それは突如舞い降りた出来事だった。
力強いギターの音色が耳に入り、思わず音のした方へ視線を向ける。
そこには、汗をたらしながら勢いよくギターを弾く美しい男がいた───。
***
学校の廊下を歩いていると、人とぶつかった。
「あっ、すまん」
俺は反射的に謝った。
けれどぶつかってきた相手の方は俺に見向きもせず、ずんずんと歩いて行ってしまう。
感じの悪いやつー。
俺は細身の後ろ姿を見つめながら心の中でそう思った。
***
「あ、日向。おせーよ、パン買いに行くだけでどんだけ時間かかってんだ」
教室に入ると、廊下側の一番後ろの席に座っていた航平が愚痴をこぼす。
「あー、すまんすまん。ちょっと女子たちに捕まっちゃって」
「ちぇー。また女かよ」
航平が吐き捨てるように言う。
俺は苦笑いを浮かべてその場をやり過ごした。
昼休みが終わると、次の授業は体育なので男子たちが続々と着替え始める。
俺も体操着に着替え、航平とともに体育館に向かった。
体育館に着いて上履きに着替え、中に入ると俺が来るタイミングを見計らっていたように女子たちが駆け寄ってきた。
「日向君! 今日もバレー、楽しみにしてる!」
「日向君って本当にかっこいい~。まじヤバい」
キャッキャッと騒がれて俺は内心うんざりする。
けれどそんな感情を表に出すわけにもいかず、俺は笑みを貼り付けて女子たちの相手をした。
「はは、ありがと~。バレー頑張るね」
俺がそう言ったところでチャイムが鳴り、整列するために移動する。
体育委員の俺は準備体操が始まる前に前方へ行き、全員に声をかけた。
「白瀬基準、体操体系に開け」
俺の言葉に、一年生全員が広がり始める。
その中に、誰よりも無気力なやつに視線が留まった。
あいつは確か──渡辺聖月。
今日の昼休み、廊下で俺にぶつかってきたやつだ。
体操が終わり、本格的に体育の授業が始まった。
バレーをするためのコートを設営し、六人グループを作る。
俺のジャンプサーブで試合が始まった。
試合を見守る女子たちから「きゃ〜!」と歓声が上がる。
そんな中、俺の視線はある人に向いていた。
六人の中で一人だけ、だるそうに突っ立っている男。
長い前髪で顔はよく見えず、ひょろりとした高身長の男はさっきから動こうともしない。
「おい、そこのでけぇやつ。ちゃんと動いてくれ」
相手チームの男子が渡辺に向かって指示した。
名前を知らないのか、あるいは覚えていないのか、渡辺のことをでけぇやつと言った男子。
渡辺は僅かに反応して、一歩前に踏み出した。
それからすぐに渡辺にボールが飛んでいき、それを渡辺がレシーブする。
軽やかなタッチに、腕がボールをはじいた軽快な音が響き、ボールはセッターに向かって綺麗な弧を描いて飛んでいく。
なんだ、上手いじゃん。
ネット越しに渡辺を見ていた俺は、拍子抜けした。
全く動く素振りを見せなかったから、運動が苦手なやつなのかと思っていたのに。
「日向、冷水機のとこ行こーぜ」
試合が終わり、体育館の床に座ってタオルで汗を拭っていた俺に航平が声をかけてきた。
「おー」
俺はよいしょと立ち上がって航平とともに体育館の外に出る。
夏の蒸し暑い空気が俺の体にまとわりつく。
「あーっ、うめえ! やっぱ冷水機の水は何にも代えがたい最高の冷たさがあるわ~」
服の袖で口元を拭った航平が冷水機に対する愛を語っている。
俺も冷水機で水を飲み、喉を潤した。
「なあ、航平」
それから少し気になったことを訊こうと声をかける。
「ん?」
「渡辺聖月ってやつ、知ってる?」
「渡辺? 誰それ、今初めて聞いた」
「そっか」
俺は軽く頷いて瞼を伏せた。
「え、渡辺が何? 気になるんだけど」
「いや、気にしないで」
自分から聞いたくせにそう言うのはさすがに悪いと思ったけれど、結局言わないまま体育館に戻った。
体育館では一年生が和気あいあいとバレーをしている。
楽しそうな笑い声やホイッスルの音が響く中、人の輪から外れ、ぽつんとしている男子がいた。
俺は思わずそいつをまじまじと見つめてしまう。
そして、あの日のことを思い出す。
人々の歓声、息ができなくなるほどの熱気、そして──。
自由に、軽快に鳴り響くギターの音色。
目を閉じればあの甘い重低音が耳の奥から聞こえてくる。
「なあ──」
気づけば俺は渡辺に声をかけていた。
「……何」
長い前髪からのぞく双眸が俺をまっすぐに見つめている。
筋の通った高い鼻、綺麗な形をした唇。目元は前髪に覆われているから見えないというものの、渡辺が整った容姿をしているというのは近くで見るとよく分かる。
だけど纏う雰囲気とか、長い前髪のせいで学校ではあまり目立っていないイメージだ。
俺はそこで我に返り、思いついた言葉を適当に並べた。
「今日さ、俺とぶつかったの覚えてる?」
「……は? 急に何。覚えてねえけど」
「そ、そっか」
そこで会話終了。背中につー、と冷や汗が垂れる。
なんで話しかけたりしたんだ俺は……っ!
