――加奈子さん。そのお洋服……お気に入りだって言っていませんでした?
――言ったじゃない。大切なモノほど〝コロモガエ〟だって。
これが、この世界の常識だった。
――大切なモノほど、価値があるのよ。
捨てたモノにこそ、その価値はある。その価値が、正しく評価される。
だからみな、大切なモノを捨てていく。それができない人は、ここに住む資格もない。
大切な思い出も、時間も、感情も、何もかもを処分する。今を捨てる代わりに、未来を得るのだ。
――ちょっと、聞いてます?
ええ、聞こえていますよ。
コロモガエ、今晩にでもしておきますから――。
◆
「はい、それはリビングで。……あ、それは寝室にお願いします。そっちの棚は……」
「加奈子、まだ荷物はたくさんあるんだ。そんなに張り切ってるとバテるぞ」
夫の潤はベランダの柵に背を預け、煙草を片手に言った。真っ直ぐと伸びる煙が、潤の余裕と加奈子の不満をあぶり出す。
「たくさんあるから頑張るんじゃない。残された荷物はあなたが働いている間、私が一人で片付けなきゃいけないんだから」
眉根を寄せて潤を睨むと、失礼しました、と潤は煙草に口をつける。ため息のように吐き出された白く濁った息に、ろくに働いてもいないんだから、それくらいしろよ――そう言われている気がした。
この春、潤は大手広告代理店の若手有望株として、都内本社に栄転となった。聞き馴染みのない横文字の部署の部長らしい。肩書から凄いことはわかったが、それが何を扱う部署なのかも加奈子は知らない。
ただ、家と会社で見せる顔が百八十度違うことだけは、はっきりとわかった。
それでも、加奈子は潤を愛している。自分たちこそ美男美女、世間で言うところの「理想の夫婦像」であるとも思っていた。
潤は容姿も人当たりも申し分ない。加えて、一流企業の出世頭ときた。海外赴任を経験後、すぐに本社勤務とならなかったことを本人は気にしていたようだが、結果として、こうして無事「正しいルート」に軌道修正もできた。世間体を考えたらこの上ない「当たり株」で、人様から向けられる視線は痛いほどに気持ちがいい。
もちろん、加奈子だって負けてはいない。同等、とまではいかなくとも、潤の隣で胸を張って歩くことくらいはできる。
加奈子は人気ブロガーだ。フォロワー数七十万人という数値は、一般人のブロガーとしては他の追随を許さない。一日一回の更新で、急上昇ランキングにも必ず載る。
最も影響力のある一般人、と言っても過言ではなかった。
とはいえ、この地位を手にするまでは並々ならぬ努力もした。潤の海外勤務を機に第一線からは退いたが、数年前まで、潤の会社に引けを取らない有名化粧品会社でバリバリのキャリアウーマンとして働き、自らをモデルとした数多くのヒット商品を世に送り出した。
「今注目の働く広告塔」なる雑誌の特集を組まれたこともあり、芸能人に最も近い一般人だと、業界では有名だった。
そんな加奈子の突然の寿退社には、当然難色を示された。が、敢えて自ら家庭に入り、愛する夫を支える妻になった、という事実を手にする必要があったのだ。
ある時、加奈子はふと、こんな思いに駆られた。
今は物珍しさから商品が売れているに過ぎない。雑誌のモデルが次々に若い世代へと切り替わるように、新しい感性を持った人材は、これから幾らでも出てくるだろう。どれだけ自分磨きに力を入れていようとも、いずれ、その波に自分も飲み込まれる。
そんな現実は、間違いなく存在しているのだと。
しかし、浅瀬に追いやられた波のような人生でも、平等に未来は存在し、続いていく。これが現実の中の真実だとするのなら、自分の手で掴み取った事実こそ、この先の自分の存在価値をより色濃くし、再び自分が時代の荒波になれるのではないかと、加奈子は感じていた。
あのまま働いていれば。モデルを続けていれば。今頃はきっと、きっと――。
そうやって、自分の手から離れていく現実は人々の想像の中で着色され、美化されていく。逆に言えば、だからこそ輝いていられるのだ。
そう考えた時、加奈子は活躍の場を、人々の脳内へ移すことを思いついた。
大切なモノを手放すこと。それは、これから訪れる未来への投資だ。世間が描く「理想の加奈子」は実在しなくても良い。事実と想像が交わることで人々の頭に理想は生まれ、「それぞれの理想の加奈子」として、勝手に独り歩きを始めてくれる。
色褪せることも、世代交代の波に飲みこまれることもない。常に自分で波を起こすのだ。
これならずっと輝いていられる――そんな思いすら抱いていた。
このマンションに、引っ越してくるまでは――。
「皆さん、本日は緊急の集まりにご参加ありがとう。今日は他でもなく、このマンションに昨日越してこられた、新たな住人のご紹介よ。四十五階の、小柳加奈子さんです」
