怒りとか悲しみとか悔しさとか、人間が持ち得るすべての負の感情を一挙に集めたかのような気分で、家に帰り着いた。

「ただいま……」

 汗だくで帰ってきた俺を見て、キッチンで夕飯の準備をしていた母親が「うわ」と、声を上げる。

「汗がすごいわね。シャワー浴びてきたら?」

「……ああ」

 母に言われて、お風呂でシャワーを浴びた。身体をタオルで擦っている間も、髪の毛をゴシゴシと洗っている間も、葉月や涼たちから言われた言葉が何度もフラッシュバックした。

——もう日葵のこと詮索するのはやめよう。

「くそっ」

 先ほど転んだときに擦りむいてほんの少しだけ皮が捲れた膝がジンジンと痛む。痛みを麻痺させるようにシャワーを思い切り当てて、歯を食いしばる。そのうち痛みに慣れて、何も感じなくなった。
 お風呂から上がると、部屋の勉強椅子にドスンと腰掛けた。
 顔を真上に向けて深呼吸をする。自分の呼吸音だけが響く部屋の中で、いよいよみんなと道を違えてしまったことを痛感する。

「そうだ、日記」

 葉月や涼、みくり、璃子のことを考えて胸が痛くなっていたところで、日葵の日記の存在を思い出した。鞄から一冊のノートを取り出す。去年の四月からの出来事が綴られた日葵の日記を、もう一度よく読んでみようと思った。
 日記には、些細な日常が綴られていた。
 今日は進路懇談会で学校が終わるのが早くてラッキーだったとか、学校帰りに新しいクラスの友達とジェラートを食べに行ったとか。微笑ましくも女子高生らしい出来事で埋め尽くされていた。友達とテスト勉強をした話、テストで成績優秀者として表彰された話、体育でヘマをして転んでしまった話。日記に綴られている日葵は俺の知っている彼女そのものだった。
 四月、五月、六月、七月——と、日記のページをめくっていたところでふと手が止まった。
 そこに書かれていた内容は、これまでの日記の内容とは一線を画すようなものだった。

『二〇二四年七月二十三日火曜日。一学期の終業式、陽太くんと二人で映画を見に行った。最近若者の間で流行りの青春映画。陽太くんが誘ってくれたときは嬉しかったな。映画の内容は……余命一年のヒロインの女の子が、余命一ヶ月のヒーローと出会って恋をする話。あらすじからして絶対に泣ける物語だっていうのはすぐに分かった。案の定、私は泣いてしまった。でも、泣いたのはヒロインとヒーローの残酷な運命を、悲しく思ったからじゃない。こんなに綺麗な恋の終わりがあるのかと、衝撃を受けたからだ。ヒロインもヒーローも、二人とも相手をすごく思いやっていて、根暗だというコンプレックスを持っているヒロインでさえ、清く美しい人間に見えた。……私とは全然違うなって痛感してしまって。私は、この映画の主人公たちみたいに、綺麗になれない。一年生の頃だったかな。璃子ちゃんに、「日葵ちゃんは心がきれいだからわたしの気持ちなんてわからないよ」と言われたことがある。そのとき私は、すごく胸が痛くなった。璃子ちゃんに嫌味を言われたからじゃない。璃子ちゃんが見ている私が、本当の私とは違うんだって痛感したから。私は決して心が綺麗な人間じゃない。それなのに、璃子ちゃんには綺麗な人間に見えてるんだって分かって辛かった。
 映画を観たあと、陽太くんとカフェで一服しながら感想を言い合った。私が泣いたのが印象的だったのか、陽太くんは「やっぱりひまは泣くと思ってた」って言ったんだ。
「どうして?」とわざとおちゃらけて訊いたら、「泣ける純愛ストーリーだからさ。ひまってそういう切ない系の話にすぐ影響されそうだから。それに、ヒロインの女の子がどことなくひまに似てると思って。心が綺麗なところが特に」と、彼は答えてくれた。
 陽太くんの言葉を聞いて、胸が抉られるみたいに痛くなった。 
 陽太くんも、本当の私を見てくれていないんだって——……。
 分かっている。本当の自分を今まで誰にも見せてこなかったのは自分だもん。陽太くんが悪いわけじゃない。でも……心のどこかで、陽太くんなら私の心を見抜いてくれるんじゃないかって思っていた。
 私は本当は綺麗でもなんでもない、欠陥のある人間だって。嫉妬や悲しみだって抱えてるし、黒い感情は人一倍大きいかもしれない。
 気づいてほしいっていう気持ちと、誰も気づかないでって思う気持ちが、ずっと私の中に燻ってる。いつか爆発してしまうかもしれない。壊れてしまうかもしれない。そう思うと、夜、怖くて眠れなくなることがある』

 長い日記はそこで終わっていた。翌日以降の日記はいつも通り、些細な日常の出来事を綴ったものだった。
 日記を読みながら、実の母の冷たい視線を思い出して胸が締め付けられた。
 自分のことを見てほしい。わかってほしい。
 そう思えば思うほど、母はどんどん自分から遠ざかっていった。
 ドクン、ドクン、と日記の内容を頭の中で反芻する。
 高校三年生一学期の終業式の日。
 確かに俺は、ひまを映画に誘って、二人で青春映画を見に行った。タイトルも覚えている。『この命が尽きる前に、きみとふたり恋をする』。
 日記に書いてある通り、流行りの青春映画だった。お涙頂戴ストーリーだということは承知した上でひまを誘った。その頃の俺は、いつひまに自分の気持ちを伝えようかということばかり考えていて、デートの後に、告白しようとまで考えていた。
 結果は勇気が出ずに、普通に解散して終わってしまったのだけれど……。
 映画の内容も、ひまに「ヒロインに似ている」と言ったことも覚えている。でも、俺のその些細な言葉に対して、ひまがそんなふうに感じていたなんて。 
 目の前が真っ白になった。
 “陽太くんは本当の私を見てくれていない”
 日記に書いてある一文が、鋭い刃になって俺の胸に突き刺さる。
 ひまが俺のことをどう見ていたのか。いま初めて彼女の心のうちを垣間見て、呆然としている自分がいた。
 俺が……俺がひまを。
 傷つけたんだ——。
 涼の言う通りだった。涼も、みくりも、璃子も、俺も。
 みんなでひまを追い詰めた。
 目の前に続いていた道が崩壊していく想像をして、目がくらんだ。日記を手から滑り落としてぎゅっと目を閉じる。
 そうして何分、何時間、椅子に座っていただろう。気がつけば母親から夕飯に呼ばれていて、茫然自失状態のまま、部屋を出たのだった。