今更後悔したところでもう遅い。
意味が分からないという顔で俺を睨みつけている渡辺から視線をそらす。
「なんで俺に話しかけてきたわけ? そんなくだらない質問するためにわざわざ?」
うっ、なかなかにきつい言葉を言うやつなんだな。
俺は少しだけダメージを食らう。
「そ、そうだよ! それに、なんつーか、ほぼ無意識に話しかけてたというか……」
「こわ」
「……っ、だよなあ~。俺もそう思うよ」
俺から興味を失ったように視線を床に落とした渡辺はそれ以上言葉を発することはなかった。
「なあ、渡辺。金曜の夜、渋谷にいたりしなかったよな」
「……え」
渡辺が肩をビクつかせ、驚いた顔で俺を見た。
戸惑ったような瞳が、緊張して少し顔が強張っている俺を映している。
俺はごくりと唾を呑み込み、渡辺からの返事を待つ。
渡辺の震える唇から発されたのは、
「俺の名前、知ってんの?」
期待外れの返答に、一気に肩の力が抜けた。
「え、うん」
「……なんで?」
なんでって、それは。
「普通にクラスメイトだから」
俺は渡辺の目をまっすぐに見つめて答えた。
「……ふーん」
それを聞いた渡辺は俺からふいっと視線をそらしてぼんやりと遠くを見つめる。
一体何を見ているのだろう。
なぜか気になって、俺は渡辺が視線を向けている方向を振り返った。
そこには楽しそうにバレーをする同じ学年の生徒たちがいる。
みんな笑顔で、本当に楽しそうだ。
また渡辺に視線を戻すと、渡辺は遠くを見つめるような目をしていた。
「おーい、日向~! 次試合だから準備しろー!」
遠くから航平の声が聞こえてくる。
それを聞いても俺はその場から動けなかった。
「……呼ばれてるみたいだけど。行かなくていーの?」
日向、というのが俺の名字だと知ってか知らずか、渡辺が不愛想に呟く。
「……あ、それじゃあ。ごめんな、急に話しかけたりして」
俺は詫びの言葉を言ってから航平のもとへ駆けて行った。
***
「日向、お前さ。体育の時間あの前髪長えやつに話しかけてただろ」
放課後。部活に行くためにサッカーのユニフォームに着替えていると、航平が突然そんなことを言ってきた。
「前髪長いやつ……ってああ、渡辺?」
「日向、あんな地味なやつと面識なんかあったのか?」
航平が不思議そうに訊いてくる。
「いや、ないけど……。体育の時は、偶然話すことになっただけだよ」
我ながらきつい言い訳だと思った。
けれどそれしか思い浮かばないんだから仕方ない。
航平は不審そうに俺を見つめてきたけれど、すぐに興味を失ったのか「まあいいや」と口にした。
俺はそのことにほっと胸をなでおろす。
それから校庭に向かい、夜遅くまで部活に励んだ。
***
金曜の夜。俺は部活を終え、そのままバイトへ向かう。
「あ、日向君。ちょうどよかった。今混み具合がすごくて人手が足りなかったのよ~」
裏口のドアから店の中に入り、全身消毒をしてエプロンを付けていると、店長がスタッフ休憩スペースに入ってきた。
「あ、店長。お疲れ様です」
俺はぺこりと頭を下げる。
「お疲れ様~。日向君、すぐに調理台に立てそうかしら?」
「はい」
休憩スペースを出て、調理室に向かう店長に続く。
「オーダーの量ものすごいから大変だと思うけど……大丈夫かしら?」
俺は店長の言葉にオーダーを見るためのタブレット画面を覗いた。
「ああ、全然大丈夫です。このくらい、へっちゃらです」
「日向君……! 心強いわ。本当にありがとう」
店長にぺこっと頭を下げた後、俺はタブレットに表示された料理を下から順に作っていく。
「これ、五番テーブルにお願い」
完成した料理を受け渡し口に置いて、ホールの人に声をかける。
グラタンやコーンスープ、いちごパフェやガトーショコラなど、様々な料理を一つずつ丁寧に作っていると、時間はあっという間に過ぎていった。
「日向君、お先に失礼するね」
俺と同じ調理担当の麻衣さんがそう言って調理室を出て行く。
「お疲れ様です」
俺はその背中に向かってそう言った。
***
時刻は二十時半。バイトが終わり、外に出ると真っ暗な空が頭上に広がっていた。
俺が住む東京は大都会ということもあって、星は一つも見えない。
そのまま家に直帰しようと思ったけれど、あることを思い出して渋谷駅に向かった。
駅に続く路肩で、人が群がっているのが視界の端に映る。
もしかして、と思いそこに向かうと、そこにはギターを肩から下げた男が沢山の人に囲まれるようにして佇んでいた。
「……っ」
心臓がドクンと高鳴る。
先週の金曜日、この場所でギターを弾いていたから今日ももしかしてと軽い気持ちで来てみたら、本当にいるものだから驚いた。
視線の先にいる彼が深く深呼吸して、一拍置いた後に力強い音色を響かせた。
その音に俺は心臓をわしづかみされたような心地になる。
何にも縛られない、自由な音色が夜の都会に力強く響く。
街の騒音にかき消されることなく、彼の音が聴衆を虜にしている。
俺もその音色の虜になっている一人だ。
一音も聞き逃したくなくて、必死に耳を澄ます。
曲が終盤に差し掛かり、低い重低音が俺の耳を焦がす。
最後は甘いバターが溶けるようなしっとりとした音色を響かせて、演奏が終了した。
聴衆が歓声とともに盛大な拍手をする。
俺もその中で気持ちを込めて大きく拍手をした。
俺から離れた距離にいる男が口元にマイクを寄せてぶっきらぼうに「ありがとうございました」と言った。
その男から目が離せずにいると、バチッと視線が交わる。
思いもよらぬ出来事に、俺は息の仕方を忘れてしまう。
数秒見つめ合った後、ふいっと視線を逸らされて、そこでようやく俺は呼吸を再開した。
演奏終了後の熱気に包まれて、頬が熱くなっているのが分かる。
俺は一つのものしか見れなくなったようにその男から視線が逸らせない。
──やっぱりあの人、渡辺に似ている。
長い前髪からのぞく切れ長の瞳。中性的な顔立ち。
頬に汗が垂れ、地面に落ちていく光景がスローモーションで視界に映る。
「……っあ、あの!」
渡辺の時と同じように、俺は衝動的にその男に声をかけていた。
男は一瞬目を見開いた後、すぐに無表情になり「……なんすか」と返す。
「あなたが奏でるギターの音色、俺すげえ好きです!」
まだ人がたくさんいる中で声を張り上げてそう言った。
こんなの、ほぼ告白のようなものだ。言い切ってから、謎の満足感と少しの後悔に襲われる。
男はまじまじと俺を見つめた後、やはり「あざっす」とぶっきらぼうに返した。
だけど俺はその一言だけで胸がいっぱいになる。
高揚感が膨れ上がって、名の知れない感情が心の奥底から湧き上がってくる。
「じゃ、じゃあこれで。急に話しかけたりしてすんませんでした」
俺はこれ以上目を合わせていられなくなって、頭を下げてその場を去ろうとした。
そんな俺の背中に、低い声で信じられない言葉がかけられる。
「……また金曜日、ここでギター弾いてるから」
俺は反射的に振り向いて、その男と目を合わせた。
……それは、また聴きに来てもいいってこと?
