あの日から少しずつ、なにかがおかしくなった気がする。
「先輩」
部活終わり、俺が怪我してないか確認しにくるのはいつも通り。すっかり汚れてしまったユニフォームをぱたぱたと甲斐甲斐しくはたいてくるのもまあ、いつも通り。
けれど、変化は確実に起きている。
「一緒に帰りません?」
部活終わり、これまでは慎太郎と帰っていた帰り道を、あの日からなぜか結城と辿るようになったことがまず一つ目の変化。
そしてもう一つは。
「お前、夕飯前にそんなの食べてなんか言われないの」
コンビニで買った唐揚げ棒を片手にぶらぶらと歩く結城の隣で俺は肩をすくめる。結城はかぷり、と唐揚げにかぶりつきながら首を振った。
「うち、親、帰り遅いし別に。ってか先輩の家もそうですよね?」
「……お前はなんでそれを知ってるの」
「前に東雲先輩と桜沢先輩が一緒に帰る後ろからついて帰るみたいになったことあって。そのとき話してるの聞こえたから」
桜沢先輩。
さらっと出てきた名前にちくっと心が疼く。今日も俺の隣に慎太郎はいない。慎太郎に送られて帰っていったのは、彼女。
「口、開けて」
どろどろとした気持ちに支配されかけた俺の前にぬっと、茶色いなにかが突き出される。いきなり過ぎて、ふっと思考が途切れた。
ふわっと漂ってくるのは食欲をそそる、スパイスの香りだった。
「これ、辛いやつ?」
訊ねる口に、つい、と唐揚げが押し込まれる。思った通り、舌に旨みと共にぴりっとした刺激が伝わってきた。
「今日の絆創膏は、これ」
むぐむぐと噛みしめている俺の頭の上で結城が言う。なに? と目だけ上げると、結城は俺の手から唐揚げ棒を奪って口に運びつつ、言葉を継いだ。
「美味いもの食べて、人と話して。そうしてたら痛いのなんて、いつかなくなるから」
唐揚げを食みながら言う結城を俺はちらっと見やる。
あんなことがあってからも俺は結城になにも打ち明けてはいない。慎太郎のことも、宮部のことも。俺の長い長い片想いのことも。なにひとつ。なのに、こいつは時々、こんなことを言う。
しかも絶妙のタイミングで。
それが、とても、ムカつく。
「こんなんで痛いの治ったら、医者なんていらねえよ」
そうだ。なにが、絆創膏だ。なにが、浮き輪だ。
ふん、と鼻で笑ってみせ、俺は先に立って歩く。その後ろから結城がついてくる。明確な拒絶を俺は口にするのに、結城の足はいつだって俺を追いかけてくる。
うちの高校は市街地から少し離れた場所にある。だから唐揚げ棒を買ったコンビニを過ぎると店もなくなり、街灯も減る。通学路には怪談話がちらほらあるポイントも存在するので、冬場のこの時期、夜にひとりで帰るのはちょっと嫌だ。
その意味で、連れがいるのはありがたいことではあるのだ。あるのだが、俺はどうしたって戸惑ってしまう。
それは、こいつが俺の心を読んで、絆創膏になろうとするから。
「圭人先輩」
不意に呼ばれて俺はぎょっとする。下の名前で呼ばれることなんて、これまでなかった。お前、いきなりなに、と振り向いたとたん、くい、と腕が引かれた。
「唐揚げじゃあ痛いの取れないなら、こっちだったら、取れます?」
長い腕が肩に回される。きゅっと抱きしめられて俺は思わず目を閉じた。
こうして抱きしめられるのも、もう何回目だろう、と俺は数えようとする。
手洗い場での最初の一回があってから、結城はなにかというと俺を抱きしめるようになった。
慎太郎が宮部に手編みのマフラーをもらった、とにこにこ顔で報告してきた日もそうだった。
慎太郎に受けてもらいながらピッチング練習をしていて、「今日もいい球!」と全開の笑顔を向けられた日もそうだった。
