「表向きは……筒路森の婚約者ですから」
言葉にすることで実感が湧くと思ったのに、私が発したかった言葉は迷子のようにさ迷ってしまう。悠真様の前で、言葉にしていいことなのか分からない。
「君は、よくやっている」
悠真様の腕が伸びてきて、何をされるのか不安になった私は瞼を下ろして瞳をぎゅっと閉じてしまう。
「ちゃんと筒路森の婚約者としての振る舞いができている」
光が差し込まなくなった世界で怯えていると、温かさを感じるものが頬を優しく撫でてくる。
「結葵が変わっていくと思うと、寂しくもなるが……」
悠真様の手が私の頬に触れていると想像はできるけど、私はまだ瞼を上げることができない。
「結葵は、筒路森の外に出ても大丈夫だと思えるのは嬉しい」
視界に入ってくるものがないことが原因なのか、悠真様が頬を触れる指の感覚に震えのようなものを感じてしまう。
何も怖いことはされない、嫌なことは何もされないって分かっているのに、悠真様に触れられるたびに私の体はぴくりと反応してしまっている。
「結葵」
悠真様に、触れていてほしい。
悠真様に、触れてもらいたい。
そんな気持ちが溢れて止まないことに気づかされるけど、湧き上がる感情を口にすることができない。
「俺のこと、見てくれるか?」
紫純琥珀蝶が存在しなければ、私と悠真様は出会うことがなかった。
儚い繋がりしか持っていない私が、こんな願いを抱いてはいけない。
「せっかく結葵と二人きりなのに、結葵が俺のこと見てくれないと寂しい」
大好きな人に触れてほしい。
大好きな人に触れたい。
そんな願望は、蝶と言葉を交わす子には相応しくない。
「……できません」
自身の体を、悠真様に寄せる。
自分から触れることは許されない。
分かってはいるけど、自分の顔を隠すための手段が浮かばない。
悠真様に顔を見られないように、悠真様の体に顔を埋めるように体を密着させる。
「そんなに抱き着かなくても、落としたりしない」
抱き着いたつもりはない。
ただ、顔を隠したかっただけ。
でも、それらの想いは悠真様には通じなかった。
「怖くないか?」
腰に悠真様の腕が回される。
さっきは抱き締めてくれなかったのに、今度はいとも容易く私は悠真様に抱き締められた。
「悠真様……」
「ん?」
瞳いっぱいに、悠真様を視界に映す。
そうなってしまったのは、悠真様の行動に驚かされたから。
突然のことに驚いてしまったために、頑なに閉ざしていた視界を開くことになった。
でも、今振り返れば……なんで、もっと早く悠真様のことを視界に入れなかったのかなって思ってしまう。
私たちの時間に限りがあるのを知っているなら、私は一秒でも長く大切な人を見ていたいはずなのに。
「恥ずかしい……です……」
悠真様と見つめ合うことが、恥ずかしい。
悠真様の瞳を見つめ続けていたいのに、恥ずかしい。
そんな想いを、悠真様に訴える。
「でも」
気持ちと反対の行動をとってしまう。
そんな自分に、後悔してしまう。
「悠真様と……こうして、二人で過ごせる時間に……」
そんな後悔の気持ちが、私を勇気づけてくれたのかもしれない。
それとも、悠真様と過ごす時間に限りがあることが私を急かしたのか。
普段なら鍵をかけてしまって二度と出て来られなくなる言葉の数々を、今日は伝えようと思った。
「凄く幸せを感じています」
神様。
「恥ずかしがって、申し訳ございません」
今日だけは。
「悠真様は、いつか私のことを忘れてしまうかもしれませんが……」
今日だけは……。
「私にとって悠真様は、ずっと大切な婚約者です」
蝶と言葉を交わす子が、大切な人に笑顔を向けることを許してください。
「ありがとう」
ここに鏡はない。
悠真様の瞳を覗き込んだところで、自分がどんな表情をしているかよく分からない。
けど。
「……別れの挨拶、早すぎですね」
「ははっ、そうだな」
「申し訳ございません……」
「でも、それが俺たちらしい」
今まで生きた人生の中で一番、綺麗に笑うことができている。
