これまで、彼女、という存在が俺にもいなかったわけじゃない。中一のときに告白され、少しだけ付き合った経験がある。すぐに別れてしまったが、思い返すと俺は、結局最後まで彼女に好きと言わないままだった。
 嫌いだったわけじゃない。笑顔が可愛くて優しくて、好きになれる、と思っていた。
 でも、言えなかった。
 今のこの状況はそれに近いのだろうか。練習中、慎太郎とキャッチボールをしながら俺はちらっと横目で結城を見る。
 結城はセカンドの泉と黙々とボールを投げ合っている。普段通り表情は少ない。だが、今の俺は、あいつが仏頂面ばかりをするやつじゃないということを、知ってしまっている。
「圭人? どした?」
 ボールを持ったままぼんやりしていた俺に慎太郎が声をかけてくる。あ、いや、と返事をし、掴んだままだったボールを放ると、慎太郎はにかっといつもの笑顔でボールをキャッチした。
 その笑顔にくらり、としかけたが、すっと通り過ぎていく結城の背の高い姿が視界の端を過り、俺は俯いた。
 最近、俺はおかしい。
 相変わらず、結城は練習後、俺のそばに寄ってくるし、帰りも一緒に帰る。
 そして、絆創膏、と言いながら抱きしめてもくる。
 その関係はなにも変わっていないのだ。でもなんというか……以前とはなにかが違う気がしている。
 なにが違うのか俺には正直わからない。
 単なる友達との喧嘩なら、昔みたいに慎太郎に相談できるかもしれない。なんでこんなに胸が騒ぐのかと、なんでもあけすけに話せるのかもしれない。
 けれど結城のことは……言えない。
「ほんと俺……どうしちゃったんだろ」
 呟きながら俺は部室へ向かっていた。今日は二学期最後の練習日だ。終業式も終わり、この後練習がある。
 とりあえず、体を動かせばすっきりするかな、などと思いながら昇降口で靴を履き替え、部室へ向かった俺の目に、いきなりその光景は飛び込んできて、俺は立ち尽くした。
 野球部の部室の横手、ちょっとした倉庫になっているその陰に人影があった。
 そこにいたのは……慎太郎と、宮部だった。
 彼らは俺の視線に気づいていないようにぴたり、とくっついていた。小柄な宮部をすっぽりと覆うように慎太郎が抱きしめている。数秒そのままでいた彼らが、示し合わせたように顔を上げるのを、俺は息を殺して見つめる。
 ゆっくりと顔と顔が重なる、その瞬間を数秒凝視してから、俺はそうっとその場を離れた。
「圭人先輩」
 練習が始まろうとしていたが、ともかくも心の整理をしたい。混乱しながら足を早めていた俺の腕を引っ掴んだのは、結城だった。
「部室、あっちですけど。今日、練習、出ないんですか」
「あー……」
 出るべきなのだ。でもどうにも足が向かない。逡巡する俺を結城はしばらく黙って見下ろしていたが、ややあって腕から手を離し、代わりのように俺の手を取った。
「じゃ、俺も今日は行かないです。一緒にスケートでも行きましょう」
「は? なぜに、スケート?」
「近いし、きゃーきゃー言ってたら、その憂い顔、晴れる気がするから」
 さらさらっと言いながら結城は俺の手を引っ張る。馴染んだ彼の温度に包まれながら……俺は、驚愕していた。
「あの、さ、結城」
「なんですか」
「今さ」
 俺の手を引き、結城は淡々と訊ね返す。その声を聞きながら、俺は目を閉じる。
「慎太郎と宮部が、キスしてた」
 結城は答えない。その間にも足は進められる。しかし、校門を通過するかと思った彼の足は唐突に横に逸れた。彼が俺を連れてきたのは、なぜか体育館裏だった。
「スケートじゃなかったのか?」
「いや、さすがに終業式終わりの混雑した通学路で話す話じゃないって思ったから」
