◆
翌日の火曜日。
部活のない今日は六時間目の古文の授業を受けた後、実夏と一緒にファミレスで期間限定のいちごパフェを食べに行く予定だった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、荷物を鞄の中に詰める。できるだけ早くお店に行って、パフェを食し、家に帰りたいという気持ちがあった。友達とパフェを食べるイベントが楽しみなのは事実だ。でも、私の中にはいつだって「勉強しなくちゃ」という思考が渦巻いている。だから、二人で遊びに行く時には表面上は楽しい、今この瞬間がずっと続けばいいねなんて笑いながら、心では「勉強、やばい」と焦っている。
実夏はどうなんだろうか。私は彼女が学校でカリカリ勉強をしているところをあまり見たことがない。あくせく勉強しなくても点数だけはさらっと取れてしまうタイプなんだと思う。彼女の表情にはいつも余裕があって、彼女の周りには爽やかな風が吹いている。
「ごめん芽衣、ちょっとトイレに行ってくるね」
焦る自分とは裏腹に、実夏はマイペースに教室から出ていった。まあ、トイレぐらいすぐに終わるし。カッカするな、私。となんとか気持ちを宥める。
五分が経った。十分、十五分が経った。さすがに遅くない? お腹でも壊したんだろうか。不思議に思いながら、彼女の荷物も一緒に持って教室から出た。廊下の端っこにあるトイレの方に向かっている途中で、あっと視線が止まる。
トイレの前の廊下で、実夏と国語科の宵山恵理子先生が話しているのを見た。私の一年生の時の担任で、今の今まで二年一組の教室で授業をしてくれていた。
先生には一年の頃に散々お世話になった。四十代ぐらいのお母さん的な先生で、主に古文、漢文を担当している。授業はとても厳しくて、おまけに進むのが早いので、「古典の鬼」と呼ばれていた。けれど、先生は私たち生徒のことを一番に考え、みんなの成績を上げるために手を尽くしてくれていることを知っている。夜遅くまでプリントを作ったり、質問に答えてくれたり。私は、授業中以外でも職員室に行き先生に勉強の相談をすることが多々あった。いつも、成績が伸び悩み不安に思う私の気持ちに寄り添い、おすすめの勉強法なんかも教えてくれる生徒思いの先生だった。
そんな先生のことが、私は好きだ。敬意を込めて、「恵理子先生」と呼んでいる。
人として、好き。大好き。先生が私に「今日も頑張ってるね」と笑いかけてくれる、優しい笑顔が好き。他の生徒のことは苗字で呼んでいるのに、私のことを「芽衣ちゃん」と名前で呼んでくれるところも好き。いつしか、先生に褒めてもらうために、勉強を頑張っている自分がいることに気づいた。志望大学に合格したいという気持ちはもちろんあるけれど、それ以上に、先生の視界の真ん中に、いつまでも居座っていたかった。先生のことを考えると、胸がきゅうっと苦しくなる。恵理子先生を想う気持ちは、学年一だと思う。誰にも負けない自信があった。
その、大好きな先生が、廊下で実夏と何やら話し込んでいる。ドクドクと、心臓は早鐘を打つように響いた。二人に気づかれないようにそっと近づいて、聞き耳を立てる。聞かなきゃいいのに、どうしてもだめだった。
「実夏ちゃん、今回のテストも頑張ってたわね。満点なんて、びっくりしたわ。さすがに満点を取る子はいないだろうって思ってたから」
恵理子先生の声は、自分が作成したテストで百点の壁を破られてどこか悔しそうだったけれど、嬉しそうでもあった。声のトーンは高く、桃色に弾んでいる。そんな先生の言葉を聞いて、実夏は控えめに首を横に振った。
「先生に言われたことを、そのまま解答用紙に反映させただけですよ」
「それが、普通はできないものよ。さすがね」
褒められすぎて、どう反応すればいいか分からない——そんな心中が透けて見えるように、実夏はへへへと眉を下げて笑った。
そんな実夏の反応もさることながら、一番気になったのはやっぱり、先生が実夏のことを「実夏ちゃん」と名前で呼んだことだ。
私の……私の特権だったのに。
先生から名前で呼んでもらうことが、唯一、実夏に対するアドバンテージだと思っていた。それなのに、先生からの愛すら私から奪うの? 実夏にはまったく非がないことだと分かっているのに、無防備な彼女の横顔を、墨で塗りつぶしたくなった。
「あれ、芽衣、どうしたの」
私の存在に気づいた実夏が、不思議そうな顔を向ける。どうしたの、じゃないでしょ。パフェ食べに行く約束したじゃん。無言の訴えが通じたのか、彼女は思い出したかのように「あ、ごめん!」とぱちんと両手を合わせた。
「つい宵山先生と話し込んじゃって。すぐ戻るね」
あたふたしだす実夏に、「大丈夫」と笑って答える。だって、後ろに恵理子先生がいるんだもん。
「実夏の荷物、ここにあるよ。早く行こう」
「わ、ありがとう。急ご!」
誰のせいで急いで階段を降りなきゃいけなくなったのか、とため息を吐いた。実夏のことを、なんだかんだ手放せない自分がきらい。実夏、実夏、実夏。みんなが彼女の名前を一番に呼ぶ。実夏と、芽衣じゃん。学年一位と二位。今回も、すごかったね。実夏、勉強教えて。忙しい? あ、じゃあ芽衣は?
