刹那、部屋に断末魔が響く。目を見開いて亜里沙を見ると、彼女は倒れ込んで苦しんでいた。亜里沙に飛ばされた術符が目に入る。

「触るな。成仏の為損ないごときが、誰のものに手を出そうとしている?」

 冷たい声にせつなが視線を遣ると、そこには軍服を着た侃彌の姿があった。どうして彼がこの時間にここにいるのか。

 様々な疑問が浮かぶが、それどころではない。侃彌は迷わずせつなのそばにやってきて亜里沙と対峙する。髪を振り乱し、亜里沙は叫んだ。

「私の邪魔をするなら、誰であろうと許さない!」

「ま、待ってください!」

 せつなが止めに入ったのは亜里沙にではなく、侃彌に対してだ。彼は強い霊力を持ち、このまま亜里沙を強制的に常世へ送るのではないかと危惧する。

 ところが侃彌は懐から形代(かたしろ)を取り出し、優しく亜里沙の方へ放り投げた。

「え?」

 真っ白な形代は、すぐに人の形へとなっていく。

「ほら。お前の望み通り、高野真知子を連れ来た」

 亜里沙の前に現れたのは高野真知子だ。亜里沙と同じ小袖に短めの袴を着て、穏やかな顔をしている。間違いなく彼女の魂だ。

「真知子!」

 粗ぶっていた亜里沙が落ち着きを取り戻し、彼女は真知子と抱き合った。

「ごめん、ごめんね。私のせいで、真知子まで……」

「大丈夫。亜里沙のせいじゃないから。これからふたりで楽しいことをしよう」

 涙を流す亜里沙の背中を真知子が優しくさする。

  晃々(きらきら)と彼女たちの周りが柔らかい光が包む。そのまま彼女たちの姿はゆっくりと消えていった。何度見ても、温かい光に包まれて常世へと導かれる様子はホッとする。

 辺りは急に静けさに包まれ、せつなはその場に腰を落とした。

「まったく。無理をするなと言っただろう」

 侃彌は外套を脱ぎ、背中からせつなをすっぽりと包む。せつなとしては、状況に頭がついていかない。

「なぜ、こんな時間にこちらへ? それに高野真知子さんの魂をどうして?」

 次々と疑問が湧いてくる。

「後藤田医院での一連の飛び降りは、偶然に起きたものではない。異常存在(まれびと)が噛んでいたらしく、その件については極夜が……今しがた、月朔(げっさく)組が解決した」

 異常存在(まれびと)――この世界に存在する人ではない者の総称を指す。普段は交わることなどけっしてない。互いに干渉せず、不可侵を貫いている。おかげで異常存在を知らない者や信じない者も多い。しかし、時折境界線を越える者がいるのも事実だ。

 超えるだけならいざ知れず、人間の生活に危険や危害を及ぼす者も現れる。大和国日神軍は元々、異常存在に対抗するために作られた組織だ。それを知る者はごくわずか。

 そして、天明家は陰陽道を受け継いできた家系で強い霊力を持ち、祓除の技を持つ。侃彌が軍に特別な立場で所属し、こうして命を受けるのはたいてい死者が絡んでいる。

「高野真知子の霊がいないことは最初から妙だと感じていた。後藤田医院は静かすぎる」

 それはせつなも感じていた。病院という場は、亜里沙みたいにはっきりした意思を持っていなくても、多少霊の数も活動も活発になっている場合が多い。

 真知子の霊は異常対象によって隠されていたのか、囚われていたのか。

「詳しくはまた今度だ。杠のことは心配しなくていい。霊気に当てられたようだが回復したらまた姿を現すだろう」

 ふうっと息を吐いた侃彌に、せつなは胸が締めつけられた。

「……申し訳ございません」

 おかげで謝罪の言葉が口を衝いて出る。自分の力を過信していた。侃彌が間に合わなかったらどうなっていたのか。せつなが動かなくても真知子の魂は解放され、亜里沙の望みは叶ったかもしれない。

 あれこれ考えていると、不意に頭に温もりを感じた。

「謝るな。天童亜里沙はとっくに地縛霊になってもおかしくはなかった。お前が昼間付き合ったから幾分か気持ちが晴れ、今の今まで理性を保てていた。最終的には願いを叶え、未練を残さずに逝けたのだから」

「です、が」

 言い返そうとすると両頬に手を添えられ、真っ直ぐに見つめられる。わずかに青みがかった虹彩が揺れるのがわかる距離でせつなは息を呑んだ。

「妻の願いを叶えるのも、妻を守るのも夫の役目だからな」

 触れられた箇所から熱いものが伝わり、体の中を巡る。次の瞬間、せつなの体が変化した。

 小さな手足は大きくなり、腕も足も伸びる。視界が高くなり、艶やかな髪も長くなった。肌の白さは変わらないが、凹凸のなかった体は丸みを帯びた女性のものに変化する。

 はだけた状態となった体を隠すため、うしろからかけられていた侃彌の外套の袷部分を引いた。

 今のせつなは二十歳の娘の姿だった。

「こ、こんな状況で霊力を無駄に使わないでください!」

 羞恥と戸惑いで、いくらか身長差が縮んだ侃彌を見上げて抗議する。しかし彼はものともしない。

「無駄とはなんだ。お前があまりにも妻としての自覚が足らないから、思い出させてやっているのだろう」

 悪びれもしない侃彌に、せつなは伏し目がちになる。

「それは……しょうがありません。普段、私は子どもの姿で……」

 妻として振る舞えるわけなどない。自分の正体を知られるわけにもいかない。天明侃彌の妻が呪われているなどと――。

「どんな姿でも関係ない」

 思考を遮るきっぱりとした声が耳に届き、続けて頤に手をかけられ侃彌の方を向かされる。

「私の妻は(きずな)だけだ」

 揺るがない眼差しと、久々に呼ばれた本当の名前に、せつなは――紲は泣きだしそうになった。

 首に巻いてあった包帯も切れて床に散っている。露わになった彼女の首筋には黒い月と八芒星が小さく、だがくっきりと浮かびあがっていた。

 鏖月(おうげつ)の烙印――。

 すべての禍の起源とされ、けっして近寄ってはならない。力を奪われ、身を喰われる。気に入った者には対し気まぐれで烙印を捺し、烙印を捺された者は、その瞬間に人ではなくなる。

 久しぶりに空気に触れた首筋に、乾いた指の感触がある。ゆるやかに侃彌の指が烙印をなぞり、さらには口づけが落とされる。そのまま彼に抱きしめられる。

「心配しなくていい。鏖月に紲は渡さない。だから、なにも気にせず私のそばにいたらいいんだ」

 紲の瞳から大粒の涙がこぼれだす。

 霊力と体を奪われ、この烙印は悪いものを呼び寄せる。彼のことを想うならそばにいるべきではない。それでも――。

「私も……あなた様の、旦那様のそばにいたいです」

 こうして彼に霊力を与えられ、一時的に元に戻ることはできる。しかしほんの束の間だ。だとしても、今だけでも彼の妻として共にありたい。

 ふと腕の力が緩み、至近距離で目が合う。なにもかも見透かすような彼の瞳が綺麗で、怖くて、初めで会ったときは苦手だと思った。でも今、その目に映っているのは自分だけだ。

 先のことなど誰にもわからない。生き方も死に方も自身ではどうすることもできない。 だからこそ、自分の意思で今大事にしたいのだ。

 ゆるやかに目を閉じるとそっと唇を重ねられる。間もなく陰の丑から陽の寅へと刻が変わりゆく頃だ。伝わる温もりに安心しながらも、紲は自身の宿命を静かに見据えていた。