「……悠真(ゆうま)様、遅いですね」

 雪が舞い散る光景は、桜の花びらが舞うときの瞬間を思い起こさせる。
 まだ悠真さまと一緒に桜の木を見上げたことはないからこそ、早く春の暖かさに会いに行きたいという未来への展望を生み出す。

「悠真くんがいなくて寂しい?」
「いつもみなさんといらっしゃるので、不自然な感じがします」

 (うい)さんに言い当てられた通り、私の心は寂しいと訴えている。
 その寂しさを拭ってくれる方が傍にいないのは、いつかは当たり前となってしまう。けれど、その当たり前を向けるにはまだ早い。心に灯る寂しさはより一層、降り積もっていく。

「迎えに行ってもいいですか」
筒路森(つつじもり)の敷地なんだから、ご自由にどうぞ」

 (うい)さんからの許可は、悠真様が重要な政に携わっていないことを教えてくれる。
 (うい)さんと来栖さんに軽く会釈をして、私は誰の手を借りることもなく筒路森(つつじもり)の敷地内を歩く。

(独り……)

 筒路森(つつじもり)家の当主の婚約者というだけで、私は悠真様の枷となる。
 それに加え、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と言葉を交わす娘という情報も悠真様にとって枷でしかならない。
 そんな私を筒路森(つつじもり)の敷地で独りにしても大丈夫なくらい、私は狩り人のみなさんに配慮された生活を送っている。

(私はいつも、守られてばかり……)

 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と言葉を交わすことができるというのは、私にかけられた呪いのようなものだと思っていた。

(私は、誰にも愛してもらえないはずだったのに……)

 私は、私を見つけてくれる人と巡り合うことができた。
 誰にも見つけてもらえず、永遠に終わることのなかったかくれんぼが終わりを告げる。

「悠真さ……」

 庭までやって来ると、寒椿(かんつばき)の赤い花びらがひらひらと舞う世界が視界に入った。
 真白の世界が赤で染まる光景におぞましさを感じてしまうのに、その景色に愛する人が佇むだけで絵になるような美しさを感じる。
 名を呼ぶことですら、途中で止まってしまった。

「こんなところにいては、身体を冷やしますよ」
「いろいろと……変わる季節だと思って、な」

 どんなに厚着をしても冬の寒さを防ぐことはできないのに、寒椿の赤は華麗に咲き誇る。
 冬の寒さに打ち勝つことのできた花も満開の季節が通り過ぎると、桜や梅の淡い桃色が人々の心を奪い去っていく。

「悠真様には、こうして花を眺める余裕もないのだと思っていました」
「趣を感じられない男が旦那なんて嫌だろ」
「そんなことはありませんよ。でも」

 こうして時間は流れているはずなのに、悠真様の中の時間はずっと止まったままのような錯覚に陥っていた。
 たとえ花を眺めていた理由に、どんな理由があったとしてもいい。悠真様が四季の移り変わりを感じていたことを、ただ嬉しく思う。

「花を一緒に眺める時間があることを、幸福に思います」

 悠真様が持ち歩いている懐中時計が針を進めていく。
 時計の針の音だけが異様に響くという独特の静けさは、幼い頃の私を傷つけた。
 時計の針は、おまえは孤独だよって教えるために存在する。
 そう思っていたのに、今、聴覚に届く時計の針の音は違う。
 二人で刻む時間があることに、とてつもなく大きな幸せを感じられるようになった。

「結葵は、花が好きなんだな」
「恋焦がれるほどに」
「妬けるな」

 喉から不満げな声を上げてくれることに、胸が絞めつけられそうにもなる。
 これからも悠真様の愛情を独占したいというあさましい願いを閉じ込めて、冗談ともとれるような軽口を用意する。

「妬いてくれるのですね」

 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と言葉を交わすことが、私にとっての日常だった。
 北白川の外に出て、蝶以外の命と言葉を交わすようになった。
 一方的な会話をしているときもあるかもしれない。
 でも、それだけ悠真様に話したいことがたくさんあって、気づいたら止まらなくなっていく。止められなくなっていく。

「結葵」

 同じ時は続かない。
 自然が姿を変えて生きるように、私たち人間も変わっていく。

「抱き締めてもいいか」

 だから、ずっと一緒にはいられない。いつかは離れてしまう関係。
 同じままでは、変わらないままではいられない。

「抱き締めてください、悠真様」

 変わっていく。
 変わっていくのが当たり前。
 だけど、だけど。
 せめて、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)が消え去る日が来るまでは、私は悠真様と共に生きていきたい。

「結葵は、あたたかいな」
「悠真様も、あたたかいですよ」

 叶わない願いかもしれないけど、今は、今だけは、願っていきたい。