澄み切った青空に、薄い雲が広がる朝。冷たかった風は柔らかな暖かいものに変わり、三分咲きした桜の花びらが町を彩っている。
高校前のバス停で降りて、車が行き交うのを横目に歩道を歩いて三分。緩やかな坂道の両面に植えてある桜並木道を通って、校門へと辿り着く。
今日は四月八日、木曜日。この北星高校で入学式が執り行われ、新入生の私は出席の為に登校する。周囲には、輝く笑顔を見せた同級生達。
だけど私はピンク色した桜に足を止めたり、校門前に配置されてある入学式の看板で記念撮影をしたり、校舎をまじまじと見つめたり、そんなことを一切せず生徒用玄関へと淡々と足を進める。靴箱の場所を探すことなく外靴をしまい、わいわいと盛り上がる掲示板に寄り付くことなく階段を登って教室に向かい、席を確認することもなく窓際左後ろの自席で腰を下ろす。
「おはよう」
何度聞いても決して嫌にならない明るく弾ける声に、変わらない空を見上げていた私は声のする方に顔を向ける。
「おはよう」
もう何度目だろう? そう返したのは。
「私、森田紗枝。南中から来たんだ、よろしくー」
パリッとしたブレザーに、シャツの第一ボタンを外して緩くリボンを付ける。スラっとして背が高く、肩までの髪が学生鞄を下ろした際に揺れる。
「私は吉永若葉。西中から来たの。よろしくね」
紗枝の屈託のない笑顔に、私まで表情が緩み自然と口角が上がっていく。
知ってるよ。あなたは心優しくて、太陽のように明るくて、私の一番の理解者になってくれる頼もしい友人。
……それを知っているのは、私だけなんだけどね。
この異変に気付いたのは、どれぐらい前だったのだろうか?
入学式の翌日、靴箱の先にある掲示板に群がる生徒達。あまりのざわつきに何が張り出されているのかと思い、人と人との間を覗き込めばクラス分けした表でそれは昨日と同じ。
なんだ。と思い教室に向かおうとその集まりから離れると、目の前では女子同士が歓声を上げながら抱き合っていた。
よっぽど同じクラスだったのが嬉しかったんだろうな、とその姿を横目に階段を上る。すると背後より聞こえてくるのは、「教室は三階と四階どっちだったっけ?」と話している男子二人。
四階じゃん、忘れっぽいなーと軽く笑いながら階段を上り切り、教室に入る。そこでも黒板に張り出されている席順表に何人かが集まっていたけど、私は気にすることなく席に座る。すると。
「おはよう」
今日も明るく弾け飛ぶ声に、私はにっと笑い小さく手を振る。
「おはよう」
「私、森田紗枝。南中から来たんだ、よろしく」
「……え?」
その言葉に、私の上がっていた口角がどんどんと下がっていく。昨日、私と話をしたたこと覚えていないのかな?
紗枝は自転車通学で、バスの私とは違うねーとか。
推しのミーチューバが同じで、チャンネルについて盛り上がったりとか。
私のことは呼び捨てで良いから明日も話そうと、約束していたのに。嬉しかったのは、私だけだったんだ。
ザラザラとなる感情を奥に押しやり、「そうなんだ。私は吉永若葉。西中から来たの」と、無難な返答をする。
「へー。結構、遠くから来てるんだね? バス通?」
「……うん」
本当に、昨日話したこと覚えていないんだ。
紗枝は自転車で通っていて、せっかく朝セットした髪がオールバックになるっていう話を面白おかしく話してくれる。昨日の私は笑いを堪えられず周りの目を忘れて声を上げて笑ったけど、今日は頭に入って来ない。気付けば手先をギュッと握り締めていた。
「……あ、ごめん。初対面の人に、何話しているんだろうね。それより、担任の中田先生ってどんな先生かな?」
眉を下げて引き攣った笑顔を見せてくる紗枝は黒板を指差し、『担任は中田純子です。みんなよろしく』と大きく書かれた文字を見つめていた。
え? 昨日、会ってるよね? 担任の先生まで忘れてしまったの?
そう指摘して良いのかが分からず言葉に詰まってしまうと、「あの先生じゃない?」と一部の女子達がざわつき始めた。
その声に、「じゃあ後でね」と隣の席に戻っていく。そんな紗枝をぼんやり眺めているとブレザーの右ポケットから何かを取り出し「あー!」と叫んだかと思えば、ガンッという音が響く。
もし「嫌いな落下音ランキング」というものがあれば、おそらくワースト一位になるのはスマホの画面が割れた音だと勝手に思うぐらいに絶望的な音。それを鳴り響かせた紗枝は「やっちゃったー」と悲痛な声で叫び、机を前方に押して足元に転がったスマホに手を伸ばす。
「大丈夫?」と声をかけると、紗枝は恥ずかしさを隠すように大袈裟に笑い顔を上げようとする。そしたら次は、ゴンッと鈍い音が教室中に響き渡る。
「いったー!」
紗枝が机の角に頭をぶつけた音だ。
「ご、ごめん。私が声をかけたから!」
「違うよー! 私、抜けててさー!」
頭を摩りながら、ニッと笑って見せてくる。
その明るさに申し訳なさと、紗枝の人柄の良さを再認識して。そして覚える、違和感。
昨日もスマホを落としていたよね? しかも今日は頭まで打つなんて。
紗枝のうっかりさん具合を少し心配していたけど、そこでようやく心配なのは自分の方だったと気付かされた。教室に入ってきた先生に目をやると、そこにはお母さんと同世代と思われる女性が入学式用の白いスーツを綺麗に着こなしていて、にこやかに入学おめでとうございますと生徒に伝えてきた。そして、その後に続く自己紹介。
知ってるよ。中田先生でしょう? 先生にも私達と同世代のお子さんが居て、私達を息子や娘みたいに思っていると笑っていた。私その言葉が嬉しくてしっかり覚えているから、別の人が言っていたとかの勘違いをするわけない。
「これより入学式が執り行われます。出席番号順に廊下で並んでください」
先生の言葉に異議を唱える生徒はおらず、廊下に出ていった先生に並んで一番の生徒から続いていく。
どうしてまた入学式に出るの? どうしてみんな当たり前のように並ぶの? 意味が分からない。
式典の間は電源を切るようにと指導が入り、スマホをブレザーのポケットより取り出す。すると待ち受け画面には四月八日と表示されていて、それは昨日の日付だった。
まだ残っていたっけ? と思った朝ご飯の食パンも、バスで乗り合わせた人達の服装が全く同じだったのも、澄み切った青空に薄い雲が広がる景色も、片付け忘れだと笑った入学式の看板も、全て今日の物だった。
夢を見ているのだと思った。寝たら進む、明日へ。
そう思い入学式を終わらせ、いつも通りに生活をして私は夜ベッドで眠る。悪い夢であることを、ひたすらに願いながら。
しかし瞼を開けば、また四月八日だった。
同じパンをかじり、バスに乗り、同じ空を見上げ、入学式の看板を見て、入学おめでとうと言われる。
私は、四月八日に閉じ込められた。
それを何回か繰り返した後、私は思い切って学校を休んだ。しかし時間は進まない。
悪いと思ったけど紗枝の声に反応せず、友達にならなかった。
だけど状況は変わらず、同じ時間がただ巡ってくる。
そんな事態を変えられたのは、十二回目の四月八日。何の前触れもなく、四月九日に行けた。
やっとこのループから抜け出せたのだと新しい生活に身を置いたけど、その時はすぐに訪れた。
次に目を覚ませば、また四月八日の朝に戻っていた。
もう、どうして良いのかが分からない。せっかく進んだ時間がまた巻き戻る。
全てに絶望し、学校を休んで布団を被り目を閉じる。
だけど時間は進まない。布団に被りながらあの時のことを考え続けた。何故、時間が進んだのだろうと。
十二回目の四月八日。学校に行って紗枝と話し、入学式に出席する。いつもと同じだったけど、違うことは二つあった。
一つ、残り一枚だった食パンを食べなかったこと。
二つ、それにより明日のパンを買いに出掛けなかったこと。
……まさか、それがキッカケ?
そう思った私は、半信半疑のままそれを実行してみる。
午前中は学校に行き入学式に出席、午後は買い出しに行かずに家に居る。
すると行けた。四月九日へ。
私は忘れないようにと、一冊の大学ノートに書き込む。
四月八日は朝食に食パンを食べないことと。昼から買い出しに出掛けないこと。
一歩前に進めたけど四月九日を越すことは出来ず、四月八日の朝に戻ってきてしまう。
次の日に進みたい気持ちは強くあったけど、これはこのループを抜け出す為の情報収集だと割り切り、試してみることにした。四月八日から抜けれた理由は、食パンを食べないことなのか、それとも買い物に行く行動なのか。
結果、割り切った一日は大きな成果をもたらせてくれた。食パンを食べるのはループに関係なく、因果があるのは食べたことにより買い足しに行く行動のようだった。
一つの行動により、その先の行動も変わる。それによりやっと開いた、明日への扉だった。
そして導き出した答えは、四月九日にも問題の行動がある。そう気付いた私は行動を逐一ノートに記入していき、失敗する度に何が原因かを分析していく。
そこで変わるキッカケになったのは、その日はお弁当を持って行くかどうかだった。
うちは両親があまり帰ってくる家庭ではない。だからスーパーで、パンやお惣菜などを買っている。
高校は売店があり毎日そこで昼食を用意するつもりでいたが、どうやらそれがループを繰り返す因果になっていたようだ。
そうと分かれば簡単。四月八日は買い出しに行ってないから、四月九日は早く起きてコンビニで昼のパンを買って持って行く。
たったそれだけのことで、次の日へと道は続いていった。
こうして迎えた四月十日の土曜日、学校は休みだった。
初めて迎えた日は何がダメな行動か分かるどころか、何が起こるのかも当然ながら分からない。だから出来るだけ自然な行動を取ることにする。
あまり無理に切り詰めてしまうと、後になって繰り返す時に苦しむのは自分。だから出来るだけ自然に、何度やっても苦にならない行動を心掛けた。
目が覚めると、ポツポツと雨音が窓を叩く。
スマホを見るまでもなく、分かる。ああ、私はまた一歩前に進めたんだって。
四月十一日、日曜日。最近は暖かったけど、ぐっと冷え込み仕舞っておいた黒色カーデガンを羽織る。
今日の朝ごはんは、昨日買っておいた鮭のおにぎりとレトルトの味噌汁。十パック入りの一つを開けてお椀に入れ、熱湯を注ぎ込めば出汁の良い香りがふわっと立つ。口の中で広がる風味と温かさに、ふぅっと溜息が溢れていた。
良かった。昨日まで買い物に行ってはいけないとなったら、家に食材ないしどうしようかと思っていた。買い物に行けたからこそ、私は好きな鮭のおにぎりとお味噌汁を口にすることが出来ている。こんな当たり前のことが成せなくなるなんて、思いもしなかった。
今日は何をしようか? 中学の友達と連絡をするとそれをやり直しの度にしないといけなくなるから、行動を起こすなら慎重に動かなければならない。
結局、私は何もしなかった。スマホゲームをポチポチと触り、ステージが上がったところで辞めてソファでゴロゴロとする。
お腹が空いたなと思えば一日中雨が降った空は真っ暗になっていて、昼を食べずに夜を迎えていた。
今日は行動を取らなかった。だからこそ、戻るかもしれないな。そう思いながら、ベッドに寝っ転がる。
目を閉じれば明日か、それとも振り出しに戻るのか。それは今更どうしようもない、賭けだった。
カーテンより差す光により目が覚め、充電ケーブルに繋がれているスマホを手に取り目の前に持ってくる。
映し出された日付は四月十二日、月曜日。時計の針は動いていた。
「晴れていたから、ダメだと思ったー!」
思わず声に出し、もう一度ベッドに寝そべる。
学校三日目。今日は一体、何が起こるのだろう?
