亜里沙と別れ、せつなは病院に入ろうと試みる。それは正面玄関からではなかった。

「せつな様、本気ですか?」

「しょうがないでしょ。正面玄関にはまだ軍の人間がいたもの」

 とはいえ軍の人間に咎められる覚えはない。せつなが避けているのは、軍の中でもただひとりだ。

 背伸びして、精いっぱい手を伸ばして窓を横にずらす。建物の横側に回り、視線を飛ばしていると、鍵が開いている窓を見つけたのだ。非常階段の影に隠れる形となり、正面からは死角になる。これを逃すわけにはいかない。

「たとえ見つかっても子どもの悪戯で済むわ」

「あなたという人は……」

 窓枠に手をかけ、爪先に力を入れて壁をよじ登る。杠が強く止めるべきか迷っているのが伝わってくるが、最終的に彼はせつなに逆らえない。

 ぐっと身を乗り出し窓の向こうを見ると、薄暗く倉庫のようなもので人の気配はない。行儀悪いのは承知で足をかけようとすると、突然体がうしろに引っ張られるようにして浮いた。

「まったく。こんなところでなにをしている?」

「だ、旦那様!?」

 叫んだのは、せつなではなく杠だ。顔面蒼白の彼に対し、せつなは宙に浮いたまま硬直する。彼女の脇の下に手を入れ背後から抱き上げているのは、先ほど現場を仕切っていた天明侃彌だ。

 彼は余裕たっぷりに微笑む。

「どうした? 私に会いに来てくれたのか?」

「ち、違います! 下ろしてください」

 軽く足をばたつかせると、侃彌は静かにせつなを下ろした。

 地に足がつきホッとする間もなく、心臓が早鐘を打ち出す。それを悟られぬよう、せつなは早口で捲し立てる。

「あなた様こそ、こんなところにいていいのですか?」

 彼は軍の人間としてここに呼ばれ、現場を仕切る任を与えられているはずだ。

「ああ。私の役目はほぼ終わった。極夜(きょくや)に頼まれただけだからな。相変わらず人使いの荒い大佐だ」

 やれやれといった調子で侃彌は漏らす。

 大和国日神軍を創設した極夜家を知らない者はいない。現当主は軍では大佐の地位にあり、部隊は違うものの侃彌のよき友人として個人的に昔から付き合いがある。

 今回、彼からの命で侃彌が現場に呼ばれたのも、侃彌の腕を信頼してのことなのだろう。

「ご当主はお元気ですか?」

 さりげなく、せつなが尋ねると侃彌が不快感を露わに整った顔を歪めた。

「私よりも他の男のことが気になるのか?」

 どうしてそういう発想になるのか。せつなとしては理解が追いつかない。

「私を避けて、こんな真似をしなくてもいいだろう」

「そ、それは……」

 玄関からではなく、院内に窓から忍び込もうとした件だ。どうやら彼にはせつなの意図はお見通しだったらしい。

 しかし、せつなにも言い分はある。

「私が天明家の人間だと……あなた様の関係者だと知られない方がいいと思ったんです」

 軍の人間がいる中で、子どもだから院内へ入るのに素通りされる可能性もあったが、万が一素性を問われると困ると考えた。

「なぜ?」

 しかし侃彌からは、歯牙にもかけない返しがある。せつなは顔を上げ、彼に返す。

「なぜって……。だって私は――」

 言い終わらないうちに彼女の体が再び宙に浮いた。今度は正面から侃彌に抱き上げられる。見上げていた自分の方が彼より目線が高くなり、着物伝いとはいえ回された腕の感触がありありと伝わり、せつなは赤面する。

「妙な気を回す必要はない。なんなら今いる者たちだけでもお前を紹介しておくか?」

「や、やめてください」

 間髪を容れずにせつなは答える。その様子を見て侃彌は彼女を丁寧に下ろした。

「冗談だ。とはいえ危ない真似はするな。正面から入るくらい口は利いてやろう」

「あ、ありがとうございます」

 着物の裾を直し、せつなはお礼を告げる。

「あの……」

 続けて、躊躇いつつ上目遣いに侃彌を見た。

「今朝、亡くなられた高野真知子さんのご実家へ弔問に参りたいのです。たしかめておきたいことがありまして……。高野家に口添えしていただけませんか?」

 おずおずと頼みごとをするせつなに、侃彌は小さくため息をつく。

「わかった。先に使者を遣わせておこう」

「ありがとうございます」

 侃彌の返答にせつなは顔を綻ばせた。侃彌はそっとせつなの頭を撫でる。

「どうせ私がいくら言っても聞かないんだろう。杠。くれぐれも彼女が無理をしないよう見張っておいてくれ。なにかあればすぐに知らせるように」

「承知いたしました」

 杠が深々と頭を下げる。侃彌はせつなの頭から手を離し、内側にしている腕時計を確認した。

「さて、さすがにそろそろ戻らないとまずいな」

「あの……勝手を許してくださってありがとうございます」

 正面玄関の方に足を向ける侃彌に、ぎこちなくもお礼を伝える。すると彼は一度せつなの方へ振り向き、口角を上げた。

「本来なら館に閉じ込めておきたいところだが、お前はそれを望まないからな。逃げ出されるくらいなら、目の届く範囲で好きにさせるまでだ」

 どこまで本気で言っているのか。反応に困っていると侃彌はふっと笑みをこぼした。

「ただし無理はするなよ。自分の状況はわかっているだろう?」

「はい」

 背筋を正し、せつなは答える。彼が自分を心配しているのは痛いほどわかっている。

 侃彌を見送ったあと、緊張の糸が切れたように杠が息を吐いた。

「相変わらず旦那様はせつな様に対し、過保護ですね」

 杠を無視して、せつなは正面玄関に向かう。

「せつな様。旦那様もおっしゃっていたように、あまり無茶をしすぎると、本当に閉じ込められちゃいますよ」

「そうならないように、あなたがいるんでしょ?」

 せつなの切り返しに杠は言葉に詰まる。せつなはおそらく気づいていない。先ほど、侃彌はせつなのお目付け役として自分に頼んでおきながらも、彼女のそばにいる杠に対し、厳しい視線を送っていた。

「そうですね。あなたのためにも、自分のためにも、精いっぱい役目は努めますよ」

 その言葉を受け、せつなは後藤田医院の中に足を踏み入れた。