俺がもやもやで潰れそうになった日の帰り道、結城はなぜか俺を抱きしめてくる。
今日も、そうだ。
部活終わり、宮部に呼び止められた。
「桜沢先輩って甘いもの、大丈夫でしょうか。クリスマスにケーキ作ろうと思ってるんですけど、サプライズ、したくて」
東雲先輩なら、桜沢先輩のことなんでも知ってますものね。
無邪気にそう言われ、かっとなり。あいつはなんでも食うよ、雑食だから、なんてひねた答えを返してしまった。
そんな、最低で、痛かった今日。
でもそれを、俺はこいつに一言も告げていない。
なのに、こいつは全部お見通しの顔で、俺を抱き寄せる。
「お前さ……」
冬コートの柔らかな生地が頬に当たる。それを感じながら俺は呟く。
「ピッチャー、やらない?」
こいつがやってくれたら、俺も楽になれる。正面から慎太郎の顔を見つめ続けるのはなかなかにしんどいから。せめてバッテリーでなくなれば、痛い日は続かなくなるのでは、と思うから。
けれど結城はふっと小さく息を漏らして首を振った。
「やらないです。俺、サード好きなんで」
「前々から訊きたかったけど、なんでサード? お前、もとはピッチャー希望で入部してきたよな」
うちの部では、入部してすぐ、希望のポジションはあるか、と聞き取りが行われる。必ずしも希望通りにはならないが、適性に応じてポジションは決められるべきだという監督の考えから、聞き取りは必ず行われていた。その際、こいつはピッチャーがやりたい、という意志を示していたのだ。
なのに、今のこいつは、ピッチャーを頑なに拒む。
「俺の身体能力を遺憾なく発揮できるのは、サードだって思ったから」
「身体、能力?」
「サードは俊敏でボールを恐れず、一番……」
そこまで言って、結城は俺の頭にこつん、と頭を当てる。
「っていうか、俺、圭人先輩見て、ピッチャーコンプレックスになっちゃったから、ピッチャーは無理なんですって」
「ピッチャーコンプレックス?」
「圭人先輩、めっちゃ、フォーム綺麗だから。あんなん見たら、俺がピッチャーやるなんておこがましいって思っちゃいますよ。自分で気づいてないんですか? フォーム、教本みたいですよ」
「……気づかねえよ。ってか、なんだよ、ピッチャーコンプレックスって」
「略してピチコンですね」
ふふ、と肩口で彼が笑う。めったに笑わないやつだけれど、なぜかこうして密着しているときは笑い声を立てることが多い。
意味がわからない。本当に、なんでこんなことになったんだか。冬なのに温かすぎる腕の中、俺は身じろぎをする。
「そもそも、お前、なんで俺のこと、名前で呼んでんの」
後輩のくせに、とは言わずにいると、きゅっと腕の力が増した。
「そうしたほうが、もっと近くなれるから。近くなれば……傷にもっと触れられるでしょ」
傷に、触れられる。
少し怖くなった。結城は俺の事情をなにも聞いてこない。ただ……抱きしめてくるタイミングからして、こいつは確実に俺がなにを思って悶々としているか気づいている。
それでもこいつは言うのだ。もっと傷に触れられるから、近くなりたい、と。
近く、とはどこまでのことを言っているのか、俺にはわからない。
こいつの言う、近く、は、慎太郎よりも近い場所なのだろうか。
「圭人先輩」
くっついた体から声が響いてくる。その声は甘やかすように俺に言う。
「いろいろ考えなくていいから」
するっと手が上がり、俺の後ろ頭を撫でる。長い指がさらっと髪にくぐらされるのを感じた。
「こうしてる間は全部、俺に預けててください」
こんなの、絶対おかしいし、意味がわからない。
でも俺は、この腕を振り解けないまま、今日もここにいる。
