紲が可惜夜家にやってきて十年が経とうとしている。
少女だった紲は成長し、背も髪も伸びた。女学校での勉強にも励み、成績も上から数えた方が早い。異性に声をかけられることもあるが、軽くかわす。目鼻立ちがはっきりしている顔は、記憶の中の母に似てきたと感じることもった。
たびたびこっそり屋敷を出て、小さな社のある裏山に足を運び、お参りする。ここは社も木も生きていた。
着物にブーツを履き、行き慣れた道を進む。どちらかというと、こちらの方が子どもの頃に暮らしていた場所に近く、懐かしく感じた。
木々の葉が色づき、もうすっかり秋だ。季節の移り変わりをゆっくり堪能する暇もない。
社でお参りし、空を見上げる。
お母様に会いたい。でも会えないということは、お母様は無事に光の方へ行ったということなんだ。
そうやって自身を納得させていたら、ふと奥の方に気配を感じる。草木を分けてそちらに歩を進めていくと、和服姿の青年が降り下ろした状態で刀を右手に持ち、木の根元を見下ろしていた。
すらりと背が高く、中世的な綺麗な顔立ちだが、その目はおそろしく冷たい。まとう空気が肌に突き刺さる。彼の見つめる先の木の根元には黒い塊があった。
紲は直感的に悟る。それが元は人であったもので、彼がなにをしようとしているのかも。
「消すのですか?」
思わず問いかけると、男は視線をこちらに向けないまま呟く。
「悪いものは祓う。当然だ」
容赦ない声に、なにかがずきりと痛む。彼が刀を振り上げた瞬間、紲は声を張り上げた。
「待ってください!」
叫んだのと同時に、男の前に立ちはだかる。
「なんのつもりだ?」
男は眉根を寄せ。紲を睨みつけた。しかし紲は質問に答えず、黒い塊と向き合う。
「大丈夫……大丈夫よ」
そう言って彼女が手をかざすと、絡まった糸がほどけるように黒いものが小さくなっていく。男は紲の行動に目を瞠った。
「なにも怖くない。ここは神力に覆われて霊道にもつながりやすいわ。あなたは悪くないから……恐れずに光の方へ進んでいきなさい」
優しい声で訴え、そっと撫でる仕草をすると、小さくなった黒い塊は、やがて光になり弾けた。風がそよぎ葉擦れの音と共に、その場の空気がさっと軽くなる。
「あの」
「今回は上手くいったかもしれないが、そのやり方はいずれ身を滅ぼすぞ」
話しかけようとしたら強く言い切られ、紲は目を丸くした。
「身を滅ぼすって」
「生者と死者の線引きをしっかりしておくべきだ。奴らは所詮人だったもの。甘い顔をするとつけ入れられる」
これは祖父にも忠告を受けた。紲も理解しているし、弁えてはいるつもりだ。
しかし継母や義妹のやり方に紲は疑問を抱いていた。対話など必要ない。依頼なり、悪いとされているものは、さっさと消す。そうすれば周りには感謝され、可惜夜家の名も上がる。しかし紲はそこまで割り切れない。
「そうかもしれません。でも、私は私のやり方を大事にしたいです。悪いものだって排除しようとする側も、きっとなにかしらの理由があるんだと思います。でも、悪いものとされる側も好きでなっているんじゃない。苦しんでいるなら、私はそちらも助けたいです」
『でもね、紲の優しさや力は、きっと誰かの助けになるから』
母の言葉が、今も胸に残っている。
「とはいえ、あなたにはあなたの考えがあるでしょうから……」
啖呵を切ったのはいいものの、あまりにも押し付けだったかとわずかに後悔する。
「そんなことをしても報われない方が多いだろう」
あきれたような口調だが、先ほどよりも、いささか声が柔らかい。
「普通の人が見えない、人ではないものを見えるのはある意味、孤独ですから。助けるつもりで自分が救われたいのも事実です」
同情も憐れみもいらない。すべて自分のためだ。
「浄霊ができる人はたくさんいますが、私は私だけですから」
だからこそ、可惜夜の家で過ごす日々が苦しくなる。そこで紲は誰にも言わずに出てきたことを思い出した。
