――ヒトミや。おまえさんもまた、北海大陸の原住民、カイムの緋き血を引いているのだぞ。

 カイムの民。それはかの国が国として機能する以前から暮らしていた住民たちのこと。すべてのはじまりである始祖神と不老不死の女神である至高神が気まぐれに産み落とした神々が独自に築き上げた北方の集落に暮らす人間のこと。
 本島にどっしりと居座る国興しの息子神と異なり、北海大陸の統治を任された子どもたちは個性的で国という組織に興味を抱かず、かの国の神皇(しんのう)である佳国(よしくに)――後の国祖と呼ばれるようになった息子神の血縁者――によって同じ『かの国』と呼ばれるようになったという経緯がある。
 そのため、同じ国内でも北海大陸の神話は独特だとされている。生まれた頃からこの土地にいる瞳にとってみればそれは当たり前のことだったが、大学で民俗学を専攻したことで、その異様性を痛感し、さらに深みに入り込んでいくことになったのである。

 ――葉幌には雨の神、雲桜(くもざくら)には花の神、そして蒼谷には狼の神……

 その土地の所以を示す土地神のことは大学で学んでいるため、瞳には馴染みのある言葉の羅列がつづく。
 けれどパラパラと本をめくりはじめて数分、瞳はあることに気づく。

「……雪の白峰、水の身神を軸とした八綾家、併せてこれら九つの家すなわち旧家と定めたり……やっぱりこれ、蒼谷旧家のことだ」

 旧家は九家。かつては八つの(かばね)を持つものたちが白峰と名乗った狼神とともに統治していた蒼谷は、狼神が姿を消した後も蒼谷を彩る八綾家(はちりょうけ)として恩恵を受け、現在は地主などへ転身している。
 とはいえ、人口流出や衰退などから先祖代々の土地を手放し旧家から脱落した一族もあり、旧家として残っているのはいまでは『三上』をはじめとした三つのみだ。
 それでも分校に通う生徒たちの多くはそんな蒼谷にゆかりのある人間ばかりだ。旧家の存在が小さくなろうが分家にあたる人間が集落の人口の大部分を占めている。
 瞳の名字である『各務原』も蒼谷旧家がひとつ『石動』の分家だ。けれど旧家から離れた分家は狼神と直接関わっていないため、先祖代々の記録をあたっても歴史的価値のあるものは見つからない。瞳が学生時代に研究したカイムの民たちの信仰についてもなかなか資料が見つからず苦労したものだ。

「月ちゃんの資料があったから卒論として成り立ったとも言えるもんなぁ。旧家に取り合ってもきっとそんな貴重なモノよその人間に見せられるかって門前払いされちゃうわよ」

 学生時代に出逢えた貴重な元旧家のお嬢様を思いだし、瞳は嘆息する。
 三十年ちかく前に息苦しい蒼谷から姿を消した一族『月離野(つきりの)』。彼らがなぜ出ていったのか詳細はわからないが、卯月が海に姿を消した時期と重なっていることを考えると、そこに答えがあるとみていいだろう。
 旧家のしがらみを絶ったことで姓を『月村』へ改めた子孫と知り合え友人になることが叶った僥倖が、瞳のいまへ繋がっている。 
 そんな瞳の根本にあるのは祖父が家族を呼んで死を前に口にした詮無きことだ。

『神嫁たる原始のうさぎを厄神の生贄にするくらいなら、枷を破って追い出してしまえ』

 病に冒されていた彼の言葉は、遺言としてではなく、妄言として処理された。あまりにも滑稽で、突拍子もなく物騒な言葉だったからだと両親は呆れていたけれど……
 神嫁。原始。うさぎ。厄神。生贄。
 なぜかそれらの言葉が離れない。
 もしかしたら棺にあの本を入れるよう祖父が言い残したのかもしれない。瞳以外の人間に、これ以上の知識を与えないため。

「考えすぎよね」

 ぶんと首を左右に振って、瞳は思考を振り払い、本の世界へ入り込む。