両家の使者がやりとりし、年の瀬に紲と侃彌の結納の日が近づいてきた。

 しかし、ここのところ紲にはずっと消せない違和感がつきまっている。

 黒い靄のようなものが爆発的に増え、あちこちで邪悪な気配を感じる。今までにこんなことはなかった。

 なにが悪いのか。月隠り……大つごもりが近づいていることと関係があるのか。

 胸騒ぎが抑えられず、その年の初雪が降った日に、紲は可惜夜家当主の命を受け、禍々しさの元を浄化すべく現場へ向かった。

 白い雪がちらほら舞う中、紲の視界には徐々に黒いものが増えていく。この先になにが待っているのか。

 今までに感じたことがない圧に息が苦しくなる。冷たい空気が喉に痛みを与えた。

『あのね、紲。ひとつだけ約束して』

 どうしてここで母の言葉を思い出すのか。

『どんな霊も人さえも喰らう。怖ろしい存在。すべての禍の起源』

 難しくて当時は母がなにを言っているのかわからなかった。けれど怖いくらい真剣な母の表情に絆は黙って受け止める。

『けっして近寄ってはだめよ。――鏖月には』

 視界が暗転して意識が飛ぶ。呼吸ができない。

 このまま闇に沈んでいくんだろうか。そう思った瞬間、全身が千切れるような痛みが遅い、水から上がった魚のように肺に空気がなだれ込む。仰向けに倒れ込み、見えるのは雪が降ってくる灰色の空だけだ。

 ここは、どこ? なにが、なにが起こったの?

 頭に靄があかったかのように記憶が曖昧だ。しかしすぐに紲は信じられない事態を目の当たりにする。顔の前にかざした自分の手を確認すると、やけに小さいのだ。見間違いではなく、浄化する際に着る装束もぶかぶかで、手も足も短くなっている。

「なん、で?」

 自身の顔を触って、心臓が早鐘を打ち出した。今、自分はどんな状態でいるのか。

 痛む体をひきずり、紲は可惜夜の館に戻る。

 雪が降っているからか、大晦日が近いからか、あまり人通りはない。それでも極力、人目につかないように紲は館に入る。

 紲の姿を見た使用人たちは驚き、継母と義妹は、親の仇を見るかのような目で紲を見た。

「なんてことなの! その姿。あなた、よりにもよって鏖月に接触したなんて!」

「その首の印! 嫌だ。怖い。不吉よ! 鏖月の烙印なんて、もう人ではなくなったってことじゃない。体を持っていかれて力を奪われる。穢れを持ち込むだけなのに!」

 鏖月――。

 自分はすべての禍の起源とされるものと対峙したのか。記憶がない。そもそも鏖月に接触した者は、なにもかも奪われ消滅するのではないのか。

 状況に頭がついていかない。そっと首筋に手を当てると、体が震えた。

「この化け物! 今すぐ出て行って。今後一切可惜夜の名を名乗ることも、この家の敷地に足を踏み入れることは二度と許さない。育ててもらった恩をこんな形で返すなんて」

「で、ですが」

 継母に返そうとしたそのとき、冷たい液体が紲に向かって思いっきりかけられた。おそらく神水だ。

「口を開かないでよ。汚らわしい。あなたはもう穢れでしかないの。祓う者ではなく祓われる側なのよ」

 紬が早口で捲し立てる。

「ああ、侃彌様には上手く言ってくわ。彼が来る前にさっさと消えて」

 そういえば今日は彼が家に来る予定だった。侃彌は今の紲の姿を見たらなんて言うだろうか。

「天明家は――侃彌様は除霊の能力に長けているから、浄霊の能力のある可惜夜家からけ結婚相手を欲しがったそうよ。今のあなたは鏖月に力を奪われて呪われた存在なんだから、用なしどころか彼に蔑まれるだけよ!」