いつだって実夏に一番を取られる。
だけど、本当は私が実夏を一番に取りたいと思っている。
実夏と一番仲が良いのは自分だって、周りに分かってほしくてたまらない。この歪みきった気持ちはどこからくるんだろう。身勝手で、盲目的な私の気持ちは、駆け降りた階段のどこにも置いていくことができず、そのまま実夏の後ろをひっついて回る。
——芽衣ちゃんも、リレー見学組?
実夏と仲良くなったきっかけは、一年生の夏に行われた運動会でのことだった。
一年生の頃、実夏とは違うクラスだったが、運動会では同じ赤ブロックに所属していた。女子の八割がリレーへと出かけていき、スタンドに残っていた私は、ぼうっと流れていく雲を眺めていた。昔から運動が苦手で、特に走るのが遅かった。五十メートルを走るのに、十秒かかる。そのことがコンプレックスだったので、スタンドではできるだけ姿勢を低くして、誰の視界にも入らないように努力していた。残っている女子はみんな、私と同じくらい足が遅い子で、性格も、どちらかといえば控えめな子が多かった。
実夏とは書道部で同じだったけれど、週に二回しかない部活のため、そこまで深く会話をしたことがなかった。だけど実夏のことは当然ずっと意識していた。中間テストと期末テストの計二回、どちらも一位を取った秀才。順位表では私の一つ上に名前があるのに、点数は十点以上も離れている。近いようで、とても遠い存在だった。
そんな彼女が自ら話しかけてくれたことに驚き、同時にとても嬉しかったのを覚えている。
——うん。実夏ちゃんも?
——そうだよ。運動苦手だもん。走るの超苦手。私、五十メートル十一・四秒なんだよ。信じられないでしょ?
ケタケタと笑いながら、走るのが遅いことを自慢する実夏。私よりも遅い。それなのに、あまりにも清々しい態度に、私はぽかんと口を開けてしまった。
——十一秒台の人、いるんだ。
——いるよ〜ここに! 速く走ろうとした足がもつれちゃうから、意識してゆっくり走っちゃうんだよねえ。
——えっ、意識して、ゆっくり?
——そうそう。だって転ぶの嫌じゃん。痛いじゃん。
——そりゃそうだけど……。タイム、遅くなるの、悔しくないの?
——全然! 運動できないのはもう仕方ないし。その分勉強頑張るって決めてるから。
堂々とした物言いに、胸の奥にズドンと衝撃が走った。
すごい。格好良い。
速く走れないことをくよくよするのではなく、仕方ないと割り切って他にできることを伸ばそうとしている。まるで人生の教祖にでも出会ったような気分で、風に靡く実夏の髪の毛を眺めた。
結局その日は、運動会が終わるまでずっと、実夏と他愛もない話をして盛り上がった。優勝は、青ブロックです——というアナウンスが流れて、周りのみんなが落ち込んでいるのを見ても、私たちの心は少しも揺れなかった。だって、運動できないし。仕方ないし。勝てなくたって、悔しくないし。それよりも何よりも、心を通じ合える友達を見つけたことが嬉しくて、運動会では負けたのに、思わず笑みが溢れそうになった。表情筋に力を入れて必死に押さえ込んだ。
それからというもの、私は部内で一番実夏と行動を共にするようになった。自分の弱みを知られてしまった実夏にはもう何でも打ち明けることができた。テスト前には一緒に勉強をすることもあるし、お互いに分からない箇所を教え合うこともある。夏休みには実夏と二人で映画やカフェ巡りの旅に出て、女子高生らしく裸足で海の波打ち際を駆けた。もちろん、転ばないようにゆっくりと。
実夏と期間限定いちごパフェを食べた後、結局一時間ほどしてお店を後にした。店を出る時もまだ、甘酸っぱい果実の香りが口の中に残っていた。
翌日の火曜日。
部活のない今日は六時間目の古文の授業を受けた後、実夏と一緒にファミレスで期間限定のいちごパフェを食べに行く予定だった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、荷物を鞄の中に詰める。できるだけ早くお店に行って、パフェを食し、家に帰りたいという気持ちがあった。友達とパフェを食べるイベントが楽しみなのは事実だ。でも、私の中にはいつだって「勉強しなくちゃ」という思考が渦巻いている。だから、二人で遊びに行く時には表面上は楽しい、今この瞬間がずっと続けばいいねなんて笑いながら、心では「勉強、やばい」と焦っている。
