『死にたい…』

 わたしはいつからこの言葉が頭を()ぎるようになったのだろう。
 客観的にみたら家庭環境は良好だし、人生に失敗しているわけではなかった。
 月並みになんでもできた。
 むしろ、幸せなほうだと思う。家族にたくさん甘やかされてきた。
 なのに、どうしてもなにかが満たされなかった。
 心の中にある箱の底が抜け落ちているみたいに、なにをしてもそこに幸せが蓄積することはなかった。



 いまこの瞬間も、どこかでだれかが死んでいる。
 死んだ人の家族やまわりからは大きな損失だが、この地球上においてはほんの些細なことである。

 事故だったり、病死だったり。
 たったいま、この瞬間も、どこかでだれかが死んでいる。
 そして、自らの意思で命を絶つ人もいる。
 これもありふれたこと。他愛もないこと。

 だから、わたしがいまからすることは、取り立てて騒ぐこともないごく普通のこと。
 いわば自然の事象のひとつ。



 2019年2月24日
 この日にすべてを終わらそうと決めた。

 わたしが高校1年生のころ、世間では、コロナという新しいウイルスが蔓延りはじめ、外出するのが難しい時代だった。
 高校では、先生たちが大慌てで対応するなか学校は、分散登校やオンライン授業へと変わっていった。

 元々学校にいくのは嫌いだったから、分散登校はむしろありがたかった。
 もうあの教室にいかなくてもすむ。
 あのクラスメイトたちと顔合わせなくてもすむ。
 それがわたしにとってどんなに利益になることか、学校が好きな人たちにはきっと一生かかってでもわからないだろう。

 そして、家の中にいることが増えて、ずっと机に向かっているとだんだんとなんのためにやっているのかわからなくなった。
 こんなにもできない自分がいやになった。
 自分の能力に嫌気がさした。もう逃げ出したい。
 生きている意味ってあるの?
 生きるのをやめてもいいんじゃないか?
 今日死んだっていいとさえ言える。
 そんな言葉が思考を支配しはじめた。


 1学期のおわりに、匿名でクラスメイトの良いところを書いて、机に置いておくという活動があった。
『真面目』『優しい』『空気が読める』『優等生』『わからないことがあったら絶対に教えてくれる』『頼みごとをなんでも引き受けてくれる』
 そんな言葉たちをもらったとき安心した。
 まわりからもわたしは、ちゃんとわたしの理想通りに映っている。
 でも、同時に、これはだれに言ってるの? と疑問が浮かぶ。
 ほんとのわたしはこんなんじゃないのに。
 だから、完璧でいなければいけないという圧に感じられてずっと息苦しかった。

 これ以上がんばりたくない。
 これ以上まわりに合わせて繕いたくない。
 もうやだ。つかれた。
 明日さえこなければ、きっと楽になれる。



 見慣れない駅のホーム。閑静な空間。
 特急はおろか急行ですら止まらないこの駅にはじめて降りた。
 あたりにはあたりまえのようにだれもいなくて、人がくる気配も電車が止まる気配もない。
 ここなら確実に死ねる___

 中学のころから綴った日記は捨てた。
 携帯電話は初期化した。
 残ってるデータはすべて削除した。
 あとはこの身がおわるだけ。
 後悔はない。もはや清々しい気分だった。
 これで自由になれる___


 人生は一度きり。
 だから、特別ななにかを欲した。
 価値のあるおわりがみたい。

 思い返しても、華のない人生だった。
 基本なにをやってもある程度はできるようになった。
 運動も勉強も人並みだった。
 でも、なにかひとつでも卓越してできるものが見つからなかった。
 だれかに誇れるものなどなにもない。
 99の努力も1の才能には敵わない。
 わたしなんかの地味な努力では、生まれもった才能がある人に追いつくことなんてできない。
 現実は物語のように上手くはいかない。
 生きる希望はもうない。

