「世の中には、記憶がなくなるくらいどうってことないって唱える政治家たちもいるくらいだからねー」
「一寸先は闇……」

 蝶に奪われる記憶は、生きていくのに支障がない程度のもの。
 蝶に記憶を奪われたところで、生きていくことはできる。
 そんなことは、この世界に生きる人たちみんなが分かっている。
 生活に支障を来すわけではないなんてことは、誰もがみんな理解をしている。

「それでも、記憶が抜け落ちた人生を歩みたくない方はいます」

 そんな想いを抱く人たちがいるからこそ、悠真様たち狩り人は存在することが許される。
 失いたくない大切な人の記憶を守るために、悠真様たち狩り人は力を行使する。

「先の未来のことを考えていても仕方がありません。私たちは民を守ることに力を注いでいきましょう」

 民を守ると言っておきながら、裏では政治家や富を持っている人たちが都合よく記憶を消すための実験を行っている。この後ろめたさこそ、悠真様が抱いているもの。

(その後ろめたさや罪の重さを、悠真様から分けてもらうために私は存在する)

 民を守れば、後ろめたさがなくなるというわけではない。
 でも、狩り人は民の記憶を守ることを使命としている。
 せっかく蝶の討伐に力を貸してくれる狩り人がいるのだから、私たちは民を守ることに意識を集中させていかなければいけない。

「……悠真様、遅いですね」

 雪が舞い散る光景は、桜の花びらが舞うときの瞬間を思い起こさせる。
 まだ悠真さまと一緒に桜の木を見上げたことはないからこそ、早く春の暖かさに会いに行きたいという未来への展望を生み出す。

「悠真くんがいなくて寂しい?」
「いつもみなさんといらっしゃるので、不自然な感じがします」

 (うい)さんに言い当てられた通り、私の心は寂しいと訴えている。
 その寂しさを拭ってくれる方が傍にいないのは、いつかは当たり前となってしまう。けれど、その当たり前を向けるにはまだ早い。
 心に灯る寂しさはより一層、降り積もっていく。

「迎えに行ってもいいですか」
筒路森(つつじもり)の敷地だから、ご自由にどうぞ」

 初さんからの許可は、悠真様が重要な政に携わっていないことを教えてくれる。
 初さんと来栖さんに軽く会釈をして、私は誰の手を借りることもなく筒路森の敷地内を歩く。

(独り……)

 筒路森家の当主の婚約者というだけで、私は悠真様の枷となる。
 それに加え、紫純琥珀蝶の言葉を理解する娘という情報も、悠真様にとって枷でしかならない。
 そんな私を筒路森の敷地で独りにしても大丈夫なくらい、私は狩り人のみなさんに配慮された生活を送っている。

(私はいつも、守られてばかり……)

 紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるというのは、私にかけられた呪いのようなものだと思っていた。

(私は、誰にも愛してもらえないはずだったのに……)

 私は、私を見つけてくれる人と巡り合うことができた。
 誰にも見つけてもらえず、永遠に終わることのなかったかくれんぼが終わりを告げる。

「悠真さ……」

 庭までやって来ると、寒椿の赤い花びらがひらひらと舞う世界が視界に入った。
 真白の世界が赤で染まる光景におぞましさを感じてしまうのに、その景色に愛する人が佇むだけで絵になるような美しさを感じる。
 名を呼ぶことですら、途中で止まってしまった。

「こんなところにいては、身体を冷やしますよ」
「いろいろと……変わる季節だと思って、な」

 どんなに厚着をしても冬の寒さを防ぐことはできないのに、寒椿の赤は華麗に咲き誇る。
 冬の寒さに打ち勝つことのできた花も満開の季節が通り過ぎると、桜や梅の淡い桃色が人々の心を奪い去っていく。

「悠真様には、こうして花を眺める余裕もないのだと思っていました」
「趣を感じられない男が旦那なんて嫌だろ」
「そんなことはありませんよ。でも」

 こうして時間は流れているはずなのに、彼の中の時間はずっと止まったままのような錯覚に陥っていた。
 たとえ花を眺めていた理由に、どんな理由があったとしてもいい。彼が四季の移り変わりを感じていたことを、ただ嬉しく思う。

「花を一緒に眺める時間があることを、幸福に思います」

 悠真様が持ち歩いている懐中時計が針を進めていく。
 時計の針の音だけが異様に響くという独特の静けさは、幼い頃の私を傷つけた。
 時計の針は、おまえは孤独だよって教えるために存在する。
 そう思っていたのに、今、聴覚に届く時計の針の音は違う。
 二人で刻む時間があることに、とてつもなく大きな幸せを感じられるようになった。

「結葵は、花が好きなんだな」
「恋焦がれるほどに」
「妬けるな」

 喉から不満げな声を上げてくれることに、胸が絞めつけられそうにもなる。
 これからも彼の愛情を独占したいというあさましい願いを閉じ込めて、冗談ともとれるような軽口を用意する。

「妬いてくれるのですね」

 紫純琥珀蝶と言葉を交わすことが、私にとっての日常だった。
 北白川の外に出て、蝶以外の命と言葉を交わすようになった。
 一方的な会話をしているときもあるかもしれない。
 でも、それだけ彼に話したいことがたくさんあって、気づいたら止まらなくなっていく。止められなくなっていく。

「北白川の件だが……」
「両親が、妹の処遇について結論を出したのですね」
「手放すことを決めたと報告を受けた」

 華族は一般市民と同様に裁かれることが、原則となっている。
 もちろん華族の社会的地位や影響力の大きさが、裁判の結果に影響を与えることがないわけではない。
 けれど、まだ十五歳の妹には少年法が適用される。
 成人と同じような厳しい処罰が課されるわけではないのに、両親は妹を手放すことを決めたらしい。

「北白川の血が流れている妹の容姿には、大きな価値がありますから……」

 両親が娘を金儲けの道具として利用するのは目に見えていて、両親の幸福を望む妹は両親に利用されることこそが真の幸せだと勘違いしていく。
 それこそが恐れていた展開だからこそ、理想通りの流れになったことに安堵したい。安堵したいけれど、心がざわつく。