「ごめんなさい、あなた様の邪魔をして。私はこれで失礼します」
さっさと館に戻ろうと視線を帰り道の方に移す。
「……名前は?」
ところが名前を尋ねられ、紲はいぶかしがりながらも答える。
「紲と申します」
あなた様は?と尋ねようとして、やめる。彼が何者なのかは、薄々と感付いていた。男の着物には月に星の月紋が刻まれている。あれは天明家のものだ。
「天明侃彌だ」
名乗られ予想通りと思う前に、驚きで息を呑む。
天明家をこの辺で知らない者はいない。不動産業で財をなし、爵位も持つ名だ。さらには可惜夜家よりも高い霊能力を持ち、そのおかげで軍や政治にも口を出せると聞いている。
しかし、まさか相手が天明家の次期当主とは。義妹の紬は会ったことがあるらしく、彼の能力の高さや外貌についての讃美は聞いていた。
「紲、か」
確認するように、さり気なく名前を呟かれ、反射的に頬が熱くなる。
「し、失礼します」
踵を返し、急いで駆け下りていく。無礼な振る舞いだっただろうか。もしも自分が可惜夜家の者だと知られ、咎められるようなことがあれば、祖父や継母からなにを言われるか。
私は――可惜夜の名前なんていらないのに。
だからさっきも名乗らなかった。
噂には聞いていたものの、天明家の次期当主を見たのは初めてだ。見た目の美しさからは想像もできない冷たさ。おそらくあの一太刀で、自我を失った黒い霊は一瞬で消えただろう。
でもそれは、おそらく彼が、彼の一族が対峙してきた者たちが、自分とは比べ物にならないほど大きく、忌々しく黒い存在もあったからなのかもしれない。
『そのやり方はいずれ身を滅ぼすぞ』
そう、かもしれない。でも、それでもいい。どんなに能力を評価されても、それはあくまでも可惜夜の名声になるだけで、紲自身を見てくれる人はいない。だったらせめて、自分の納得のいくように生きよう。今の人生は、紲にとってあまりにも孤独だった。
少女だった紲は成長し、背も髪も伸びた。女学校での勉強にも励み、成績も上から数えた方が早い。異性に声をかけられることもあるが、軽くかわす。目鼻立ちがはっきりしている顔は、記憶の中の母に似てきたと感じることもった。
たびたびこっそり屋敷を出て、小さな社のある裏山に足を運び、お参りする。ここは社も木も生きていた。
着物にブーツを履き、行き慣れた道を進む。どちらかというと、こちらの方が子どもの頃に暮らしていた場所に近く、懐かしく感じた。
木々の葉が色づき、もうすっかり秋だ。季節の移り変わりをゆっくり堪能する暇もない。
社でお参りし、空を見上げる。
お母様に会いたい。でも会えないということは、お母様は無事に光の方へ行ったということなんだ。
そうやって自身を納得させていたら、ふと奥の方に気配を感じる。草木を分けてそちらに歩を進めていくと、和服姿の青年が降り下ろした状態で刀を右手に持ち、木の根元を見下ろしていた。
すらりと背が高く、中世的な綺麗な顔立ちだが、その目はおそろしく冷たい。まとう空気が肌に突き刺さる。彼の見つめる先の木の根元には黒い塊があった。
紲は直感的に悟る。それが元は人であったもので、彼がなにをしようとしているのかも。
「消すのですか?」
思わず問いかけると、男は視線をこちらに向けないまま呟く。
「悪いものは祓う。当然だ」
容赦ない声に、なにかがずきりと痛む。彼が刀を振り上げた瞬間、紲は声を張り上げた。
「待ってください!」
叫んだのと同時に、男の前に立ちはだかる。
「なんのつもりだ?」
男は眉根を寄せ。紲を睨みつけた。しかし紲は質問に答えず、黒い塊と向き合う。
「大丈夫……大丈夫よ」
そう言って彼女が手をかざすと、絡まった糸がほどけるように黒いものが小さくなっていく。男は紲の行動に目を瞠った。
「なにも怖くない。ここは神力に覆われて霊道にもつながりやすいわ。あなたは悪くないから……恐れずに光の方へ進んでいきなさい」
