圭人(けいと)先輩」
 くっついた体から声が響いてくる。その声は甘やかすように俺に言う。
「いろいろ考えなくていいから」
 するっと手が上がり、俺の後ろ頭を撫でる。長い指がさらっと髪にくぐらされるのを感じた。
「こうしてる間は全部、俺に預けててください」
 こんなの、絶対おかしいし、意味がわからない。
 でも俺は、この腕を振り解けないまま、今日もここにいる。

☆☆☆

 俺はずっと、怪我が怖かった。
 いや、怪我なんて誰だって怖いと思う。当たり前だ。それでも怖いなあと思っていたのは、うちの野球部が十人しかいない、弱小チームだからだ。そのチームにおける俺のポジションはピッチャー。
 だからずっと言われていた。怪我だけは気をつけろ、と。キャプテンにも、監督にも、そして、慎太郎(しんたろう)にも。
 慎太郎がそう言うから、怪我には注意していたつもりだった。だが、今はむしろ怪我したほうが楽かな、などと思ってしまっている。
 視線の先で慎太郎が笑っている。彼が笑顔を向けている相手は俺じゃない。マネージャーの宮部茜(みやべあかね)だ。
 宮部は今年入った一年で、うちの野球部唯一のマネージャーだ。丸顔で小柄で、ちょっとぽっちゃりしている。あまり要領はよくなく、備品の発注を間違えたり、スコアの付け方をなかなか覚えられなかったりする。優秀なタイプのマネージャーとはいえないが、一生懸命なその様子に好感を持っている部員は多い。
 その好感を持っている部員の中に、自分の相方とも言うべき、桜沢慎太郎(さくらざわしんたろう)が入っていることにも俺はちゃんと気づいていた。ピッチャーにとってのキャッチャーは女房役なんて言われているが、女房がどっちかはともかく、中学時代からバッテリーを組み続けている俺たちはチーム内でももっとも近しい間柄なのだ。あいつの眼差しがどこに注がれているかなんて、一緒にいる俺には手に取るようにわかる。
 しかも俺には、慎太郎に対してバッテリー以上の感情がずっと、ある。
 中学時代からずっと。
 だからわかるのだ。慎太郎の視線が誰を追っているのか、慎太郎が今、誰を想っているのか。慎太郎は隠し事ができるタイプでもないし、家のことも勉強のこともクラスでの出来事もなんでも俺に話してくれる。信頼、されている、と言い換えてもいい。
 その信頼は心地いい。親が喧嘩していて夜眠れないから話をしないか、と深夜に電話をかける相手が俺であること、宿題が終わらなくて助けてくれ、と眉を八の字にして頼んでくること、全部が愛しい。だからこそ俺は俺の気持ちを慎太郎には伝えなかったし、俺と慎太郎の間にヒビが入りそうな出来事には口を挟まないようにしていた。
 宮部とのことも、そうだった。
 聞きたくもなかったし、怖かった。彼の口から言われるまでは見ないふりをしようと心に決めていた。
 言わないでくれ、と願ってもいた。
 だが、慎太郎はやはり慎太郎だった。俺を心から信頼している慎太郎が、初めてできた彼女のことを言わないわけなんて、なかった。
「俺さ、宮部と夏頃から付き合ってるんだ」
 ああ、そっか、やっぱりな、と俺は答えたと思う。できるだけ自然に、いつも通り明るく。
 ちゃんとできていたはずだ。水臭いな、もっと早く言えよ、とかまで言ったかも。
 それは間違いなく親友として正しい対応で、慎太郎にとっても満足な反応だったはずだ。
 でもあれ以来、思ってしまうのだ。いつも通りの顔でキャッチャーミットを構えて、こちらをまっすぐに見つめる慎太郎をマウンドから見返すたび。
 振りかぶって、ボールを彼に向かって放るたび。
 怪我したら自然な形でバッテリーじゃなくなれるのにな、なんて。
 もちろん、そんなわけにいかないことくらいわかっている。うちは弱小チームだけれど、みんな野球を愛している。慎太郎のこととは別に、俺だって野球部の一員として、頑張らないといけないと思っている。
 それでも……軋む心をを抱えて何か月もいるこの状態がしんどくて、怪我に逃げたくなることだってあっても仕方ないのではないだろうか。
東雲(しののめ)先輩」
 グラウンドを出て部室へと向かいながら、つらつらとそんなことを考えている俺の肩が不意にくいっと掴まれる。俺はのけぞるようにして相手を振り仰いだ。
「お前なあ……いきなり掴むなよ。脱臼したらどうするんだ。お前が代わりに投げてくれるのか」
 俺の肩を引っ掴んでいるのは、一年の結城春歌(ゆうきはるか)だ。サードを守りつつ、俺になにかあったときは控え投手としてマウンドに立つことになっているやつ。相変わらず表情の乏しい顔でこちらを見下ろす彼に苦い顔をすると、結城は面倒臭そうに肩をすくめた。
「俺、サードがいいんで、嫌です」
