「婚約者ごっこは、ここで終わりだ」
彼の視線が、逸らされる。
彼の視線を追いかけた先にあったのは、脚の短い小さな座卓。
その上に置かれている透明な硝子箱の中に、淡い紫色の翅を羽ばたかせた一匹の蝶の存在を確認する。
「紫純琥珀蝶……」
「この蝶の、記憶を辿ってもらえるか」
蝶一匹を捕らえることしかできない小さな硝子箱の中では、すぐに壁にぶつかってしまう。
行き場を失った蝶は、静かに硝子箱の中に収束する。
「ずっと、俺を見守ってきた蝶だ」
硝子箱越しに生命の鼓動が感じられ、硝子箱は蝶の儚さを強調しているようにも思えた。
「蝶を介して、俺の気持ちを知ってくれ」
部屋の明かりが、柔らかな影を作っていく。
ここに怖いものは何も待っていないと言わんばかりの光と影に勇気づけられ、私はゆっくりと体を起こす。
「結葵は、いつまで経っても俺の気持ちを信じてくれないみたいだからな」
薄い硝子越しに蝶を見つめ、交わることのない蝶の瞳に自身の瞳を重ねる。
「蝶の記憶なら、信じてもらえるだろ」
背後にいる彼の声に潜んだ寂しさが、私の心を揺さぶる。
(だって、私たちは蝶で結ばれた関係……)
いつもは彼の声を聞けば胸が温かくなるのに、今日はその温もりに痛みが伴っているのを感じる。
私は彼にかける言葉を見つけることができず、指示されるがままに硝子箱の中にいる蝶の記憶を辿ろうと指に力を込めた。
「そんなに、俺の気持ちを知るのが怖いか」
彼も一緒に立ち上がり、蝶が翅を休める硝子箱へと近づいてくる。
彼は微笑みながらも、その瞳には隠しきれない孤独が宿っている。
その孤独の原因となっているのが自分だと分かっているからこそ、彼に向ける顔がない。
「結葵が思っているほど、悪いものではないと思うが」
その言葉に、胸が締めつけられる。
彼の寂しげな笑顔に心が揺らぐのを感じていると、自身の手に彼の手が添えられる。
「蝶の記憶に、触れてくれ」
小さく頷いて肯定の意思を示し、二人で一緒に硝子箱へと触れようとした瞬間。
硝子箱から、部屋の照明とは違う温かで淡い光が溢れ出した。
光は私たちを包み込み、世界が静止するような感覚が訪れた。
「何……」
悠真様の無事を確認しようと瞼を上げようとするけれど、繋ぐ手が彼の存在を教えてくれた。
大きく息を吸い込むことで冷静さを取り戻すと、蝶が見てきた過去の記憶が私の頭へと流れ込んできた。
『この庭は、大変、美しいですね』
幼い頃の私は赤いリボンを綺麗に結びつけた髪を揺らしながら、山茶花の花が咲き乱れる庭園を訪れていた。
私は庭園で独りぼっちになっている少年へと声をかける。
『どうして、お一人なのですか』
『君には関係ないだろ』
山茶花が鮮やかに咲き誇る庭園で、私よりも少し年上に見える少年はいた。散った花びらを指でそっと拾い上げていく。
『いっしょに、お花を、かんしょうしても?』
幼き頃の私は、少年に勇気を振り絞って声をかけた。
私の瞳には少年への偏見も恐れも含まれておらず、ただ純粋な関心を彼に注いでいることが、よく伝わってくる。
『好きにすればいい』
『ありがとうございます』
少年の隣に少女が並ぶのに、少年からは寂しさが漂ってくる。
少年が距離を開くと、少女は彼を追いかける。
静寂が広がる世界に恐怖を抱くこともあるけれど、庭園に広がる静寂に深い勘なんてものは存在しなかった。
山茶花の花が風に揺れては、その可憐な姿を示していく。
『しつこいな……』
『いっしょに、と言いましたよ?』
『っ』
少年の表情には不機嫌さが漂っていて、まだ幼いながらに威厳ある態度で腕を組みながら、小さな溜息を吐いた。
その目はどこか遠くを見つめていて、明らかに少女から逃れたいような気配をまとっている。
『こんな場所、退屈だ……』
『わたしは、あなたと出会えて、とてもうれしいですよ』
幼き頃の私は優しい瞳で少年を見つめ、どうにかその孤独を解きほぐせないかと思案しているようにも思える。
『っ、君は知らないのか。蝶が世界に現れた日のことを?』
『ちょうとは、しじゅんこはくちょうのことですか?』
そのあと少年は私に向けて、紫純琥珀蝶が始まった日のことを語ってくれる。
