楽しいなんて思えないことで、彼の心を動かそうとしていたのだ。
 でも、陽太くんは少しも笑ってくれなかった。
 それもそうだ、と大人になった今なら分かる。でもその時の自分には、笑わせる以外の方法が思いつかなくて、ひどく落ち込んだのを覚えている。 
 そんな時、横からすっと現れた葉月が、陽太くんの背中をポンポンと撫で始めた。

「……辛いときは、無理して笑わなくていいと思う」

 くっきりと私の耳に届く葉月の言葉が、私の胸をじわりと締め付けた。
 ああ、そうか。
 そうだよね。
 辛いときに、笑えと言われるほど酷なことはない。
 自分だって楽しくないときに偽りの笑顔を浮かべることに疲れているはずなのに、陽太くんに同じことを押し付けようとしていたんだ。
 葉月は瞬時に陽太くんの気持ちを理解して、彼に適切な言葉をかけた。

「ありがとう……」

 陽太くんは、葉月の思いやりに満ちた言葉に救われたんだろう。涙を浮かべながらも、ほっとした様子で深呼吸を始めた。
 このとき私は、猛烈に葉月のことを羨ましいと思った。
 私の心は空っぽなのに、葉月は人の弱い心を分かって、きちんと慰めていた。私にはできないことを、さらりとやってのける。確かに葉月は人前で笑うことは苦手だけれど、それ以上に誰かの心に寄り添える優しさを持っていた。
 だから、葉月が私を殺したいほど憎んでいるという内容の小説を読んで、心の底から驚いた。そして、今まで散々葉月の味方だとかなんだとか言いながら、葉月の心の深淵に気づけなかった自分を恥じた。
 私はやっぱり、ひとの気持ちが分からない、偽りの人間だったよ……。
 気づいていた。自分を取り繕って、みんなの「ひまわり」でいることで、傷つけてきた人がいることを。中学や高校で、仲良しだったみんなから、嫌味を言われたとき、悲しいとか悔しいという気持ち以上に、「そうだよね」と納得している自分がいた。

 そうだよ、みくり。私はいつも表面上でしか笑ってないの。計算してるってよく気づいたね。
 そうだよ、璃子。私には璃子の気持ちが、分からない。だって私は欠陥品なんだもん。
 そうだよ、涼くん。私はいつだって曖昧に誤魔化してばかりだ。陽太くんや涼くんの気持ちにだって気づいてたけど、誰かの気持ちに応えたら、みんなの「ひまわり」でいられなくなっちゃう。だから誤魔化した。みんなの関係と、自分の立ち位置を壊したくなかったから。
 
 みんなが私に毒を垂らすのを、甘んじて受け入れた。
 
 でも、ただ一人。
 陽太くんだけは、私に恨みや毒を吐かなかったね。
 それどころか、心の底から私の言葉を信じて、そばにいてくれたね。

——これからはちゃんと、ひまのこと守るよ。

 その言葉通り、私の心を守ろうとしてくれたね。

——ひまが楽しそうで俺も本当に楽しい!

 みんなで海へ遊びに行ったとき、水をかけ合いながら弾けるように笑って言ってくれたね。
 それが盲目的な恋ゆえだろうが、なんでも良かった。
 偽りしかなかった私の人生に、花を添えてくれたのは、間違いなくきみだった。
 だから、もしかしたらいつか、陽太くんが私の罪に気づいてくれるかもしれない。
 気づいてくれるほうに賭けて、葉月の小説を読んだあと、昔二人でよく遊びに行った図書館に、仕掛けを施した。『ひまわりの殺人』という本に、手作りの栞を挟んだのだ。陽太くんと一緒に読んだ思い出深い本。そこに、葉月への謝罪の気持ちと、私の好きな、タチアオイの花のイラストを添えて。

「これで……よし」

 しっかりと栞が挟まっていることを確認して、そっと棚に本を戻す。
 気づいてくれない可能性のほうがずっと高い。それに、もしかしたら陽太くん以外の誰かがこの本を手に取って、栞を見つけるかもしれない。それならそれで、もういいのだ。私の人生はそれまでだったということ。