顔を洗い、歯磨きをして、制服に袖を通すけど時間はまだまだあり、私は足取り軽く台所に立つ。
溶いた卵と牛乳と砂糖を混ぜて、買っておいた食パンに浸す。フライパンを熱しバターを乗せて溶かすと、風味の良い香りが鈍くなっていた食欲を誘ってくれる。そこに浸したパンを中火で焼くこと五分。最後に蜂蜜たっぷりかけフレンチトーストが完成させる。
付け合わせはコーンスープで、お気に入りの黒猫のマグカップを使用して粉末に温かなお湯を注ぐと、コーンの香しさがリビングに広がる。
四人掛けの食卓で一人手を合わせると、まずはフレンチトーストを一口。ふわふわの食感で蜂蜜のとろける甘さにバターの風味を感じ取れ、大げさかも知れないけど生きてると感じさせられる。次はコーンスープ、クリーミーな口当たりと温かさに心まで温かくなっていく。
「うん、きっと大丈夫」
何の根拠もないけどそう口にし、不安な気持ちは食器洗いで付いた泡と共に流す。
大丈夫、大丈夫だよ。だって今日は雲一つない、快晴なのだから。太陽は出て、これほとキラキラと輝いてくれているのだから。暖かな風が吹いているのだから。
バスを降り学校に続く坂道まで歩くと、そこには五分咲きになった桜。昨日の雨にも負けずに咲き誇る姿に負けたくないと、私は坂道を駆け上がる。
するとそこには自転車から降りる紗枝が居た。
「おはようー!」
「あ、おはよう。あれ、テンション高め?」
「そうかな?」
「彼氏でも出来たー?」
「まっさかー」
私は人見知りの方だけど、紗枝とは友達になって何ヶ月も経った気でいている。実際は、まだ三日目なんだけどね。それはループしていて良かったと、思うことだったりする。
「あれ? 今日もコンビニ? 売店は興味ない派?」
四限目が終わった昼休み。雑誌のおまけでついていたトートバックより出したおにぎりに紗枝が軽く声をかけてくれる。
「いやあ。コンビニのおにぎりにハマっちゃってさー」
「あー、分かる。ツヤがたまらないんだよねー。じゃあ、私売店行ってくるから先食べててー」
「待ってるよー」
その後二人で楽しくお昼ご飯を食べる。紗枝とはすっかり友達になった。
五限目にあった古文、六限目は体育のソフトボール。苦手な授業を何とかこなし、紗枝とまた明日と別れ、いつも通りバスで帰ってくる。
宿題を軽くこなし、夕飯に冷蔵庫の余り物でチャーハンと味噌汁を作って食べ、夜十一時三十分。私はベッドで横になる。
「きっと、ループは終わったんだ」
茶色い天井を眺めながら、そう呟く。
分かっている。何の確証もないし、寝ないと判別はつかない。そう信じることしか出来ない、哀れな状態なのだと。
目を強く閉じて願う。明日を私にください。と。
『吉永さんは運命って信じてる?』
紺のブレザーを適度に緩く着こなし、スラリとして目線が高く、穏やかな口調の男子が私にそう問いかけてくる。
『うーん。あんまり信じてないな。人生なんて成り行きだと思うし。佐山くんは?』
『俺は信じてるな。だってあの日、母さんと吉永さんが出会ってなければ俺達だって出会わなかったんだから』
風で揺れるふわっとした髪、柔らかな目元、耳に残る穏やかな口調は私の心を温かなものにしてくれる。
『あー、確かに。売店でもすれ違っていたんだよね?』
『あの日、小銭ぶち撒けたの俺』
『え、そうだったの。だから佐山くんと会った時、なんか馴染みがあったんだ』
私がふふっと笑うと、その男の子も眉を下げて無邪気な表情を向けてくる。その姿に私は思わず目を逸らし空を見上げると、そこには薄暗い空を照らしてくれる満月。あまりの明るさに目を細め見入っていると、その男の子は一息吐き私に声をかけてきた。
『明日、良かったらウチに来ない?』
『え?』
想定していない言葉に、思わず聞き返すようなことしか出来なかった。
『いやいや! ほら、母さんが吉永さんに礼がしたいって!』
『分かってるよー! じゃあ、お邪魔して良い?』
声を裏返し、はわわわっとした表情を浮かべる男の子に私は眉を下げて笑ってしまう。
『じゃあ、この桜の木下で待っているからね』
『うん』
見上げた木々には若葉が茂り、サワサワと揺れ風の音を知らせてくれる。
空に輝く満月、光る星々。私はこの日を絶対に忘れない。そう、月に誓った。
ピピピピ。ピピピピ。
スマホのアラーム音に、目がパチリと開く。
「……誰?」
そう問うが、ここは私の部屋。当然ながら答えてくれる人なんているはずもなかった。
夢に出てきた男子のブレザー胸元に刻まれていた校章は、北星高校の制服。つまりあの男の子は、同じ学校の人なのだろうか? でも、あの人の知らないと思う。少なくても中学では一緒じゃなかった。……多分。
だけど、なんでだろう。彼の顔をやたらハッキリ覚えていて、今私は胸が締め付けられている。あの包み込むような深みのある声、笑った時に細める目、慌てた時に早くなる口調。
ぼんやりと夢を思い返していると視界に入ってきたのは、水色カーテンより漏れる日差しだった。
「まさか!」
充電に使用していた線を外して、私の手元によってガタガタと震えるスマホを覗き込む。
四月八日、木曜日。私はループから、抜けていなかったんだ。
「……はは」
力無くスマホをベッドに転がした私は、布団を被り強く目を閉じる。
また一からか。何が悪かったんだろう? 朝から張り切ってフレンチトースト作ったのがダメだったの?
紗枝に、テンション高く話しかけたのがダメだったの?
苦手な古文に体育は、もう一度頑張らないといけないのか。体育だけでも、見学出来ないかな?
夕食まで張り切ってチャーハンと味噌汁作っちゃったし、次のループでも作らないといけないのかな?
こうなるからやり直しの時に大変にならないようにと動いていたのに、私は……。
消化出来ない気持ちを抱えつつ眠ることも出来ない私は、布団に包まり時間の流れに身を任せる。
ピピピピ。ピピピピ。
次に瞼を開けば、水色カーテンより溢れる日差し。夢の彼は、会いに来てくれなかった。
スマホの充電ケーブルを抜き、液晶パネルを覗き込む。
四月八日、木曜日。入学式の朝だ。
そうだ、動かないと進まない。行動を起こさないと時間は動かない。だから、学校に行かないと。
重い体を無理矢理起こして、階段を降りて顔を洗う。台所に行くとテーブル上にあるのは、スーパーで買った六枚切りの食パン。一枚のみが残っている。
本来ならこれを食べて昼から買い物に行くけど、それではループを起こしてしまうからと、この日は食べなくなってしまった。バカみたいだよね? 関係ないって分かっているくせに。
私は袋からパンを取り出してトースターでカリカリまでに焼き、バターをたっぷりと塗りだくる。今日の付け合わせはコーヒー、個装に入っているステックを一つ開け湯沸かし器で沸かしたお湯をカップに注ぐ。甘党な私は規定量より少なめにお湯を入れ、まずはコーヒーとミルクの落ち着く香りを堪能する。
パンをかじり、湯気が立つコーヒーカップに息を吹きかけて熱を冷ましながら少しずつ口に含むと、じんわりと温かさが体内に広がった。
……大丈夫。私はコーヒーの味が分かる。ミルクと砂糖の甘さを感じ取れる。美味しいと思えるほどの余裕がある。だから、まだ大丈夫。
「おはよう」
何度聞いても決して嫌にならない明るく弾ける声に、変わらない空を見上げていた私は声のする方に顔を向ける。
「おはよう」
もう何度目だろう? そう返したのは。
「私、森田紗枝。南中から来たんだ、よろしくー」
パリッとしたブレザーに、シャツの第一ボタンを外して緩くリボンを付ける。スラっとして背が高く、肩までの髪が学生鞄を下ろした際に揺れる。
「私は吉永若葉。西中から来たの。よろしくね」
紗枝の屈託のない笑顔に、私まで表情が緩み自然と口角が上がっていく。
知ってるよ。あなたは心優しくて、太陽のように明るくて、私の一番の理解者になってくれる頼もしい友人。
……それを知っているのは、私だけなんだけどね。
「スマホ、ポケットに入ってるでしょ? 取り出す時、気を付けてね」
「……え? うん」
突拍子のない話に一瞬目を泳がせるけどこの忠告を聞いてくれ、紗枝はポケットより慎重にスマホを取り出す。その姿に紗枝から視線を外し、私は変わらない四月八日の空を見上げる。
家に帰ってきた私は、制服のまま寝っ転がる。
最初の時は皺になると直ぐに着替えてハンガーにかけていたけど、どうせ巻き戻るもんね。そしたら制服はまた元に戻るから、いちいち気にしなくていい。
「今日は何しよっかなー?」
勉強だって、まだ全然進んでないからしなくていいし、楽でいいじゃん。ずっと遊んで暮らせる。最高じゃない?
「……お腹、空いたな」
入学式の日は買い物に行ってはならないから、家に引き篭もっているしかない。冷蔵庫の中が空でも、夕飯の食材がなくても我慢するしかない。
まあ、いいんだけどね。ご飯炊けば、おかずなんて。
私はこのままスマホをぽちぽちと触り、今日という日を無駄に終わらせた。
それから、私は何回ループを繰り返したのだろう?
八日木曜日から十一日日曜日までは進むことは出来るけど、十二日の月曜日を越すことが出来ない。
ルーティンを変え、場所を変え、会話の内容を変え、別の行動を取る。しかし私を、明日に連れて行ってくれなかった。
「もうお腹空いちゃったよー。若葉も遠慮なく食べて。あー、この食感がたまらないんだよねー」
四月九日、金曜日。二限目の終わり。紗枝がお腹が空いたと、持参したチョコが付いた棒状のおかしをぽりぽりと頬張る。
「なんか、元気なくない?」
「……え?」
私を覗き込む紗枝の姿に、思わず顔が強張っていく。
こんな会話あったっけ?
次起こることを全て把握してきた私にとって、初めて起こる異変に気付けば心臓が痛いぐらいに音を鳴らしていた。
それは初めての異変が嬉しいから? 想定外な出来事が怖いから? 自分のことなのに、そんなことすら分からなかった。
「あ……、えっと……」
ねえ私は、どう答えるのが正解なの?