 まただ。こいつはいつもこうだ。俺の控えのくせに、投げたがらない。
 はあっとため息を漏らしつつ、俺は目の前のこいつを観察する。
 春歌、なんて可愛い名前をしているが、身長は全然可愛くない。俺より十五センチは高い。肩幅もまあまあある。サード向きの体つきといえるとは思う。思うが、正直俺はこいつに物申したいことがいっぱいある。
「嫌って、お前、中学のときピッチャーだったんだろうが。正直、お前のほうが速球投げれるし、俺より投手向きだと思……」
「あ!」
 だが、俺の言葉を結城はさらっと無視する。いきなり大声を上げられて、耳がきんとなった。片耳を押さえ、なんだよ、と睨む俺の右手が、むんずと掴まれた。
「怪我したくない、怪我したくないって言うくせに……。なんですか、これ」
「あー……」
 彼の指摘通り右手の甲が少し擦りむいて血が滲んでしまっている。走塁の練習をしているときに地面で擦ったのだが、まあ、この程度はわりとよくある怪我だ。
 ……というか、怪我なんて今はむしろどうでもいい。どうせなら大怪我しちゃいたいくらいだ。
「騒ぐなよ。たかが擦り傷だし、そんな……」
蜂窩織炎(ほうかしきえん)って知ってます?」
 傷口を睨みながら結城が言う。ほうか、なんだって? と首を捻る俺を、焦げまくった可哀想な卵焼きを見るような目で見やり、結城はため息をついた。
「擦り傷から入った雑菌が脂肪とかにまで広がって、炎症を引き起こしちゃう感染症ですよ。最悪の場合、敗血症になって死に至るとか」
「なんだそれ……こわ……」
「でしょう。そうなったら野球どころじゃないですよ。ってことで、こっち来てください」
 言いざま、手首をぐいぐいと引かれる。そのままグラウンド脇の手洗い場まで連れてこられ、容赦なく水を手に浴びせられた。
 季節は今、十一月の終わり。北関東のこの辺りは霜が降りるのも早い。水道水もすでにめちゃくちゃ冷たい。
 ただでさえ心が冷え冷えなのに、冷水をかけられて俺は身をすくめた。
 刺さるほど水温の低い水道水に、自身の手ごと俺の手をさらしながら、結城が言った。
「はい、痛いですね。冷たいですね。大丈夫です。我慢我慢」
 ざばざば、と蛇口からは勢いよく水が溢れ出している。俺の手を引っ掴んでいる結城の手も水がかかって少し赤くなっている。
 お前まで冷たい思いをすることもなかろうに、と俺は少し呆れる。
「俺のことはいいから、さっさと着替えろよ。適当に洗ってあとは絆創膏(ばんそうこう)もらって自分で貼るから。ってか、お前まで濡れちゃって……」
「絆創膏、必要ですか? 東雲先輩」
 ひょい、と明るい声が飛び込んできて、俺はぴくん、と背筋を跳ねさせる。さっきまで慎太郎と笑っていた宮部がすぐそばに佇んでいた。
 我知らず慎太郎の姿を探す。ああ、いた。グラウンドの端で他の部員と談笑している。そろそろと視線を宮部に戻すと、慎太郎によく似た雲ひとつない朗らかな笑顔で、彼女は俺を見返していた。
 お似合いにも程があるな、と苦い笑みが浮かびそうになる。痛む胸から気を逸らそうと躍起になりながら、俺は曖昧に頷いた。
 その間にも、宮部は水流に打たれている俺の手を覗き込んでくる。
「わ、痛そうです〜。待ってくださいね。絆創膏を今……」
「あ、いや、別に、大丈……」
「宮部」
 断りの言葉を口にしかけた俺の声を遮ったのは、結城の硬い声だった。え、と見上げると、俺の手首を引っ掴んだままでいた結城がつと手を伸ばした。きゅっと音を立てて蛇口が閉められる。
「この人が怪我するのは想定済みだし、俺が面倒みるから。お前は他の仕事あるだろ。そっちやんな」
 言いざま、水道脇に置いていたタオルを引っ掴み、俺の手を拭く。宮部はきょとん、としたようだったが、そなの? 先輩、お大事になさってくださいね、と軽い声を残してその場を離れていった。
 ふうっと体から力が抜けるのがわかった。結城に気づかれないように息を吐いて手洗い場の縁に体を預ける。
 本当にしっかりしないといけない。こんなことじゃあこれから先が思いやられる。
 いかんな、と自分を叱咤し、顔を上げた俺はふと目線を落とした。
 手がまだ、掴まれたままだった。水色のタオルが、柔らかく、揉み込むように俺の手を包み込んでいる。
「なあ、もういいって。ってか、自分で拭ける」
 そろそろと声をかけるが、結城は返事をしない。なあ、と声を重ねると、やっと顔が上がった。
「先輩に任せておくと、適当に拭いて、濡れた状態で絆創膏貼って、化膿させちゃいそうだから駄目」
 駄目、ってなんだよ、と思ったが、俺は口を噤んだ。
 こいつがこんな風なのは……今に始まったことじゃない。
 最初はいつだったろう。今年の四月とか、五月とか、その辺りだったと思う。