実夏はどうなんだろうか。私は彼女が学校でカリカリ勉強をしているところをあまり見たことがない。あくせく勉強しなくても点数だけはさらっと取れてしまうタイプなんだと思う。彼女の表情にはいつも余裕があって、彼女の周りには爽やかな風が吹いている。
「ごめん芽衣、ちょっとトイレに行ってくるね」
焦る自分とは裏腹に、実夏はマイペースに教室から出ていった。まあ、トイレぐらいすぐに終わるし。カッカするな、私。となんとか気持ちを宥める。
五分が経った。十分、十五分が経った。さすがに遅くない? お腹でも壊したんだろうか。不思議に思いながら、彼女の荷物も一緒に持って教室から出た。廊下の端っこにあるトイレの方に向かっている途中で、あっと視線が止まる。
トイレの前の廊下で、実夏と国語科の宵山恵理子先生が話しているのを見た。私の一年生の時の担任で、今の今まで二年一組の教室で授業をしてくれていた。
先生には一年の頃に散々お世話になった。四十代ぐらいのお母さん的な先生で、主に古文、漢文を担当している。授業はとても厳しくて、おまけに進むのが早いので、「古典の鬼」と呼ばれていた。けれど、先生は私たち生徒のことを一番に考え、みんなの成績を上げるために手を尽くしてくれていることを知っている。夜遅くまでプリントを作ったり、質問に答えてくれたり。私は、授業中以外でも職員室に行き先生に勉強の相談をすることが多々あった。いつも、成績が伸び悩み不安に思う私の気持ちに寄り添い、おすすめの勉強法なんかも教えてくれる生徒思いの先生だった。
そんな先生のことが、私は好きだ。敬意を込めて、「恵理子先生」と呼んでいる。
人として、好き。大好き。先生が私に「今日も頑張ってるね」と笑いかけてくれる、優しい笑顔が好き。他の生徒のことは苗字で呼んでいるのに、私のことを「芽衣ちゃん」と名前で呼んでくれるところも好き。いつしか、先生に褒めてもらうために、勉強を頑張っている自分がいることに気づいた。志望大学に合格したいという気持ちはもちろんあるけれど、それ以上に、先生の視界の真ん中に、いつまでも居座っていたかった。先生のことを考えると、胸がきゅうっと苦しくなる。恵理子先生を想う気持ちは、学年一だと思う。誰にも負けない自信があった。
その、大好きな先生が、廊下で実夏と何やら話し込んでいる。ドクドクと、心臓は早鐘を打つように響いた。二人に気づかれないようにそっと近づいて、聞き耳を立てる。聞かなきゃいいのに、どうしてもだめだった。
「実夏ちゃん、今回のテストも頑張ってたわね。満点なんて、びっくりしたわ。さすがに満点を取る子はいないだろうって思ってたから」
恵理子先生の声は、自分が作成したテストで百点の壁を破られてどこか悔しそうだったけれど、嬉しそうでもあった。声のトーンは高く、桃色に弾んでいる。そんな先生の言葉を聞いて、実夏は控えめに首を横に振った。
「先生に言われたことを、そのまま解答用紙に反映させただけですよ」
「それが、普通はできないものよ。さすがね」
褒められすぎて、どう反応すればいいか分からない——そんな心中が透けて見えるように、実夏はへへへと眉を下げて笑った。
そんな実夏の反応もさることながら、一番気になったのはやっぱり、先生が実夏のことを「実夏ちゃん」と名前で呼んだことだ。
私の……私の特権だったのに。
先生から名前で呼んでもらうことが、唯一、実夏に対するアドバンテージだと思っていた。それなのに、先生からの愛すら私から奪うの? 実夏にはまったく非がないことだと分かっているのに、無防備な彼女の横顔を、墨で塗りつぶしたくなった。
「あれ、芽衣、どうしたの」
私の存在に気づいた実夏が、不思議そうな顔を向ける。どうしたの、じゃないでしょ。パフェ食べに行く約束したじゃん。無言の訴えが通じたのか、彼女は思い出したかのように「あ、ごめん!」とぱちんと両手を合わせた。
「つい宵山先生と話し込んじゃって。すぐ戻るね」
あたふたしだす実夏に、「大丈夫」と笑って答える。だって、後ろに恵理子先生がいるんだもん。
「実夏の荷物、ここにあるよ。早く行こう」
「わ、ありがとう。急ご!」
誰のせいで急いで階段を降りなきゃいけなくなったのか、とため息を吐いた。実夏のことを、なんだかんだ手放せない自分がきらい。実夏、実夏、実夏。みんなが彼女の名前を一番に呼ぶ。実夏と、芽衣じゃん。学年一位と二位。今回も、すごかったね。実夏、勉強教えて。忙しい? あ、じゃあ芽衣は?