優しい声で訴え、そっと撫でる仕草をすると、小さくなった黒い塊は、やがて光になり弾けた。風がそよぎ葉擦れの音と共に、その場の空気がさっと軽くなる。
「あの」
「今回は上手くいったかもしれないが、そのやり方はいずれ身を滅ぼすぞ」
話しかけようとしたら強く言い切られ、紲は目を丸くした。
「身を滅ぼすって」
「生者と死者の線引きをしっかりしておくべきだ。奴らは所詮人だったもの。甘い顔をするとつけ入れられる」
これは祖父にも忠告を受けた。紲も理解しているし、弁えてはいるつもりだ。
しかし継母や義妹のやり方に紲は疑問を抱いていた。対話など必要ない。依頼なり、悪いとされているものは、さっさと消す。そうすれば周りには感謝され、可惜夜家の名も上がる。しかし紲はそこまで割り切れない。
「そうかもしれません。でも、私は私のやり方を大事にしたいです。悪いものだって排除しようとする側も、きっとなにかしらの理由があるんだと思います。でも、悪いものとされる側も好きでなっているんじゃない。苦しんでいるなら、私はそちらも助けたいです」
『でもね、紲の優しさや力は、きっと誰かの助けになるから』
母の言葉が、今も胸に残っている。
「とはいえ、あなたにはあなたの考えがあるでしょうから……」
啖呵を切ったのはいいものの、あまりにも押し付けだったかとわずかに後悔する。
「そんなことをしても報われない方が多いだろう」
あきれたような口調だが、先ほどよりも、いささか声が柔らかい。
「普通の人が見えない、人ではないものを見えるのはある意味、孤独ですから。助けるつもりで自分が救われたいのも事実です」
同情も憐れみもいらない。すべて自分のためだ。
「浄霊ができる人はたくさんいますが、私は私だけですから」
だからこそ、可惜夜の家で過ごす日々が苦しくなる。そこで紲は誰にも言わずに出てきたことを思い出した。
「ごめんなさい、あなた様の邪魔をして。私はこれで失礼します」
さっさと館に戻ろうと視線を帰り道の方に移す。
「……名前は?」
ところが名前を尋ねられ、紲はいぶかしがりながらも答える。
「紲と申します」
あなた様は?と尋ねようとして、やめる。彼が何者なのかは、薄々と感付いていた。男の着物には月に星の月紋が刻まれている。あれは天明家のものだ。
「天明侃彌だ」
名乗られ予想通りと思う前に、驚きで息を呑む。
天明家をこの辺で知らない者はいない。不動産業で財をなし、爵位も持つ名だ。さらには可惜夜家よりも高い霊能力を持ち、そのおかげで軍や政治にも口を出せると聞いている。
しかし、まさか相手が天明家の次期当主とは。義妹の紬は会ったことがあるらしく、彼の能力の高さや外貌についての讃美は聞いていた。
「紲、か」
確認するように、さり気なく名前を呟かれ、反射的に頬が熱くなる。
「し、失礼します」
踵を返し、急いで駆け下りていく。無礼な振る舞いだっただろうか。もしも自分が可惜夜家の者だと知られ、咎められるようなことがあれば、祖父や継母からなにを言われるか。
私は――可惜夜の名前なんていらないのに。
だからさっきも名乗らなかった。
噂には聞いていたものの、天明家の次期当主を見たのは初めてだ。見た目の美しさからは想像もできない冷たさ。おそらくあの一太刀で、自我を失った黒い霊は一瞬で消えただろう。
でもそれは、おそらく彼が、彼の一族が対峙してきた者たちが、自分とは比べ物にならないほど大きく、忌々しく黒い存在もあったからなのかもしれない。
『そのやり方はいずれ身を滅ぼすぞ』
そう、かもしれない。でも、それでもいい。どんなに能力を評価されても、それはあくまでも可惜夜の名声になるだけで、紲自身を見てくれる人はいない。だったらせめて、自分の納得のいくように生きよう。今の人生は、紲にとってあまりにも孤独だった。