 そう言ってから、彼は俺の手をつい、と離し、腕組みをした。
「で、なんですか。キスしたのを見て……なに?」
「なにっていうか、だから」
 詰められて俺は困惑した。確かに、結城からしたら、なに? と言いたくなるだろう。
 必死に言葉を探すと、ふっと結城が息を吐いた。するっと腕組みを解いた彼によって顔が覗き込まれる。
「しょうがない人ですね」
 言いざますっと肩が引かれる。抱き寄せられて、息が止まる。
 が、普段ならそのまま胸に沈む体を俺は引き剥がした。必死に彼の胸に手を当て、突っぱねると、先輩? と結城が首を傾げた。
 その彼の目を見上げ、俺は必死に言葉を口から押し出した。
「確かにさ、ふたりのキス見て、最初にお前の顔が浮かんだ。でも、慰めてほしくて、お前にこの話したわけじゃないんだよ」
「じゃあ、なに?」
 結城が緩やかに声をかけてくる。俺は必死に顎を上げ、結城を見た。
「俺、さ、ショックだったんだ。慎太郎がキスしてるとこ見て。驚いたのもあるけど、一番はショックだった」
「そりゃ、そうでしょう。好きな相手が別のやつとキスしてるとこなんて、ムカつく以外のなにがあります?」
「そうなんだ。もしも見たら、ムカついて、見たくなくて、目を閉じようとするって思ってたんだ。だけど、現実には違って。そのことがショックだった」
 結城がゆらり、と首を傾げる。意味がわからない、と言いたげな彼の前で俺は細く息を吸う。
「俺……平気だったんだよ。あいつらのキス見ても。全然、痛くなかった。ここ、全然」
 そうっと胸を押さえる。結城は黙ったまま、俺を見下ろしてくる。その彼に向かい、俺は迷い迷い囁いた。
「でもさ、お前は言うじゃん。痛いのを癒したいからこうするんだって。それってさ、俺のここが痛くなくなったらどうなるのかな、と。お前はもう」
 抱きしめてくれなくなるのか?
 そうだ。俺が一番衝撃だったのはそれだった。
 慎太郎が好きだった。宮部が憎らしかった。なのに……俺は直視できたのだ。あいつらがキスしているところを。
 こんなこと、信じられなかった。俺の中に慎太郎がいなくなったのかと、動揺した。
 心の奥を必死に引っ掻き回して出てきたのは……慎太郎じゃなく、結城の顔だった。
 心の痛みだってこうすれば治まる。
 そう言って包んでくれた結城。俺が落ち込んだとき、いつだって手を広げて迎えてくれた結城。
 でも……俺の中に慎太郎がいなくなって、この胸が痛まなくなったら……?
 お前は、俺から離れちゃうのだろうか。
 訊きたいけれど、さすがに訊けない。うなだれた俺の左頬が彼の手にすうっと包まれる。ふっと顔を上げると、結城が軽く膝を折るようにして俺を覗き込んでいた。
「それは、俺に抱きしめられたいって思ってるって意味?」
 言葉ではっきり聞くとめちゃくちゃ恥ずかしい。真っ赤になった俺を結城は至近距離で見つめてくる。
「あいつより、俺にぎゅっとされたいって、そういうことでいい?」
 あまりの言い様に、思わず苦笑してしまった。
「……あのなあ、あいつって。先輩だぞ。それを……」
「俺にとって、あいつは最初からあいつだったし、今もあいつでしかない。だってそうだろ。あいつは圭人先輩を泣かせた」
 そう言い捨ててから、でも、と結城は低い声で付け足す。
「俺も同罪だけど」
「同罪……なんで?」
「だって」
 言いながら俺の右頬に結城はもう片方の手も伸ばす。
「先輩はあいつのことがなかったら、俺の腕を求めたりしなかった。それ、俺は最初からわかってたから」
 頬を撫でる指は冷たい。けれどさらさらと優しく辿られて俺はなぜか泣きそうになった。