そんな質問が喉から出かかって、すんでのところでそれを嚥下する。
さすがにおこがましい質問だ。口にするのはやめておこう。
「は、はい……っ!」
声が思いっきり裏返ってしまった。
そんな俺に男は目を丸くして、目尻にしわを寄せて微笑んだ。
とにかく色気がものすごくて、そのあまりの美しさに視線が釘付けになる。
──先週の金曜日、この場所で抱いた感情と全く同じものを抱く。
言いようのない感情が膨れ上がって、息が苦しくなる。
俺は名前も知らない男から目を逸らし、踵を返した。
それから地を蹴って家への道のりを走り出した。
この逸る気持ちの正体が俺の心の中で見え隠れしている。
だけどこの感情に名前をつけるのはまだ怖くて、俺は気持ちをかき消すために全速力で夜の都会を駆け抜けた。
***
月曜日。昇降口で上履きに履き替えていた渡辺と出くわした。
「あ、……」
渡辺を見ると、昨日ギターを弾いていた男を思い出す。
俺の考えすぎだと思うのだけど、二人はどことなく似ている。
俺が何も言えずにいる間に渡辺は上履きに履き終えて、俺に背中を向けてさっさと歩いて行ってしまった。
俺は小さくため息を吐いた後、上履きに履き替えて教室に向かった。
昼休み。購買にパンを買いに行き、今から教室に戻ろうとしていた時。
一年生の花壇の前に、渡辺がしゃがみ込んでいるのが見えた。
俺は足を止め、少し考えた後渡辺の方に近づいていく。
「……」
俺の足音が聞こえたのか、こちらに視線を向けた渡辺が訝しげに俺を見た。
「渡辺。隣、いい?」
「……」
俺は無言を肯定と受け取り、少し距離を開けて渡辺の隣に腰を下ろす。
そして口を開けて吐息をこぼした。
最近ずっと訊いてみたかったことが喉元まで出かかっている。あとはそれを口に出すだけだ。それなのに、それがずいぶんと難しい。
「渡辺ってさ、……」
でも、ここで訊かなかったら渡辺と話すタイミングなんてなかなかないだろうし、きっと後から後悔する。
そんな気持ちが俺の背中を後押しして、俺は渡辺をまっすぐに見つめて訊いた。
「──渡辺、昨日渋谷駅の近くでギター弾いてた?」
心臓がドクドクと鼓動を速める。
渡辺は微かに瞳を揺らして、俺から目を逸らして花壇を見つめた。
それから短く、返される。
「いや」
渡辺は嘘をついているようには見えなかった。
仮に嘘をついていたとしても、どうしてそんな嘘をつくのだろうと思ってしまう。
ギターを弾いていることは、別に悪いことでもないのに。
「……、そっか」
俺はそこで思い至る。
そういえば昨日の男は、綺麗な金色の髪をしていた。だけどどことなくその男と渡辺を重ねてしまうのは、二人のまとう共通のオーラがあるからだろう。
目の前の渡辺は真っ黒な黒髪で、髪もボサボサだ。前髪を上げてくれない限り顔もよく見えないし、必然と目立たない。
するとどこからか、その前髪を上げたいという衝動に駆られる。
渡辺の顔に無意識に手を伸ばし、その髪に触れようとしたその時。
「お前、そうやってすぐ行動に移そうとするの、やめろ」
二人きりの空間で、渡辺が俺の腕を掴むパシッという音が響いた。
俺を睨みつける渡辺を、息を呑んで見つめ返す。
───『……また金曜日、ここでギター弾いてるから』
今の渡辺の声と、昨日のギターの男の声が今まではまらなかったパズルのピースのようにパチンッと重なった。
「渡辺、やっぱり昨日、渋谷駅の近くにいただろ」
俺は百パーセントの確信を持って渡辺に訊く。
渡辺はゆらりと瞳を揺らした後、はあーと大きなため息をついた。
「バレた? 俺があの金髪野郎だってこと」
渡辺の低い声が俺のすぐ近くで聞こえる。
渡辺は前髪をくしゃりとわしづかみして、そのまま前髪をかき上げた。
かつらのようなものが地面に落ちて、光に反射して透明に見える金髪があらわになる。
初めて見た渡辺の顔が、あのギタリストと重なって───。
そして、唇にあたたかな何かが触れた。
その瞬間、俺は目を見開く。
「俺に惚れてるんでしょ、お前」
そう言ってにやっと笑った渡辺に、視線が釘付けになる。
今、渡辺が俺に、キス、した……?