「何かあるなら相談してよ。……って、何言ってるんだろねー! 出会って二日、いきなり過ぎたわ!」
ははっと戯けているけど、優しさからの申し出だと分かっている。だって私は、ずっとあなたと一緒に居るのだから。
「……ループって聞いたことある?」
『ループ』を口にしたのは初めてでその言葉を告げた瞬間、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「ん? 同じ時間を繰り返す……、だっけ? 映画で見たことあるよね。そうゆう話が好きなの?」
紗枝は何かを話す前段階だと思っているようで、軽く応対しつつ食べかけのお菓子を口にしない。私の話をしっかり聞こうとしてくれていると分かると、余計に鼻がツンと痛くなる。
「……私、してるんだ……」
「え?」
私に向けていてくれた戯けた声と表情が、一瞬で素になっていく。それはそうだよね、いきなりそんな訳分からないこと言われたら普通は。
「紗枝とは、数え切れないぐらい初めましてをしているの。今日の昼はね、売店で卵のサンドウィッチを買ってくるの。ハムサンドはタッチの差で取れなくて悔しいと言っていた。カフェオレはペットボトルより牛乳パックタイプが好きだと話していた。それに……」
そんなこと言っても、信じてくれるわけない。
紗枝を困らせる。
変な奴だと思われる。
友達になったことを後悔される。
分かっているのに私から溢れていく言葉は、収まりを知らない。誰かに知って欲しい。話を聞いて欲しい。辛いねと言って欲しい。大丈夫だよと言って欲しい。
そんな気持ちを、何も知らない紗枝にぶつけてしまった。
「って、冗談に決まってるじゃん! ごめん、ごめん。別に何もないよ!」
今出来るのは精一杯笑い、ごまかすだけ。これ以上、紗枝にそんな表情させてはいけない。あなたは花のような笑顔が似合う人なんだから。
「……そう? 何かあったら言ってよね。聞くだけなら、いつでも受け付けるから! ……解決はごめん!」
両手の平を合わせごめんとする仕草が、また可愛かった。
四限目が終わり、紗枝一人で売店に行った。
金曜日のループする因果は、売店に行くこと。だから私は、窓際からの景色をただ眺めていた。
なんの変哲もない、ひととき。
「あ、おかえ……」
紗枝が手にしていた物を見た瞬間、私の上がっていた口角は下がっていく。紗枝が持っていたのは、購入出来ないはずのハムサンドだった。
いや、そんなはずは。だって私は何度も、早く行かないと売り切れるよと声をかけても未来は変わらなかったはずなのに。
「……あ、買えてるよね。何言ってるんだろうねー」
「ご飯食べる、良い場所見つけたんだ。行かない?」
紗枝は笑っているけど、それは無邪気なものではない。何かを思考した、硬く強張ったものだった。
また起きた異変に私は喜びの感情ではなく、押し寄せてくる恐怖が勝っていた。
「行こっ!」
紗枝が冷え切った私の手をギュッと握りしめ、私のお昼が入ったトートバッグを掴み走り出す。行き着いた先は、人の気がない校舎裏。プールや校舎内に電気を運ぶ機材が設置されてあるこの場所は殺風景で、生徒が寄り付かないのも納得の場所だった。しかし。
「……綺麗だね」
その地面には、たんぽぽが黄色の花を咲かせている。誰にも気付かれなくても、懸命に咲く花。それをまじまじと眺めた紗枝は真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる。それはループの中で見たこともない、凛々しい表情をしていた。
「私は若葉を信じるよ」
紗枝は購入したハムサンドを、私に見せてきた。
「これね最後の一つを、タッチの差で取れたの。若葉がそう言ってくれたから、駆け足で売店に行った。だから未来が変わったんじゃないかな? と思うの」
そう口にしながら、次は牛乳パックのコーヒーを取り出した。
「若葉が言った通り、私はペットボトルより牛乳パック派なの。それにね、昨日の朝私にスマホを落とさないように声をかけてくれたけど、本当なら落としてしまうんじゃないかな? だから気を付けるように声をかけてくれたんじゃないの? 今日の朝とかも階段昇ってたら若葉が走ってきて、階段の段差に注意するように言ってくれたから、もしかして蹴つまずくのかなーとか。なんて考えていくうちに、辻褄が合うんだよね」
ニッと笑って見せてくる紗枝は、私の言い分を全て理解してくれているようだった。
「どうして、信じてくれるの? 普通、出会って二日でそんなこと言い出したら、変な子だとか思わないの?」
私が逆の立場なら、正直引いてしまうだろう。
「若葉は覚えていないと思うけど、私も昨日が初めましてじゃないよ? 私、こう見えて緊張に弱くてさー。受験の日は手足ガタガタ、お腹痛くて泣きそーだったの。そこでね若葉がカイロくれたんだよ? まあ、一瞬のやり取りだし覚えてないよねー」
紗枝のことは、ループで何度も見ているつもりだった。明るくて、何でも笑い飛ばして、自分から話しかけられる積極性のある子。だけど違ったんだ、本当は弱さもあってだからこそいつも笑っていたんだ。
そして、私は紗枝のことを覚えていなかった。受験会場で震えていた子が居たことすら。高校受験からまだ一ヶ月した経っていないのに、私はあの日のことを遠くの昔に感じる。もしループをしていなかったら、私は紗枝を覚えていたかもしれない。やり取りを覚えていたかもしれない。このループにより、大切な記憶すら抜け落ち初めているのかもしれない。だからこそ。
「ありがとう! 紗枝!」
私は、今の関係を大切にする。
「若葉、今まで辛かったね。役に立てないと思うけど、私話を聞くから。一緒に考えるから。若葉を未来に連れて行くから」
包み込んでくれた腕は細くて頼りないも温かくて、その優しさで私の凍り付いていた心を溶かしてくれる。ああ、私まだ感情があったんだ。嬉しい気持ちが、まだ分かるんだ。
紗枝はお昼を食べることなく話をずっと聞いてくれ、授業が終わってからも出来るだけ元の生活がズレないようにと家に来てくれた。
その中で言ってくれたのは、ループする毎に紗枝に相談することだった。初対面である紗枝のことを全て言い当て、未来予知までしてきたら信じる可能性が高い。そう言いながら誰にも打ち明けたことのないからと、紗枝の秘密を話してくれた。そんなことを話してくれるなんて、紗枝は本当に私のことを信じてくれているのだと目頭が熱くなる。
私には、ようやく理解者が出来た。紗枝という、信頼できる友達が。
ピピピピ。ピピピピ。
アラームの音で瞼を開くと、今日は四月八日。家に誰かを招くのはルーティンから外れるのかと、小さく溜息を漏らす。だけど私には、心強い理解者が居る。それを原動力に朝の準備をして、登校する。一つの可能性があることに気付いているが、その不安にフタをして。
「……ごめん、若葉のことは信じたいと思うよ。だけど、明日まで待ってくれない?」
出会って早々にループの話をされた紗枝は、当然の返答をしてきた。分かってる、いくら入試の日に会っていたとしても、こんな話いきなり信じられるわけない。
次回からは紗枝が話を振ってくれるまで、自分からこの不可視げな現象については話さない方が良い。混乱させてしまうから。
……ただ、今日ループしなければ。
今日は紗枝にループの話をした以外、全てのルーティンを守った。午後から買い物に行かず、余計な行動を取らず、ただ決められたことのみを。
だから今日ループしたら、それは……。
目を閉じ、これからの道が開けることをただ願った。
ピピピピ。ピピピピ。
目が覚める。私には、確かめなければならないことがある。そう思い願掛けをしながらスマホの画面を見つめると、その日は四月八日。入学式の日である、昨日に戻っていた。
「はぁ……」
両手で目元を強く抑え、唇を噛み締める。
『私が若葉を理解して必ず側に居るから。大丈夫、一人じゃないからね』
「……私、ひとりぼっちだったよ」
ずっと抑えていたものが、どんどんと溢れてくる。
──このループを人に話したら、戻される。
そうゆうことなのだろう。
確認として二日目の九日、朝に担任の中田先生に話してみた。先生が準備していたプリントの内容、一限目のロングホームルームで先生が親睦を深める為のゲームを考えていること、三限目にクラスの男子が体調不良で早退すること、月曜日の授業中に先生が話していた個人的なことまで。その内容まで言い当てたら明らかに私を見つめ、全面的にではないが信じて協力すると言ってくれた。
だけど容赦なく戻る時間。私には味方などいない。そう確信するには充分だった。
どうして、ダメなの?
外を出れば多くの人が居て、声を掛ければ振り向いてくれる。だけどこの状況を話せる人は居なくて、分かってくれる人が居なくて、私は一人ジオラマの世界に閉じ込められている。
助けて。誰か分かって。私ずっと、閉じ込められているの。
叫びたい。喚きたい。泣きたい。
助けて。お父さん、お母さん。紗枝。中田先生。
ピピピピ。ピピピピ。
あのまま泣き続けた私は疲れて眠ってしまい、一日をムダにしてしまった。
なんとかしなければ、抜け出さなければ。進むしかない、前へ。
そう思った私は起き上がり、学校へ向かう。余計な行動は起こさない。余計な言動はしない。決められた言葉を発し、笑い、決して表情を崩さない。紗枝にどうしたの? と聞かれないようにする。
だって。あんな優しい言葉を伝えられたら、私はまた紗枝に縋り付くだろう。でもそれは出来ないのだから、希望の芽は摘んでおく。だってそれは、私の心を守る方法なのだから。
今日は土曜日。何をしようか?
テレビを付けても当たり前だけど同じ内容しか放送してないし、好きなチャンネルだってそう。
スマホゲームを開けば、せっかく進めたのにデータが消えてしまったかのようにニューゲームとなる。久しぶりにやるならともかく、数日前にプレイして記憶がハッキリしているものを何度も繰り返すなんて苦行でしかない。
……って、それは今の状況と同じか。
私の置かれている現状はゲームと同じなんだ。上手くいけば進め、失敗やルール違反をしたら戻る。シンプルなゲーム。だから次の攻略は月曜日、私は何かを間違えている。それを考えたらいい。
この状況をゲームに置き換えることで、私は自分を保つことした。
迎えた月曜日。この日は選択肢が多数あり、組み合わせが難しい。
一つ、バスの遅延で学校に遅刻すること。
二つ、紗枝と初めて遊びに行くこと。
バスの遅延は交通事故が起こり道が渋滞するからだった。しかし当然ながら私が事故を防げるはずもなく、道路の渋滞を緩和出来るはずもない。だから私に出来ることは一本前のバスに乗り遅刻を防ぐか、そのままの運命を辿るか。両方を試したが、次の日に私は辿り着けなかった。
じゃあやはり、紗枝と出掛けることだろうか?
月曜日の放課後、紗枝に遊びに行こうと誘われる。一回目はカラオケに行き思い切り歌って楽しんだけど、入学式の日に戻ってしまった。
仕方がなく行かない選択肢を選んだが戻り、紗枝のおすすめであるカフェに行ったけど戻り、手頃なファーストフード店でも戻り、雑貨屋に行っても戻り、ぶらぶらと歩き回っても戻り、私は正解が分からないまた五日間を彷徨っている。当然もう一つの分岐点の可能性である朝のバスを早めるか通常通りにするかを合わせて、私は月曜日が来るたびにそれを試していく。
それ以外が間違っているのかもしれない。これ以上組み合わせを変えるのは、一体何回ループを繰り返さなければならないのだろうか?
「せめて、どれがダメか教えてよ……」
月曜日の夜。窓より見上げた先に見える、欠けた月に思わず呟いていた。
瞼を閉じる瞬間、いつも願う。
私を明日に連れて行ってください、と。
朝、瞼を開けて一番に見るのは太陽の光り。入学式の日は晴れ晴れとしていたから、曇や雨を切に願ってしまう。
まさか晴れやかな空を忌み嫌う日が来るなんて、思いもしなかった。
スマホの日付を見て、日数が戻っていた時の絶望感。
何が悪かったのか? どうしたら良かったのか? 正解も分からない世界で、私は一人息が出来なくなっていく。
それは細い針穴に糸を通すような生活で、言動に細心の注意を払い、神経は削られ、気を抜く瞬間すら許されない。失敗すれは容赦なく振り出しに戻されてしまう、理不尽な世界。
何度も繰り返す日々に発見や感動などあるはずもなく、ただ同じ映像を無理矢理何度も見せられている気分に堕ちていく。
周りが喜んだり、笑ったり、泣いたり、感情を露わにする姿を、私は醒めて見てしまう。
友達が声をかけてくれたことに飛び跳ねるぐらい嬉しかったり、先生の言葉に涙腺が緩むぐらいに感動したり、入学式の日に見る桜に心を締め付けられたり、散らないでと願ったり、そんな当たり前の感情が抜け落ちていく。
もしこのループから抜け出せたら、私は元の私に戻れるのだろうか?