「先輩」
部活終わり、俺が怪我してないか確認しにくるのはいつも通り。すっかり汚れてしまったユニフォームをぱたぱたと甲斐甲斐しくはたいてくるのもまあ、いつも通り。
けれど、変化は確実に起きている。
「一緒に帰りません?」
部活終わり、これまでは慎太郎と帰っていた帰り道を、あの日からなぜか結城と辿るようになったことがまず一つ目の変化。
そしてもう一つは。
「お前、夕飯前にそんなの食べてなんか言われないの」
コンビニで買った唐揚げ棒を片手にぶらぶらと歩く結城の隣で俺は肩をすくめる。結城はかぷり、と唐揚げにかぶりつきながら首を振った。
「うち、親、帰り遅いし別に。ってか先輩の家もそうですよね?」
「……お前はなんでそれを知ってるの」
「前に東雲先輩と桜沢先輩が一緒に帰る後ろからついて帰るみたいになったことあって。そのとき話してるの聞こえたから」
桜沢先輩。
さらっと出てきた名前にちくっと心が疼く。今日も俺の隣に慎太郎はいない。慎太郎に送られて帰っていったのは、彼女。
「口、開けて」
どろどろとした気持ちに支配されかけた俺の前にぬっと、茶色いなにかが突き出される。いきなり過ぎて、ふっと思考が途切れた。
ふわっと漂ってくるのは食欲をそそる、スパイスの香りだった。
「これ、辛いやつ?」
訊ねる口に、つい、と唐揚げが押し込まれる。思った通り、舌に旨みと共にぴりっとした刺激が伝わってきた。
「今日の絆創膏は、これ」
むぐむぐと噛みしめている俺の頭の上で結城が言う。なに? と目だけ上げると、結城は俺の手から唐揚げ棒を奪って口に運びつつ、言葉を継いだ。
「美味いもの食べて、人と話して。そうしてたら痛いのなんて、いつかなくなるから」
唐揚げを食みながら言う結城を俺はちらっと見やる。
あんなことがあってからも俺は結城になにも打ち明けてはいない。慎太郎のことも、宮部のことも。俺の長い長い片想いのことも。なにひとつ。なのに、こいつは時々、こんなことを言う。
しかも絶妙のタイミングで。
それが、とても、ムカつく。
「こんなんで痛いの治ったら、医者なんていらねえよ」
そうだ。なにが、絆創膏だ。なにが、浮き輪だ。
ふん、と鼻で笑ってみせ、俺は先に立って歩く。その後ろから結城がついてくる。明確な拒絶を俺は口にするのに、結城の足はいつだって俺を追いかけてくる。
うちの高校は市街地から少し離れた場所にある。だから唐揚げ棒を買ったコンビニを過ぎると店もなくなり、街灯も減る。通学路には怪談話がちらほらあるポイントも存在するので、冬場のこの時期、夜にひとりで帰るのはちょっと嫌だ。
その意味で、連れがいるのはありがたいことではあるのだ。あるのだが、俺はどうしたって戸惑ってしまう。
それは、こいつが俺の心を読んで、絆創膏になろうとするから。
「圭人先輩」
不意に呼ばれて俺はぎょっとする。下の名前で呼ばれることなんて、これまでなかった。お前、いきなりなに、と振り向いたとたん、くい、と腕が引かれた。
「唐揚げじゃあ痛いの取れないなら、こっちだったら、取れます?」
長い腕が肩に回される。きゅっと抱きしめられて俺は思わず目を閉じた。
こうして抱きしめられるのも、もう何回目だろう、と俺は数えようとする。
手洗い場での最初の一回があってから、結城はなにかというと俺を抱きしめるようになった。
慎太郎が宮部に手編みのマフラーをもらった、とにこにこ顔で報告してきた日もそうだった。
慎太郎に受けてもらいながらピッチング練習をしていて、「今日もいい球!」と全開の笑顔を向けられた日もそうだった。