信じられない思いでいっぱいで、俺は混乱してしまう。
「な、なんで……っ」
「だって、先週の金曜も先々週の金曜も、あんなに熱い目で俺のこと見つめてたでしょ。好き以外、なんかあんの」
透き通るほど透明で綺麗な瞳にとらわれて、俺は何も言えずに硬直してしまう。
俺が何も言い返さないのを肯定と受け取ったのか、渡辺が面白そうに口角を上げる。
俺は今すぐにでも弁明しようと口を開いた。
「す、好きなんて……そんなんじゃないよ! ただ、渡辺が奏でるギターの音色に惚れたっていうか、いや、違う! 俺は渡辺に憧れてんだ」
「ははっ、すげえ必死じゃん」
渡辺が顔をくしゃっとさせて笑う。
そんな笑顔に、俺はまた視線をそらせなくなってしまう。
渡辺が俺に視線を向け、綺麗な形の唇に人差し指を添えた。
「俺がギター弾いてること、みんなには秘密ね。後、俺がほんとはこんな容姿だってことも」
その言葉には、強制的に従わせるような力があった。名のしれない重力に頭ががくんと下がって、俺は頷いてしまう。
そんな俺に、目の前の渡辺は満足そうに微笑んだ。
***
渡辺と秘密を共有するようになってから、俺は妙に渡辺を意識してしまう。
───『俺に惚れてるんでしょ、お前』
そんな台詞が耳にこだまして、俺はブンブンと頭を振る。
渡辺はああ言っていたけど、俺、男が好きなわけじゃないし。これまでだって何人かの女子と付き合ってきたし。そもそも、男を好きになるなんて想像もできないし。
渡辺を好きじゃない理由を並べれば並べるほど、それは単なる言い訳のように思えてきて、俺は一人羞恥に頭を抱えた。
「ひーなたっ!」
席に座って悶々としていた俺に急に抱き着いてきた航平。
突然のことに驚いた俺は「うおっ」と前のめりになる。
「びっくりした、いきなりなんだよ」
俺は後ろを振り向いて航平の体を引き離す。
「……日向、お前さ。またあのでけえやつと花壇のとこで話してただろ。俺、この目で見たんだぞ」
航平が俺に詰め寄るように声を低くして言ってくる。
「……っ、そ、それがどうしたんだよ」
必死に平静を装うけれど、俺は内心心臓の動悸が収まらないほど焦っていた。
もしかして、渡辺の金髪姿を見られたんじゃないか。
そんな不安で胸がいっぱいになる。
「いや、別に? 最近あいつのこと訊いてくるし、なんか親しげに話してるしでちょっと気になってるだけ」
航平はいつもと変わらぬ様子で言った。
俺は唇を震わせて、口を開く。
「渡辺を見て、どう思った……?」
「どう思ったって……あいかわらず前髪長くて目立たないやつだなって思った」
航平は思ったことをストレートに伝えてくるやつだから、きっと嘘はつかない。
それがどうしたんだよ、ときょとんとした表情で訊いてくる航平は、おそらく渡辺の金髪姿を見ていない。
そのことにほっと安堵した俺は一気に緊張の糸がほどけた。
「俺からも質問いい?」
「な、何」
「日向と渡辺ってどういう関係? 今まで話したこともなかっただろ? なのになんで最近話してんの」
航平が興味津々といった感じで訊いてくる。
航平にとっては何気ない質問だったのかもしれないけれど、俺にとっては深く頭を悩まさなければ答えられないことだった。
俺と渡辺の関係、か……。
しいて言うなら、渡辺がギタリストで俺が渡辺のファンで。
だけどそのことは俺と渡辺の間での秘密だから親友の航平にも言えない。
「俺が一方的に話しかけてるだけだよ。今はとくに名前をつけられる関係ではない、かな……」
そう口にすると、何かがすとんと胸に落ちた。
今の俺と渡辺のいる地点が明確になったからだろうか。
「日向が一方的に? なんだそれ」
航平は意味が分からないという顔をして俺を見つめてくる。
まあ、無理もないだろう。
自分で言うのもあれだけど、俺は渡辺とは違って結構目立つグループにいる人間だ。対する渡辺は、いつも一人でいることが多い。
「まあ、なんだっていいじゃん」
俺は少しやけくそになって投げやりに答えた。
そんな俺を航平が少し驚いた顔で見つめている。
なんとなく、渡辺との間にあった出来事を何一つ話したくないと思う自分がいた。
この感情が一体何なのか、俺はまだ知らない。
***
部活を終えると、俺は母親に頼まれていたことを思い出してばあちゃんの家に向かった。
ばあちゃんの家は都心部から少し離れたところにある。
俺は自転車を走らせ、都会の中を通り過ぎていく。
都会から抜けると、辺りは住宅地一色になり、どこか静かな雰囲気をまとっていた。
十分ほど自転車を漕ぐと、ばあちゃんの家が見えてきた。
築六十年はありそうな古い民家。
「ばあちゃーん、来たよー」
奥にいるであろうばあちゃんに声をかけた。
今日は母さんに、ばあちゃんが俺に会いたがってるから会いに行ってやれと言われて来たのだ。
ばあちゃんが出てくるのを待っていると、奥から出てきたのは全く見知らぬ人で──。
そして、その人の姿を目にした瞬間、俺は冗談抜きで息ができなくなった。
なんで、どうして。
そんな感情の波が次から次へと押し寄せる。
「よう」
ぶっきらぼうに俺に声をかけてきたやつは、澄ました表情を浮かべた渡辺聖月だった。
「なんで渡辺がここに──」
「あっ、海ちゃん~。わざわざ来てくれたんだね、ありがとねえ」
ばあちゃんが呑気な顔で奥から出てくる。
渡辺がいることに何の違和感も抱いていない様子だ。
「あ、千代さん。在庫の仕入れ、終わりました」
「ありがとうねえ、聖月君。ほんと助かるよ」
二人が何かについて会話を交わしている。けれど俺は状況が把握できないまま、置いてけぼり状態だ。
「あ、あの……二人とも。俺、この状況が全く理解できてないんだけど。てか、なんで渡辺が俺のばあちゃんの家にいるわけ?」
頭の中には無数のハテナが浮かび、そのせいか俺は早口になり語気を荒げた。
「あらまあ。海ちゃん、聖月君から聞いてないの?」
「聞いてないのって、何を?」
ばあちゃんに対してした質問に、渡辺が声を被せるようにして答える。
「俺がこの駄菓子屋でバイトしてるってこと」
渡辺がそう答えたが、意味がわからなかった。