そんな思いと共に、私の意識はゆっくりゆっくりと沈んでゆく。
ピピピピ。ピピピピ。
私を待っていたのは新たな未来ではなく、既存の四月八日だった。
「……ダメか……」
体を起こした私は、机に置いてあるノートに×印を書き込む。この組み合わせもダメかと、溜息を吐きながら。
行かなきゃ……。一日、無駄にしちゃうじゃない。
そう思った私は、それからも決められたルーティンをこなす。
決められた日の食事をして、同じ行動をして、絶対別の場所に寄り道しない。少しぐらい別の場所に立ち寄っても、違うものを食べても影響なんかない。分かっているけど、私は絶対にそのルーティンを変えない。一日を終わらせる為に目を閉じる時、激しい後悔が私を襲ってくるから。だから私は、決められたレールをただ走る。同じ景色を見て、同じものを食べて、同じ話をして、決して内容が変わらない映画のように。
私がこうしているのは、既に争った後だから。この現実から逃げ出すなんて、とっくにやり尽くしていた。
入学式をサボって別の街に出掛けたり、入学式には出て昼から買い物に行かずに別の街を彷徨いたり、家に帰らない選択をしたことだってあった。
だけど決められた行動以外を起こすと、容赦なく入学式の朝に戻される。このループから逃げ出す手段なんて、何もない。その事実を受け入れることでしか、明日に向かうことが出来ないから。
だから私は、今日も決められた行動を忠実に再現する。後悔をしない為に。
バスからの流れる景色を眺めていた私は、このループについて思考を巡らす。
一日目は近所のスーパーに買い物に行くことがループの因果になっていたけど、別の場所ならどうなのだろうか? そもそも、何故買い物がダメなのだろうか?
二日目は売店でお昼ご飯を買うこと。コンビニで買うべきだから? それとも売店がダメなのか?
……もしかしてループの因果には、何か共通点があるかもしれない。
次やることが、見つかった。
高校に行き紗枝と出会い、入学式に出席する。ループを避ける為に昼からは家に閉じ籠るが正解だけど、あえて私は別のスーパーで買い物をした。どこまでがループの影響を受けるか、それを探る為だった。
次の日に目を覚ますと、四月八日だった。
私はノートに、昨日行ったスーパーの名前と×印を書き込む。これが良ければ自分を縛り付けていた呪縛が解けるような気がしたけど、私をこの世界に閉じ込めた何かはそれを許してくれないようだ。
じゃあ次だ。何故予定通りのスーパーに行けばループするのかを確かめる為、私は禁じていた買い物へと行く。そう、昨日と今日は検索日。捨てる日だって必要ということだ。
私は商品ではなく、周囲を注意深く見渡す。馴染みの店だからこそ、何か異変があれば気付くはず……。
トン。
「あ、ごめんなさいね」
肩に軽く感じる振動。背向けていた私は、誰かとぶつかってしまったようだ。
「こっちこそ、すみません」
軽く頭を下げて終わる、日常の一コマ。……のはずだった。この異変に気付くまで。
「何これ?」
家に帰ってきてトートバッグの片付けをしていると、出てきたのは手のひらサイズの簡易的な財布。カードや小銭などを入れられる物だった。その中で出てきたのは、「佐山多恵子」という名前の健康保険証だった。
「あの時か!」
スーパーで女性とぶつかったことは覚えている。あの時に私が持参していたトートバッグに入ってしまったようだ。
もしかして、これがループの因果になっているのでは?
とにかく私は最寄りの交番にことの経緯を話して、遺失物として届け出た。
どうしてトートバッグに財布があったことを、気付かなかったのだろう?
抜けている自分に呆れつつ、空を見上げると欠けた月。目の前には、三分咲きになった桜が月明かりに照らされている。
「ここって……」
『吉永さんは運命って信じてる?』
脳裏に過った、柔らかくて温かな声。
いつかの夢で見た、同じ高校の制服を着ていた男の子と歩いていた場所だ。ただ一つ違うのは、夢では桜ではなく若葉が茂っていた。これから先に起こる未来の出来事なのだろうか?
……名前、何だっけ?
ダメだ、思い出せない。あの声を聞けば、思い出せるのに。
ピピピピ。ピピピピ。
「嘘」
目が覚めた日は四月九日。私は決められたルーティンを破ったのに、次の日に行くことが出来た。それは、つまり。
「八日の禁止事項は、あの財布を家に置いておくこと?」
そうゆうことなのだろう。だからスーパーに買い物に行ったらダメだったんだ。あの人とは確か、いつもぶつかっていた記憶がある。その時にトートバッグに財布が入っていたんだ。
しかし、何故それがループに影響するのだろう?
泥棒にでも間違われるのだろうか?
あの女性とは面識もないし、相手も私を知らないだろう。何故私は、ループを繰り返しているのだろう。それはまた、今日にヒントがあるのかもしれない。
「早めに行った方が良いよ」
「えー、そんなすぐ売り切れないって!」
四月九日、昼休み。四限目の授業が終わり、紗枝と共に売店へと速足で向かう。
本来ならこの日は売店には行かないことが正解なんだけど、私は敢えてループの道へと突き進んでいく。手掛かりを得る為には捨てる日も必要。そう言い聞かせて。
紗枝は知らないけど、急がないと紗枝の好きなハムサンドは手に入らない。だから私は、思わず急かしてしまう。
「ラスイチだった」
紗枝が私の元に駆け込んで来る。良かった、このループでは好きなハムサンド食べられて。
思わずふふっと笑い周囲を見渡すけど、ループの因果になりそうなことは見つけられず、あの夢に出てきた男の子も見当たらない。……いや、正確には覚えていなかった。あの夢から何度もループを繰り返している。毎日同じ顔の人ばかり見ていたら一度しか見たことがない人の、顔なんて……。
「あ!」
背後より漏れた小さな声と、それを掻き消す甲高い音。チャリンとあちこちに鳴り響かせながら四方八方に飛び散った小銭は、私の足元にも転がってきた。
「すみません。ありがとう」
頭をぺこぺこさせながら周囲に居た生徒達が拾ってくれた小銭を受け取り、眉を下げている男の子。どうやらお金を払った後に財布を落として、小銭をばら撒いてしまったらしい。一緒に居た友達みたいな二人に揶揄われ、恥ずかしそうに笑っている声が遠くなっていく。私は商品棚の下に入ってしまった小銭を取ろうと指を伸ばしていたが思ったより時間がかかり、それを掴んだ時にはその男子は居なかった。
「待って!」
私は五円玉を握りしめて、その男子達を追いかける。
しかし顔をハッキリ見ておらず、男子は全員同じ制服を着ている為、誰か見分けなんかつかない。
だから私は回り込み、三人グループの顔を見ていく。そういえば、前にループした時もこうゆうことをしたと思い返しながら。
「……え」
一人の男子と目が合った途端。私は指の力が抜けてしまい、指に摘んでいた五円玉を落としてしまった。それはその男子の元に転がっていき、それをしゃがんで拾ってくれた。
「はい」
私の元に歩いて来たのは、スラッとして、ふわっとした髪に柔らかな目をした男の子。穏やかな口調は、私を優しく包んでくれるような温かなものだった。
「いや、これお前のじゃないか?」
「そうだって。わざわざ追いかけて来てくれたのに、バカだなー」
一緒に居た男の子達にそう突っ込まれると途端に声を裏返し、はわわわっとした表情を浮かべる男の子。間違いない、夢で出会った人だ。
「助けて……」
「え?」
私の震える声に表情を変えた男子は、神妙な表情で私を見つめてくる。
「私、この世界から抜け出せないの! ループを繰り返しているの! お願い、私を未来に連れて行って!」
気付けば私の目からは涙が伝い、感情のまま叫んでいた。
「何があったの? 大丈夫?」
戸惑いと混濁が混ざった声に、相手を困らせてしまっているのが分かる。ループのことを知らないとも分かる。
だけど私の精神はもう限界で、誰かに縋り付きたくて。気付けば夢で出会った彼に、泣きついてしまった。
だって、ループするのは──。
『リセット』
「……え?」
冷たい声が脳内に響く。
その瞬間、私の力が抜けてその場に倒れ込んでしまった。途端に周囲は真っ暗になり、あれほどいた生徒達は誰一人いなくなっていた。
「待って! お願い!」
何かが分かりそうなの。何かが繋がりそうなの。
一日目にぶつかった女性。トートバッグに入っていた運転免許証の名前は佐山多恵子さん。あなたのお母さんだよね? 私は免許証に気付かず持ち帰ってしまったから、それがループの因果になっていた。
そして二日目の今日。売店に来ることがループの因果になっていて、今あなたと出会った。
つまり私は、あなたと出会う運命を回避しないとループに巻き込まれるようになっていたんだよね? そのループの基準を決めているのは、あなただったんだよね?
どうして? 本当なら私達、一緒に月を眺めて話をする関係だったんだよね? 一緒に横に並んで歩く関係だったんだよね? 「家に遊びにおいで」、そんな風に誘ってくれるぐらいの友達になれていたのに、どうして?
どうして、私と出会う運命を変えるの?
「……どう……して?」
プツン。
スマホの電源が落ちたかのように、私の意識はそこで途絶えた。
ピピピピ。ピピピピ。
瞼を開くと、水色のカーテンより漏れる太陽の光。肌寒さはなくなりベッドから出ても、カーデガンは必要ない。カーテンを勢いよく開けるとそこには澄み切った青空に薄い雲が広がり、これから始まる高校生活はきっと良いものだと空が言ってくれているような気持ちになる。
顔を洗い、朝ご飯にトーストを焼いて食べ、歯磨きをして、また二階に駆け上がりハンガーにかけていた制服をそっと下ろす。
白いカッターシャツに、パリッとした紺のブレザー、チェックのプリッツスカートに、同じく紺のソックス。シャツの第一ボタンをはめず赤いリボンを緩く付けて、私は何度も鏡に向かって確認をする。変じゃないかな? 浮いてないかな? そんなことを考えつつ。
ダメだ、ソワソワして仕方がない。
そう思った私はバス停までの道をゆっくり歩こうと、机に置いておいた学生カバンの紐をヒョイと持ち上げる。すると下にあった何かを引っ掛けたようで、バサっと音がした。床に落ちていたのは一冊のノート。手を伸ばして、それを拾い上げる。
「……ん?」
これ、入学準備で余ったノートだよね? 仕舞っておいたのに、どうしてここにあるの? しかも使用した形跡があり、ノートは広げた跡があった。
小さな疑問から始まった好奇心は、時間潰しに丁度良い。そんな気持ちで軽く、一ページを捲る。そこには。
4月8日(木) 入学式 晴れ
入学式に出席
紗枝と友達になる
昼から家にいる
×昼より買い物に行かない
×別の場所にも行かない
追記
昼から買い物に行き女の人とぶつかる トートバッグの中 運転免許証 佐山多恵子さん 交番に届けるとループしない
4月9日(金)
昼 売店で買い物をしない
4月10日(土)
不明
4月11日(日)
不明
4月12日(月)
朝 バスが遅延により遅刻
放課後 紗枝と遊ぶ ×カラオケ ×カフェ ×ファーストフード ×雑貨屋 ×散歩
抜け出せない
禁止事項
ループを誰にも言わない
「紗枝? ループ?」
日付と曜日、今日が入学式であることから、不気味なぐらい私の状況とピッタリだった。全く身に覚えがないし無視で良いんだけど、ノートに書き綴られているのは間違いなく私の字であり、それが余計に不安な気持ちを煽ってくる。そして極め付けには。
「……ここには何て書かれていたの?」
一ページ、明らかに切り取られた跡があった。
高校前のバス停で降りて、車が行き交うのを横目に歩道を歩いて三分。緩やかな坂道の両面に植えてある桜並木道を通って、校門へと辿り着く。
今日は四月八日、木曜日。この北星高校で入学式が執り行われ、新入生の私は出席の為に登校する。周囲には、輝く笑顔を見せた同級生達。
だけど私はピンク色した桜に足を止めたり、校門前に配置されてある入学式の看板で記念撮影をしたり、校舎をまじまじと見つめたり、そんなことを一切せず生徒用玄関へと淡々と足を進める。靴箱の場所を探すことなく外靴をしまい、わいわいと盛り上がる掲示板に寄り付くことなく階段を登って教室に向かい、席を確認することもなく窓際左後ろの自席で腰を下ろす。
「おはよう」
何度聞いても決して嫌にならない明るく弾ける声に、変わらない空を見上げていた私は声のする方に顔を向ける。
「おはよう」
もう何度目だろう? そう返したのは。
「私、森田紗枝。南中から来たんだ、よろしくー」
パリッとしたブレザーに、シャツの第一ボタンを外して緩くリボンを付ける。スラっとして背が高く、肩までの髪が学生鞄を下ろした際に揺れる。
「私は吉永若葉。西中から来たの。よろしくね」
紗枝の屈託のない笑顔に、私まで表情が緩み自然と口角が上がっていく。
知ってるよ。あなたは心優しくて、太陽のように明るくて、私の一番の理解者になってくれる頼もしい友人。
……それを知っているのは、私だけなんだけどね。
この異変に気付いたのは、どれぐらい前だったのだろうか?
