教室の中でジリジリと追い詰められるようになって三ヶ月。
冷房の効いた教室で、ある日吉川さんがこんなことを言った。
「ねー山辺。そろそろ限界じゃない? もう疲れたでしょ。この状況から抜け出したいでしょ」
「……」
どの口が言うのだが分からないが、突然彼女がそう切り出した時、一瞬でも「もしかしたら解放してくれるかも」と楽観視した自分を殴ってやりたい。次に彼女の口から飛び出してきた言葉は、衝撃的なものだった。
「解放してあげてもいいよ。その代わり、青島を無視しよう。山辺、あんた青島と幼馴染なんでしょ。あ、もしかして親友だったりする? ちょっと前まであんたのこと庇ってくれてたもんね。でも最近は仲悪いみたいだし? あんた、青島に嫉妬してるんでしょ。バレバレだっつうの。ねえ、だからみんなで無視しようよ。あたしらも、青島のことが目障りだったんだー」
ケタケタと嘲り笑う吉川さんの顔は、ニタアと唇を大きく開くピエロのようだった。
彼女が日葵ちゃんの苗字である「青島」という名前をつぶやくたびに、背筋を嫌な汗が伝う。日葵ちゃんは男子にも女子にもよくモテる。クラスの中心にいたいと思っている吉川さんにとって、日葵ちゃんの存在が脅威だというのは火を見るよりも明らかだ。
でも、だからと言って日葵ちゃんをいじめるなんて……。
いくら自分が解放されたいからとはいえ、小学校のときから仲が良かった友達を売るなんてと、心が拒絶反応を示す。だが、わたしの気持ちを見透かしたかのように、吉川さんは「あんたさあ」と続けた。
「いい加減、あいつの前で猫被るのやめたら。嫉妬してるならはっきり言えばいいじゃん。それとも何? もしかしてこのままでいいの? 最底辺のままで」
「……」
悪魔のような囁きに、耳を塞ぎたくなった。
必死に首を横に振りながら、それでも吉川さんの言葉に耳を傾けてしまう自分がいた。
「やれるよね?」
だめ。絶対にだめ。友達を売るなんて、本当にやってはいけないことだ。
……と、頭ではそう思うのに、心は違う反応をしていた。
この地獄から、逃れられるなら……。
気づいたら頭の中がぼうっとしていて、判断力を失っていた。頷くことも、否定することもない。操り人形のような自分がそこにいた。自分でも不思議な気分だった。わたしの気持ちはどこへ行ってしまったんだろう? 分からない。ただ一つ言えることは、その日を境に、わたしも吉川さんたちと一緒になって、日葵ちゃんのことを無視し始めてしまったことだ。
日葵ちゃんは教室に隅っこで、大人しく絵を描いていた。
みんな、日葵ちゃんに憧れを抱いているはずなのに、クラスでいちばん権力を持っている吉川さんが、彼女を無視するから。誰も、日葵ちゃんに話しかけられなくなった。それでも、彼女はなんでもないふうに毎日学校に来ていた。毎日毎日、誰からも声をかけられなくなっても、時折悲しそうな表情を浮かべながらノートに絵を描いていた。「あいつ何描いてんの?」と吉川さんと取り巻きたちが彼女のことを嘲笑う声は聞こえないふりをした。日葵ちゃんが描いていたのはなんだったんだろう。遠くから眺めていただけの当時のわたしには、知る由もなかった。
「おはよう、璃子」
日葵ちゃんは、わたしのせいでみんなから無視されているにも関わらず、わたしに毎朝挨拶をしてくれた。胸が痛くて仕方がなかった。「おはよう……」と返す自分の声は恐ろしいほど震えていて、毎朝その場から逃げ出したくなった。このときもわたしは、悪意に立ち向かう勇気がなく、ただ時が過ぎるのをひたすら待っていた。
クラスの中で浮いてしまった日葵ちゃんちゃんだったが、彼女のもとへ訪ねてくる人がいた。