『私には、お前が必要だと思ったんだ』

 なにを、勘違いしていたんだろうか。考えたらわかる。彼は可惜夜家と同じ、自分の浄霊能力だけを欲していたのだ。

 紲は握り拳を作って力を入れ、滴る水の冷たさを噛みしめながら頭を下げる。

「お世話に、なりました」

「そのまま軍に助けを求めたら? 軍は異常存在を捕らえたら、秘密裏に保護という名の実験を行っているそうよ? 鏖月に烙印を押された、なんて格好の実験対象じゃない」

 高笑いと共に小馬鹿にした言葉を背中に受けながら、紲は可惜夜家を後にする。

 出ていこうと決めた身とはいえ、今の紲は子どもの姿だ。霊力がないのも感覚でわかる。

 私、これからどうしたらいいの?

 門をくぐろうとした際、門前に馬車が停まっていることに気づき、慌てて姿を隠した。中から降り立ったのは、侃彌と彼の付き人だ。

 侃彌はコンチネンタルスーツを身にまとい、上品に着こなしている。いつもの和装姿とは異なり、なんだか別人のようだが、よく似合っていた。

 とにかく見つからないようにと息を殺していると、中から侃彌をある人物が出迎える。

「侃彌様!」

 現れたのは紬で、彼女は笑顔で彼に駆け寄った。

「お待ちしておりました、どうぞこちらへ」

 さっきまで鬼の形相で罵っていた面影はまったくない。嬉しそうに侃彌の腕に手を添えている。

 侃彌の表情は見えないが、並ぶふたりのうしろ姿はとてもお似合いだと思った。

 ズキズキと痛む胸を押さえ、今のうちに館から去ろうと試みる。しかし、ふと門前のところで黒い塊がうようよといることに気づき、紲は足を止めた。

 なに?

 こちらに迫ってくるものから逃れるため紲は駆け出す。

 そして、目についた高めの木に足をかけ腕を伸ばして登っていった。なにか考えがあったわけではなく、とっさに取った行動だったので、紲はすぐに後悔した。

 吐く息は白く、手はかじかんでいる。木に登る途中でぶかぶかの靴は脱げ、裸足だ。

 濡れた体は風にさらされ、体温を奪う。ガタガタと震えながら少女の姿となった紲は木の上から見下ろす。

 下にはいつの間にか黒い塊が集まり、紲が落ちるのを今か今かと待ちわびているようだった。

 浄霊する力がない紲には、どうすることもできない。説得を聞き入れるほどあれらに理性が残っているのか。

 今まで霊を怖いと思ったことはない。けれど今初めて、紲は彼らが怖しいと感じた。

『そのやり方はいずれ身を滅ぼすぞ』

『奴らは所詮人だったもの。甘い顔をするとつけ入れられる』

 あの人の言うとおりだった。

 首にある鏖月の烙印が原因なのだとしたら、この場をやり過ごしても同じだ。こんな体で、力を奪われた自分は対抗する術は持ち合わせておらず、それどころか、誰にも必要とされていない。

 可惜夜の家でも、浄霊を頼んできた人も、天明様も――。

 ふっとなにかが切れ、必死に木の幹にしがみたいていた腕の力が抜ける。

 もういい。もういいや。……私も落ちていこう――。

 ところが次の瞬間、木の幹に集っていた黒い塊がすべて消え去る。

「え?」

「紲!」

 信じられない光景に目を瞠る。しかしそれよりも名前を呼ばれたことに、驚きが隠せない。木のそばに大股で歩み寄ってきたのは、天明侃彌だった。彼が、あの黒いものたちを一掃したらしい。