入学式の翌日、靴箱の先にある掲示板に群がる生徒達。あまりのざわつきに何が張り出されているのかと思い、人と人との間を覗き込めばクラス分けした表でそれは昨日と同じ。
なんだ。と思い教室に向かおうとその集まりから離れると、目の前では女子同士が歓声を上げながら抱き合っていた。
よっぽど同じクラスだったのが嬉しかったんだろうな、とその姿を横目に階段を上る。すると背後より聞こえてくるのは、「教室は三階と四階どっちだったっけ?」と話している男子二人。
四階じゃん、忘れっぽいなーと軽く笑いながら階段を上り切り、教室に入る。そこでも黒板に張り出されている席順表に何人かが集まっていたけど、私は気にすることなく席に座る。すると。
「おはよう」
今日も明るく弾け飛ぶ声に、私はにっと笑い小さく手を振る。
「おはよう」
「私、森田紗枝。南中から来たんだ、よろしく」
「……え?」
その言葉に、私の上がっていた口角がどんどんと下がっていく。昨日、私と話をしたたこと覚えていないのかな?
紗枝は自転車通学で、バスの私とは違うねーとか。
推しのミーチューバが同じで、チャンネルについて盛り上がったりとか。
私のことは呼び捨てで良いから明日も話そうと、約束していたのに。嬉しかったのは、私だけだったんだ。
ザラザラとなる感情を奥に押しやり、「そうなんだ。私は吉永若葉。西中から来たの」と、無難な返答をする。
「へー。結構、遠くから来てるんだね? バス通?」
「……うん」
本当に、昨日話したこと覚えていないんだ。
紗枝は自転車で通っていて、せっかく朝セットした髪がオールバックになるっていう話を面白おかしく話してくれる。昨日の私は笑いを堪えられず周りの目を忘れて声を上げて笑ったけど、今日は頭に入って来ない。気付けば手先をギュッと握り締めていた。
「……あ、ごめん。初対面の人に、何話しているんだろうね。それより、担任の中田先生ってどんな先生かな?」
眉を下げて引き攣った笑顔を見せてくる紗枝は黒板を指差し、『担任は中田純子です。みんなよろしく』と大きく書かれた文字を見つめていた。
え? 昨日、会ってるよね? 担任の先生まで忘れてしまったの?
そう指摘して良いのかが分からず言葉に詰まってしまうと、「あの先生じゃない?」と一部の女子達がざわつき始めた。
その声に、「じゃあ後でね」と隣の席に戻っていく。そんな紗枝をぼんやり眺めているとブレザーの右ポケットから何かを取り出し「あー!」と叫んだかと思えば、ガンッという音が響く。
もし「嫌いな落下音ランキング」というものがあれば、おそらくワースト一位になるのはスマホの画面が割れた音だと勝手に思うぐらいに絶望的な音。それを鳴り響かせた紗枝は「やっちゃったー」と悲痛な声で叫び、机を前方に押して足元に転がったスマホに手を伸ばす。
「大丈夫?」と声をかけると、紗枝は恥ずかしさを隠すように大袈裟に笑い顔を上げようとする。そしたら次は、ゴンッと鈍い音が教室中に響き渡る。
「いったー!」
紗枝が机の角に頭をぶつけた音だ。
「ご、ごめん。私が声をかけたから!」
「違うよー! 私、抜けててさー!」
頭を摩りながら、ニッと笑って見せてくる。
その明るさに申し訳なさと、紗枝の人柄の良さを再認識して。そして覚える、違和感。
昨日もスマホを落としていたよね? しかも今日は頭まで打つなんて。
紗枝のうっかりさん具合を少し心配していたけど、そこでようやく心配なのは自分の方だったと気付かされた。教室に入ってきた先生に目をやると、そこにはお母さんと同世代と思われる女性が入学式用の白いスーツを綺麗に着こなしていて、にこやかに入学おめでとうございますと生徒に伝えてきた。そして、その後に続く自己紹介。
知ってるよ。中田先生でしょう? 先生にも私達と同世代のお子さんが居て、私達を息子や娘みたいに思っていると笑っていた。私その言葉が嬉しくてしっかり覚えているから、別の人が言っていたとかの勘違いをするわけない。
「これより入学式が執り行われます。出席番号順に廊下で並んでください」
先生の言葉に異議を唱える生徒はおらず、廊下に出ていった先生に並んで一番の生徒から続いていく。
どうしてまた入学式に出るの? どうしてみんな当たり前のように並ぶの? 意味が分からない。
式典の間は電源を切るようにと指導が入り、スマホをブレザーのポケットより取り出す。すると待ち受け画面には四月八日と表示されていて、それは昨日の日付だった。
まだ残っていたっけ? と思った朝ご飯の食パンも、バスで乗り合わせた人達の服装が全く同じだったのも、澄み切った青空に薄い雲が広がる景色も、片付け忘れだと笑った入学式の看板も、全て今日の物だった。
夢を見ているのだと思った。寝たら進む、明日へ。
そう思い入学式を終わらせ、いつも通りに生活をして私は夜ベッドで眠る。悪い夢であることを、ひたすらに願いながら。
しかし瞼を開けば、また四月八日だった。
同じパンをかじり、バスに乗り、同じ空を見上げ、入学式の看板を見て、入学おめでとうと言われる。
私は、四月八日に閉じ込められた。
それを何回か繰り返した後、私は思い切って学校を休んだ。しかし時間は進まない。
悪いと思ったけど紗枝の声に反応せず、友達にならなかった。
だけど状況は変わらず、同じ時間がただ巡ってくる。
そんな事態を変えられたのは、十二回目の四月八日。何の前触れもなく、四月九日に行けた。
やっとこのループから抜け出せたのだと新しい生活に身を置いたけど、その時はすぐに訪れた。
次に目を覚ませば、また四月八日の朝に戻っていた。
もう、どうして良いのかが分からない。せっかく進んだ時間がまた巻き戻る。
全てに絶望し、学校を休んで布団を被り目を閉じる。
だけど時間は進まない。布団に被りながらあの時のことを考え続けた。何故、時間が進んだのだろうと。
十二回目の四月八日。学校に行って紗枝と話し、入学式に出席する。いつもと同じだったけど、違うことは二つあった。
一つ、残り一枚だった食パンを食べなかったこと。
二つ、それにより明日のパンを買いに出掛けなかったこと。
……まさか、それがキッカケ?
そう思った私は、半信半疑のままそれを実行してみる。
午前中は学校に行き入学式に出席、午後は買い出しに行かずに家に居る。
すると行けた。四月九日へ。
私は忘れないようにと、一冊の大学ノートに書き込む。
四月八日は朝食に食パンを食べないことと。昼から買い出しに出掛けないこと。
一歩前に進めたけど四月九日を越すことは出来ず、四月八日の朝に戻ってきてしまう。
次の日に進みたい気持ちは強くあったけど、これはこのループを抜け出す為の情報収集だと割り切り、試してみることにした。四月八日から抜けれた理由は、食パンを食べないことなのか、それとも買い物に行く行動なのか。
結果、割り切った一日は大きな成果をもたらせてくれた。食パンを食べるのはループに関係なく、因果があるのは食べたことにより買い足しに行く行動のようだった。
一つの行動により、その先の行動も変わる。それによりやっと開いた、明日への扉だった。
そして導き出した答えは、四月九日にも問題の行動がある。そう気付いた私は行動を逐一ノートに記入していき、失敗する度に何が原因かを分析していく。
そこで変わるキッカケになったのは、その日はお弁当を持って行くかどうかだった。
うちは両親があまり帰ってくる家庭ではない。だからスーパーで、パンやお惣菜などを買っている。
高校は売店があり毎日そこで昼食を用意するつもりでいたが、どうやらそれがループを繰り返す因果になっていたようだ。
そうと分かれば簡単。四月八日は買い出しに行ってないから、四月九日は早く起きてコンビニで昼のパンを買って持って行く。
たったそれだけのことで、次の日へと道は続いていった。
こうして迎えた四月十日の土曜日、学校は休みだった。
初めて迎えた日は何がダメな行動か分かるどころか、何が起こるのかも当然ながら分からない。だから出来るだけ自然な行動を取ることにする。
あまり無理に切り詰めてしまうと、後になって繰り返す時に苦しむのは自分。だから出来るだけ自然に、何度やっても苦にならない行動を心掛けた。
目が覚めると、ポツポツと雨音が窓を叩く。
スマホを見るまでもなく、分かる。ああ、私はまた一歩前に進めたんだって。
四月十一日、日曜日。最近は暖かったけど、ぐっと冷え込み仕舞っておいた黒色カーデガンを羽織る。
今日の朝ごはんは、昨日買っておいた鮭のおにぎりとレトルトの味噌汁。十パック入りの一つを開けてお椀に入れ、熱湯を注ぎ込めば出汁の良い香りがふわっと立つ。口の中で広がる風味と温かさに、ふぅっと溜息が溢れていた。
良かった。昨日まで買い物に行ってはいけないとなったら、家に食材ないしどうしようかと思っていた。買い物に行けたからこそ、私は好きな鮭のおにぎりとお味噌汁を口にすることが出来ている。こんな当たり前のことが成せなくなるなんて、思いもしなかった。
今日は何をしようか? 中学の友達と連絡をするとそれをやり直しの度にしないといけなくなるから、行動を起こすなら慎重に動かなければならない。
結局、私は何もしなかった。スマホゲームをポチポチと触り、ステージが上がったところで辞めてソファでゴロゴロとする。
お腹が空いたなと思えば一日中雨が降った空は真っ暗になっていて、昼を食べずに夜を迎えていた。
今日は行動を取らなかった。だからこそ、戻るかもしれないな。そう思いながら、ベッドに寝っ転がる。
目を閉じれば明日か、それとも振り出しに戻るのか。それは今更どうしようもない、賭けだった。
カーテンより差す光により目が覚め、充電ケーブルに繋がれているスマホを手に取り目の前に持ってくる。
映し出された日付は四月十二日、月曜日。時計の針は動いていた。
「晴れていたから、ダメだと思ったー!」
思わず声に出し、もう一度ベッドに寝そべる。
学校三日目。今日は一体、何が起こるのだろう?