記憶が失われるという流行り病に悩まされた村が、世間から恐れられている筒路森に救いを求めた日のこと。
紫純琥珀蝶と、狩り人の始まりの日のことを、少年は幼き私に教えてくれた。
『その、昔話に出てくる筒路森が、僕だ』
少年は、一瞬だけ睨むように私を見た。
『世間から恐れられているせいで、僕は永遠に独りで生きていかなければいけない』
けれど、すぐに少女の私から視線を逸らした。
『君だって、僕に恐怖を感じるようになる……』
でも、幼き日の私は強かった。
幼き日の私は気にすることなく、曇りなき笑顔で少年の顔を覗き込む。
『どうしてわたしが、あなたに恐怖を感じるようになるのですか?』
少年の眉が、ぴくりと動く。
『だって、こうして、いっしょにいるだけで、わたしは、こ~んなにも幸せなのですから』
自分で自分のことを褒めちぎるのは自分らしくないとは思いつつも、幼き日の私の笑みには少しだけ世界を優しくする力があるような気がした。
『お花、美しく見えないですか?』
自分が、こんなにも柔らかな声と真っすぐな言葉を向けることができることに驚いた。
これは蝶の記憶を辿っているのではなく、蝶が夢物語を見せているのではないかと疑ってしまうほど、私は純粋な気持ちを持って少年と接していく。
『わたしは、あなたといっしょだから、お花がきらきらして見えるのかなと思っていました』
足元に散らばる花びらを見つめていた少年は、顔を上げる。
澄んだ空の下で、山茶花が濃い紅色の花びらを広げている様子を視界に入れる。
『もしも、美しく思えないのなら……私はここを去りま……』
『筒路森の人間だ……』
突然、数人の賑やかな声が背後から響く。
『おやおや、華族ともあろうお方が、こんなところで、かくれんぼとは……』
『そんなことをおっしゃると、殺されてしまいますよ』
『ああ、そうだった。筒路森に、さからってはいけなかったな』
声の主は、幼き日の私とたいして年齢の差を感じない少年少女。
絢爛な衣装を身にまとい、一目で身分の高い少年少女だと分かってしまう。
まだ薄汚い感情を知らなくてもいい年齢のはずなのに、彼らは薄ら笑いを浮かべて少年を攻撃してくる。
彼の視線が、逸らされる。
彼の視線を追いかけた先にあったのは、脚の短い小さな座卓。
その上に置かれている透明な硝子箱の中に、淡い紫色の翅を羽ばたかせた一匹の蝶の存在を確認する。
「紫純琥珀蝶……」
「この蝶の、記憶を辿ってもらえるか」
蝶一匹を捕らえることしかできない小さな硝子箱の中では、すぐに壁にぶつかってしまう。
行き場を失った蝶は、静かに硝子箱の中に収束する。
「ずっと、俺を見守ってきた蝶だ」
硝子箱越しに生命の鼓動が感じられ、硝子箱は蝶の儚さを強調しているようにも思えた。
「蝶を介して、俺の気持ちを知ってくれ」
部屋の明かりが、柔らかな影を作っていく。
ここに怖いものは何も待っていないと言わんばかりの光と影に勇気づけられ、私はゆっくりと体を起こす。
「結葵は、いつまで経っても俺の気持ちを信じてくれないみたいだからな」
薄い硝子越しに蝶を見つめ、交わることのない蝶の瞳に自身の瞳を重ねる。
「蝶の記憶なら、信じてもらえるだろ」
背後にいる彼の声に潜んだ寂しさが、私の心を揺さぶる。
(だって、私たちは蝶で結ばれた関係……)
いつもは彼の声を聞けば胸が温かくなるのに、今日はその温もりに痛みが伴っているのを感じる。
私は彼にかける言葉を見つけることができず、指示されるがままに硝子箱の中にいる蝶の記憶を辿ろうと指に力を込めた。
「そんなに、俺の気持ちを知るのが怖いか」
彼も一緒に立ち上がり、蝶が翅を休める硝子箱へと近づいてくる。
彼は微笑みながらも、その瞳には隠しきれない孤独が宿っている。
その孤独の原因となっているのが自分だと分かっているからこそ、彼に向ける顔がない。
「結葵が思っているほど、悪いものではないと思うが」
その言葉に、胸が締めつけられる。
彼の寂しげな笑顔に心が揺らぐのを感じていると、自身の手に彼の手が添えられる。
「蝶の記憶に、触れてくれ」
小さく頷いて肯定の意思を示し、二人で一緒に硝子箱へと触れようとした瞬間。
硝子箱から、部屋の照明とは違う温かで淡い光が溢れ出した。
光は私たちを包み込み、世界が静止するような感覚が訪れた。