「小柳加奈子です。これからよろしくお願いします」
最上階である五十階に位置する、とある一室。その部屋の住人である沙織から、加奈子は紹介を受けた。マンションの四十五階以上に住む住人は、月に一度の集まりに参加する必要があるらしい。
その事を知ったのは、荷解きでごった返していた、引っ越し翌日の朝だった。
ピンポーン――……
孤独を感じるこの部屋に、インターフォンの余韻が漂う。
「誰かしら、こんな忙しい時に」
加奈子はダンボールの中をまさぐる手を止め、音を追うように視線を上げる。山積みになった荷物にため息を漏らしながら室内モニターを覗くと、そこにはブランド物の服に見を包む、一人の女性が立っていた。
「はーい」
「お忙しいところすみません。私、上の階の者です」
挨拶に来た、というように、女性は手荷物をモニターの高さまで持ち上げる。
「今行きます」加奈子はそう告げてから、慌てて荷物を部屋の隅へと寄せた。もちろん、中に上げるつもりはない。
扉を開けると、モニター越しで見るよりも化粧を重ねた女性と相対する。ど派手な服に負けない化粧を突き詰めるとこうなるの? と胸の内で毒づく。
「突然すみません。私、五十階の沙織と言います」
直感的に、苦手なタイプだ。と思った。
沙織は名字を省略し、名前の前に、自らの住む階数を口にした。上層階の家賃が高いことは、物件を探していた時から知っている。身にまとう服だけでなく、おそらくプライドも、相当に高いのだろう。
瞬間的にモヤモヤとした感情に襲われたが、それを殺して、加奈子は笑顔を作った。
「はじめまして。昨日越してきた、小柳加奈子です」
視線が合っているようで、合っていない。沙織がどことなく部屋の中を覗こうとしている気がして、加奈子は身体を小さく左右に揺らして対抗した。
「これ、つまらないモノなんだけど。お近づきのしるしに」
そう手渡された紙袋は、有名洋菓子店の名が印刷されている。明らかな先制攻撃だということは、容易に想像できた。それでも、「良いんですか? こんな高価なものを」と、店のランクを知っている上で言っています、という眼差しを向けて加奈子は返す。
「大したモノじゃないから気にしないで。それに、こちらのオーナーさんには昔から良くしていただいているのよ」
良くしてもらっているなら、大したモノじゃないなんて言うな。と言えたら少しは気が晴れるのだろうか、と思っていると、「それとね」と沙織は続けた。
「昨日は引っ越し当日で忙しかったと思うけれど、この上の階の人だけでもその日の内に、挨拶には行かなくちゃ」
やっぱり、この人は苦手だ。
「……申し訳ありません。今日、主人が帰ったら伺います」
「あら、あなただけで大丈夫よ。上の人たちも、この時間は奥さんしか居ないから。良ければ私が付き合うわ。……ちなみに、御主人の帰りはいつも遅いのかしら?」
結局、沙織の申し出を断るわけにもいかず、加奈子は部屋の整理も後回しに、予め準備していた手土産を持って、挨拶周りに出掛けることになった。その途中、事あるごとに潤について根掘り葉掘り聞かれ、終盤、加奈子はウンザリした表情を隠すこともしなかったが、それに沙織が気付いていたのかは定かではない。
「――……ってことがあったの。ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「ん、ああ、聞いてるよ。でもほら、その人だってわざわざ向こうから挨拶に来てくれたんだろ? こういうリアルも、ブログのネタになると思えば良いじゃん。それにさ、別に俺は自分の仕事のこととか聞かれても、全然気にはならないよ?」
潤は、むしろ話してくれれば良いのに、とでも言いたげな表情をしている。そうじゃない、家庭事情に土足で上がられるのが嫌なの。と言葉が喉元まで出掛かったが、仕事に絶対の自信を持つ潤に言っても意味が無いと、感情もろとも飲み込んだ。
「で? 明日の昼に、その〝集まり〟がその人の家であるんだっけ? 人気ブロガーは優雅で良いねぇ」
一時の感情は飲み込んでも、次から次へと新しい想いは湧き出てくる。潤とはそこから、ろくな会話もしなかった。いや、したくなかった。
が、今思えば、この日から平凡な日常とは逆方面に、歩き始めていたのかもしれない。
――言ったじゃない。大切なモノほど〝コロモガエ〟だって。
これが、この世界の常識だった。
――大切なモノほど、価値があるのよ。
捨てたモノにこそ、その価値はある。その価値が、正しく評価される。
だからみな、大切なモノを捨てていく。それができない人は、ここに住む資格もない。
大切な思い出も、時間も、感情も、何もかもを処分する。今を捨てる代わりに、未来を得るのだ。
――ちょっと、聞いてます?
