レディ・カモミールが誕生したのは、わたしの日々の発散の場となったからだった。

 生まれてこの方、お城にお仕えしているものの、衣食住はしっかり備わっているし、礼儀さえわきまえていれば嫌なことだってほとんどない。

 使用人仲間の話によるとここはずいぶん他のお屋敷に比べて恵まれているらしく、さすがは王宮は余裕があるわね、なんて話になることも少なくはなかった。

 他のどこのお屋敷でもない王宮の、しかも王子様の婚約者様のお世話を仰せつかるなんて、脇役(モブ)界の中ではずいぶん恵まれた境遇だと思えた。

 わたしがどのような経緯でこの場所へたどり着いたのかはわからないけど、そんなご縁を与えてくれた記憶にない両親(もしくは育て親)には心から感謝をしている。

 しっかり働いていれば自身の時間も持つことも叶うし、シルヴィアーナ様の侍女になってからは人間関係にも恵まれていて、むしろ閉鎖された空間にいるためか人の目も気にすることはなくなり、さらに生きやすくなった。

 もう少し大きくなったら経験するのかと思っていた物語で見るようなおどろおどろしい侍女たちの下剋上は存在せず、精神面ではへこたれることは全くというほどなかった。

 それだけに、わたしはそんな環境に甘えて暇さえあればお昼寝ばかりしていた生活に終止符を打ち、書庫室で借りてきた書籍を読む楽しさを覚えるようになっていた。

 特に好きだったのはラブストーリーで、現実離れしているものというよりは実世界に近いものを好んで読んでいた。

 ほんの少し背伸びした環境にある主人公やお仕えするお姫様とよく似た環境の主人公に感情移入をして、彼らの体験を追体験しているような気分になれるのがとても楽しかったし、嬉しかった。

 本を読むことは、わたしにとっての生きがいで日課となった。

 毎日毎日、時間が許す限りいろんな作品を借りてきては読むということを楽しんだ。

 徐々にそれらが物足りないと感じるようになったのは、自身が物語でいう『脇役(モブ)』キャラと呼ばれるジャンルの生き物だということに気づいたときだ。

 わかってはいたのだけど、改めて活字として文字を追うことで突きつけられた現実だった。

 どれだけ望んでも、物語のお姫様になれることはない。

 手を差し伸べてくれる優しい王子様がいるわけでも(ああ、ある意味いないわけでもないけど)ない。

 そう気づいたとき、お姫様目線で読む決められたレールの上をただただハッピーエンドに向かって歩き続けるだけの物語に退屈さを覚えるようになった。

 お姫様たちだって……まぁ、お姫様と言ったらシルヴィアーナ様以外のお姫様にはそうそうお目にかかることなんてないのだけど、彼女たちだってこんなにも脳天気で簡単な人生を歩んでいるわけではないのだと今のわたしは知っている。

 シルヴィアーナ様には王子様が迎えに来てくれた。

 いや、正確には王子様は王子様だったのだけど、彼が望んで迎えに来てくれたわけではなく、抗うことのできない運命……というか宿命だったわけで。

 だからこそ思う。

 ヘイデン様はシルヴィアーナ様が望んでいた王子様だったのか。

 それが彼女が望んでいた未来だったのか。

 わたしには到底わかり得ない。

 素敵な王子様と婚約をして、物語ではここからが本番で、ようやく薔薇色の生活が始まろうとしていたのに、それでもシルヴィアーナ様はそんな日々を放棄するかのように心を閉ざしてしまった。

 それが現実だ。

 あの後ろ姿を思い出すとため息が出る。

 お城にこもったままで、どうやったらハッピーエンドにたどり着くのだろうか。

 わずかにあるはずの可能性だって行動しなければ、機会(チャンス)がなければゼロに変わる。

 シルヴィアーナ様はもう、振り返ってはくれないのではないのかとさえ思うことが増えた。

 もうずいぶん長い間、彼女の後ろ姿しか見ていないわたしとしては、現実は物語とは違うのだということを知った。

 加えて、もうひとつ。

 物語の中で一瞬の出番があるかないかわからない『脇役』キャラにだって、彼らなりの物語があることも知っている。

 現に平凡ではあるものの、わたしにだって物語(毎日)はある。

 この日々から何か物語を作ろうとなると面白みのない日記(エッセイ)でしかなくなるとはいえ、少し知恵を使えば書けなくはない。

 平凡で平凡を極めたわたしの日々を知らない人もいるだろうから。

 追体験をしたいとは思わないかもしれないけど、興味はあるかもしれない。

 世の中にはいろんな人がいるのだから知らない世界に興味を持つ人だっているはずだ。

 そんな希望を胸に、読むことに退屈さを覚えたわたしはペンを取り、いろいろな視点から王宮について書き綴るようになった。

 もちろん、ほんの少しの出来事から脚色を加え、現実問題(ノンフィクション)から物語(フィクション)の世界へつなげていくのだ。

 書き始めたらあっという間に時間を忘れた。

 本を読み始めたときのような感動を覚えたのだ。

 物語のキャラクターたちがわたしの指に従わず、自由に動き出す。

 待って待って、とわたしは追いかける。

 こんなにも楽しいことはなかった。

 わたしは夢中になっていた。

 そして、目を凝らしてみると、王宮は面白いネタで溢れかえっていたし、わたしの生活だって考え方を変えるとなかなか面白いものばかりだった。

 レディ・カモミールと名乗るようになったのは、ただただシルヴィアーナ様が唯一わたしの出すもので口にしてくれたお茶がカモミールティーだったというだけで、他に意味はない。

 ほんのり香るりんごのような優しい香りがペンを走らせたときに脳裏によぎったのだ。

 そんなこんなで匿名の名前を得たわたしは自身の日記のように好き勝手レディ・カモミールとして様々な物語を書き綴っていたのだけど、それを偶然良くも悪くも近衛団の一員であるロジオンという男に見られてしまったことからわたしのレディ・カモミールとしての毎日は一変してしまったのだった。

 彼がどうやったのかはわからない。

 ただ、いつの間にかわたしの書く物語は王宮内ですさまじく話題の的となり、光のごとく人から人へと渡っていったのだった。

 その様子をロジオンから聞かされても、最初は信じることができなかったくらいだ。

 現在では新作はまだかと急かされてばかりで執筆さえもままならないのだけど、人様が自分の作ったものを手にとってくれるということはいささか嬉しいものだと思える今日このごろなのは確かである。

 面白かった!と言ってもらえただけでまた頑張ろうと思えるから不思議なものなのだ。

 願わくば、もう少しだけ、もう少しだけでいいからわたしに執筆の時間をください。