「何……」
悠真様の無事を確認しようと瞼を上げようとするけれど、繋ぐ手が彼の存在を教えてくれた。
大きく息を吸い込むことで冷静さを取り戻すと、蝶が見てきた過去の記憶が私の頭へと流れ込んできた。
『この庭は、大変、美しいですね』
幼い頃の私は赤いリボンを綺麗に結びつけた髪を揺らしながら、山茶花の花が咲き乱れる庭園を訪れていた。
私は庭園で独りぼっちになっている少年へと声をかける。
『どうして、お一人なのですか』
『君には関係ないだろ』
山茶花が鮮やかに咲き誇る庭園で、私よりも少し年上に見える少年はいた。散った花びらを指でそっと拾い上げていく。
『いっしょに、お花を、かんしょうしても?』
幼き頃の私は、少年に勇気を振り絞って声をかけた。
私の瞳には少年への偏見も恐れも含まれておらず、ただ純粋な関心を彼に注いでいることが、よく伝わってくる。
『好きにすればいい』
『ありがとうございます』
少年の隣に少女が並ぶのに、少年からは寂しさが漂ってくる。
少年が距離を開くと、少女は彼を追いかける。
静寂が広がる世界に恐怖を抱くこともあるけれど、庭園に広がる静寂に深い勘なんてものは存在しなかった。
山茶花の花が風に揺れては、その可憐な姿を示していく。
『しつこいな……』
『いっしょに、と言いましたよ?』
『っ』
少年の表情には不機嫌さが漂っていて、まだ幼いながらに威厳ある態度で腕を組みながら、小さな溜息を吐いた。
その目はどこか遠くを見つめていて、明らかに少女から逃れたいような気配をまとっている。
『こんな場所、退屈だ……』
『わたしは、あなたと出会えて、とてもうれしいですよ』
幼き頃の私は優しい瞳で少年を見つめ、どうにかその孤独を解きほぐせないかと思案しているようにも思える。
『っ、君は知らないのか。蝶が世界に現れた日のことを?』
『ちょうとは、しじゅんこはくちょうのことですか?』
そのあと少年は私に向けて、紫純琥珀蝶が始まった日のことを語ってくれる。
記憶が失われるという流行り病に悩まされた村が、世間から恐れられている筒路森に救いを求めた日のこと。
紫純琥珀蝶と、狩り人の始まりの日のことを、少年は幼き私に教えてくれた。
『その、昔話に出てくる筒路森が、僕だ』
少年は、一瞬だけ睨むように私を見た。
『世間から恐れられているせいで、僕は永遠に独りで生きていかなければいけない』
けれど、すぐに少女の私から視線を逸らした。
『君だって、僕に恐怖を感じるようになる……』
でも、幼き日の私は強かった。
幼き日の私は気にすることなく、曇りなき笑顔で少年の顔を覗き込む。
『どうしてわたしが、あなたに恐怖を感じるようになるのですか?』
少年の眉が、ぴくりと動く。
『だって、こうして、いっしょにいるだけで、わたしは、こ~んなにも幸せなのですから』
自分で自分のことを褒めちぎるのは自分らしくないとは思いつつも、幼き日の私の笑みには少しだけ世界を優しくする力があるような気がした。
『お花、美しく見えないですか?』
自分が、こんなにも柔らかな声と真っすぐな言葉を向けることができることに驚いた。
これは蝶の記憶を辿っているのではなく、蝶が夢物語を見せているのではないかと疑ってしまうほど、私は純粋な気持ちを持って少年と接していく。
『わたしは、あなたといっしょだから、お花がきらきらして見えるのかなと思っていました』
足元に散らばる花びらを見つめていた少年は、顔を上げる。
澄んだ空の下で、山茶花が濃い紅色の花びらを広げている様子を視界に入れる。
『もしも、美しく思えないのなら……私はここを去りま……』
『筒路森の人間だ……』
突然、数人の賑やかな声が背後から響く。
『おやおや、華族ともあろうお方が、こんなところで、かくれんぼとは……』
『そんなことをおっしゃると、殺されてしまいますよ』
『ああ、そうだった。筒路森に、さからってはいけなかったな』
声の主は、幼き日の私とたいして年齢の差を感じない少年少女。
絢爛な衣装を身にまとい、一目で身分の高い少年少女だと分かってしまう。
まだ薄汚い感情を知らなくてもいい年齢のはずなのに、彼らは薄ら笑いを浮かべて少年を攻撃してくる。



