「俺は緋月(ひづき)といいます。あなたは時羽(とわ)姫です。関係は……」

そこまで言っておきながら彼は言葉を飲み込んで、淡く微笑むだけだった。


(緋月……さん。私は時羽、姫? 姫って……)

「姫って何ですか? どうしてあなたとのこと、言うの止めたのですか?」

疑問があふれ、私は急きって問い詰めてしまう。

対面するや早々に遠慮がないものだから、彼は一瞬困惑を見せてすぐにクスクスと笑い出した。

「ははっ……! 姫はせっかちですね」

「せっかちって……だって私、今なにもわからないもの!」
「はい。……わからなくていいです」

(なに、それ……)

スパッと切り捨てられた感覚にうら悲しくなる。

わからなくていいなんて、そんな風に言われるのは嫌だと私は手を引っ込めた。


「わからなくていい、なんて言うのはどうしてなの? ……何も思い出せないなんて。すごく不安で」

口にした途端、感じてた以上に不安でいっぱいだったと自覚した。

後ろに振り返ってみれば光の差さぬ暗闇。

こんな暗い洞穴のなかで私は何をしていたのだろう。

薄気味悪さに鳥肌がたち、私は後退って暗闇から目を背けた。


「ここは暗い。一緒に人里へ降りてくれますか?」

自分がどこにいるかもわからない状態で、頼りになるのは彼だけだ。

不安に立ちすくみそうなのに、彼は怖くないと前のめりに手を伸ばす。

その手を掴まれると、見上げるほどに背の高い彼の胸に顔をぶつけた。


「えっ……と。ひ、緋月さん?」

「少しだけ。……少しでいいから」

頬が熱い。

唇がうすく開き、すぐに丸めて唾を飲み込んだ。

彼の胸板を越えて少し早めの鼓動を耳にした。

たぶん、彼は相当緊張しているのだろう。

抱きしめる腕は強張っており、少しだけと言いながら力加減が狂っていた。

(不安が溶けていく。怖くないなんて、不思議)

おそらく彼とは心許した関係だったと思われる。

そうでなくては見知らぬ人に抱きしめられて、悲鳴一つも出てこないのはおかしい。


何もわからない私の、何かを知っている人。

言わないのは、何も言いたくない意志の表れ。

いや、言いたくないのか言えないのか。

それを聞くことさえ戸惑われるほど、彼の抱擁には切実な想いがあった。


「下ります。……ここは少し怖いです」

月明かりとよくわからない照明では心もとない。

彼の顔も鮮明に見えず、ちゃんと日の下で見てみたいと彼の着物の袖を掴んだ。