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そして卯月二十九日、約束の日より一日早いお別れ。

その日は曇りのち晴れ。

私は彼に連れられ、遠い血縁者となる夜司(よつかさ)家に引き取られることになった。

和洋折衷のお屋敷で中年夫婦と娘が笑顔で歓迎してくれた。

人のよさそうな雰囲気だが、娘の凪子は特に喜んでくれているようで目があうとニカッと歯を見せて笑った。


「こら、凪子! 淑女はそんな大口で笑いませんよ!」

「いってー。今さらムリだろ! 下町育ちが染み付いてんだから!」

「な、凪子、やめなさい。時羽さんが驚いてしまう」


お転婆というか、豪快というべきか。

髪を短く切りそろえ、矢絣柄の着物に袴と今どきの女学生に見えるがよく見れば足は大きく開いており、顔も小麦色でそばかすが多い。

富裕層の人はキレイな手をして、色白で、身振り手振りも小さい。

この家族はどうも小奇麗にすることに慣れていないようで、苦労の影が見えた。

「時羽さん、すまないね。うちは元々下町に暮らしてて。緋月様のおかげで今、こうして生活が出来ているんだ」

夜司の主人が腰を低くしておだやかに微笑み語る。

「……そう、なのですか?」

隣に立つ彼に顔を向けるが、彼はにっこり笑うだけで答えなかった。


「せっかくですからお茶でもいかがですか? 長旅でお疲れでしょう?」

「いえ、俺はこれで……」

「あら、そうですか……。時々、お顔を見せに来てくださいね。時羽さんも喜びますから」

「……時羽様をよろしくお願いいたします」

夜司家に着く前から彼はやけに口数が少なかった。

私が声をかけても上の空で、彼の早足に対し私の足取りは重くなるばかりだった。

心臓が握りつぶされるかと錯覚するほどに痛い。

彼が私の前に立つと、スッと手を伸ばしてくる。

直視出来なくなった私はつい、ビクッとしてしまい肩をすくめてしまった。

頬に触れそうだった彼の手はゆっくりと降ろされ、頭上で吐息に紛れた微笑みを感じた。


「お元気で。どうか平穏に、時羽様が自由に生きれることを願っております」

「ぁ……」


最後まで彼の声はやさしくて、私の心を束縛する。

蚊の鳴くような声しか出ず、去っていく彼の後ろ姿が涙で歪み、遠ざかっていく。


どうして、どうしてと、わかっていたのに急に見放された気分になってしまう。

この日が来るのを知って、いざ当日を迎えれば彼はあっさりといなくなってしまった。


追いかけたかった。

行かないでと彼の背に頬を寄せたかった。

だけど彼のうら悲しそうな赤い瞳が”追ってくるな”と拒絶を示し、私の足を地面に縫いつけた。


彼が見えなくなるまで私は泣き続け、一歩も動けなかった。

曇り空の下、坂道で彼が見えなくなった途端、私は膝をつき顔を覆ってさめざめと泣いた。


「おい……。大丈夫か?」

凪子が隣にしゃがみこみ、私の背を不器用に擦ってくれた。

肝心な時に私は怖がって何もしない。

あれだけ強い拒絶を示されれば、私は彼のためにもこうするのが正しい。

はじめから”一か月”の約束であり、それ以上は彼が一緒にいられないと言った。


私と彼を繋いだ一か月。

以前の私がほとんどいない、約束のひととき。

結局、私は彼が何者かわからないまま、声もあげられずに泣き暮れた。