「ひま、何してんの? 一緒にお昼どう?」
陽太くんだ。
陽太くんは日葵ちゃんがクラスで無視されているのを知ってか知らずが、とにかく彼女に話しかけにくる。その無邪気な態度が、わたしの胸を締め付けた。あの様子だとたぶん日葵ちゃんが置かれている状況なんて、知らないだろう。日葵ちゃんも自分から陽太くんにこういうことを話すタイプではない。たぶん、陽太くんの前でもいつも通り明るく振る舞っているだろうから。
「うん、いいよ」
いつものように笑って答える日葵ちゃんだったが、その瞳には一瞬翳りが見えたような気がした。だけど、目の前にいる陽太くんは日葵ちゃんの些細な表情の変化に気づかない。わたしは心が苦しくなって、思わずそっと彼らから目を逸らした。
「よっしゃ、行こうぜ!」
屈託ない笑顔を浮かべて喜ぶ陽太くんの顔を見て、胸に裁縫針をチクチク刺されたみたいな痛みを覚える。
陽太くんが、いつどんな時でも日葵ちゃんを想い、日葵ちゃんのためだけに行動をしていることを、身に沁みて感じてしまった。自分の中にある恋心が疼く。ずっとひた隠しにしていた。だって、わたしたち幼馴染五人の中に、恋愛感情は必要ないから。誰かと誰かが付き合ったり、告白して振られたり、そんなことになれば、わたしたちはきっと五人ではいられない。そう思って、この気持ちは一生封印しようと思っていた。
でも、陽太くんは隠さない。
日葵ちゃんが気づいているかどうかはともかく、わたしやみくりちゃん、涼くんはとっくの昔に、彼の気持ちを知っていた。自分の気持ちにまっすぐな陽太くんに呆れつつも、みんなどこか応援するような気持ちで陽太くんのことを見ていたと思う。
でも、わたしだけ。
わたしだけが、心の底から陽太くんの気持ちを殴って、亡きものにしたかった。
そんなふうに感じてしまう自分が嫌いだ。
冷房の効いた教室で、ある日吉川さんがこんなことを言った。
「ねー山辺。そろそろ限界じゃない? もう疲れたでしょ。この状況から抜け出したいでしょ」
「……」
どの口が言うのだが分からないが、突然彼女がそう切り出した時、一瞬でも「もしかしたら解放してくれるかも」と楽観視した自分を殴ってやりたい。次に彼女の口から飛び出してきた言葉は、衝撃的なものだった。
「解放してあげてもいいよ。その代わり、青島を無視しよう。山辺、あんた青島と幼馴染なんでしょ。あ、もしかして親友だったりする? ちょっと前まであんたのこと庇ってくれてたもんね。でも最近は仲悪いみたいだし? あんた、青島に嫉妬してるんでしょ。バレバレだっつうの。ねえ、だからみんなで無視しようよ。あたしらも、青島のことが目障りだったんだー」
ケタケタと嘲り笑う吉川さんの顔は、ニタアと唇を大きく開くピエロのようだった。
彼女が日葵ちゃんの苗字である「青島」という名前をつぶやくたびに、背筋を嫌な汗が伝う。日葵ちゃんは男子にも女子にもよくモテる。クラスの中心にいたいと思っている吉川さんにとって、日葵ちゃんの存在が脅威だというのは火を見るよりも明らかだ。
でも、だからと言って日葵ちゃんをいじめるなんて……。
いくら自分が解放されたいからとはいえ、小学校のときから仲が良かった友達を売るなんてと、心が拒絶反応を示す。だが、わたしの気持ちを見透かしたかのように、吉川さんは「あんたさあ」と続けた。
「いい加減、あいつの前で猫被るのやめたら。嫉妬してるならはっきり言えばいいじゃん。それとも何? もしかしてこのままでいいの? 最底辺のままで」
「……」
悪魔のような囁きに、耳を塞ぎたくなった。
必死に首を横に振りながら、それでも吉川さんの言葉に耳を傾けてしまう自分がいた。