いつだって実夏に一番を取られる。
だけど、本当は私が実夏を一番に取りたいと思っている。
実夏と一番仲が良いのは自分だって、周りに分かってほしくてたまらない。この歪みきった気持ちはどこからくるんだろう。身勝手で、盲目的な私の気持ちは、駆け降りた階段のどこにも置いていくことができず、そのまま実夏の後ろをひっついて回る。
——芽衣ちゃんも、リレー見学組?
実夏と仲良くなったきっかけは、一年生の夏に行われた運動会でのことだった。
一年生の頃、実夏とは違うクラスだったが、運動会では同じ赤ブロックに所属していた。女子の八割がリレーへと出かけていき、スタンドに残っていた私は、ぼうっと流れていく雲を眺めていた。昔から運動が苦手で、特に走るのが遅かった。五十メートルを走るのに、十秒かかる。そのことがコンプレックスだったので、スタンドではできるだけ姿勢を低くして、誰の視界にも入らないように努力していた。残っている女子はみんな、私と同じくらい足が遅い子で、性格も、どちらかといえば控えめな子が多かった。
実夏とは書道部で同じだったけれど、週に二回しかない部活のため、そこまで深く会話をしたことがなかった。だけど実夏のことは当然ずっと意識していた。中間テストと期末テストの計二回、どちらも一位を取った秀才。順位表では私の一つ上に名前があるのに、点数は十点以上も離れている。近いようで、とても遠い存在だった。
そんな彼女が自ら話しかけてくれたことに驚き、同時にとても嬉しかったのを覚えている。
——うん。実夏ちゃんも?
——そうだよ。運動苦手だもん。走るの超苦手。私、五十メートル十一・四秒なんだよ。信じられないでしょ?
ケタケタと笑いながら、走るのが遅いことを自慢する実夏。私よりも遅い。それなのに、あまりにも清々しい態度に、私はぽかんと口を開けてしまった。
——十一秒台の人、いるんだ。
——いるよ〜ここに! 速く走ろうとした足がもつれちゃうから、意識してゆっくり走っちゃうんだよねえ。
——えっ、意識して、ゆっくり?
——そうそう。だって転ぶの嫌じゃん。痛いじゃん。
——そりゃそうだけど……。タイム、遅くなるの、悔しくないの?
——全然! 運動できないのはもう仕方ないし。その分勉強頑張るって決めてるから。
堂々とした物言いに、胸の奥にズドンと衝撃が走った。
すごい。格好良い。
速く走れないことをくよくよするのではなく、仕方ないと割り切って他にできることを伸ばそうとしている。まるで人生の教祖にでも出会ったような気分で、風に靡く実夏の髪の毛を眺めた。
結局その日は、運動会が終わるまでずっと、実夏と他愛もない話をして盛り上がった。優勝は、青ブロックです——というアナウンスが流れて、周りのみんなが落ち込んでいるのを見ても、私たちの心は少しも揺れなかった。だって、運動できないし。仕方ないし。勝てなくたって、悔しくないし。それよりも何よりも、心を通じ合える友達を見つけたことが嬉しくて、運動会では負けたのに、思わず笑みが溢れそうになった。表情筋に力を入れて必死に押さえ込んだ。
それからというもの、私は部内で一番実夏と行動を共にするようになった。自分の弱みを知られてしまった実夏にはもう何でも打ち明けることができた。テスト前には一緒に勉強をすることもあるし、お互いに分からない箇所を教え合うこともある。夏休みには実夏と二人で映画やカフェ巡りの旅に出て、女子高生らしく裸足で海の波打ち際を駆けた。もちろん、転ばないようにゆっくりと。
実夏と期間限定いちごパフェを食べた後、結局一時間ほどしてお店を後にした。店を出る時もまだ、甘酸っぱい果実の香りが口の中に残っていた。



