「なあ、圭人」
 土曜日の今日は午後いっぱい練習の予定だったが、小雪が舞い始めてしまっている。冷えるし、ゆっくり投球練習しようか、と慎太郎と相談しながら、俺はグラウンドをぼんやりと眺めていた。
 視線の先では、寒々しい景色の中、野手がそろってノックを受けている。
「サード行くぞ〜!」
 監督の声と共にかきん、とボールが弾かれる。はい! と鋭く返事をし、結城がボールに飛びつくのが見えた。
「思ってたことあるんだけどさ」
 それを目で追っている俺の横で慎太郎がのんびりと言う。
「結城って身体能力、ヤバいよな」
「……は?」
 少しどきっとした。目であいつを追っているのを慎太郎に気づかれたのかと本気で焦った。
「なんで急に結城?」
 声が揺れないように注意しながら問うと、片手でボールを投げ上げてはミットでキャッチを繰り返しつつ、慎太郎がこちらを見た。少し垂れた目が楽しそうに細められるのを俺はついつい凝視しそうになり目を逸らす。慎太郎はその俺の不自然な態度にも気づいていない。
「俺さ、キャッチャーだから全体見えるじゃん。試合のときも見渡さないといけないし。で……気づいたんだけどさ。あいつの守備範囲、完全にサードの限界超えてるんだよ。いつも。気づかない? お前、投げてて」
「あー……」
 感じたことはあった。内野手も外野手も明確ではないにせよ、ある程度守備範囲は決められている。しかし結城に関してはその定められた範囲が意味をなさないほど、常に内野中を駆け回っていたのだ。
「普通、サードがファースト脇まで行けないじゃん。豹かなにかかよ、ってみんなで話してた」
 くっくっと慎太郎が肩を揺らして笑う。ああ、と頷きつつ、俺も思い出す。
――俺の身体能力を遺憾なく発揮できるのは、サードだって思ったから。
 あの言葉は、自分をよく理解したうえでのものかもしれない。
 噂をしている間も結城は駿足を駆使してボールに食らいついている。送球も正確で無駄がない。
 確かにサード向きだよな、と納得していると、ちらっと結城の目がこちらを見た。一重の切れ長の目がすっと見開かれた後、軽く細められ、なんだかどきっとする。それを隠したくて俺はその場にしゃがみ込む。解けてもいないスパイクの紐を結び直していると、のんびりした声で慎太郎が言った。
「ってかあいつ、お前のこと、大好きだよなあ」
 心臓が大きく跳ねた。
 なにを思って慎太郎はこれを言うのだろう。もしかして知っているのだろうか。お前が彼女と笑うたび、痛みをこらえきれないで蹲る俺を、あいつが抱きしめている、その事実を。
 思い出されたのは、圭人先輩、と呼ぶ結城の声だった。と、同時に、柔らかく自分を包んだ腕の感触まで蘇ってしまう。
 あれは……誰にも知られてはならない時間だ。特に慎太郎には。
 軽く頭を振り、紐を直すことに集中しようとするが、慎太郎の声は止まらない。
「怪我されて、控え投手やらされるの嫌なんで、先輩の面倒は俺が見ます! なんてさ、変なやつだなあ、とは思ってたけど。宣言通り、ほんっとによく面倒見てるもんな。キャッチャーとしてもありがたいよ。あれは相当懐いてるってことだろ。しかもさ、お前、知ってる?」
「なに、を?」
 問い返しながら俺は唇を噛む。
 正直……もうやめてほしかった。
 楽しそうに、俺のことを慕っているだろうやつの噂話なんて、してほしくなかった。
 でも……それは、言えない。慎太郎はいつも通りの単なるバッテリーの顔で笑っている。
「あいつ、お前がセットポジションで構えるとき、絶対、お前の顔見てるの。いやいや、バッターの動き見ろよ! って毎回思ってたけど。あれ、なんなんだろうなあ」
「見てる……?」
 セットポジションとは、投手が盗塁を警戒して投球モーションに入る前、静止する姿勢のことだ。俺は右利きだから、この姿勢を取るとき、大抵サード側に顔を向けていることになる。
 スパイクの紐から手を離し、俺はグラウンドに目を向ける。マウンドの上、セットポジションに入る自分の姿を記憶から引っ張り出す。
 ……一度深呼吸してボールを手の中で回す。そうしてゆっくりと腕を上げる。
 盗塁を警戒してのことだから、周囲を見渡してはいた。特にベースには如才なく目を配っていたはずだ。あのとき、サードの彼は、どうしていたか……。
 記憶を辿り、ふっと俺は片手で口を押さえる。
 サードにいた結城は、打球に備えて前傾姿勢を取っていた。が、その彼の目がこちらに向けられていたことが何度かあったことを、俺も思い出した。
「ま、あの身体能力なら、どっち向いていようが追いつけるんだろうから、別にいいけどさ。ひよこの刷り込みみたいにお前のこと見てるから、ちょっと面白くなっちゃって」
 楽しそうに慎太郎が笑う。
 屈託なくて、どんな憂鬱も、からっと吹き飛ばしてしまう慎太郎のその笑顔は、俺にとって日常的に隣にあるものだった。それは今も変わってはいない。慎太郎に彼女ができようが、俺と慎太郎の関係は、息の合ったバッテリーであり、昔からの友達だ。慎太郎にとっての俺は変わらずにそうだ。俺もそうあるべきだと思っている。
 彼女が入れるお前の内側のスペースにどうあっても入れないのなら、俺は今いるこの場所から出るべきじゃないと弁えている。
 その今の立ち位置で、これを言われたとき、俺がするべき顔は、「そうだよな、なんか懐かれててさ。可愛い後輩だよ」くらいなのかもしれない。
 それでも……やはり思ってしまうのだ。
 俺がいるこの場所は、お前にとって、面白い、で片づけられる場所なんだな、と。
 思っていいわけがないのに、嫌だと感じてしまうのだ。
「……面白く、ないだろ」
 低い声で言い立ち上がると、慎太郎がきょとんとする。形のよい丸い額が後ろ前にかぶった帽子の下から覗いているのを俺は見つめる。
「どした? 圭人。具合悪いか?」
「悪くない。ただ……笑ってやるなって思っただけ。別にあいつ……俺見てるわけじゃないと思う。それなのにそんなふうにからかわれるのは……違うって思ったから」
 硬い声で俺が言うと、はっとしたように慎太郎は目を瞬く。ややあって、そだな、とすまなそうな表情が浮かべられた。
「そだよな。結城が聞いたら嫌な思いするよな。変なこと言ってごめん」
「……俺に謝られても困る」
 吐き捨てるように呟いたとき、おーい、さっさとピッチング練習しろー、と監督から声が飛んできた。はい! と大声で返事をする慎太郎の横で、俺もぺこりと頭を下げる。
 視界の端にこちらを見る結城の姿が映ったけれど、見ないふりをして俺はボールを握りしめた。