そんな気がする。
「悠真様」
こんなにも多くの想いと言葉が溢れているのに。
私は、今という時間に幸せを感じているのに。
悠真様はやっぱり、こんなときでも嘘の言葉をくれない。
「私も……」
筒路森を出たら、私たちの関係は終わる。
その言葉を、否定してくれない。
嘘でもいいのに。
嘘でいいから、私を励ましてくれてもいいのに。
「悠真様のこと、抱き締めても宜しいですか」
「結葵……」
仮眠用のソファは、二人で寝転ぶことができるくらいの広さがある。
けれど、抱き締め合うという行為をするには難しさもある。
とても幸福感に満ち溢れた空間なのに、腕の位置や腕の伸ばし方とか訳が分からない。
無理矢理、大切な人を抱き締めるという行為は……きっと私には向いていない。
「結、葵……っ」
「婚約者同士、ですよね」
このままの体勢を続けていたら体が可笑しなことになってしまいそうなのに、私の中の幸せは満たされたまま。少しも減ることがない幸福感に、一生分の贅沢をしているような気分になってくる。
「婚約者同士ですから、許してください」
悠真様は、よく私のことを抱き締めてくれる。
抱きしめ癖があるのではないかと思うくらい……日々を生きることに不安を感じている私のことを、いつも優しさと温もりで包み込んでくれる。
「練習をさせてください、悠真様」
いつもなら、蝶と言葉を交わす子は輪の外へと追いやられる。
「……今日は、特別だ」
人の熱を感じることができないまま、私は独り放置されてしまう。
「……ありがとうございます、悠真様」
でも、今日は初めて悠真様と両想いの真似事ができた記念日。
「年下は、年上の方に甘えられるのでいいですね」
「結葵、調子に乗りすぎだ……」
「ふふっ」
互いが、体を背けたいくらいの羞恥に駆られていると信じたい。
一瞬だけ視線を外してしまった悠真様だったけれど、すぐに私を抱き締める腕の力を強めてくれた。
「経験のない年下を指導するのは、大人の役割ですよ」
蝶と言葉を交わす子は、ずっと世間から拒絶されてきた。
誰かに触れることを拒絶されることが当たり前だったから、私は触れてはいけないと思っていた。
蝶と言葉を交わす子に、触れたい人なんていないと思いながら生きてきた。
そう思い続けてきたはずなのに、彼は私に触れることを躊躇わない。
「正直に言うと……不安だった」
悠真様の腕に、力が入る。
より強い力で抱き締められた私は、益々勘違いしていく。
「筒路森がやってきたことを知ったら、結葵は筒路森を拒絶すると思い込んでいた」
悠真様も、不安。
私も、不安。
どちらも抱えている感情が同じで、同じを共有できることが、その不安を和らげてくれる。
「不安にならないでください」
悠真様と私は、両想いなんじゃないかって。
勘違いしそうになる。
「私は紫純琥珀蝶が存在する限り、悠真様のお傍にいますから」
でも、今やっていることは、ごっこ遊びに過ぎない。
すべては勘違い。
悠真様は、世界を知るために旅に出られる方。
私は、これから先も蝶を想って生きる側の人間。
「幸せになりましょう」
出会ったときから、世界を交えてはいけない人だった。
「互いがいなくなった世界でも、必ず幸せになるために」
世界を交えてはいけなかったはずなのに、私たちの世界は交わってしまった。
だから、私は、人を好きになるという感情を知ってしまった。
「……なんだか、矛盾した言葉の羅列だな」
「ですね、蝶が存在する限り、私たちの縁は切れることがないのに」
「ああ、結葵を手放すつもりは毛頭ない」
私も、できる限り腕に力を込める。
悠真様の幸せを願って。
「結葵のいない世界なんて、考えられない」
その言葉をくれるのなら、紫純琥珀蝶が飛ばなくなったがあとの人生も。
あなたと一緒に生きていきたいです。
そんな言葉を付け加えてください。
中途半端な言葉は、私の涙を誘う原因になってしまう。
「結葵は?」
名前を呼ばれると同時に、私を抱き締めていた腕が離れていく。