 こいつの考えていることが、俺にはよくわからない。
 でも……こいつの手は、いつだって雄弁に語ってくれる。
 いつだって。
「先輩が苦しんでたのだって知ってたけど、俺はその恋心を最初から利用しようと思ってた。俺のこと、見てほしくて。ずっと。ねえ、先輩」
 きゅっと頬を掴む手に力が込められる。顔がふっと近づいた。
「そんな俺でも、先輩は抱きしめられたいって思う?」
 言葉が出てこない。小さく息を何度か吸ってから俺はそろそろと手を伸ばす。結城のコートの胸元をそうっと握り、俺はこくん、と頷いた。
「抱きしめられ、たいよ」
 直後、視界が激しく揺れた。声を発する間もなく体が引き寄せられ、大きな胸に閉じ込められた。
 絆創膏なんて今はいらない。それなのに、じりじりと体温が体に沁みてきた。
 ゆっくりと温もりが体に積み重なっていく感覚に、小さく吐息を漏らしたとき、するりと彼が体を起こした。
 切れ長の目がしっとりと濡れて俺を映すのを、俺はうっとりと見つめる。
「抱きしめる以外でしてほしいこと、圭人はある?」
「以外って……」
 言いかけた脳裏に先ほど目にした、慎太郎と宮部のキスシーンが浮かんだ。顔を赤らめる俺に結城はうっすらと笑ってから、そっか、と呟いた。
「俺と同じこと、したいと思ってくれてるみたいで、安心した」
 掠れ声で言い、彼が身を屈める。とっさに目を閉じると、少し冷えた唇が俺の口に触れた。
 柔らかく、舞い落ちる雪みたいに優しく触れられる。そろそろと目を開けると、ゆっくりと唇が離れた。
 そうっともう一度腕が体に回される。結城の胸の中で息を吐くと、圭人先輩、と名前が呼ばれた。
「練習、どうする? 行く?」
「お前、このタイミングで練習って……」
「だって、先輩、これまで練習、皆勤賞だろ。いいの? さぼって。本当に」
「……それはお前もそうだろ。お前だって皆勤賞じゃん」
「ああ」
 頷いてから結城はぐいっと腕に力を込めた。
「別にどっちでもいい。先輩が行くなら行くし、行かないなら行かない」
「その感じなのになんでお前、練習のとき、あんな全力なの。みんな言ってるぞ。結城は守備範囲おかしいって。守備への情熱がヤバいって。俺も思った。サードは普通、ファースト前まで行かないよ」
「別に情熱がどうとかそういうんじゃない。ただ、俺は守りたいだけ」
「守る?」
「あなたのこと」
 体を通して声が聞こえてくる。それにどきどきしながら俺はただ耳を澄ます。
 低く、深く響く声に。
「俺がサード好きなのは、ピッチャーを一番守りやすいポジションだって思ったからだよ。座って球受けるしか能がないあいつより、先輩を守れるのはあそこだって思ったから」
「お前って……」
 なんていうか……想った以上に独占欲が強いやつだったらしい。俺は頬を染めながら照れ隠しで言う。
「全国のキャッチャーに謝ったほうがいいぞ。座ってるだけじゃないから。キャッチャー」
「全国のはどうか知らないけど、俺はあいつにだけは負けたくないし、第一」
 俺の頭に頭を押し当てるようにして彼は呟いた。夢見るような声だった。
「サードが一番綺麗に見えるんだ。あなたのフォーム。本当に俺、先輩のフォーム好きでさ。だからあそこ以外、守りたくない」
「まさか、俺を好きな理由て……そこ?」
「そこ、も」
 そう言ってから、結城はゆったりと笑って俺の耳に声を落とした。
「圭人の好きなとこ、ゆっくり伝えていくから。覚悟してて」
……こいつ、本気で結構ヤバい奴だったのかもしれない。
 と、ちょっと怯えたものの、俺は頬を染めつつ、わかったよ、と小さく頷いた。