それから時が流れ、七月。
 日葵とはほとんど連絡を取ることもなく大学生活を送っていたのだが、前期の講義が終わり、七月二十六日土曜日に彼女が帰ってきた。みんなの前で、二十五日の夜に帰ってきたと言ったのはすべて嘘だった。
 事前の連絡がなくて、突然のことだったので驚いた。
 帰ってきた日葵の顔は、ひどく憔悴していた。
 一目(ひとめ)で充実した大学生活を送れていないのだと悟った。

「ねえ葉月」

 帰ってきた日葵を玄関先で迎えた際に、日葵はいつもと変わらない明るい声を無理やり絞り出して、私に語りかける。

「やっぱり私、大学でもダメだったみたい。今度こそ、本当の自分でいようと頑張ったのに、小さい頃からの癖って治らないんだね」

「日葵、どうしたの」

「大学でも自分を偽って振る舞ってしまうの。新しい土地では心機一転上手くやれると思ったのにな……」

 日葵の瞳は虚ろだった。操り人形の糸が切れたみたいに脱力して、まるで別人だった。
 そんな彼女と三月の終わりに別れた時のことを思い出す。

「ねえ、日葵の言う“自分を偽ってる”ってどういう——」

 あのときも日葵は「本当の自分を偽って生きてくことに疲れた」と言っていた。だけど、私にはその言葉の意味が分からなかった。
 だから純粋に知りたかったのだ。私の知らない日葵がそこにいるような気がして。
 だけど、日葵は私の質問には答えずに、ぽつりとこう言い放った。

「私いま……葉月の気持ちが痛いほどよく分かる気がする」

 ずっと前から鳴いていた蝉の鳴き声が、突如としてぐわんと耳鳴りのように響いた。
 その時の自分の中に芽生えた衝動を、言葉にするのはとても難しい。身体中の血が巡りに巡って、私の意思とは関係なく、私の身体を操っていくかのような錯覚を覚えた。

「!!」

 気がつけば私は、日葵を非常階段のほうにドンッ、と押し倒した。そのとき、衝撃により日葵のポケットに入っていたスマホに付けられたキーホルダーが外れて、階段下の地面へと放り出されて落下するのが見えた。

「っ……」

 尻餅をついた日葵が、悲しそうな瞳で私を見上げる。もっと驚愕に満ちたまなざしを向けられるのかと思っていたのに、違っていた。
 まるで、そうなることを予想していたかのように、憂いの滲む表情が私の視界いっぱいに映り込む。
 この人は、誰だ……?
 私の知ってる日葵じゃない。
 いつでも笑顔を絶やさずに明るいオーラ全開で生きてきた日葵じゃない。

「葉月は……私のことが嫌い?」

「……うん、嫌い」

 つい素直な感情が口から滑り落ちる。
 私は日葵のことが嫌いだ。
 今も昔も、ずっとずっと——。

「そっか。そうだよね。じゃあ、私を殺してみて」

「……は」

 淡々とした口調が恐ろしく、本当に日葵が放った言葉なのかと疑ってしまう。
 どう出るべきか逡巡していると、日葵が見たことのない鋭い目つきで私を睨みつけた。

「できないの? 小説の中では私を殺してたのに? 葉月の私への憎しみってそんな程度?」

 その言葉を聞いた途端、私の中で駆けずり回っていた血液が、自分の中からぶわりと溢れ出して、辺り一面血の海と化する映像が見えた。もちろん妄想だ。が、もう自分自身のコントロールは効かなくなっていた。

「嫌いだよ。お姉ちゃんのことなんて、大っ嫌い!」

 発狂したように叫びながら、床に倒れていた彼女を、さらに階段の方へと突き落とした。
 バタバタバタ、ドタン、ドスン! と大きな音を立てて、日葵が下まで滑り落ちる。

「はあ……はあ……」

 自分が何をやってしまったのか、瞬時に理解することができなかった。いや、分かりたくなかった。いくら煽られたからとはいえ、自分の中にこんなにも残酷な一面が潜んでいることを、知りたくなかった。そして、それ以上に、転げ落ちた日葵の頭から血が流れているのを見て、目の前の光景がぐわんと揺れる。
 そんなバカな……。
 これは何かの冗談だ。
 私が、日葵をこの手で突き落としたなんて……。

「日葵……?」

 震える声で日葵の名前を呼ぶ。が、下から返事はない。おぼつかない足取りで手すりに縋りつきながら、日葵の倒れているところまで近寄っていく。

「は……づき……」

かろうじて息をしている日葵が途切れがちに言葉を紡ぐ。

「タイムカプセル……」

 それだけ言い残すと、力尽きたように脱力した。

「日葵……!」

 慌てて日葵の耳元で名前を呼ぶ。だが、すでに意識がなくなっていた。息をしていることだけが、救いだった。
 全身から汗が吹き出すのを感じながら、なんとか救急車を呼んだ。やがてやってきた救急車に日葵と一緒に乗り込むと、車の中でようやく自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだと悟る。

「日葵……お姉ちゃん……っ」

 自分がどれだけ愚かなのかを思い知って、救急車の中でひたすら嘆く。
 陽太くんに日葵の本当の気持ちなんて分からないと言ったけれど、日葵の気持ちを分かっていなかったのは私自身だった。
 日葵の命がどうか助かりますようにと必死で祈る。
 そのとき初めて、本当の自分の気持ちに気づいた。
 私は、日葵のことを殺したいほど憎んでいた。
 日葵がいなければ、こんな日陰者で嘘っぱちの人生にはならなかった。 
 だけど、日葵がいなければ、私の人生には一縷の光さえ差すこともなかったのだと。