「緋月。……前もそう呼んでいました?」

「――はい」

その返答は空っぽだった私の頭の中に一滴の色を落とした。

前も名前を呼ばれていた気がするが、どうも物足りなさがある。

モヤがかかって顔が見えないのに、やさしい響きだけは記憶として耳を刺激した。

なんだかくすぐったくなり、私はもじもじして彼から離れると向かい側で正座をした。


「あの……私のこと、時羽と呼んでましたよね?」

「えっ……?」

キョトンとする彼に私は顔が熱くなり、両手を前に出して首を激しく横に振った。


「そんな気がしただけです! ……ごめんなさい」

小恥ずかしさに手を引っ込めて、膝を上で丸く握る。

彼の顔を直視出来ないと、緊張に縮こまってしまった。


「それは……ほとんど呼ぶことがなく」

「どうして?」

「姫はよくお屋敷を抜け出していました。そこで姫と……」

そこまで口にして、彼は「いや」と口元に手をあて、切なげな眼差しを私に向けてきた。

青い瞳の引力に私はつい顔をあげて彼と目を合わせてしまった。


「あまり聞かないでください。過去のことに縛られる必要はありませんから」

「そっ……そんなこと言われても。自分のことなのにわからないなんて……不安で」


過去がわからない。

彼はそれを語る気がない。


私だけが何もわからなくて、彼と私がここで向き合っている関係性に名前をつけられなかった。

このさみしさはなんだろう。

どうして私は彼に切なさを覚え、何も知らないことに悲しくなるのか。

それを訴えても、きっと彼は答えないだろうと言葉を飲み込んだ。


「でしたら時羽と」

指先が震える。

右手で左の指先を握り、向き合い方に迷う私に明確な今の立ち位置がほしかった。

「姫と呼ばれるのは少しさみしいんです。あまり私と感じられなくて……」

「――時羽」

ひゅっと息をのんで、すぐに私に直接声が届く。

身体中の熱が顔に凝縮されたかと思うくらい、その響きに震えた。

「……姫」

だからこそ、間を開けて”姫”がついてしまったことにガクッとうなだれた。

ドキドキしたのに恥じらう顔だけ見られたと、ぷくっと膨らみそうな頬を両手で隠した。

「どうして姫をつけるんですか?」

「恥ずかしいんです。……ですが、頑張ってみます」

「はい。そうしてくださると私、うれしいみたいです」

目を覚ます前の自分は断絶されたかのように空白だ。

記憶はなくても感情は残っているようで、”時羽”と呼ばれると切実な想いが満たされる気がした。

たぶん、私は彼を好意的に思っていた。