ええ、聞こえていますよ。
コロモガエ、今晩にでもしておきますから――。
◆
「はい、それはリビングで。……あ、それは寝室にお願いします。そっちの棚は……」
「加奈子、まだ荷物はたくさんあるんだ。そんなに張り切ってるとバテるぞ」
夫の潤はベランダの柵に背を預け、煙草を片手に言った。真っ直ぐと伸びる煙が、潤の余裕と加奈子の不満をあぶり出す。
「たくさんあるから頑張るんじゃない。残された荷物はあなたが働いている間、私が一人で片付けなきゃいけないんだから」
眉根を寄せて潤を睨むと、失礼しました、と潤は煙草に口をつける。ため息のように吐き出された白く濁った息に、ろくに働いてもいないんだから、それくらいしろよ――そう言われている気がした。
この春、潤は大手広告代理店の若手有望株として、都内本社に栄転となった。聞き馴染みのない横文字の部署の部長らしい。肩書から凄いことはわかったが、それが何を扱う部署なのかも加奈子は知らない。
ただ、家と会社で見せる顔が百八十度違うことだけは、はっきりとわかった。
それでも、加奈子は潤を愛している。自分たちこそ美男美女、世間で言うところの「理想の夫婦像」であるとも思っていた。
潤は容姿も人当たりも申し分ない。加えて、一流企業の出世頭ときた。海外赴任を経験後、すぐに本社勤務とならなかったことを本人は気にしていたようだが、結果として、こうして無事「正しいルート」に軌道修正もできた。世間体を考えたらこの上ない「当たり株」で、人様から向けられる視線は痛いほどに気持ちがいい。
もちろん、加奈子だって負けてはいない。同等、とまではいかなくとも、潤の隣で胸を張って歩くことくらいはできる。
加奈子は人気ブロガーだ。フォロワー数七十万人という数値は、一般人のブロガーとしては他の追随を許さない。一日一回の更新で、急上昇ランキングにも必ず載る。
最も影響力のある一般人、と言っても過言ではなかった。
とはいえ、この地位を手にするまでは並々ならぬ努力もした。潤の海外勤務を機に第一線からは退いたが、数年前まで、潤の会社に引けを取らない有名化粧品会社でバリバリのキャリアウーマンとして働き、自らをモデルとした数多くのヒット商品を世に送り出した。
「今注目の働く広告塔」なる雑誌の特集を組まれたこともあり、芸能人に最も近い一般人だと、業界では有名だった。
そんな加奈子の突然の寿退社には、当然難色を示された。が、敢えて自ら家庭に入り、愛する夫を支える妻になった、という事実を手にする必要があったのだ。
ある時、加奈子はふと、こんな思いに駆られた。
今は物珍しさから商品が売れているに過ぎない。雑誌のモデルが次々に若い世代へと切り替わるように、新しい感性を持った人材は、これから幾らでも出てくるだろう。どれだけ自分磨きに力を入れていようとも、いずれ、その波に自分も飲み込まれる。
そんな現実は、間違いなく存在しているのだと。
しかし、浅瀬に追いやられた波のような人生でも、平等に未来は存在し、続いていく。これが現実の中の真実だとするのなら、自分の手で掴み取った事実こそ、この先の自分の存在価値をより色濃くし、再び自分が時代の荒波になれるのではないかと、加奈子は感じていた。
あのまま働いていれば。モデルを続けていれば。今頃はきっと、きっと――。
そうやって、自分の手から離れていく現実は人々の想像の中で着色され、美化されていく。逆に言えば、だからこそ輝いていられるのだ。
そう考えた時、加奈子は活躍の場を、人々の脳内へ移すことを思いついた。
大切なモノを手放すこと。それは、これから訪れる未来への投資だ。世間が描く「理想の加奈子」は実在しなくても良い。事実と想像が交わることで人々の頭に理想は生まれ、「それぞれの理想の加奈子」として、勝手に独り歩きを始めてくれる。
色褪せることも、世代交代の波に飲みこまれることもない。常に自分で波を起こすのだ。
これならずっと輝いていられる――そんな思いすら抱いていた。
このマンションに、引っ越してくるまでは――。
「皆さん、本日は緊急の集まりにご参加ありがとう。今日は他でもなく、このマンションに昨日越してこられた、新たな住人のご紹介よ。四十五階の、小柳加奈子さんです」