俺がもやもやで潰れそうになった日の帰り道、結城はなぜか俺を抱きしめてくる。
今日も、そうだ。
部活終わり、宮部に呼び止められた。
「桜沢先輩って甘いもの、大丈夫でしょうか。クリスマスにケーキ作ろうと思ってるんですけど、サプライズ、したくて」
東雲先輩なら、桜沢先輩のことなんでも知ってますものね。
無邪気にそう言われ、かっとなり。あいつはなんでも食うよ、雑食だから、なんてひねた答えを返してしまった。
そんな、最低で、痛かった今日。
でもそれを、俺はこいつに一言も告げていない。
なのに、こいつは全部お見通しの顔で、俺を抱き寄せる。
「お前さ……」
冬コートの柔らかな生地が頬に当たる。それを感じながら俺は呟く。
「ピッチャー、やらない?」
こいつがやってくれたら、俺も楽になれる。正面から慎太郎の顔を見つめ続けるのはなかなかにしんどいから。せめてバッテリーでなくなれば、痛い日は続かなくなるのでは、と思うから。
けれど結城はふっと小さく息を漏らして首を振った。
「やらないです。俺、サード好きなんで」
「前々から訊きたかったけど、なんでサード? お前、もとはピッチャー希望で入部してきたよな」
うちの部では、入部してすぐ、希望のポジションはあるか、と聞き取りが行われる。必ずしも希望通りにはならないが、適性に応じてポジションは決められるべきだという監督の考えから、聞き取りは必ず行われていた。その際、こいつはピッチャーがやりたい、という意志を示していたのだ。
なのに、今のこいつは、ピッチャーを頑なに拒む。
「俺の身体能力を遺憾なく発揮できるのは、サードだって思ったから」
「身体、能力?」
「サードは俊敏でボールを恐れず、一番……」
そこまで言って、結城は俺の頭にこつん、と頭を当てる。
「っていうか、俺、圭人先輩見て、ピッチャーコンプレックスになっちゃったから、ピッチャーは無理なんですって」
「ピッチャーコンプレックス?」
「圭人先輩、めっちゃ、フォーム綺麗だから。あんなん見たら、俺がピッチャーやるなんておこがましいって思っちゃいますよ。自分で気づいてないんですか? フォーム、教本みたいですよ」
「……気づかねえよ。ってか、なんだよ、ピッチャーコンプレックスって」
「略してピチコンですね」
ふふ、と肩口で彼が笑う。めったに笑わないやつだけれど、なぜかこうして密着しているときは笑い声を立てることが多い。
意味がわからない。本当に、なんでこんなことになったんだか。冬なのに温かすぎる腕の中、俺は身じろぎをする。
「そもそも、お前、なんで俺のこと、名前で呼んでんの」
後輩のくせに、とは言わずにいると、きゅっと腕の力が増した。
「そうしたほうが、もっと近くなれるから。近くなれば……傷にもっと触れられるでしょ」
傷に、触れられる。
少し怖くなった。結城は俺の事情をなにも聞いてこない。ただ……抱きしめてくるタイミングからして、こいつは確実に俺がなにを思って悶々としているか気づいている。
それでもこいつは言うのだ。もっと傷に触れられるから、近くなりたい、と。
近く、とはどこまでのことを言っているのか、俺にはわからない。
こいつの言う、近く、は、慎太郎よりも近い場所なのだろうか。
「圭人先輩」
くっついた体から声が響いてくる。その声は甘やかすように俺に言う。
「いろいろ考えなくていいから」
するっと手が上がり、俺の後ろ頭を撫でる。長い指がさらっと髪にくぐらされるのを感じた。
「こうしてる間は全部、俺に預けててください」
こんなの、絶対おかしいし、意味がわからない。
でも俺は、この腕を振り解けないまま、今日もここにいる。



