これは常世の何処かに存在する別世のお噺。
そこに生きる人族は、八百万の神々を崇め、妖を畏れる暮らしと共に在った。
彼らを祀る社を司る一族に生まれ、特異な能を持つ人族の女は『尊巫女』と呼ばれる。
彼女達は十八になると、神々の住む神界に向かうという因習が、遥か昔からあった。彼らの神力を借りる梯子と成るのが責務である。
神族と人族の混血である、その地を統べる長に認められれば、子孫繁栄の為の伴侶になる。否な場合は贄となり、その地の一族に喰われ力を吸収されるという、至極、酷な契約だった。
生物……特に人は、何かしらの不幸に遭う事、災厄に襲われる事を恐れている。それは、命ある者の本質だろう。
どこの国でも世でも、それは――変わらない。
曇天の空から、ふわ、と頬に落ちた冷たい華。気づいた一人の巫女装束の少女が、そっ、と嬉しそうに手を伸ばした。
「アマリ様 お客様でございます」
「申し訳ございません。今、参ります」
初雪と戯れる少女は、背筋を伸ばし、凛とした面持ちの尊巫女に変わる。境内の建物に戻っていった彼女には、これから重要な『仕事』があるのだ。
彼女――アマリは、社を司る一族の生まれだが、尊巫女の中でも極めて稀な異能を持っていた。
楚々とした素朴な顔立ちだが、陽光が当たると京紫に透ける、濡羽色のゆるやかな長い髪。淡い瑠璃色の円らな眼という、彼は誰時を思わせる風貌は周囲を魅了する。が、稀と謂われるの理由は、それだけでは無かった。
「奥様。本日はいかがなさいましたか?」
落ち着きある白檀の香がほのかに漂う、檜を基に造られた八畳程の畳屋。自分よりもずっと年長者の依頼人と向かい合い、正座する。
温もりと安寧ある空間の中、しっとりとした澄んだ声で語りかけ、雅やかな微笑をアマリは浮かべた。純白と朱の巫女装束に、京紫の羽衣を纏う出で立ちは、正に神職者と言った印象だ。
彼女の面談式の『施し』は、ある理由で頻繁に行えない為、付加価値で高額になっていた。
今日の依頼者は、都の重職に就く男の奥方だ。政略婚だったが運良く良縁で、仲睦まじい夫婦だったらしい。しかし、長年が経つにつれ熱も情も次第に冷め、すれ違いが生じて思い悩み、体調を崩したのだという。
「……お嫌いになられたのでございますか?」
固くなっていた夫人は、静かに首を振った。
「お見受けしたところ、ご主人様の嫌な面ばかり気に障るのでは」
「アマリ様。私に非があるとでも仰るのですか?」
少し荒立てた素振りで問う夫人に、アマリは穏やかな態度を崩さず、続ける。
「いいえ。誰しも精神が疲弊すると、良くない方に目がゆくものです」
ぴくり、と顳かみが微動した様子を確認し、アマリは白魚のような右手を掲げた。眼を閉じて精神統一し、祈りを捧げると、ほのかな虹色の光と共に、一輪の花が現れた。
素朴な淡い瑠璃色の――亜麻の花だ。
「花能は『あなたの親切に感謝します』でございます。手に取って、ご主人様にして頂いて嬉しかった事を思い出してみて下さい」
花を手にした夫人は、泣き出しそうな面持ちになった。微かに肩が震えている。夫の事をまだ好いている。だから仲違いをしては苦しむのだと考えた。そんな心情を宥め、癒していくように、夫人の掌の中で亜麻の花は朧気に瞬き、溶けてゆく。
アマリが召喚した花は、花言葉が具現化する力――『花能』に変わり、依頼人の心に深く、授かるのだ。
「落ち着かれましたら、もう一度、ご主人様に今のお気持ちを話してみてはいかがでしょうか。因みに、この花の精油には、滋養に良い成分が含まれております。お身体の疲労は精神にも障ります。ご自愛もなさって下さい」
「アマリ様……‼ ありがとうございます‼」
両手を合わせながら首部を垂れ、夫人は何度も礼を言った。彼女の帰路を見送った後、絹地の座布団に座り込み、アマリは足を崩した。僅かな汗が額に滲んでいる。
「アマリ様。大丈夫ですか」
「いつもの事です。少し疲れただけですよ」
彼女の能力は、自身の生気を利用し、その力を変換することで発揮される。故に、施しを受ける者は限られている。その事は侍女も承知だった。複雑そうに微笑み、労るように言う。
「亜麻の花、美しゅうございました。今の季節に見られるのも、アマリ様のおかげでございます。……お名の由来でもございますね。瞳のお色に合わせて『亜麻璃』……素敵です」
「ありがとう」
微笑を浮かべ、丁寧に会釈する。いつか両親にその事を聞いた時は嬉しかった。だが、その名に隠された裏の意味を、下女の噂話で知ってしまった時の、裏切られたような絶望感は忘れられない。
茶を淹れると告げ、侍女はその場を離れた。一人になったアマリは、ぽつり、と呟く。
「……『殿方と婚姻する』って、どんな感じなの……?」
先達者のように説いているが、依頼者の悩みを実際に経験した事は無い。相手の心情を感知し、それに合わせた力を授けるという、全て異能ありきなのだ。
自分には縁の無い事だとは判っていた。この社に関するもの以外の世界を、彼女は知らない。知らないまま、間もなく人生の終わりを迎える。
「一刻程後、次のお客様がいらっしゃいますので、ご一服下さいませ」
毎回耳にする侍女の同じ言葉。そんな状況でも、今まで通りの一日が変わらず繰り返される。何事もないように。これからも無いかのように。
尊巫女の中でも、稀な異能を持って生まれた亜麻璃の一生は、十八になったばかりの冬までと……先日、決まった。
「アマリ。お前のいき先が決まりました」
数日前の夜更け。アマリの暮らす離れに、両親が揃って訪ねて来た。次に会う時は、その時が来た事を告げられるだろうと覚悟はしていた。
幼少は神々や一族の昔話を寝物語として乳母から、物心ついてからは自身の責務と宿命を、師範から説かれている。
神の伴侶となるか、その一族の贄となるか。いずれにしろ、この屋敷や両親、弟妹達の元には、二度と帰って来られない。先に旅立った姉が、そうだった。
「……どちらの神の方の元へでしょうか?」
姉の婚姻の結末を、彼女は知らない。異能の力が強くなった、物心がついた頃、本堂から離れた『施し』を行う一室に一人置かれた。それから十年程、侍女が世話に来るだけの暮らしに変わり、親姉弟と疎遠になったからだ。
情が希薄な家だったが、そんな扱いをされたのはアマリだけだ。彼女は、ずっと疎外感と孤独感に苛まれていた。
「妖厄神です」
「⁉」
様付けすらしない、神に対する称とは思えない呼び方。両親だけではない。皆、似たような概念で彼を見て、呼んでいる。
長年隔離されていた世間知らずのアマリでも、とんでもない状況だということは判る。唖然とした面持ちを隠せない彼女に、形式的に父が語った。
「この役目は、お前にしか果たせない。頼む」
「解って頂戴。これは貴女の宿命です」
母は神妙な形相で迫るように乞う。さすがに両親の意図が解せず、狼狽した。
「……ですが、何故……?」
尊巫女としての威厳を忘れ、声が震える。その神の元にゆく事は、伴侶にされる道は絶たれるという、酷な事実を意味していた。