顔を洗い、歯磨きをして、制服に袖を通すけど時間はまだまだあり、私は足取り軽く台所に立つ。
溶いた卵と牛乳と砂糖を混ぜて、買っておいた食パンに浸す。フライパンを熱しバターを乗せて溶かすと、風味の良い香りが鈍くなっていた食欲を誘ってくれる。そこに浸したパンを中火で焼くこと五分。最後に蜂蜜たっぷりかけフレンチトーストが完成させる。
付け合わせはコーンスープで、お気に入りの黒猫のマグカップを使用して粉末に温かなお湯を注ぐと、コーンの香しさがリビングに広がる。
四人掛けの食卓で一人手を合わせると、まずはフレンチトーストを一口。ふわふわの食感で蜂蜜のとろける甘さにバターの風味を感じ取れ、大げさかも知れないけど生きてると感じさせられる。次はコーンスープ、クリーミーな口当たりと温かさに心まで温かくなっていく。
「うん、きっと大丈夫」
何の根拠もないけどそう口にし、不安な気持ちは食器洗いで付いた泡と共に流す。
大丈夫、大丈夫だよ。だって今日は雲一つない、快晴なのだから。太陽は出て、これほとキラキラと輝いてくれているのだから。暖かな風が吹いているのだから。
バスを降り学校に続く坂道まで歩くと、そこには五分咲きになった桜。昨日の雨にも負けずに咲き誇る姿に負けたくないと、私は坂道を駆け上がる。
するとそこには自転車から降りる紗枝が居た。
「おはようー!」
「あ、おはよう。あれ、テンション高め?」
「そうかな?」
「彼氏でも出来たー?」
「まっさかー」
私は人見知りの方だけど、紗枝とは友達になって何ヶ月も経った気でいている。実際は、まだ三日目なんだけどね。それはループしていて良かったと、思うことだったりする。
「あれ? 今日もコンビニ? 売店は興味ない派?」
四限目が終わった昼休み。雑誌のおまけでついていたトートバックより出したおにぎりに紗枝が軽く声をかけてくれる。
「いやあ。コンビニのおにぎりにハマっちゃってさー」
「あー、分かる。ツヤがたまらないんだよねー。じゃあ、私売店行ってくるから先食べててー」
「待ってるよー」
その後二人で楽しくお昼ご飯を食べる。紗枝とはすっかり友達になった。
五限目にあった古文、六限目は体育のソフトボール。苦手な授業を何とかこなし、紗枝とまた明日と別れ、いつも通りバスで帰ってくる。
宿題を軽くこなし、夕飯に冷蔵庫の余り物でチャーハンと味噌汁を作って食べ、夜十一時三十分。私はベッドで横になる。
「きっと、ループは終わったんだ」
茶色い天井を眺めながら、そう呟く。
分かっている。何の確証もないし、寝ないと判別はつかない。そう信じることしか出来ない、哀れな状態なのだと。
目を強く閉じて願う。明日を私にください。と。
『吉永さんは運命って信じてる?』
紺のブレザーを適度に緩く着こなし、スラリとして目線が高く、穏やかな口調の男子が私にそう問いかけてくる。
『うーん。あんまり信じてないな。人生なんて成り行きだと思うし。佐山くんは?』
『俺は信じてるな。だってあの日、母さんと吉永さんが出会ってなければ俺達だって出会わなかったんだから』
風で揺れるふわっとした髪、柔らかな目元、耳に残る穏やかな口調は私の心を温かなものにしてくれる。
『あー、確かに。売店でもすれ違っていたんだよね?』
『あの日、小銭ぶち撒けたの俺』
『え、そうだったの。だから佐山くんと会った時、なんか馴染みがあったんだ』
私がふふっと笑うと、その男の子も眉を下げて無邪気な表情を向けてくる。その姿に私は思わず目を逸らし空を見上げると、そこには薄暗い空を照らしてくれる満月。あまりの明るさに目を細め見入っていると、その男の子は一息吐き私に声をかけてきた。
『明日、良かったらウチに来ない?』
『え?』
想定していない言葉に、思わず聞き返すようなことしか出来なかった。
『いやいや! ほら、母さんが吉永さんに礼がしたいって!』
『分かってるよー! じゃあ、お邪魔して良い?』
声を裏返し、はわわわっとした表情を浮かべる男の子に私は眉を下げて笑ってしまう。
『じゃあ、この桜の木下で待っているからね』
『うん』
見上げた木々には若葉が茂り、サワサワと揺れ風の音を知らせてくれる。
空に輝く満月、光る星々。私はこの日を絶対に忘れない。そう、月に誓った。
ピピピピ。ピピピピ。
スマホのアラーム音に、目がパチリと開く。
「……誰?」
そう問うが、ここは私の部屋。当然ながら答えてくれる人なんているはずもなかった。
夢に出てきた男子のブレザー胸元に刻まれていた校章は、北星高校の制服。つまりあの男の子は、同じ学校の人なのだろうか? でも、あの人の知らないと思う。少なくても中学では一緒じゃなかった。……多分。
だけど、なんでだろう。彼の顔をやたらハッキリ覚えていて、今私は胸が締め付けられている。あの包み込むような深みのある声、笑った時に細める目、慌てた時に早くなる口調。
ぼんやりと夢を思い返していると視界に入ってきたのは、水色カーテンより漏れる日差しだった。
「まさか!」
充電に使用していた線を外して、私の手元によってガタガタと震えるスマホを覗き込む。
四月八日、木曜日。私はループから、抜けていなかったんだ。
「……はは」
力無くスマホをベッドに転がした私は、布団を被り強く目を閉じる。
また一からか。何が悪かったんだろう? 朝から張り切ってフレンチトースト作ったのがダメだったの?
紗枝に、テンション高く話しかけたのがダメだったの?
苦手な古文に体育は、もう一度頑張らないといけないのか。体育だけでも、見学出来ないかな?
夕食まで張り切ってチャーハンと味噌汁作っちゃったし、次のループでも作らないといけないのかな?
こうなるからやり直しの時に大変にならないようにと動いていたのに、私は……。
消化出来ない気持ちを抱えつつ眠ることも出来ない私は、布団に包まり時間の流れに身を任せる。
ピピピピ。ピピピピ。
次に瞼を開けば、水色カーテンより溢れる日差し。夢の彼は、会いに来てくれなかった。
スマホの充電ケーブルを抜き、液晶パネルを覗き込む。
四月八日、木曜日。入学式の朝だ。
そうだ、動かないと進まない。行動を起こさないと時間は動かない。だから、学校に行かないと。
重い体を無理矢理起こして、階段を降りて顔を洗う。台所に行くとテーブル上にあるのは、スーパーで買った六枚切りの食パン。一枚のみが残っている。
本来ならこれを食べて昼から買い物に行くけど、それではループを起こしてしまうからと、この日は食べなくなってしまった。バカみたいだよね? 関係ないって分かっているくせに。
私は袋からパンを取り出してトースターでカリカリまでに焼き、バターをたっぷりと塗りだくる。今日の付け合わせはコーヒー、個装に入っているステックを一つ開け湯沸かし器で沸かしたお湯をカップに注ぐ。甘党な私は規定量より少なめにお湯を入れ、まずはコーヒーとミルクの落ち着く香りを堪能する。
パンをかじり、湯気が立つコーヒーカップに息を吹きかけて熱を冷ましながら少しずつ口に含むと、じんわりと温かさが体内に広がった。
……大丈夫。私はコーヒーの味が分かる。ミルクと砂糖の甘さを感じ取れる。美味しいと思えるほどの余裕がある。だから、まだ大丈夫。
「おはよう」
何度聞いても決して嫌にならない明るく弾ける声に、変わらない空を見上げていた私は声のする方に顔を向ける。
「おはよう」
もう何度目だろう? そう返したのは。
「私、森田紗枝。南中から来たんだ、よろしくー」
パリッとしたブレザーに、シャツの第一ボタンを外して緩くリボンを付ける。スラっとして背が高く、肩までの髪が学生鞄を下ろした際に揺れる。
「私は吉永若葉。西中から来たの。よろしくね」
紗枝の屈託のない笑顔に、私まで表情が緩み自然と口角が上がっていく。
知ってるよ。あなたは心優しくて、太陽のように明るくて、私の一番の理解者になってくれる頼もしい友人。
……それを知っているのは、私だけなんだけどね。
「スマホ、ポケットに入ってるでしょ? 取り出す時、気を付けてね」
「……え? うん」
突拍子のない話に一瞬目を泳がせるけどこの忠告を聞いてくれ、紗枝はポケットより慎重にスマホを取り出す。その姿に紗枝から視線を外し、私は変わらない四月八日の空を見上げる。
家に帰ってきた私は、制服のまま寝っ転がる。
最初の時は皺になると直ぐに着替えてハンガーにかけていたけど、どうせ巻き戻るもんね。そしたら制服はまた元に戻るから、いちいち気にしなくていい。
「今日は何しよっかなー?」
勉強だって、まだ全然進んでないからしなくていいし、楽でいいじゃん。ずっと遊んで暮らせる。最高じゃない?
「……お腹、空いたな」
入学式の日は買い物に行ってはならないから、家に引き篭もっているしかない。冷蔵庫の中が空でも、夕飯の食材がなくても我慢するしかない。
まあ、いいんだけどね。ご飯炊けば、おかずなんて。
私はこのままスマホをぽちぽちと触り、今日という日を無駄に終わらせた。
それから、私は何回ループを繰り返したのだろう?
八日木曜日から十一日日曜日までは進むことは出来るけど、十二日の月曜日を越すことが出来ない。
ルーティンを変え、場所を変え、会話の内容を変え、別の行動を取る。しかし私を、明日に連れて行ってくれなかった。
「もうお腹空いちゃったよー。若葉も遠慮なく食べて。あー、この食感がたまらないんだよねー」
四月九日、金曜日。二限目の終わり。紗枝がお腹が空いたと、持参したチョコが付いた棒状のおかしをぽりぽりと頬張る。
「なんか、元気なくない?」
「……え?」
私を覗き込む紗枝の姿に、思わず顔が強張っていく。
こんな会話あったっけ?
次起こることを全て把握してきた私にとって、初めて起こる異変に気付けば心臓が痛いぐらいに音を鳴らしていた。
それは初めての異変が嬉しいから? 想定外な出来事が怖いから? 自分のことなのに、そんなことすら分からなかった。
「あ……、えっと……」
ねえ私は、どう答えるのが正解なの?