 カンカンと遮断機が下りる音がする。
 心臓が早鐘を打つ。思いっきり深呼吸する。
 やっとわたしは___



「ねぇ、なにやってるの?」

 その声で、踏み出そうとした左足が元に戻る。
 少し向こうからだれかが近づいてきた。

 うそ。人がいた。
 しかも、同じ制服を着ているから同じ高校だ。
 1年生の分散登校日だったから、おそらく同じ学年だろう。

「あ、えっと、え、あの……」

 電車を待ってるって答えればいいのに、頭が働いてくれなくて上擦った声が出る。
 答えることにモタモタしていたら、快速特急が風を切って目の前を通り過ぎてしまった。


「あーあ、残念だったね。電車いっちゃったよ」

「え? あ、快速特急はここ止まらないですから」

「ちがう。死ねなくて残念だったね」

 的確すぎる彼の言葉に思わず目を開く。
 すべて見透かされている気がした。
 居心地が悪くなって、その場を離れようとする。

「あれ? 死なないの?」

 でも、変わらず話しかけてくるから、中々離れられない。

「……死にたいよ」

 小さく聞こえるかどうかの声を零した。


「わかった。じゃあつぎの電車がきたら、俺がきみの代わりに飛び込むよ」

 は? と一瞬なにいっているのかわからなかった。
 初対面のはずなのに馴れ馴れしくて、わたしの代わりに死ぬとかわけのわからないことを言っている。

 なんとか頭をフル回転させて、冷静に考える。

「わたしのために死ぬのはだめだよ。
 まだ若いんだし、ここで死ぬのはもったいな……」

 そういいかけて、まだ若いとかもったいないとかが自分にも当てはまってることに気づいてしまった。
 こんな説得力のない言葉しか言えないなんて。

「だよな、俺もそう思う!」

 笑顔が返ってくる。慌てて否定しないと。

「でも、わたしはいいの。
 もうなんもできないし、なんもしたくない」

 生きてさえいればいいことがある。
 そんなのだれが言ったんだろう。
 いま生きてるのがつらいのに未来のことなんて、必要としてくれてる人がいるなんて、だれかが哀しむなんて、そんなこと考えられる余裕なんかない。
 まあ、もうどうでもいい。
 どうせ死んだら無になるだけなんだから___


「俺はさ、頭いいから授業聞いてるだけであとは勉強一切してなくてもテストは9割取れて、入学からずっとトップの天才なんだけどさ……」

 なんだこいつ。いきなり自慢話してきたんだけど。
 わたしはこんなやつに死ぬのを遮られているのか。
 なんでこんなやつに邪魔されなきゃいけないの。
 くだらない自慢話に付き合ってられないと思い、背を向けて歩き出す。

「きみもさ、テストで9割とかふつーに取ってくるじゃん」

 思わず足がピタッと止まる。

「背を向けてていいから、こっちを向かなくていいから、俺の話をちょっとだけ聴いてほしい」

「俺、毎回ベスト50が貼り出される順位表、写真撮ってるんだ。
 驚いたよ。最初のテストできみは50番で、それでも全然上位だしすごいのに、その次から大幅に俺の順位に近づいてきた。
 どんどんと近づいてくる順位に正直焦った。
 偶然、クラスの子と順位表見にきてるのを見かけて『すごいね』って言われてるのにちっともうれしくなさそうで、満たされないって顔してた。
 だから、気になってた。ずっと話してみたかった。
 きみの地頭とかは知らないけど、相当な努力でここまで上がってきてるんだろ?
 人の何倍も努力できるなんてかっこいいよ」

 その瞬間、わたしの目に浮かんだ涙はやがて溢れ、頬を伝っていた。
 胸の内がぐちゃぐちゃになる。
 絶望。悲愴。戸惑い。うねるような感情の波。
 フラッシュバックする過去の出来事。

 はじめてだった。
 友だちに勉強を教えても「やっぱ頭のいい人は元の出来が違うんだろうな」とか「最初からそんなふうにできるなんて羨ましい」とか言われてきた。
 それでも上手に笑って、みんなの質問に絶対答えられるように必死に予習復習した。
 今日、授業であてられるから答え教えてほしいとか、課題教えてほしいとかみんなが言うからがんばってきたのに、真面目な人は暗いし一緒にいてつまらないとか、好き勝手言われる。

 努力してきたなんていままでだれも言ってくれなかったのにどうして。

「な、なんで? わたし、だれかにそんなこと言われたことない……」

「んー勘?」

 そういって儚く笑った。
 一瞬で胸の奥があったかくなった感じがした。


 いま思い返したらこのときに気づいてあげられたらよかった。
 彼は努力の天才だったことを。
 高校時代、ずっと1位をキープしていたのだって並みの努力じゃなかった。
 わたしの死にたい理由がすぐ理解できたのは、彼がわたしとおんなじ、いやそれ以上の努力をしてきた人間だったからだと。
 おんなじ悩みで苦しんでいたからだと。



 初対面の人の前なのに、笑っちゃうくらい涙は止まんなくて、顔はもうきっとぐしゃぐしゃで。
 こんなことだれにも言えないって思っていたのに、気づいたら話しはじめていた。

「わたし、から勉強とか努力を取っちゃったらほんとになんも残らないの。
 そんくらい空っぽな人間なの。
 それにほんとに頭良くない、理解するのも人より遅い、全然できない人間だからこそ人の何倍もやんないと、じゃないと追いつけない。
 でも、つらくて。それが言えなくて笑顔で隠して、もうわけわかんないよ。死んでおわりにしたい。
 もう……つかれちゃったよ」

 最後は吐き捨てるように告げた。
 もうとっくに心は壊れてる。
 いまさら修復不可能なんだよ。
 なにをしたってなにかが満たされない。
 なにかが足りない。
 もう上手く笑える自信なんかない。

 お願いだから放っておいて、おわりにさせて___


 ぼやけた視界の中、彼の顔をみてみると、なぜだかわたしよりつらそうな顔をしていたのはわたしの勘違いだったんだろうか。


「それはちがう。ちがうよ」

「……」

「みんなやればできるはずなのに、やんない人間が多いなか、コツコツちゃんと努力できるのは、才能だよ。
 特別な才能だと思う」

 トクベツ。とくべつ?
 わたしが特別なわけないじゃん___

「でも、本気で死にたいって言うんだったら、俺はもう止めない。
 そんな権利ないし、きみの人生なんだから自分で考えて選んだらいい。
 けど、俺はたくさん努力ができるきみに死んでほしくはない」