婚約者としてのやりとりが終わってしまうと嘆く前に、悠真様は私の下唇を指先で優しく撫でてくる。
悠真様の問いかけに答えを返さなければいけないのに、意識が唇へと集中する。
「結葵」
唇に触れる悠真様の指に魅入られていた私は、悠真様に名前を呼ばれることで悠真様と視線を交えてしまった。
「悠……」
悠真様の瞳には私が映っていて、私の瞳には悠真様が映っている。
そんな自覚が生まれたことが羞恥に繋がった私は、彼の名前を呼ぶことすら忘れてしまった。
「結葵」
悠真様は、私の名前を呼んでくれる。
私がされて嬉しいことを、悠真様にもしてあげたい。
そう思って、彼の名前を音にしようとした。
「悠真さ、っ……」
刹那、声が塞がれた。
優しく重なり合った唇。
触れるだけの口づけ。
私たちの婚約者ごっこは、ここで終わった。
「さあ、悠真。私たちに手を貸しておくれ」
冷たい月の光が差し込む薄暗い部屋の中、父親と対峙しているだけのことで手の震えが止まらなかった。
明かりが灯らない部屋ということが幸いして、自分が父に対して恐怖を抱いているということを勘づかれなかったのは不幸中の幸いか。
「紫純琥珀蝶が、記憶を消すことができるか確かめなければいけないんだ」
民を蝶の脅威から守るという表向きの顔を用意しておきながら、裏では民を蝶の脅威に陥れる。
そうすることで栄えてきたのが、筒路森家だった。
筒路森家に産まれたときから、俺は紫純琥珀蝶の力を利用するために生きていくことが義務づけられた。
「蝶を操ることができないと、私たちは路頭に迷ってしまう」
金持ち連中を相手に、都合よく記憶を消すことで巨額の富と高い地位を得ることができる。
今日も、その都合の良さを継続するための実験が始まった。
「私は、家族を愛している。家族に、そんな苦労を伴わせたくない。理解してくれるな?」
目の前にいるのは自分の親のはずなのに、冷酷な目で見降ろされているような気持ちになってしまうのはどうしてなのか。
「大丈夫。また記憶が消えても、私はおまえのことを愛している」
息子を庇った母は、数分前に紫純琥珀蝶の餌食となった。
記憶を失った母が床にうつ伏せの状態で倒れていて、一刻も早く母の無事を確かめたいのに父はそれを許さない。
「これは人類が、人生を何度もやり直すための第一歩へと繋がる貴重な実験!」
父が、どんと壁を叩いた瞬間。
心臓が壊れそうなほどの恐怖を抱いた。
「何も怖がることはない。ただ、今まで生きた記憶を消すだけのこと」
手から温度が抜けゆくのが分かり、指先が寒さで痺れていくかのような感じがした。
「悠真、愛してる。幸子と一緒に、また一から家族をやり直そう」
鏡のない場所では、自分がどんな表情をしているのか確認することができない。
父が無情な目で息子を見つめているのなら、きっと自分も冷たい視線を父に向けていることだろう。
(母さんが記憶を失うのは、これで何度目のことか……)
心が悲しみと絶望で満たされていくのを感じるけれど、不思議と父に対する怒りの気持ちも悔しさのような気持ちも湧き上がらない。
「さあ、悠真。目を伏せるんだ」
父が母を愛していたのは確かな事実で、父は一度も母に暴力を振るったことがない。
ただ、俺を守るために反抗的な態度をとったときだけ、蝶の力を利用して母の記憶を奪う。
そうして記憶を失った母を洗脳して、また一から愛ある家族関係を築いていくのが父のやりかただった。
(愛のある家庭、か……)
そんな歪さに体も心も慣れ切ってしまったせいで、父に逆らうという言葉の意味を忘れてしまったのかもしれない。
父の命令に従うため、目を伏せようとしたときのことだった。
「っ、違う! 私じゃない! 私の方に来るな!」
父に飼い慣らされていた紫純琥珀蝶が、父に復讐を志したかのようにねっとりと寄りついていく。
決して、父から離れるつもりはないのか。
それとも自分の事を助けてくれたのかという、おとぎ話のような妄想を繰り広げてしまう。
