あれ以来、結城は俺を本当に見張るようになった。
 部活が終わるとすっ飛んできて、俺が怪我をしていないか確認する。傷一つでも負っていようものなら、鬼のような顔で手当てをする。
 そしてそれは……俺的に絶不調の現在も続いている。
「とりあえず今日はここだけか。それほどひどくないし、絆創膏で良さそうですね」
 言いながらポケットから絆創膏を引っ張り出す。これにも慣れた。はいはい、と諦めつつ手を出す。その俺の首元を冬の始まりの冷たい風がひゅるり、と撫でた。
 いつの間にか、慎太郎の姿も宮部の姿もない。他の部員も部室に戻って着替え始めているようだ。初冬の空は暮れるのも早く、すでに夜の色だ。
「寒い、ですか?」
 問いかけてくる結城に、手洗い場の水道の縁に腰掛けながら、そだな、と気怠く答え、俺は目を閉じた。
 風は冷たくて、少し、痛い。
 かさかさとフィルムが剥がされる音がする。瞼を下ろしたままそれを聞いている俺の手の甲に、そうっと絆創膏が貼られた。
「先輩って、思ったよりもずっと、痛がりなんですね」
「なにが? 別に痛がってねえよ。今日の怪我は全然」
「こっちのことではなく」
 絆創膏を貼り終わったのに、結城の手は離れない。水で冷えた手が俺の手を両手で包むのを感じ、俺はふっと目を開けた。
 こいつは俺より随分背が高い。だが、こちらに注がれる視線は俺より下にあった。
 大きな手にきゅっと、力が入った。
「心、めっちゃ、痛そう」
「……なんの話」
 即座に言い返す。が、ふいうちだったせいで完全にはごまかしきれなかった。ちょっとだけ語尾が滲む。その俺を、結城は地面に膝を突いたまま、静かな目で見上げてくる。焦った俺は掴まれたままの手を必死に引っ張った。
「変なこと言ってないで、手、離せよ。手当、終わったんだろ」
「終わってませんよ」
 結構な力で引っ張ったはずなのに、やっぱり手は取り返せない。いい加減に、と声を荒らげた俺の前でつと、結城が立ち上がった。
「俺、言いましたよね。怪我しないように見張るって。先輩のこと」
「聞いたよ。実際、毎日毎日、チェックされて、お前は俺の専属ドクターか、って思ってるよ」
「専属ドクターか」
 こいつの声は普段は淡々としている。今日もそれほど波立った声じゃない。なのに、ちょっとだけ、いつもと違う響きが混じっているような気がした。
 なんだろう。声には温度があると聞いたことがあるけれど、今のこいつの声を表現するなら少し……この、冬の風に似ていると思った。
「でも、ドクターなら体だけじゃないですよね。心も……診ますよね」
 ゆっくりとそう言いながら細められた切れ長の目を俺は呆然と見上げる。
「心、痛いですよね。痛いなら、絆創膏、したほうが良くないですか?」
 俺は、誰にも話していない。俺が慎太郎を中学時代からずっと……想っていたことを。
 言えるわけはなかった。もしも誰かに話して、それが巡り巡って慎太郎に伝わってしまったら。いいや、そうでなくとも、俺の気持ちがだだ洩れて、慎太郎に勘づかせてしまったら。
 俺たちは一緒にいられなくなる。そんなのは絶対嫌だった。
 嫌われたくなかった。怖かった。だから、誰にも心の内を明かさなかった。
 こいつにだって、俺はなにも言っていない。
 けれど、こいつがこのタイミングでこれを言うのは……気づいているからかもしれない。こいつは……知ってしまったのかもしれない。俺の心の奥底に押し込めた、絶対誰にも見られてはいけない、気持ちを。
「なにを、言ってる?」
 ぐるぐる考えて、結局、ごまかすことしか思いつかなかった。引き攣った笑みを零し、手を払おうとする。けれどやはり振り払えない。
 離せって、とさらに声を尖らせる。と、いきなりするっと手から手が抜けた。ほっとしたのも束の間だった。
「なに……」
 ふわっと長い腕が俺の両頬を掠める。唖然としている体が引き寄せられ、こつん、と結城の胸に額が当たった。
「ちょ、お前、なに……」
「舐めないでくださいね、先輩」
 少しずつ強くなり始めた風が、ざわざわとグラウンド脇のケヤキの葉を揺らす。けれどその音は大きな体にすっぽり包み込まれた俺には届かない。
 脳に流れ込む血の音がはっきり聞こえ過ぎて、周りの音がすべて、キャンセルされてしまっていた。
 完全にフリーズした俺の耳元で結城が言う。
「わからないわけないでしょう。何か月、先輩のこと見張ってたと思うんですか。先輩の心が致死寸前なことくらい、俺はちゃんと、気づいてましたよ」
 致死寸前。
 言われて、傷口がぐりり、と抉られた気がした。
 苛立って体を離そうとするが、結城の腕は緩まない。おまえなあっ、と怒鳴ろうとする俺の体に回した腕に力を込め、結城が囁いた。
「嫌ですか? 心見られて、腹、立ちますか? でも見えちゃったんだから仕方ないじゃないですか。死にそうな人、見捨てられないじゃないですか」
「何言ってんだよ! 俺は別に……」
「本当に?」
 体越し、声が伝わってくる。ふっと息を止めた俺の耳に、結城の声がじわり、と沁みた。
「溺れてて、目の前に浮き輪流れてきたら、誰だって摑まりますよね。生きたいって思う心は、本能だと思うから。それでよくないですか?」
「さっきからなにを……」
「わかりませんか?」
 背中に回されていた手が滑り、俺の頭に触れる。宥めるような指が俺の髪を漉いた。
「俺のこと、絆創膏にでも、浮き輪にでも、好きに使えばいいよ、って言ってるんですよ」
「は……」
 こいつはなにを言っているのだろう。腕を振り回したが、むかつくくらい俺より体格に恵まれていて、全然歯が立たない。
「俺の仕事は先輩の怪我、見つけて癒すことだから。こうすることで先輩が少しでも楽になるなら、いくらでもこうしたい」
「さっきからお前、なに……大体、お前がそれを俺にするメリットってなんだよ? 意味、わかんない……」
 ぜいぜいしながら言葉を継ぐと、ふっと結城の腕が緩んだ。二の腕が掴まれ、結城の胸に張り付いていた体が引き剥がされる。
 こちらを見下ろした結城の唇は笑みを形作っていた。
「言ったじゃないですか。先輩が怪我をすると俺が困るから。ただそれだけ」
 そう言ってから、彼の手がするり、と体から引かれる。放り出してあったタオルをひょい、と首にかけながら結城は俺に背中を向ける。
「寒くなってきましたね。着替えて帰りましょ」
「帰りましょって……お前、こんなこと、しといて、そんな普通に……」
「こんなこと」
 ふっと彼が肩越しにこちらを振り返る。薄い唇からは笑みが消えていた。
「ただのレスキューです。だから先輩も特別なことだなんて思わないでいいですから」
 ほら、行きますよ、と凪いだ声が促してくる。それきり説明する気も振り返る気もなさそうなその背中を、俺は睨みつけた。
 レスキューだと、ふざけやがって。
 詰ってやろうと思ったが、そこで急に冷たい空気に鼻先をなぞられ、立て続けにくしゃみが出た。
 さっきまで寒さを完全に忘れていたのに。
 くそ、と鼻を擦り、立ち上がる。遠くになり始めた結城の背中をのろのろと追いかけながら、俺はふと手の甲を見た。
 結城が貼った絆創膏はなぜか、ポムポムプリンの絵柄だった。