まるでここでバイトしていることが当たり前かのように話す渡辺に俺はますます混乱してしまう。
「は⁉ 渡辺、ここでバイトしてんの⁉」
「あらまああらまあ、海ちゃん、知らなかったの? 聖月君も、もうとっくに海ちゃんに話しているものだと思っていたよ」
ばあちゃんが驚いた表情で口元を抑える。
「いや、千代さん。俺たち、クラスメイトなだけであって初めて話したのはつい最近なんです」
渡辺がばあちゃんに俺たちの関係を伝える。
それを聞いたばあちゃんは「そうだったの……てっきり仲が良いのかと思っていたわ」としんみりとした空気で言った。
そんなばあちゃんをフォローするためか、渡辺がまた口を開く。
「──でも、俺たち、最近仲良くなり始めたんです」
そう言った後、渡辺がちらっと俺の方を見る。
その瞳からは、その言葉が本心かどうかは読み取れない。
「あら、そうなの? それは嬉しいわあ。うちの孫の海ちゃんと優しい聖月君が友達になってくれたら、ばあちゃん本当に嬉しい」
「はは、俺、優しいっすかね?」
そんな二人の会話がだんだんと遠くなっていく。
俺だけが一人取り残されていくような感覚に少し寂しさを覚える。
俺は会話に入れないまま、複雑な心境でばあちゃんの家を後にした。
***
「──海ちゃんって、日向のあだ名?」
帰り道。唐突に問いかけてきた渡辺にぎょっとする。
思わず渡辺の方を見ると、俺をからかうような楽しげな瞳をしていた。
だけど、それよりも俺が注目したいことは渡辺が『日向』と俺の名字を口にしたことだ。
初めて名前を呼ばれて、言葉では言い表せない感情が心の泉の中から湧き上がってくるような心地に包まれる。
「う、うん。俺の下の名前、海人っていうから」
やや緊張気味にそう返す。
「知ってる」
その言葉に、心臓がドクンと跳ねる。
渡辺は、自分が発する一言一句に俺がどれだけ振り回されているか知っているのだろうか。
「えぇ、そうなの? 俺の名前自体知らないと思ってた」
俺がそう言うと、渡辺は一瞬きょとんとした顔をして、頬を緩ませて言った。
「だって日向、目立つじゃん。日向の名前を聞かない日はないくらい」
渡辺は俺から視線を逸らし、前を向いて歩く。
カラスの鳴き声が夕暮れ時の雰囲気を連れてくる。
空は鮮やかなオレンジ色に染まり、淡いグラデーションがそこにゆったりと存在している。
心がほっとする光景に目を瞬かせ、俺は隣を歩く渡辺の横顔を盗み見た。
「日向ってさ。誰にでも分け隔てなく接するやつだよな」
どこか遠いところを眺めながら、渡辺が口を開く。
俺はその言葉にどう返そうか悩む。
「……案外そうでもないかもよ。俺、基本自分が興味あるやつとしか話さないから」
「へぇ。じゃあ日向は俺に興味があるんだ?」
……っ、しまった。今、絶対いらんことを言った。
渡辺はにやりと左の口角を上げて楽しげに俺を見つめている。
俺を映すその瞳は、興味があるのかないのかはっきりしろと言いたげだ。
「……っ、そりゃ、あるよ」
「……でも、日向が興味があるのはギターを弾いてる俺なんでしょ」
渡辺の言葉に思わず首を横に振る。
「いや、違う。本当はずっと前から、学校での渡辺のことが気になってたよ」
渡辺が足を止めた。俺もそれに倣って足を止める。
まっすぐに俺を見つめてくる渡辺は、今は変装をしていない。
夕陽に照らされた渡辺の金髪が透明色に映えて視界に映る。
「……、ふーん」
渡辺は気だるげに呟いて、俺との会話に興味を失ったのか俺から目を逸らした。
それからお互い無言になり、住宅地を歩く。
俺が押す自転車の錆びた音だけが静かな空間に響いた。
「……なあ、渡辺」
俺はあることを思いついて渡辺に声をかける。
渡辺は視線だけをこちらに向けた。
「歩いて帰ったりしたら日が暮れるからさ、俺の自転車に乗って帰らない?」
なんでもないように提案するけれど、内心は平静を保つのに必死だ。
「いいな、それ」
渡辺が柔らかく微笑む。俺は目を見開いた。
俺はすぐに渡辺から目を逸らし、心臓の鼓動を聞かれないかとヒヤヒヤする。
自転車にまたがると、後方に渡辺の体重がかかった。
「じゃあ、行くよ」
俺がそう言うと、後ろから渡辺の長い腕が伸びてきて、俺の腰に巻きついた。
「……っ」
心臓の鼓動が加速していく。触れた部分から熱が広がって、やがてその熱が顔にまで到達する。
真っ赤になった俺の顔を見られなくて本当に良かった。
そう思うと同時に、自分が同性である渡辺に対してドキドキしていることに混乱した。
「日向、耳真っ赤」
俺をからかうような口調でそう言った渡辺は、俺の腰を抱きしめる腕にさらに力を入れる。
「ゆ、夕陽が当たってそう見えるだけだから!」
俺は苦しい言い訳を叫んだ。
夜の闇が迫る空の下、俺は後ろに渡辺を乗せて自転車を走らせる。
次第に都心部の明かりが見えてきて、その時ふと思った。
頬が熱いのは夏の暑さのせいなのか、それとも───。
***
一ヶ月が経っても俺たちの関係は変わらなかった。
渡辺が教室で俺に話しかけてくることはないし、俺も話しかけない。それにはある理由があった。
あの日。二人で自転車に乗って帰った日のこと。
『……俺、極力学校で目立ちたくないんだよね』
渡辺から話を切り出すのは珍しくて、俺はその声に耳を澄ませた。
『なんか理由でもあるの?』
『ああ。俺、中学の時に自分の容姿のせいでトラブルを起こしたことがあってさ』
過去の出来事をぽつぽつと話し始める渡辺。
『……一人の女子が、不登校になったんだ。なんか、先生に訊いたら女子間のいざこざだって言われて。クラスの中心みてぇな女子が俺のこと好きだったらしくて、俺とよく話してた川路ってやつが美桜は気に入らなかったんだと思う』
おそらく、クラスの中心的存在の女子っていうのが美桜という人で、川路って人はその子の反感を買った女子なのだろう。
自転車を漕ぎながら渡辺の話を真剣に聞く。
『……だけどさ、それでもいじめをしていい理由にはなんねぇんだよ』
渡辺が悔しそうに下唇を噛む姿が容易に想像できた。
『……そうだね』
俺は小さく相槌を打つ。