(自業自得とは、こういうことを言うのか……)
一回の瞬きを終えると、父は母と一緒に床へと伏せていた。
二人が床に体を打ちつけていないか確認しようと近づくと、一匹の紫純琥珀蝶が肩へと舞い降りた。
「……助けてくれたのか」
問いかけたところで、蝶が言葉を返すことはなかった。
「そのつもりはなくても、記憶を残してくれたことは感謝している」
肩に乗っただけでは記憶が奪われることはないと確認し、人差し指で蝶に触れようとした。
すると蝶は、抵抗を示した。
触れられることを嫌がったのか、触れたら記憶を消してしまうという警告なのか。
蝶は月明かりが優しく差し込む部屋で、ふわりと舞を踊った。
「これで、蝶を使えば記憶を消すことができると証明できたな」
父が記憶を失ったおかげで、筒路森の当主の座を奪うことに成功した。
自分が蝶の力を利用して父の記憶を消すという算段を整えていたが、結果的に父の失態で自分は手を汚さずに済んだ。
(これから多くの穢れに塗れていくのに……)
蝶に配慮されたところで、これからを生きていく自分は穢れていく一方。
それなのに、蝶は両親を手にかけることを許さなかった。
「まさか本当に、筒路森の当主になっちゃうなんてね」
一人でも多くの味方が欲しい。
そう画策はしていくことで、字見家の息子である初を味方につけることができた。
ただ、今も昔も人材選びにだけはどうしても慎重さを求めてしまう。
「記憶を失って、ようやくあの人たちも蝶の呪縛から解放されるだろ」
「あの人たちって……一応は、悠真くんの両親だよ」
幼い頃に、母は言った。
演じる必要はない。
好きなように生きなさいと。
ただし、人を愛してはいけないよと言われた。
相手の人生を、相手の未来を、変えてしまうことに繋がるから。
『私は、生きていくことを許されるんじゃないかって。明日死ぬかもしれないって言う恐怖が、明日も生きられるかもしれないっている希望や期待に変わっていくんです』
一人の女性として愛しているとか、そういうことは考えたこともなかった。
紫純琥珀蝶と交渉をしていくための貴重な存在だとは思っていたが、その貴重という感覚は母との約束を破ることになると気づいた。
『結葵を救う役目を、俺にも担わせてほしい』
だったら、俺は、すべてを愛することを選ぼうと思った。
結葵と、結葵の人生に関わるすべてを愛することを決めた。
すべてに愛情を注ぐことができれば、自分の穢れを祓うことができるかもしれない。
そんな安易は、初めての恋心へと繋がっていった。
「悠真、様……」
月明かりが窓から差し込む部屋で、結葵はすやすやと眠っていたはずだった。
薄手の毛布を彼女にかけようとした際に、ふわりとした風が顔に当たってしまったのかもしれない。眠りの世界から無理矢理に呼び戻された結葵は、ぼんやりとした眼差しで俺の名前を呼んだ。
「悪い、起こしたな」
結葵の瞼がゆっくりと上がっていき、俺が結葵の瞳に映り込む。
そのとき感じた幸福を、俺は一生忘れることができないと思った。
「すみません! 私、眠って……」
「眠ることの何が悪いんだ? 狩り人に合わせて生活してたら、結葵の身が持たないぞ」
誰かを好きになるなんて気持ちは、錯覚。
異性として意識するなんて、あり得ない。
そんな生き方をしてきたはずなのに、俺は結葵の人生を、結葵の未来を、変えてしまうことを選んだ。
「私も……」
「ん?」
「私も、悠真様の傍にいるための道を選択したいです」
ただでさえ、見えない未来のために歩みを進めることを怖いと思うはずなのに。
未来に向かうと結葵に決断させたのは、紫の蝶のせいなのか。
「足手まといになるのなら、私も戦う力を身につけます」
紫純琥珀蝶に愛されて生きてきた彼女が、蝶を狩るために戦う。
それが怖いことなんて俺でも想像ができるのに、戦う力を得たいと宣言した結葵の強さを支えたいと思った。
「来栖さんのような、女性の狩り人に……私も……」