「何かあるなら相談してよ。……って、何言ってるんだろねー! 出会って二日、いきなり過ぎたわ!」
ははっと戯けているけど、優しさからの申し出だと分かっている。だって私は、ずっとあなたと一緒に居るのだから。
「……ループって聞いたことある?」
『ループ』を口にしたのは初めてでその言葉を告げた瞬間、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「ん? 同じ時間を繰り返す……、だっけ? 映画で見たことあるよね。そうゆう話が好きなの?」
紗枝は何かを話す前段階だと思っているようで、軽く応対しつつ食べかけのお菓子を口にしない。私の話をしっかり聞こうとしてくれていると分かると、余計に鼻がツンと痛くなる。
「……私、してるんだ……」
「え?」
私に向けていてくれた戯けた声と表情が、一瞬で素になっていく。それはそうだよね、いきなりそんな訳分からないこと言われたら普通は。
「紗枝とは、数え切れないぐらい初めましてをしているの。今日の昼はね、売店で卵のサンドウィッチを買ってくるの。ハムサンドはタッチの差で取れなくて悔しいと言っていた。カフェオレはペットボトルより牛乳パックタイプが好きだと話していた。それに……」
そんなこと言っても、信じてくれるわけない。
紗枝を困らせる。
変な奴だと思われる。
友達になったことを後悔される。
分かっているのに私から溢れていく言葉は、収まりを知らない。誰かに知って欲しい。話を聞いて欲しい。辛いねと言って欲しい。大丈夫だよと言って欲しい。
そんな気持ちを、何も知らない紗枝にぶつけてしまった。
「って、冗談に決まってるじゃん! ごめん、ごめん。別に何もないよ!」
今出来るのは精一杯笑い、ごまかすだけ。これ以上、紗枝にそんな表情させてはいけない。あなたは花のような笑顔が似合う人なんだから。
「……そう? 何かあったら言ってよね。聞くだけなら、いつでも受け付けるから! ……解決はごめん!」
両手の平を合わせごめんとする仕草が、また可愛かった。
四限目が終わり、紗枝一人で売店に行った。
金曜日のループする因果は、売店に行くこと。だから私は、窓際からの景色をただ眺めていた。
なんの変哲もない、ひととき。
「あ、おかえ……」
紗枝が手にしていた物を見た瞬間、私の上がっていた口角は下がっていく。紗枝が持っていたのは、購入出来ないはずのハムサンドだった。
いや、そんなはずは。だって私は何度も、早く行かないと売り切れるよと声をかけても未来は変わらなかったはずなのに。
「……あ、買えてるよね。何言ってるんだろうねー」
「ご飯食べる、良い場所見つけたんだ。行かない?」
紗枝は笑っているけど、それは無邪気なものではない。何かを思考した、硬く強張ったものだった。
また起きた異変に私は喜びの感情ではなく、押し寄せてくる恐怖が勝っていた。
「行こっ!」
紗枝が冷え切った私の手をギュッと握りしめ、私のお昼が入ったトートバッグを掴み走り出す。行き着いた先は、人の気がない校舎裏。プールや校舎内に電気を運ぶ機材が設置されてあるこの場所は殺風景で、生徒が寄り付かないのも納得の場所だった。しかし。
「……綺麗だね」
その地面には、たんぽぽが黄色の花を咲かせている。誰にも気付かれなくても、懸命に咲く花。それをまじまじと眺めた紗枝は真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる。それはループの中で見たこともない、凛々しい表情をしていた。
「私は若葉を信じるよ」
紗枝は購入したハムサンドを、私に見せてきた。
「これね最後の一つを、タッチの差で取れたの。若葉がそう言ってくれたから、駆け足で売店に行った。だから未来が変わったんじゃないかな? と思うの」
そう口にしながら、次は牛乳パックのコーヒーを取り出した。
「若葉が言った通り、私はペットボトルより牛乳パック派なの。それにね、昨日の朝私にスマホを落とさないように声をかけてくれたけど、本当なら落としてしまうんじゃないかな? だから気を付けるように声をかけてくれたんじゃないの? 今日の朝とかも階段昇ってたら若葉が走ってきて、階段の段差に注意するように言ってくれたから、もしかして蹴つまずくのかなーとか。なんて考えていくうちに、辻褄が合うんだよね」
ニッと笑って見せてくる紗枝は、私の言い分を全て理解してくれているようだった。
「どうして、信じてくれるの? 普通、出会って二日でそんなこと言い出したら、変な子だとか思わないの?」
私が逆の立場なら、正直引いてしまうだろう。
「若葉は覚えていないと思うけど、私も昨日が初めましてじゃないよ? 私、こう見えて緊張に弱くてさー。受験の日は手足ガタガタ、お腹痛くて泣きそーだったの。そこでね若葉がカイロくれたんだよ? まあ、一瞬のやり取りだし覚えてないよねー」
紗枝のことは、ループで何度も見ているつもりだった。明るくて、何でも笑い飛ばして、自分から話しかけられる積極性のある子。だけど違ったんだ、本当は弱さもあってだからこそいつも笑っていたんだ。
そして、私は紗枝のことを覚えていなかった。受験会場で震えていた子が居たことすら。高校受験からまだ一ヶ月した経っていないのに、私はあの日のことを遠くの昔に感じる。もしループをしていなかったら、私は紗枝を覚えていたかもしれない。やり取りを覚えていたかもしれない。このループにより、大切な記憶すら抜け落ち初めているのかもしれない。だからこそ。
「ありがとう! 紗枝!」
私は、今の関係を大切にする。
「若葉、今まで辛かったね。役に立てないと思うけど、私話を聞くから。一緒に考えるから。若葉を未来に連れて行くから」
包み込んでくれた腕は細くて頼りないも温かくて、その優しさで私の凍り付いていた心を溶かしてくれる。ああ、私まだ感情があったんだ。嬉しい気持ちが、まだ分かるんだ。
紗枝はお昼を食べることなく話をずっと聞いてくれ、授業が終わってからも出来るだけ元の生活がズレないようにと家に来てくれた。
その中で言ってくれたのは、ループする毎に紗枝に相談することだった。初対面である紗枝のことを全て言い当て、未来予知までしてきたら信じる可能性が高い。そう言いながら誰にも打ち明けたことのないからと、紗枝の秘密を話してくれた。そんなことを話してくれるなんて、紗枝は本当に私のことを信じてくれているのだと目頭が熱くなる。
私には、ようやく理解者が出来た。紗枝という、信頼できる友達が。
ピピピピ。ピピピピ。
アラームの音で瞼を開くと、今日は四月八日。家に誰かを招くのはルーティンから外れるのかと、小さく溜息を漏らす。だけど私には、心強い理解者が居る。それを原動力に朝の準備をして、登校する。一つの可能性があることに気付いているが、その不安にフタをして。
「……ごめん、若葉のことは信じたいと思うよ。だけど、明日まで待ってくれない?」
出会って早々にループの話をされた紗枝は、当然の返答をしてきた。分かってる、いくら入試の日に会っていたとしても、こんな話いきなり信じられるわけない。
次回からは紗枝が話を振ってくれるまで、自分からこの不可視げな現象については話さない方が良い。混乱させてしまうから。
……ただ、今日ループしなければ。
今日は紗枝にループの話をした以外、全てのルーティンを守った。午後から買い物に行かず、余計な行動を取らず、ただ決められたことのみを。
だから今日ループしたら、それは……。
目を閉じ、これからの道が開けることをただ願った。
ピピピピ。ピピピピ。
目が覚める。私には、確かめなければならないことがある。そう思い願掛けをしながらスマホの画面を見つめると、その日は四月八日。入学式の日である、昨日に戻っていた。
「はぁ……」
両手で目元を強く抑え、唇を噛み締める。
『私が若葉を理解して必ず側に居るから。大丈夫、一人じゃないからね』
「……私、ひとりぼっちだったよ」
ずっと抑えていたものが、どんどんと溢れてくる。
──このループを人に話したら、戻される。
そうゆうことなのだろう。
確認として二日目の九日、朝に担任の中田先生に話してみた。先生が準備していたプリントの内容、一限目のロングホームルームで先生が親睦を深める為のゲームを考えていること、三限目にクラスの男子が体調不良で早退すること、月曜日の授業中に先生が話していた個人的なことまで。その内容まで言い当てたら明らかに私を見つめ、全面的にではないが信じて協力すると言ってくれた。
だけど容赦なく戻る時間。私には味方などいない。そう確信するには充分だった。
どうして、ダメなの?
外を出れば多くの人が居て、声を掛ければ振り向いてくれる。だけどこの状況を話せる人は居なくて、分かってくれる人が居なくて、私は一人ジオラマの世界に閉じ込められている。
助けて。誰か分かって。私ずっと、閉じ込められているの。
叫びたい。喚きたい。泣きたい。
助けて。お父さん、お母さん。紗枝。中田先生。
ピピピピ。ピピピピ。
あのまま泣き続けた私は疲れて眠ってしまい、一日をムダにしてしまった。
なんとかしなければ、抜け出さなければ。進むしかない、前へ。
そう思った私は起き上がり、学校へ向かう。余計な行動は起こさない。余計な言動はしない。決められた言葉を発し、笑い、決して表情を崩さない。紗枝にどうしたの? と聞かれないようにする。
だって。あんな優しい言葉を伝えられたら、私はまた紗枝に縋り付くだろう。でもそれは出来ないのだから、希望の芽は摘んでおく。だってそれは、私の心を守る方法なのだから。
今日は土曜日。何をしようか?
テレビを付けても当たり前だけど同じ内容しか放送してないし、好きなチャンネルだってそう。
スマホゲームを開けば、せっかく進めたのにデータが消えてしまったかのようにニューゲームとなる。久しぶりにやるならともかく、数日前にプレイして記憶がハッキリしているものを何度も繰り返すなんて苦行でしかない。
……って、それは今の状況と同じか。
私の置かれている現状はゲームと同じなんだ。上手くいけば進め、失敗やルール違反をしたら戻る。シンプルなゲーム。だから次の攻略は月曜日、私は何かを間違えている。それを考えたらいい。
この状況をゲームに置き換えることで、私は自分を保つことした。
迎えた月曜日。この日は選択肢が多数あり、組み合わせが難しい。
一つ、バスの遅延で学校に遅刻すること。
二つ、紗枝と初めて遊びに行くこと。
バスの遅延は交通事故が起こり道が渋滞するからだった。しかし当然ながら私が事故を防げるはずもなく、道路の渋滞を緩和出来るはずもない。だから私に出来ることは一本前のバスに乗り遅刻を防ぐか、そのままの運命を辿るか。両方を試したが、次の日に私は辿り着けなかった。
じゃあやはり、紗枝と出掛けることだろうか?
月曜日の放課後、紗枝に遊びに行こうと誘われる。一回目はカラオケに行き思い切り歌って楽しんだけど、入学式の日に戻ってしまった。
仕方がなく行かない選択肢を選んだが戻り、紗枝のおすすめであるカフェに行ったけど戻り、手頃なファーストフード店でも戻り、雑貨屋に行っても戻り、ぶらぶらと歩き回っても戻り、私は正解が分からないまた五日間を彷徨っている。当然もう一つの分岐点の可能性である朝のバスを早めるか通常通りにするかを合わせて、私は月曜日が来るたびにそれを試していく。
それ以外が間違っているのかもしれない。これ以上組み合わせを変えるのは、一体何回ループを繰り返さなければならないのだろうか?
「せめて、どれがダメか教えてよ……」
月曜日の夜。窓より見上げた先に見える、欠けた月に思わず呟いていた。
瞼を閉じる瞬間、いつも願う。
私を明日に連れて行ってください、と。
朝、瞼を開けて一番に見るのは太陽の光り。入学式の日は晴れ晴れとしていたから、曇や雨を切に願ってしまう。
まさか晴れやかな空を忌み嫌う日が来るなんて、思いもしなかった。
スマホの日付を見て、日数が戻っていた時の絶望感。
何が悪かったのか? どうしたら良かったのか? 正解も分からない世界で、私は一人息が出来なくなっていく。
それは細い針穴に糸を通すような生活で、言動に細心の注意を払い、神経は削られ、気を抜く瞬間すら許されない。失敗すれは容赦なく振り出しに戻されてしまう、理不尽な世界。
何度も繰り返す日々に発見や感動などあるはずもなく、ただ同じ映像を無理矢理何度も見せられている気分に堕ちていく。
周りが喜んだり、笑ったり、泣いたり、感情を露わにする姿を、私は醒めて見てしまう。
友達が声をかけてくれたことに飛び跳ねるぐらい嬉しかったり、先生の言葉に涙腺が緩むぐらいに感動したり、入学式の日に見る桜に心を締め付けられたり、散らないでと願ったり、そんな当たり前の感情が抜け落ちていく。
もしこのループから抜け出せたら、私は元の私に戻れるのだろうか?