『それから俺、極力目立たないように高校入ってからは地味男でいようって決めたんだ。……あんなこと、もう二度と繰り返さないように』
渡辺が苦しそうに声を絞り出して言った。そして、俺の背中に顔をうずめ、泣いているように思えた。
俺は渡辺の話を聞いていて思ったことを真剣に伝えた。
『渡辺は悪くなんてないよ。その子がいじめに遭って不登校になったのも、全部が全部渡辺のせいってわけじゃない』
渡辺は、自分が悪いのだと思い込んでいるようだった。悔しそうな口ぶりからそれがうかがえた。
俺がそう言うと、渡辺は俺を強く強く抱きしめた。
痛いくらいだったけれど、渡辺が受けた痛みに比べればそんなのなんでもなかった。
住宅地を抜け、都心部へ戻ってきた時、洟をすすった渡辺が囁くように言った。
『……あの時俺があいつのことを守ってやれていたら、何か変わったのかな』
それは、誰かに向けたわけではない言葉。
俺はただ静かに渡辺のそばで話を聞いていた。
帰り際、渡辺が少し吹っ切れたような顔で言った。
『俺、なんでこんな話したんだろ』
それは独り言のようにか細くて小さい声だったけれど、俺の耳には届いた。
『……、きっと、ずっと誰かに話したかったんじゃない? 話して楽になることなんて、この世の中にはたくさんあるはずだよ』
俺の言葉に、渡辺は少しの間押し黙り、それからぽつりと呟いた。
『……そっか』
弱々しい渡辺の声を聞いた俺はその時初めて、東京の夜の街でたくさんの人に囲まれながらギターを弾く渡辺とは全く違う、高校一年生としての渡辺を見た気がした。
『それじゃあ、またな。送ってくれてサンキュな』
俺に軽く手を振って細い路地へと入っていく渡辺の背中は、いつもより少し小さく見えた。
***
昼休み。購買にパンを買いに行った帰りに、一人でぼんやりとしている渡辺を見つけた。
周りに誰もいないことを確認して、俺は渡辺に近づいた。
「よう」
軽く手を挙げて渡辺に声をかける。
振り返って俺を見た渡辺は表情一つ変えずに「……ああ」と答える。
「ははっ。『ああ』ってなんだよ。さすがに無愛想すぎないか?」
俺はそう言いながら体育館前の階段に腰を下ろす。
渡辺は手にしていた缶コーヒーの蓋を開けて一口飲んだ。
「別にいいだろ。これが俺なんだから」
「ははっ、確かにそうだな」
俺がそう返すと、渡辺がジト目で俺を見つめてきた。
「え、何……?」
「いや、……。ただ、何がそんなに面白いんだろって思って」
「それは、渡辺と話すのが楽しいからだよ」
俺は思ったことをそのままストレートに伝えた。
以前だったら簡単には言えなかったことが今は言える。それは、俺と渡辺の仲が少しだけ深くなったからかもしれない。
「……あっそ」
渡辺はそう呟いてそっぽを向いた。
「なあ、渡辺。明日からさ、一緒に昼食べない?」
今までずっと、学校で話してみたいと思っていたのだ。
俺からの提案に渡辺が僅かに目を見開いて、冷たい目をして俺を見た。
「いや、遠慮しとく」
渡辺から見えない壁を作られたような気がして、俺は逸る気持ちで諦めのなさを発揮する。
「じゃじゃあ、週に一回だけ!」
渡辺ともっと話したい。そんな気持ちが俺の口を開かせる。
「それも無理」
頑なに俺の願いを断る渡辺に、俺はあることを思い出した。
それと同時に、渡辺が口を開く。
「前に言ったと思うんだけど。俺、目立ちたくねえの。それに日向みてえなモテ男と一緒にいたら必然的に目立つことになるだろ」
俺が思い出したことと全く同じことを話す渡辺。そして、渡辺の中での俺の認識が『モテ男』ということに驚いた。
てっきり渡辺は俺のことを一切知らないものだと思っていた。
「……渡辺ってさ、もしかして俺のこと結構知ってくれてる感じ?」
かすかな期待を込めて訊く。そんな俺に渡辺が面倒そうな表情をしてから、言った。
「ここまで一方的に話しかけられれば、誰だって相手のこと知りたくなるだろ」
それって、渡辺が俺のことを知りたいと思ってくれているってこと?
あえて明らかに話さない渡辺に、なんだかくすぐったい気持ちになる。
「へーえ。聖月君は俺のことを知りたいって思っているのか〜」
普段は俺の方がからかわれることが多いから、俺はここぞとばかりに渡辺をからかう。
「やめろ。からかうんならもう一生昼一緒に食べてやんないから」
渡辺の言葉に俺はぎょっとしてすぐに謝る。
「ごめん! もう一生からかわないから。だからそれだけは勘弁して~」
胸の前で両手を合わせて懇願する。
そんな俺を横目に、真顔だった渡辺は突然ふっ、と吹き出して声を上げて笑った。
「ははっ、そんなに必死になるなんて、お前馬鹿みてえ」
くつくつと肩を震わせて笑う渡辺を俺は凝視してしまう。
渡辺がそんなふうに楽しく笑うとこ、初めて見た。
なぜか分からないけれど頬に熱が集まって、渡辺が笑っている姿を見て気持ちが満たされていく。
──俺、この気持ちの正体、分かったかも。
今まで見て見ぬふりをして気づこうとしなかっただけで、本当はあの日、渡辺がギターを弾く自由な姿に惚れていたんだ。
「……これが一目惚れ、か」
渡辺聖月が好き。
そのことにようやく気づいて、放心状態になってそう呟いた俺に「ん?」と渡辺が首を傾げる。
幸い、今の一言は渡辺の耳には届かなかったようだ。前に渡辺が言っていたことを思い出す。
───『俺に惚れてるんでしょ、お前』
「……~~っ」
最初は否定していた。だけど今になってようやく気持ちを自覚して、言葉にならない声が漏れる。そして、あの日渡辺が俺にキスをしてきたことを思い出す。
今まで普通に接していた俺と渡辺だけど、俺たちはキスをした仲なんだ。
時間差で恥ずかしさが襲ってきて、渡辺の顔を見れなくなる。
「何、どうした。お前なんか変だぞ」
ぶっきらぼうだけど、俺を心配してくれているのが分かる声音に胸が温かくなる。
「……っ、いや、なんでもない」
渡辺は俺のことをどう思っているんだろう。
どうしてあの時、俺にキスなんかしてきたのだろう。
嫌いな相手だったり、何とも思っていない相手にはキスなんかできないはずだ。
ということは、俺は少なくとも渡辺にとって心を許せる近しい存在になれてる……?