なるべく落ち着いて声を発したいのだろうが、かすかに見え隠れする震えから彼女を解放したいと思って右手を伸ばす。
そして、そのまま彼女の頬を優しく撫でる。
「愛する存在を手にかけるのか?」
「…………」
寝ぼけ眼のように見えても、これだけはっきりと喋れるのなら意識ははっきりしている。
それでも、彼女を眠りの世界に誘ってやりたくて、彼女の頬や首筋を優しい加減で撫でていく。
「っ、悠真さ、ま、っ」
「眠ってくれるか」
結葵の額と、自分の額を重ね合う。
これ以上、距離を詰めることができないってくらい結葵に近づく。
「俺も、結葵と一緒に休みたい」
結葵が、紫純琥珀蝶を殺すような事態は絶対に招かない。
少しでも、ほんの僅かな想いでも拾ってもらえたら。
そんな決意が、結葵の力になれたのなら幸せに思う。
「……悠真様」
「独り言なら、聞いてやる」
人を好きになるという感覚を知った。知ってしまった。
「私は、悠真様の傍で生きたいです」
愛する人の手を取ることが許されるような幸福な世界を生きられたらと願うけれど、今は、その幸福な世界を生きることができない。
「だから、夜、狩り人のみなさんに同行することを許してください」
筒路森が紫純琥珀蝶を利用する計画から降りることで、結葵を危険な目に晒してしまう。
結葵の平和と安全が保障されない限り、俺は結葵の手を取ることができない。
「私が存在するだけで、蝶が記憶を喰らう可能性を減らすことができるかもしれませんから」
「……すべての蝶が、君に味方してくれるとは限らないだろ」
「これは、私の独り言だったのでは?」
「っ」
優しすぎる結葵に心が懐柔されていくのがわかっても、俺は結葵との別れが来るその日まで結葵に対して狡いことを強いる。卑怯なことを続ける。
最低な行いをして、最終的には結葵に傷を残す役割を背負っている。
「よくよく考えたのですが、私は蝶に狙われないのではないかと」
「蝶に愛されすぎるのも困りものだ」
物語が悲しい結末で終わることを理解しているからこそ、彼女の生きたいという望みだけは全力で手助けをしたい。
結葵にとって生きることは当然のことではなく、彼女にとっての『生きる』には大きな価値がある。彼女が生きることを望んでくれたことこそ、大きな奇跡だと思っている。
「悠真様の腕の中は、とても温かいですね」
俺の名前を呼ぶ声に、涙が溢れそうになってくる。
自分の名前を呼んでくれる結葵のことが、いとおしすぎて堪らない。
「確かに」
「悠真様?」
「人は、とても温かいな」
十分すぎるほどの幸せをもらっているのに、今の自分では恩を仇で返すようなことしかできない。
「悠真様」
いつか君が、ほかの男を愛するときが来るとわかっていても。
「私も、悠真様に出会って、初めて知りました」
結葵の心に残りたいと願ってしまう。
「人が温かいということを」
結葵の心に残りたいという身勝手な願いを叶えることができないのなら、いつかは紫純琥珀蝶の力を利用して結葵の記憶をなくすのも悪くはないと思ってしまう自分は屑なのか。
(それはそれで、悪くないかもしれないな……)
その時点で、自分は駄目な存在だと判断されたようなもの。
結葵の記憶に残りたいと願うのに、その願いを叶えることができない悔しさをどこで消化すればいいのか分からない。
それなのに、結葵は伸ばす腕に力を込めてくるから泣きたくなる。
「結葵」
「はい」
君に、伝えたいこと。
君と、話したいこと。
明日の第一声は、何から始めよう。
「蝶に愛されてくれて、ありがとう」
あの日、あのとき、君を救ってあげられなかった。
あの日、あのとき、君を護ってあげられなかった。
「……蝶に愛されることは、恥ではありませんか」
「愛されたことを、むしろ誇りに思うべきだろ」
君に喜んでもらえるように、君を救うことができるように。
君が、明日を始められるように。
君が、未来を見たいと願ってくれるように。
君が、明日を求めてくれるように。
「おやすみ、結葵」