「やれるよね?」
だめ。絶対にだめ。友達を売るなんて、本当にやってはいけないことだ。
……と、頭ではそう思うのに、心は違う反応をしていた。
この地獄から、逃れられるなら……。
気づいたら頭の中がぼうっとしていて、判断力を失っていた。頷くことも、否定することもない。操り人形のような自分がそこにいた。自分でも不思議な気分だった。わたしの気持ちはどこへ行ってしまったんだろう? 分からない。ただ一つ言えることは、その日を境に、わたしも吉川さんたちと一緒になって、日葵ちゃんのことを無視し始めてしまったことだ。
日葵ちゃんは教室に隅っこで、大人しく絵を描いていた。
みんな、日葵ちゃんに憧れを抱いているはずなのに、クラスでいちばん権力を持っている吉川さんが、彼女を無視するから。誰も、日葵ちゃんに話しかけられなくなった。それでも、彼女はなんでもないふうに毎日学校に来ていた。毎日毎日、誰からも声をかけられなくなっても、時折悲しそうな表情を浮かべながらノートに絵を描いていた。「あいつ何描いてんの?」と吉川さんと取り巻きたちが彼女のことを嘲笑う声は聞こえないふりをした。日葵ちゃんが描いていたのはなんだったんだろう。遠くから眺めていただけの当時のわたしには、知る由もなかった。
「おはよう、璃子」
日葵ちゃんは、わたしのせいでみんなから無視されているにも関わらず、わたしに毎朝挨拶をしてくれた。胸が痛くて仕方がなかった。「おはよう……」と返す自分の声は恐ろしいほど震えていて、毎朝その場から逃げ出したくなった。このときもわたしは、悪意に立ち向かう勇気がなく、ただ時が過ぎるのをひたすら待っていた。
クラスの中で浮いてしまった日葵ちゃんちゃんだったが、彼女のもとへ訪ねてくる人がいた。
「ひま、何してんの? 一緒にお昼どう?」
陽太くんだ。
陽太くんは日葵ちゃんがクラスで無視されているのを知ってか知らずが、とにかく彼女に話しかけにくる。その無邪気な態度が、わたしの胸を締め付けた。あの様子だとたぶん日葵ちゃんが置かれている状況なんて、知らないだろう。日葵ちゃんも自分から陽太くんにこういうことを話すタイプではない。たぶん、陽太くんの前でもいつも通り明るく振る舞っているだろうから。
「うん、いいよ」
いつものように笑って答える日葵ちゃんだったが、その瞳には一瞬翳りが見えたような気がした。だけど、目の前にいる陽太くんは日葵ちゃんの些細な表情の変化に気づかない。わたしは心が苦しくなって、思わずそっと彼らから目を逸らした。
「よっしゃ、行こうぜ!」
屈託ない笑顔を浮かべて喜ぶ陽太くんの顔を見て、胸に裁縫針をチクチク刺されたみたいな痛みを覚える。
陽太くんが、いつどんな時でも日葵ちゃんを想い、日葵ちゃんのためだけに行動をしていることを、身に沁みて感じてしまった。自分の中にある恋心が疼く。ずっとひた隠しにしていた。だって、わたしたち幼馴染五人の中に、恋愛感情は必要ないから。誰かと誰かが付き合ったり、告白して振られたり、そんなことになれば、わたしたちはきっと五人ではいられない。そう思って、この気持ちは一生封印しようと思っていた。
でも、陽太くんは隠さない。
日葵ちゃんが気づいているかどうかはともかく、わたしやみくりちゃん、涼くんはとっくの昔に、彼の気持ちを知っていた。自分の気持ちにまっすぐな陽太くんに呆れつつも、みんなどこか応援するような気持ちで陽太くんのことを見ていたと思う。
でも、わたしだけ。
わたしだけが、心の底から陽太くんの気持ちを殴って、亡きものにしたかった。
そんなふうに感じてしまう自分が嫌いだ。