 続けて侃彌は、両手を紲の方に伸ばす。

「遅くなって悪かった。もう、大丈夫だ」

 なにかを考える余裕も、迷う間もない。その言葉に、紲は侃彌の方に手を伸ばし、彼の腕の中に落ちていった。

 たくましい腕にしっかりと抱き留められ、伝わる温もりに安堵し、紲の瞳から涙があふれ出す。

「ふっ……」

「大丈夫だ。もうなにも心配しなくてもいい」

 泣くなんて久しぶりだ。体だけではなく、心も幼くなってしまったのか。

 少しだけ気持ちが落ち着くと、冷静さが駆け巡ってくる。

 身動ぎし、紲は少しだけ侃彌から距離をとった。

「も、申し訳ありません。このような事態になり……」

 なんて説明すればよいのか。迷っていると、侃彌の長い指が紲の首筋に触れた。

「鏖月の烙印、か」

 侃彌の指摘に、紲は再度頭を下げようとしたが、先に侃彌に止められる。

「謝るな。状況は粗方わかっている」

「なら……」

 縁談は言うまでもなく破談だ。彼の相手として、可惜夜家なら紬がいる。

 侃彌は自身の外套を脱ぎ、包み込むように紲にかけた。

「ひとまず、可惜夜家に結婚の許可をもらう」

 それは誰を相手に言っているのか。

「侃彌様!」

 理解できずにいると義妹の声が聞こえた。おそらく侃彌を探しに来たのだろう。紬は紲に気づくや否や眉をひそめた。

「なんでまだいるの? 出ていきなさいよ、この化け物!」

 嫌悪感あふれ、今にも手を上げそうな紬から侃彌は紲を庇う。

「彼女に手を出すな」

 凛とした声に紬は硬直する。そこに継母もやってきた。同じく紲の存在に気づき、不快感で顔を歪める。

「あなた、どうして……」

 しかしそんな彼女たちに侃彌は冷ややかな視線を向けた。

「気をつけてください。私の妻になる女性に無礼を働いたら、可惜夜家だろうと容赦しない。彼女への振る舞いひとつで、あなた方は天明家を敵に回すことになる」

 彼の発言に紬も継母も、そして紲も狼狽える。

「妻? 侃彌様、本気ですか? その者は鏖月の烙印を捺されているんですよ? そんな人にあらざる者を娶ったなど知られたら、天明家の名は地に落ちます」

「娘の言うとおりです。しかもその子は呪いで無能なうえ、哀れな子どもの姿。妻にするなら紬の方がよっぽど……」

「ご心配には及びません」

 紬と継母の言い分を侃彌はきっぱりはねのける。

「私よりもご自身たちを心配したらどうです? 今の可惜夜家の名声のほとんどは紲の力によるものでしょう」

 継母と紬が口を噤んだのは、事実だからだ。彼はため息をつき、紲を抱き上げる。

「わっ」

「これ以上、ここにいる必要はない」

 そう言って門へと向かっていく。紬と継母は納得できず、最後まで不満をぶつけてきた。

 もう二度とここに帰ってくることはない。

 憎しみに満ちた視線をぶつけられ、紲はなんとも言えない気持ちになる。

「その体ではなにかと不自由だろうから、今日から天明の館で暮らすといい。結界も十分に張っている」

 馬車がゆっくり動き出し、車内で彼から切りだされた言葉に、紲はぎこちなく頷く。

「ありがとう……ございます」

 どうやら彼は紲の身を案じ、天明家で匿うために、あの場で結婚などと言ってくれたらしい。納得して、かけられた外套の袷の部分をぎゅっと握った。

「あの……私、このような姿ですが、家事も一通りできますし、使用人扱いでかまいません。なんらかの形で恩返しいたしますので」

 ただで置いてもらうわけにはいかない。きちんと役に立たなくては。

「その必要はない」

 しかし紲の想いとは裏腹に、はっきりと拒否される。小さく肩を震わせ、ならばどうすればいいのか必死に考える。

「言っただろう。紲は私の妻として天明家に迎え入れるつもりだ」

 ところが、侃彌から続けられた言葉に紲の頭は真っ白になった。わずかな沈黙のあと、紲は小さく首を横に振る。

「で、ですが私は能力がないばかりか、体もこのように――」