「……おやすみなさいませ、悠真様」
これからほんの少しの手助けを、俺はやっていきたい。
「お疲れ様です、結葵様」
「初さん、本日からよろしくお願いいたします」
ひらひら舞う。
蝶が、雪が。
「もっと愛想良く、初」
「うっ……」
蝶が舞うのは、夜の時間。
蝶が踊るのは、暗闇の中。
蝶が力を使うのは、良い子が眠りに就いた時刻。
紫純琥珀蝶を狩る力を持つ、字見初さんと来栖和奏さんのお仕事に同行させてもらえることになった。
「あの、結葵様……」
申し訳なさそうな表情を浮かべながら私に近づいてくる初さんだけれど、この場にいる来栖さんは筒路森が犯している罪を知らない。
私は謝罪の言葉を向けたいはずの初さんを制止させ、来栖さんに違和感を与えないように配慮しなければいけない。
「調査の結果、不備が見当たらなくて良かったですね」
「…………はい」
私の目を見ずに俯いてしまった初さんのことを気にかけてしまう。
でも、初さんは私よりも多くの経験を積まれているのだから、自分の心の整え方を熟知しているはず。
初さんがお一人で立ち直られることを信じて、私は置いてきぼりになってしまっている来栖さんとの会話を試みる。
「狩り人のみなさんが無事で何よりです」
大人の振る舞いというのは、まだまだとても難しい。
悠真様の年齢に近しい方なら、もっと上手く筒路森家に嫁ぐ人間として上手くやれるかもしれないのに。
その経験差を埋めるだけの年齢が私にはないから、悠真様の婚約者を装うのは何よりも難しいこと。
「結葵様、ごめんなさい」
来栖さんは私よりも遥か年下の女の子に見えるのに、とてもしっかりとしたところは見習いたい。
「何も起きていないのに、謝る必要はないですよ」
「初は、いつも結葵様に対して失礼だから」
「ちょっ、和奏! その言い方は酷くない!?」
「本当のこと」
お二人は兄妹ではないのに、初さんが来栖さんの明るいところすべてを持っていってしまったのではないかと思うほど。初さんの賑やかさに、悠真様は何度も救われているのだと思う。
「結葵様がいてくれるおかげで、少しは休みが取れやすくなる」
「うん、本当に感謝してます」
紫純琥珀蝶を狩る力を持つ方々は、この場にいるお二人だけではないと伺っている。
それなのに、私はほかの狩り人のみなさんに挨拶できない。
でも、それは仲間外れにされているという話ではなく、悠真様なりの気遣いなのかもしれない。
(私が、少しずつ世界に馴染んでいけるように……)
筒路森家が影で行っていることを考えると、信頼できる人の数が限られてしまうのもなんとなく分かる。
華族の婚約者になるための教育をほとんど受けることができなかった私でも、蝶の実験は多くの危険を持ったものだと勘づいてしまう。
「初は、ちょっと休み過ぎだから」
「わ~か~な~? 少しは敬ってほしいんだけど! こっちは、不眠不休で蝶の脅威を退いてるんだから!」
狩り人は、紫純琥珀蝶を狩る力を持つという繋がりを持つ同士。
そして私は、紫純琥珀蝶と言葉を交わす力を持つ。
共通に介するものがなければ、私たちは出会うことがなかった。
妹が筒路森家に嫁ぐという、両親が望んだ当初の計画が実現していたことになる。
「初にも、感謝してる」
「なっ! 棒読み! 結葵様、この狩り人に、何か言ってやってください!」
「あ、えっと……今日からよろしくお願いします?」
お堅い自分も、真面目な自分も、それなりに認めてくれる人はいると思う。
けれど、私たちは仲間でもあるから、会話を流すという高等な意思疎通も覚えていかないといけないと思った。
「結葵様、顔を上げて。私たちは対等。仲間」
「ま、和奏の言う通りかなー。結葵様は悠真くんの婚約者でもあるけど、狩り人の仲間に加わってくれたわけだから」
深々と下げた頭を、ゆっくりと上げる。
そこには、お二人が柔らかな笑みを浮かべながら私のことを受け入れてくれた。
「狩り人同士で一緒に住むとかできないかな? もっと交友関係を深めるためにも!」