 なんて返したらいいかわからなかった。
 死ぬことはべつに悪くないよって言ってくれてるみたいで、さっきまでの嫌悪感は一瞬で消え去っていた。
 この人はいままで出逢ってきた人たちとはちがうと感じた。

「ほんとは今日これを渡したかったんだ。忘れ物」

 そういって、彼がかばんから取り出したのはまちがいなくわたしのノートだった。
 捨てようとしたけどなかったから、どっかに置き忘れてきたのかもと思っていた。

 もう見るはずもなかったノートが手の中にある。

「もういらないけど……あ、りがと」

「中見てみ?」

 言われるがままに中を開いてみると丸がたくさん付けられていた。
 つぎのページもつぎのページも。
 目を丸くして、彼を見つめる。

 わたしは丸つけをするとき、丸は打たずに間違えたところだけ赤で書き直す。
 だから、9割あっていようと、1割の間違っているほうが目に入る。

「……どうして、これ」

「正解がたくさんあるんだから、丸はつけてあげないと」

 もう一度ノートに視線を落とす。
 あぁ、このノートにはこんなにたくさん丸があったんだね。
 わたしはこんなにもがんばってたんだ。
 いままで結果がすべてで、過程なんか見ようともしてなかった。


優茉(ゆま)ちゃん、いままでよく耐えてがんばったね」

「……ッ」

 ポンと優しい手が頭の上に置かれる。



 それから導かれるように駅を出て、公園のベンチへと移動した。
 そこでも、わたしは、ひたすら泣いていた。
 涙が枯れるまで泣いて、泣いて泣いて。
 彼はわたしが泣き止むまで一切なにも言わずに、ただただとなりにいてくれた。


「わたしが死んで、あのクラスメイトたちに思い知ってほしかったんだ」

 人に理想ばかり押し付けて、都合のいいときにだけ話しかけて頼ってきて、わたしがこんなにも苦しい想いをしてきたことを見せつけてやりたかった。

「そっか。でも、そもそも人が嫌なことを簡単にするやつは罪悪感なんてもってない。
 だれかが自分のせいで死んだら哀しむはずだって、そう思えるのはきみがまっすぐ歩いてきた優しい人間だからだよ」

 大丈夫だよ、と手をぎゅっと握ってくれる。

「自分も苦しくて精一杯なのに、ほかの人を優先できるなんて優しい証拠だよ。
 すてきなことだけどもうやめたら?」

「……」

「まずは自分に優しく、気を遣ってあげよう。
 人に頼ることを覚えて、自分のことだけに時間を使ってあげよう。
 人に与える優しさや気遣いは、こころに余裕が生まれてからでいい。
 理想になれなくたってきみの価値は変わらない。
 だれかのために自分のこころを壊してまでがんばる必要はない。
 自分の人生を後回しにしないで」

 彼の言葉がすとんと胸の中に落ちていく。

 ずっと完璧でいたかった。
 ずっと真面目ないい子を演じたかった。
 でも、それが自分自身を苦しめていたんだ。

 いや、ちがう。ほんとはそんな綺麗な感情だけじゃない。

「わたしは、そんなんじゃ、ない」

 真面目に生きようとしてきたのは、ただ自分がよく思われようとしていただけ。
 他人の顔色を常に窺って、迷惑をかけないように、嫌われないように感情を抑えて自分の意思とは関係なしにその場に合ったことを言って、それは他人を想ってのことなんかじゃなくて、全部自分のためだった。
 他人からみえているわたしは、わたし自身じゃない。
 ほんとは、そんな自分がだいきらいなんだよ。

「いいでしょ。
 人間なんだからさ、みんな自分のために行動してるよ。
 むしろ醜い感情をさらけ出すとか、あるがままに生きるほうが人間らしくていいじゃん」

 わたしの考えてることなんかお見通しだと言うように言葉を重ねた。
 そんな彼の温かい言葉でまた、涙がどうしようもなく溢れてくる。



「俺さ、医者になりたいんだ」

 わたしが泣き止んだころ、彼がぽつりと空を見上げながら零す。

「お医者さん?」

「だれかの命を救う仕事がしたい。きみは?」

「わたしは……えっと、」

 将来の夢なんてとっくに忘れていた。
 中学校、高校となにになりたいのかわからないまま進んでた。
 でも、小学校の頃に思い描いていたのは___


「学校の先生になりたい。
 学校の先生になって、わたしみたいに、学校がいきたくない子どもに寄り添いたい」

「いいね、すごくいいと思う」

 スラスラと自分の夢を語れたことに驚く。

 そっか、わたし先生になりたかったんだ。

 彼との出逢いをきっかけにもう少し、もう少しだけこの世界でがんばってみようと思えた。
 わたしも彼みたいに堂々と夢を語れるような人間に、だれかのこころを救える人間になりたい、と思った。