 言いかけて突然、侃彌が紲の両頬を包むように手を添えた。額が重ねられ、至近距離でふたりの視線は交わり、彼のかすかに青みがかった虹彩が揺れるのがわかるほど近い。

 次の瞬間、信じられない出来事が起こる。

「え?」

 手足が伸び、視界がやや高くなる。身長よりも大きかった外套が体に添い、髪も伸びた。七つほどの少女の姿だったのに、どういうわけか元の年齢の体に戻っている。

「な、なぜ?」

 侃彌から離れ、紲は自身の手をまじまじ見つめ、顔に触れる。

「お前のその姿も、鏖月に霊力を奪われていることに起因していると考えて、物は試しにと、私の霊力を分けたんだ。だから、生憎一時的なものだ」

 なるほど、と理解するのと同時に同時に考えが考えが別の角度に移る。

「で、では私に霊力を分け与え、天明様は大丈夫なのですか?」

 切羽詰まる問いかけに、侃彌は苦笑する。

「大丈夫、ではないな」

「そ、そんな……どうすれば?」

 霊力は各々の持つ力の質も量も異なるが、無限ということはない。

 顔面蒼白になっていると、侃彌がくっくっと喉を鳴らして笑いだす。

「冗談だ。この程度、なにも問題はない」

 謀られたと気づき、怒るよりも先に安堵する。これ以上、迷惑をかけるのは御免だった。

「よかった……です」

 ホッと胸を撫で下ろしていると侃彌に抱きしめた。

「いつか私がすべてを取り戻す、紲の力も体も。だからなにも心配せず、私のそばにいたらいいんだ」

 安心させる声に、紲の涙腺が再び緩みだす。

「……だからって、あなた様の妻でいる必要はありますか?」

 戻った暁のことを考えているのなら、あまりにも不確実だ。鏖月の正体も恐ろしさも計り知れない。

「あるさ。言っただろう、私には紲が必要なんだ」

 侃彌は腕の力を緩め、紲と視線を合わせる。

「余計なことは考えず、堕ちた霊は祓えばいい。そう教えられてきたし、正直今もその考えはあまり変わっていない。それが自分の使命であり、天明家に生まれた宿命だと私は信じて疑わなかった」

 強い霊力を持ち、名の通る天明家は知っていても、侃彌自身のことはなにも知らない。紲は彼の話に耳を傾けた。

「だが、紲に言われて改めて思ったんだ。私の進む道は、己の意思なのかと」

『とはいえ、あなたにはあなたの考えがあるでしょうから……』

 侃彌はそっと紲の頬を撫でた。

「私は紲みたいに、己のやり方に対して、信念も大事にするものもない。孤独だと感じるのは間違いで、認めるなどありえない。でも、そういった弱さや自分の甘さも全部受け止めている紲が眩しく感じたんだ」

 そう言って、侃彌は軽く微笑むと、納得したようにかすかに頷いた。

「そうだな。私もきちんと向き合おう。天明家が引き継いできたものだからと、己の意思を放棄するのは。これからは自分の行いに、自分で責任を持つ。だから、天明家の次期当主である前に天明侃彌というひとりの人間として、紲にそばにいてもらいたい。私にはない、お前の強さに惹かれたんだ」

『でもね、紲の優しさや力は、きっと誰かの助けになるから』

 私は、誰かの力になれる? 私の力は関係なく、必要としてもらえる? 同じ孤独を背負う彼と寄り添っていけるのかな?

 目の端から涙がこぼれ落ち、侃彌の手を濡らす。天明家の当主とか関係ない、絶望に落ちそうになった自分を掬い上げてくれたのは、彼自身だ。

「私でよかったら……どうかおそばにいさせてください」

 小さく呟くと、侃彌は穏やかに笑った、。初めて見る彼の表情に胸が高鳴る。

 子どもの姿のときは、紲は“せつな”と名乗ることになった。侃彌が作った護符の包帯を首に巻き、鏖月の烙印を隠して、少しでも効力を抑える。

 なにもかも偽りだ。けれど、侃彌がこうして紲として接してくれるおかげで、紲は希望を捨てずに前を向ける。

 どんな暗闇に覆われそうになってもしっかりと掴まえてくれる、この手があるからだ。