「いや、なんでもなくないな」
渡辺は俺を逃がしてはくれないみたいだ。
かつらの前髪からのぞいた綺麗な瞳が俺をとらえて離さない。
俺は心を決めて口を開いた。
「……っ、なんであの時、俺にキスしたんだ?」
返答が怖くて、俺は渡辺の顔を見れなくなってしまう。
渡辺はしばらくの間無言になった後、息を吸って答えた。
「なんかいいなって思ったから」
たったそれだけの言葉で、俺の心は簡単に揺さぶられる。
「ぇ……?」
「俺をまっすぐに見つめてくる熱のこもった眼差しも、誰のことも差別しない気さくさも、クラスのやつらから愛されてるところも、なんかいいなって思ったから」
渡辺の色白の頬がほんのりとピンク色に染まっている。
渡辺は俺のこと、そんなふうに思ってくれていたんだ……。
驚きと嬉しさと、混乱が入り混じって感情がぐちゃぐちゃになる。
「だからさ、日向。また俺のギター、聴きに来てよ」
渡辺が俺を見つめて、照れくさそうに笑った。
***
金曜日。この日になると、必ず思い出すことがある。
───『だからさ、日向。また俺のギター、聴きに来てよ』
そう言って柔らかく微笑んだ渡辺は、心の中でどんなことを想っていたのだろう。
俺にキスした理由を言葉にして伝えてくれた渡辺だけど、その本心に触れられた感じはしなかった。
俺と渡辺の間にはいつだって薄い壁があって、渡辺は心の奥深くまで俺を入れてくれることはない。
なぜかそう断言できた。
なぜ毎週金曜日、ギターを弾いているのか。
渡辺は何色が好きなのか。どんな食べ物が好きなのか。
家族構成は、将来の夢は、趣味は。
俺は渡辺のことを何も知らない。
対する渡辺も、きっと俺のことを深くは知らない。
なぜなら言葉を交わす機会があまりに少ないから。
もっと渡辺と話したい。近づきたい。知りたい。
渡辺の一部分を知るうちに、俺はどんどん欲張りになっていく。
それは自分でも制御できない感情で、恐ろしささえ感じる。
渋谷駅まで自転車を走らせ、いつも渡辺がギターを弾いているところまで行く。
バイト終わりということもあり、渡辺が奏でるギターの音色がどっと疲れた体に染み渡っていく。
そして驚くことに、今日は渡辺がギターを弾きながら歌っていた。
マイクに唇を近づけて、囁くような甘い低音でメロディを奏でる。
渡辺の作る音色は、人の疲れや悩みを癒す力がある。
演奏が終わり、人がまばらになってきた頃、俺は渡辺に声をかけた。
「お疲れ」
そう言って缶コーヒーを差し出す。
前に渡辺が飲んでいたから、好きなのかもと思って買ってきたのだ。
「サンキュ」
渡辺が少し驚いた顔をした後、すぐに表情をほころばせてコーヒーを受け取った。
「渡辺、今日の弾き語り、凄く良かった」
俺は熱意を込めて渡辺に今の気持ちを伝える。
渡辺は目を瞬かせた後、嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「まじ? 初めて歌うから結構緊張した。日向がそう言ってくれるんなら自信持てる」
渡辺は最近以前よりも丸くなった。
よく笑うようになったし、俺と親しげに話してくれる。
「渡辺の弾くギターの音色が一番好き」
都会の明かりが辺りに浮かぶ中、俺は渡辺に告白に似たことを伝える。
「すげえ嬉しい。ありがと」
ギターをケースに仕舞いながら、渡辺が嬉しそうに返す。
片づけを終えた渡辺とともに帰り道を歩く。
こうやって肩を並べて歩くのは今でもう何度目か。
「明日の体育、だりぃなー」
隣で渡辺がため息とともにそう吐き出す。
「なんで、楽しいじゃん。……あ、」
そこまで言って、俺は渡辺を見やる。
「ごめん、渡辺。渡辺にとっては、楽しくないよな」
「……まあ、最近は日向が時々話しかけてくれるから体育も悪くないよ」
そんな思わせぶりな発言を俺は真剣に受け取ってしまいそうになる。
渡辺の本当の気持ちは今でも分からない。だけど少しずつ俺たちの距離が近づいているというのは肌で感じる。
「ねえ、渡辺。明日のバレー、同じグループにならない?」
俺と一緒に話しているところを見られたら、渡辺は目立ってしまう。
それを承知の上で、それでも渡辺と学校でも仲良くしたいと思ってしまうのだ。
「……うん」
学校での渡辺はいつもつまらなそうにしている。
目立たないように本当の自分を隠すことが渡辺の望んでいることなのだとしたら俺は何もしない。だけど渡辺が本心ではそう思っていないのなら、俺はお節介をかけまくろうと思う。
「なあ、渡辺。渡辺はさ、本当にこのままでいいと思ってるの?」
俺の質問の意図が呑み込めなかったのか、渡辺が困惑した表情で俺を見る。
「このままでいいって、何が?」
「本当の自分を隠して学校生活を送ること」
俺は真剣な眼差しで渡辺を射貫いた。
渡辺の瞳がゆらりと揺らぐ。
街灯に照らされた渡辺の金髪が綺麗に透けて透明色に見える。
もしかしたら渡辺は、まだ過去の出来事から抜け出せていないのかもしれない。
「……そんなの聞いて何になるんだよ」
吐き捨てるように言った渡辺が俺を睨む。
「俺が渡辺の日常を取り戻す。本当の自分を隠して、一人でいる渡辺をもうこれ以上見ていられないんだ」
俺は必死に訴えかけた。だけど渡辺の意思は変わらない。
強く、頑丈な鋼のような決心は簡単に揺らぐことはないようだ。
