それからしばらくし、て祖父――当主より、紬と天明家の次期当主である天明侃彌の縁談の話が舞い込んだ。
 信じられないのは紲だけではなく、継母も義妹の紬も同じだった。

「なんで? どうしてこの人が侃彌さまの相手なの? 私は生まれたときからずっと可惜夜家の人間として生きていたのに!」

「紬、落ち着きなさい。ご当主が決めたのよ……。とはいえ、納得がいかないのも無理はないわ。可惜夜家の巫女はあなたなのに」

 侃彌に憧れがあった妹の紬は、子どものように感情を爆発させ、紲を責め立てた。必死に継母がなだめるが、火に油を注ぐだけだ。

「じゃあ、なんでこの人が天明侃彌さまの婚約者に選ばれるのよ!」

 それは紲の方が知りたい。しかも紲はこの縁談をまったく望んでいない。相手も同じだろう。

「あの、私ではなく紬さんにと、先方にお伝えしていただけたら……」

「馬鹿にしないでよ! おじいさまが決めたことに口出しなんてできないわよ!」

 それは紲も理解しているが、だからこそ責められても、なにもできない。

「私に譲る気なら消えてよね! この家からも、私たちの前からも」

「紬、落ち着きなさい!」

 紲はそっと部屋を出た。紬の言葉が何度も頭をよぎり、膝を抱える。

 そうよね、ここを出て行こう。

 女学校も卒業して二十歳も見えてきた。可惜夜家に来たときはなにもできない子どもだったけれど、今は違う。自分の人生は自分で決めたい。

 心に決め、密かに紲は家を出ていく準備を始めた。

 とはいえ、継母や義妹はともかく、侃彌には、なにも言わなくてもいいのだろうか。

 紬ではないが、恥をかかされたと思われるのは本意ではない。可惜夜家と天明家の関係に傷が入るのも。

 可惜夜家には、ここまで育ててもらった恩は感じている。不義理な真似は極力避けたい。

 迷いつついつものように社にお参りに行き、手を合わせる。

 お母さん。私、どうすればいいのかな?

 かすかな物音が聞こえ、振り返る。現れた人物に、紲は目を瞬かせた。

「天明、様」

「紲か」

 ためらいもなく名前を呼ばれ、動揺が隠せない。それを顔に出さないように必死に抑え、質問する。

「なぜ、こちらへ?」

「ここは天明家の管理する土地だからな」

「そ、そうなんですか?」

 彼の返答に、紲は違う意味で狼狽える。てっきり館のすぐ裏なので、可惜夜家のものだとばかり思っていた。

 勝手に敷地内に入っていたのは自分の方だったと、血の気が引く。

「も、申し訳ありません。私は――」

「べつに咎めるつもりはない」

 そこで沈黙が走る。風が凪ぎ、しばし迷った末、紲は切りだした。

「あの……縁談の件なのですが、可惜夜家には私よりふたつ年下で器量もよく美人と評判の妹がおります。能力も受け継いでおりますし、天明様の相手なら私より妹の方がよろしいかと……」

「関係ないな」

 あっさりと一蹴され、紲は押し黙る。紲がこの縁談を自分でどうにもできないように、彼だけの問題ではないだろう。

「そう、ですよね。天明様の意思は関係なくご当主が決めたことですし……」

 それでも彼は、結婚に対しては決められたことと受け止めているようだ。

 やはり自分が消えるしかないのかもしれない。

「誰がそんなことを言った?」

「え?」

 ところが、彼は不服そうな表情を見せた。

「この縁談は誰の指図も受けていない。私が自分の意思で紲を相手に希望したんだ」

 目を見て真っ直ぐに告げられる。射貫くような眼差しは、なにもかも見透かされそうで怖くなる。

「な、ぜ?」

「私には、お前が必要だと思ったんだ」

 わからない。彼の意図も本音も。

 けれど、そんなふうに言ってもらったのは初めてで戸惑いが隠せない。

「冷えてきたな。そろそろ戻った方がいい」 

「あ、はい」

 なんでもないかのように話題が変わり、おかげで突き詰める間もなく頷く。

 思ったよりも嫌われていないのかな?

 結婚に夢も希望もないし、想い人もいない。そもそも想い人と結ばれることの方が珍しい時代だ。結婚は親が決め、家のためにするものというのがまかり通っている。

 望まれているのなら、天明様と結婚してもいいのかもしれない。

 ほんのりと心の中が温かい。恋心と呼ぶには大袈裟かもしれないが、淡く芽生えた気持ちを紲は大切にしたいと思った。