「待って。悠真くんと結葵様は、恋仲同士」
初さんと来栖さんとのやりとりは、とても平和な光景に見える。
こういう日常が、紫純琥珀蝶という非現実的なものを一瞬だけ忘れさせてくれる。
こういう言葉の交わし合いこそが、私にとっての安心材料になる。
(いつもの初さんと来栖さん……)
つい最近までは知らなかった二人のことを、これからはもっとよく覚えていきたい。
ただでさえ、紫純琥珀蝶に記憶を喰われる脅威に怯える日々。
だからこそ、私は日々を記憶に留めることの大切さを心に刻む。
「いちいち移動しなくても済むように、狩り人の数が増えてほしいー……」
紫純琥珀蝶を狩る力というのは、親から子へ代々引き継がれるものではなくて完全に神様のいたずらのように何も法則性がない。
昨今の朱色村は蝶の数が極端に少なくて、数少ない狩り人の人数を割かなくて済むようになっていたらしい。
(私が朱色村にいたからなのか、それとも偶然なのか……)
数少ない狩り人の中に、私が加わった。
それが大きな力になれたらいいと思うものの、そんな理想通りの未来を生きられるかといったら自信はない。理想を描くことは得意でも、理想を実現するには力が足りないと、北白川の外に出て学んでいくことも多い。
「紫純琥珀蝶を世界中にばらまいて、新しい人材の発掘……」
「その発想は怖すぎるかな……」
「冗談」
私たちが生きている間に、紫純琥珀蝶が消滅してくれたらそれでいい。
だけど、これから何年……何十年。もっと酷いときは何百年、何千年という年月を、淡い紫色の蝶々と付き合っていかなければいけないと考えると、狩り人の数を増やすことは急務なのかもしれない。
たかが人材不足では済まされない時代がやってくるのかもしれない。
「少し……怖くなってしまいますね」
和やかな雰囲気を味わうことができていたのに、穏やかでない未来を想像した途端に笑顔は消えてしまう。
深刻な話をしているのだから当然でもあるけれど、この場から笑顔が消えるということは、私たちが平和な場所にいないという証でもある。
「世の中には、記憶がなくなるくらいどうってことないって唱える政治家たちもいるくらいだからねー」
「一寸先は闇……」
蝶に奪われる記憶は、生きていくのに支障がない程度のもの。
蝶に記憶を奪われたところで、生きていくことはできる。
そんなことは、この世界に生きる人たちみんなが分かっている。
生活に支障を来すわけではないなんてことは、誰もがみんな理解をしている。
「それでも、記憶が抜け落ちた人生を歩みたくない方はいます」
そんな想いを抱く人たちがいるからこそ、悠真様たち狩り人は存在することが許される。
失いたくない大切な人の記憶を守るために、悠真様たち狩り人は力を行使する。
「先の未来のことを考えていても仕方がありません。私たちは民を守ることに力を注いでいきましょう」
民を守ると言っておきながら、裏では政治家や富を持っている人たちが都合よく記憶を消すための実験を行っている。この後ろめたさこそ、悠真様が抱いているもの。
(その後ろめたさや罪の重さを、悠真様から分けてもらうために私は存在する)
民を守れば、後ろめたさがなくなるというわけではない。
でも、狩り人が命令されているのは民の記憶を守ること。
せっかく力を貸してくれる狩り人がいるのだから、民を守ることに意識を集中させていかなければいけない。
「……悠真様、遅いですね」
雪が舞い散る光景は、桜の花びらが舞うときの瞬間を思い起こさせる。
まだ悠真さまと一緒に桜の木を見上げたことはないからこそ、早く春の暖かさに会いに行きたいという未来への展望を生み出す。
「悠真くんがいなくて寂しい?」
「いつもみなさんといらっしゃるので、不自然な感じがします」
初さんに言い当てられた通り、私の心は寂しいと訴えている。
その寂しさを拭ってくれる方が傍にいないのは、いつかは当たり前となってしまう。けれど、その当たり前を向けるにはまだ早い。心に灯る寂しさはより一層、降り積もっていく。