「……そんなお節介、いらねえよ」
渡辺が俺との間に分厚い壁を落とした気がした。
「俺はこうして金曜日に日向がギターを聴きに来てくれるだけで幸せなんだ」
だけどすぐに、その壁は渡辺の柔らかい声音によって崩れていく。
掴めない性格をしている渡辺。俺はそんな渡辺の気持ちを踏みにじった発言をしたんだ。
渡辺のことをよく知らないくせに、俺は自分の身勝手なエゴで渡辺を傷つけるところだった。
「俺、別に苦しくなんてねえよ。変装してる方が女子に騒がれなくて楽だし。確かに最初は一人でいることに寂しさを感じてたけどさ。今は日向がいるじゃん」
声を弾ませて話す渡辺。その言葉は渡辺の本心だったのだと思う。
「だからさ、日向。俺と週に一回、屋上で昼飯食おう」
渡辺からそう提案してくれるなんて思ってもいなくて、俺の目に涙の膜が浮かぶ。
こんなことで泣きそうになるなんて、俺ってほんと情けない。
「うん、分かった」
高層ビルが立ち並ぶ都会の中、俺たちは小さな約束を交わした。
***
「よう」
振り向けば、そこにはレモンスカッシュを掲げた渡辺がいた。真夏の日差しに淡い炭酸が煌めいて、思わず目を細める。
「うん」
「ははっ、『うん』ってなんだよ」
コンビニの袋を手に提げた渡辺がおかしそうに笑って俺の隣に腰を下ろす。
「渡辺、昼飯そんだけ?」
「え、うん」
「だからそんなに細いのか」
「は?」
俺は渡辺の体をまじまじと見てそう言う。
渡辺は不満そうな顔をして「悪いかよ」と吐き捨てた。
「悪くないよ。ただ、ちゃんと栄養取れてるのかなって心配になって」
「……そっか。急に噛みついたりしてすまん」
渡辺は元気をなくした声で俺に謝ってきた。
俺は慌てて「謝る必要ないって!」と渡辺の肩に触れる。
「俺、時々こういう自分の尖ったとこが嫌になる」
あぐらをかき、屋上のアスファルトを見つめている渡辺はか細く呟いた。
「いいじゃん。そんな渡辺も渡辺らしくて好きだよ」
俺はもうほぼ告白のようなことを口にした。
だけど不思議とそこに恥ずかしさはない。
渡辺は驚いたように目を見開いた後、嬉しそうに微笑んだ。
二人っきりの屋上で昼飯を食べて、他愛もない会話で盛り上がる。
「渡辺。今から質問ごっこしようぜ」
「ふっ、なんだそれ」
「お互いの知らないところを訊いていくってだけのゲーム!」
「ふーん。いいよ、やろ」
渡辺が乗り気なことが嬉しくて、俺ははりきって第一声を口にした。
「じゃあ俺からね。渡辺の好きな食べ物は何?」
「んー、しいて言うならコロッケ」
「え、かわいい! えーと、じゃあ好きな色は?」
「灰色」
「へー、そうなんだ」
俺は少し意外に思いながら相槌を打つ。
「……それじゃあ、渡辺がいつも金曜日、路上でギターを弾く理由は?」
俺は少し緊張して渡辺からの返事を待つ。
「自由になるため、かな。ギターを弾いてる時だけ、俺はありのままの自分でいられるんだ」
「いいね、それ」
俺はにっと笑って渡辺を見つめた。
すると、渡辺の顔が近づいてきて、唇と唇が軽く触れ合う。
目をまん丸くさせる俺を見て、渡辺がいたずらに笑った。
「俺、日向のことが好き」
突然の告白に頭が追いつかない自分がいる。
だけど、それよりも、渡辺が自分の気持ちを伝えてくれたことが嬉しくて、俺は温かな気持ちで胸がいっぱいになる。
「──俺も、渡辺のことが好き」
お互い照れ笑いして、もう一度唇を重ね合わせた。
その時初めて、俺は渡辺という人間の本心にふれられた気がした。
***
渡辺聖月。
最初はそいつがどんなやつなのか全く知らなかった。
だけど一緒に過ごす時間が増えるうちに、自分の中で渡辺の存在が大きくなって、気づいたら好きになっていた。
──いや、違う。
俺はきっとあの日。金曜日の夜。
狭苦しい夜の都会に鳴り響く力強いギターの音色に、心を奪われた。
自由に、軽快に音を奏でるその姿に、まるで拘束から解かれた鳥のように空へ高く舞い上がるほどの高揚感を覚えた。
学校は夏休みに入り、今俺は渡辺の家に遊びに来ている。
付き合い始めてからも無愛想なところは変わらない渡辺だけど、逆にそういうところを俺は好きになったんだと思う。
「なあ、渡辺。渡辺のギター、触ってもいい?」
俺がそう訊くと、渡辺は快く了承してくれる。
渡辺に渡されたギターをそっと膝の上に乗せた。
そして、試しに一度弾いてみる。
ポロン──という不協和音が部屋に響いて、俺は苦笑いをした。
「貸してみ」
渡辺が俺からギターを受け取り、目を瞑って演奏を始める。
何にも縛られない音色は、俺の耳を焦がすほどに美しくて、思わず聴き入ってしまう。
渡辺という一人の人間を知れて、渡辺の弾くギターの音色を好きになって、そして最後は目の前にいるやつのことが大好きになっていた。
人を好きになるのに理由なんてない。
いつの間にかすとん──と恋に落ちるんだ。
渡辺が奏でる綺麗な音色が耳にこだまする。
俺はこれから先も渡辺と一緒にいたいと思う。
その時、渡辺も同じ気持ちでいてくれるかな。
君の音色にふれて、これから先の楽しい未来を想像する。
膨れ上がる想いが渡辺のギターの音色に乗ってどこまでも遠い場所へ連れていかれる。
「ふふっ、やっぱ俺、渡辺が弾くギターの音色が世界で一番好きだ」
満面の笑みでそう言った俺に、渡辺が嬉しそうに微笑んだ。
君の音色にふれる【完】