そんな思いと共に、私の意識はゆっくりゆっくりと沈んでゆく。
ピピピピ。ピピピピ。
私を待っていたのは新たな未来ではなく、既存の四月八日だった。
「……ダメか……」
体を起こした私は、机に置いてあるノートに×印を書き込む。この組み合わせもダメかと、溜息を吐きながら。
行かなきゃ……。一日、無駄にしちゃうじゃない。
そう思った私は、それからも決められたルーティンをこなす。
決められた日の食事をして、同じ行動をして、絶対別の場所に寄り道しない。少しぐらい別の場所に立ち寄っても、違うものを食べても影響なんかない。分かっているけど、私は絶対にそのルーティンを変えない。一日を終わらせる為に目を閉じる時、激しい後悔が私を襲ってくるから。だから私は、決められたレールをただ走る。同じ景色を見て、同じものを食べて、同じ話をして、決して内容が変わらない映画のように。
私がこうしているのは、既に争った後だから。この現実から逃げ出すなんて、とっくにやり尽くしていた。
入学式をサボって別の街に出掛けたり、入学式には出て昼から買い物に行かずに別の街を彷徨いたり、家に帰らない選択をしたことだってあった。
だけど決められた行動以外を起こすと、容赦なく入学式の朝に戻される。このループから逃げ出す手段なんて、何もない。その事実を受け入れることでしか、明日に向かうことが出来ないから。
だから私は、今日も決められた行動を忠実に再現する。後悔をしない為に。
バスからの流れる景色を眺めていた私は、このループについて思考を巡らす。
一日目は近所のスーパーに買い物に行くことがループの因果になっていたけど、別の場所ならどうなのだろうか? そもそも、何故買い物がダメなのだろうか?
二日目は売店でお昼ご飯を買うこと。コンビニで買うべきだから? それとも売店がダメなのか?
……もしかしてループの因果には、何か共通点があるかもしれない。
次やることが、見つかった。
高校に行き紗枝と出会い、入学式に出席する。ループを避ける為に昼からは家に閉じ籠るが正解だけど、あえて私は別のスーパーで買い物をした。どこまでがループの影響を受けるか、それを探る為だった。
次の日に目を覚ますと、四月八日だった。
私はノートに、昨日行ったスーパーの名前と×印を書き込む。これが良ければ自分を縛り付けていた呪縛が解けるような気がしたけど、私をこの世界に閉じ込めた何かはそれを許してくれないようだ。
じゃあ次だ。何故予定通りのスーパーに行けばループするのかを確かめる為、私は禁じていた買い物へと行く。そう、昨日と今日は検索日。捨てる日だって必要ということだ。
私は商品ではなく、周囲を注意深く見渡す。馴染みの店だからこそ、何か異変があれば気付くはず……。
トン。
「あ、ごめんなさいね」
肩に軽く感じる振動。背向けていた私は、誰かとぶつかってしまったようだ。
「こっちこそ、すみません」
軽く頭を下げて終わる、日常の一コマ。……のはずだった。この異変に気付くまで。
「何これ?」
家に帰ってきてトートバッグの片付けをしていると、出てきたのは手のひらサイズの簡易的な財布。カードや小銭などを入れられる物だった。その中で出てきたのは、「佐山多恵子」という名前の健康保険証だった。
「あの時か!」
スーパーで女性とぶつかったことは覚えている。あの時に私が持参していたトートバッグに入ってしまったようだ。
もしかして、これがループの因果になっているのでは?
とにかく私は最寄りの交番にことの経緯を話して、遺失物として届け出た。
どうしてトートバッグに財布があったことを、気付かなかったのだろう?
抜けている自分に呆れつつ、空を見上げると欠けた月。目の前には、三分咲きになった桜が月明かりに照らされている。
「ここって……」
『吉永さんは運命って信じてる?』
脳裏に過った、柔らかくて温かな声。
いつかの夢で見た、同じ高校の制服を着ていた男の子と歩いていた場所だ。ただ一つ違うのは、夢では桜ではなく若葉が茂っていた。これから先に起こる未来の出来事なのだろうか?
……名前、何だっけ?
ダメだ、思い出せない。あの声を聞けば、思い出せるのに。
ピピピピ。ピピピピ。
「嘘」
目が覚めた日は四月九日。私は決められたルーティンを破ったのに、次の日に行くことが出来た。それは、つまり。
「八日の禁止事項は、あの財布を家に置いておくこと?」
そうゆうことなのだろう。だからスーパーに買い物に行ったらダメだったんだ。あの人とは確か、いつもぶつかっていた記憶がある。その時にトートバッグに財布が入っていたんだ。
しかし、何故それがループに影響するのだろう?
泥棒にでも間違われるのだろうか?
あの女性とは面識もないし、相手も私を知らないだろう。何故私は、ループを繰り返しているのだろう。それはまた、今日にヒントがあるのかもしれない。
「早めに行った方が良いよ」
「えー、そんなすぐ売り切れないって!」
四月九日、昼休み。四限目の授業が終わり、紗枝と共に売店へと速足で向かう。
本来ならこの日は売店には行かないことが正解なんだけど、私は敢えてループの道へと突き進んでいく。手掛かりを得る為には捨てる日も必要。そう言い聞かせて。
紗枝は知らないけど、急がないと紗枝の好きなハムサンドは手に入らない。だから私は、思わず急かしてしまう。
「ラスイチだった」
紗枝が私の元に駆け込んで来る。良かった、このループでは好きなハムサンド食べられて。
思わずふふっと笑い周囲を見渡すけど、ループの因果になりそうなことは見つけられず、あの夢に出てきた男の子も見当たらない。……いや、正確には覚えていなかった。あの夢から何度もループを繰り返している。毎日同じ顔の人ばかり見ていたら一度しか見たことがない人の、顔なんて……。
「あ!」
背後より漏れた小さな声と、それを掻き消す甲高い音。チャリンとあちこちに鳴り響かせながら四方八方に飛び散った小銭は、私の足元にも転がってきた。
「すみません。ありがとう」
頭をぺこぺこさせながら周囲に居た生徒達が拾ってくれた小銭を受け取り、眉を下げている男の子。どうやらお金を払った後に財布を落として、小銭をばら撒いてしまったらしい。一緒に居た友達みたいな二人に揶揄われ、恥ずかしそうに笑っている声が遠くなっていく。私は商品棚の下に入ってしまった小銭を取ろうと指を伸ばしていたが思ったより時間がかかり、それを掴んだ時にはその男子は居なかった。
「待って!」
私は五円玉を握りしめて、その男子達を追いかける。
しかし顔をハッキリ見ておらず、男子は全員同じ制服を着ている為、誰か見分けなんかつかない。
だから私は回り込み、三人グループの顔を見ていく。そういえば、前にループした時もこうゆうことをしたと思い返しながら。
「……え」
一人の男子と目が合った途端。私は指の力が抜けてしまい、指に摘んでいた五円玉を落としてしまった。それはその男子の元に転がっていき、それをしゃがんで拾ってくれた。
「はい」
私の元に歩いて来たのは、スラッとして、ふわっとした髪に柔らかな目をした男の子。穏やかな口調は、私を優しく包んでくれるような温かなものだった。
「いや、これお前のじゃないか?」
「そうだって。わざわざ追いかけて来てくれたのに、バカだなー」
一緒に居た男の子達にそう突っ込まれると途端に声を裏返し、はわわわっとした表情を浮かべる男の子。間違いない、夢で出会った人だ。
「助けて……」
「え?」
私の震える声に表情を変えた男子は、神妙な表情で私を見つめてくる。
「私、この世界から抜け出せないの! ループを繰り返しているの! お願い、私を未来に連れて行って!」
気付けば私の目からは涙が伝い、感情のまま叫んでいた。
「何があったの? 大丈夫?」
戸惑いと混濁が混ざった声に、相手を困らせてしまっているのが分かる。ループのことを知らないとも分かる。
だけど私の精神はもう限界で、誰かに縋り付きたくて。気付けば夢で出会った彼に、泣きついてしまった。
だって、ループするのは──。
『リセット』
「……え?」
冷たい声が脳内に響く。
その瞬間、私の力が抜けてその場に倒れ込んでしまった。途端に周囲は真っ暗になり、あれほどいた生徒達は誰一人いなくなっていた。
「待って! お願い!」
何かが分かりそうなの。何かが繋がりそうなの。
一日目にぶつかった女性。トートバッグに入っていた運転免許証の名前は佐山多恵子さん。あなたのお母さんだよね? 私は免許証に気付かず持ち帰ってしまったから、それがループの因果になっていた。
そして二日目の今日。売店に来ることがループの因果になっていて、今あなたと出会った。
つまり私は、あなたと出会う運命を回避しないとループに巻き込まれるようになっていたんだよね? そのループの基準を決めているのは、あなただったんだよね?
どうして? 本当なら私達、一緒に月を眺めて話をする関係だったんだよね? 一緒に横に並んで歩く関係だったんだよね? 「家に遊びにおいで」、そんな風に誘ってくれるぐらいの友達になれていたのに、どうして?
どうして、私と出会う運命を変えるの?
「……どう……して?」
プツン。
スマホの電源が落ちたかのように、私の意識はそこで途絶えた。
ピピピピ。ピピピピ。
瞼を開くと、水色のカーテンより漏れる太陽の光。肌寒さはなくなりベッドから出ても、カーデガンは必要ない。カーテンを勢いよく開けるとそこには澄み切った青空に薄い雲が広がり、これから始まる高校生活はきっと良いものだと空が言ってくれているような気持ちになる。
顔を洗い、朝ご飯にトーストを焼いて食べ、歯磨きをして、また二階に駆け上がりハンガーにかけていた制服をそっと下ろす。
白いカッターシャツに、パリッとした紺のブレザー、チェックのプリッツスカートに、同じく紺のソックス。シャツの第一ボタンをはめず赤いリボンを緩く付けて、私は何度も鏡に向かって確認をする。変じゃないかな? 浮いてないかな? そんなことを考えつつ。
ダメだ、ソワソワして仕方がない。
そう思った私はバス停までの道をゆっくり歩こうと、机に置いておいた学生カバンの紐をヒョイと持ち上げる。すると下にあった何かを引っ掛けたようで、バサっと音がした。床に落ちていたのは一冊のノート。手を伸ばして、それを拾い上げる。
「……ん?」
これ、入学準備で余ったノートだよね? 仕舞っておいたのに、どうしてここにあるの? しかも使用した形跡があり、ノートは広げた跡があった。
小さな疑問から始まった好奇心は、時間潰しに丁度良い。そんな気持ちで軽く、一ページを捲る。そこには。
4月8日(木) 入学式 晴れ
入学式に出席
紗枝と友達になる
昼から家にいる
×昼より買い物に行かない
×別の場所にも行かない
追記
昼から買い物に行き女の人とぶつかる トートバッグの中 運転免許証 佐山多恵子さん 交番に届けるとループしない
4月9日(金)
昼 売店で買い物をしない
4月10日(土)
不明
4月11日(日)
不明
4月12日(月)
朝 バスが遅延により遅刻
放課後 紗枝と遊ぶ ×カラオケ ×カフェ ×ファーストフード ×雑貨屋 ×散歩
抜け出せない
禁止事項
ループを誰にも言わない
「紗枝? ループ?」
日付と曜日、今日が入学式であることから、不気味なぐらい私の状況とピッタリだった。全く身に覚えがないし無視で良いんだけど、ノートに書き綴られているのは間違いなく私の字であり、それが余計に不安な気持ちを煽ってくる。そして極め付けには。
「……ここには何て書かれていたの?」
一ページ、明らかに切り取られた跡があった。