「迎えに行ってもいいですか」
「筒路森の敷地なんだから、ご自由にどうぞ」
初さんからの許可は、悠真様が重要な政に携わっていないことを教えてくれる。
初さんと来栖さんに軽く会釈をして、私は誰の手を借りることもなく筒路森の敷地内を歩く。
(独り……)
筒路森家の当主の婚約者というだけで、私は悠真様の枷となる。
それに加え、紫純琥珀蝶と言葉を交わす娘という情報も悠真様にとって枷でしかならない。
そんな私を筒路森の敷地で独りにしても大丈夫なくらい、私は狩り人のみなさんに配慮された生活を送っている。
(私はいつも、守られてばかり……)
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるというのは、私にかけられた呪いのようなものだと思っていた。
(私は、誰にも愛してもらえないはずだったのに……)
私は、私を見つけてくれる人と巡り合うことができた。
誰にも見つけてもらえず、永遠に終わることのなかったかくれんぼが終わりを告げる。
「悠真さ……」
庭までやって来ると、寒椿の赤い花びらがひらひらと舞う世界が視界に入った。
真白の世界が赤で染まる光景におぞましさを感じてしまうのに、その景色に愛する人が佇むだけで絵になるような美しさを感じる。
名を呼ぶことですら、途中で止まってしまった。
「こんなところにいては、身体を冷やしますよ」
「いろいろと……変わる季節だと思って、な」
どんなに厚着をしても冬の寒さを防ぐことはできないのに、寒椿の赤は華麗に咲き誇る。
冬の寒さに打ち勝つことのできた花も満開の季節が通り過ぎると、桜や梅の淡い桃色が人々の心を奪い去っていく。
「悠真様には、こうして花を眺める余裕もないのだと思っていました」
「趣を感じられない男が旦那なんて嫌だろ」
「そんなことはありませんよ。でも」
こうして時間は流れているはずなのに、悠真様の中の時間はずっと止まったままのような錯覚に陥っていた。
たとえ花を眺めていた理由に、どんな理由があったとしてもいい。悠真様が四季の移り変わりを感じていたことを、ただ嬉しく思う。
「花を一緒に眺める時間があることを、幸福に思います」
悠真様が持ち歩いている懐中時計が針を進めていく。
時計の針の音だけが異様に響くという独特の静けさは、幼い頃の私を傷つけた。
時計の針は、おまえは孤独だよって教えるために存在する。
そう思っていたのに、今、聴覚に届く時計の針の音は違う。
二人で刻む時間があることに、とてつもなく大きな幸せを感じられるようになった。
「結葵は、花が好きなんだな」
「恋焦がれるほどに」
「妬けるな」
喉から不満げな声を上げてくれることに、胸が絞めつけられそうにもなる。
これからも悠真様の愛情を独占したいというあさましい願いを閉じ込めて、冗談ともとれるような軽口を用意する。
「妬いてくれるのですね」
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことが、私にとっての日常だった。
北白川の外に出て、蝶以外の命と言葉を交わすようになった。
一方的な会話をしているときもあるかもしれない。
でも、それだけ悠真様に話したいことがたくさんあって、気づいたら止まらなくなっていく。止められなくなっていく。
「結葵」
同じ時は続かない。
自然が姿を変えて生きるように、私たち人間も変わっていく。
「抱き締めてもいいか」
だから、ずっと一緒にはいられない。いつかは離れてしまう関係。
同じままでは、変わらないままではいられない。
「抱き締めてください、悠真様」
変わっていく。
変わっていくのが当たり前。
だけど、だけど。
せめて、紫純琥珀蝶が消え去る日が来るまでは、私は悠真様と共に生きていきたい。
「結葵は、あたたかいな」
「悠真様も、あたたかいですよ」
叶わない願いかもしれないけど、今は、今だけは、願っていきたい。