「小柳加奈子です。これからよろしくお願いします」
最上階である五十階に位置する、とある一室。その部屋の住人である沙織から、加奈子は紹介を受けた。マンションの四十五階以上に住む住人は、月に一度の集まりに参加する必要があるらしい。
その事を知ったのは、荷解きでごった返していた、引っ越し翌日の朝だった。
ピンポーン――……
孤独を感じるこの部屋に、インターフォンの余韻が漂う。
「誰かしら、こんな忙しい時に」
加奈子はダンボールの中をまさぐる手を止め、音を追うように視線を上げる。山積みになった荷物にため息を漏らしながら室内モニターを覗くと、そこにはブランド物の服に見を包む、一人の女性が立っていた。
「はーい」
「お忙しいところすみません。私、上の階の者です」
挨拶に来た、というように、女性は手荷物をモニターの高さまで持ち上げる。
「今行きます」加奈子はそう告げてから、慌てて荷物を部屋の隅へと寄せた。もちろん、中に上げるつもりはない。
扉を開けると、モニター越しで見るよりも化粧を重ねた女性と相対する。ど派手な服に負けない化粧を突き詰めるとこうなるの? と胸の内で毒づく。
「突然すみません。私、五十階の沙織と言います」
直感的に、苦手なタイプだ。と思った。
沙織は名字を省略し、名前の前に、自らの住む階数を口にした。上層階の家賃が高いことは、物件を探していた時から知っている。身にまとう服だけでなく、おそらくプライドも、相当に高いのだろう。
瞬間的にモヤモヤとした感情に襲われたが、それを殺して、加奈子は笑顔を作った。
「はじめまして。昨日越してきた、小柳加奈子です」
視線が合っているようで、合っていない。沙織がどことなく部屋の中を覗こうとしている気がして、加奈子は身体を小さく左右に揺らして対抗した。
「これ、つまらないモノなんだけど。お近づきのしるしに」
そう手渡された紙袋は、有名洋菓子店の名が印刷されている。明らかな先制攻撃だということは、容易に想像できた。それでも、「良いんですか? こんな高価なものを」と、店のランクを知っている上で言っています、という眼差しを向けて加奈子は返す。
「大したモノじゃないから気にしないで。それに、こちらのオーナーさんには昔から良くしていただいているのよ」
良くしてもらっているなら、大したモノじゃないなんて言うな。と言えたら少しは気が晴れるのだろうか、と思っていると、「それとね」と沙織は続けた。
「昨日は引っ越し当日で忙しかったと思うけれど、この上の階の人だけでもその日の内に、挨拶には行かなくちゃ」
やっぱり、この人は苦手だ。
「……申し訳ありません。今日、主人が帰ったら伺います」
「あら、あなただけで大丈夫よ。上の人たちも、この時間は奥さんしか居ないから。良ければ私が付き合うわ。……ちなみに、御主人の帰りはいつも遅いのかしら?」
結局、沙織の申し出を断るわけにもいかず、加奈子は部屋の整理も後回しに、予め準備していた手土産を持って、挨拶周りに出掛けることになった。その途中、事あるごとに潤について根掘り葉掘り聞かれ、終盤、加奈子はウンザリした表情を隠すこともしなかったが、それに沙織が気付いていたのかは定かではない。
「――……ってことがあったの。ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「ん、ああ、聞いてるよ。でもほら、その人だってわざわざ向こうから挨拶に来てくれたんだろ? こういうリアルも、ブログのネタになると思えば良いじゃん。それにさ、別に俺は自分の仕事のこととか聞かれても、全然気にはならないよ?」
潤は、むしろ話してくれれば良いのに、とでも言いたげな表情をしている。そうじゃない、家庭事情に土足で上がられるのが嫌なの。と言葉が喉元まで出掛かったが、仕事に絶対の自信を持つ潤に言っても意味が無いと、感情もろとも飲み込んだ。
「で? 明日の昼に、その〝集まり〟がその人の家であるんだっけ? 人気ブロガーは優雅で良いねぇ」
一時の感情は飲み込んでも、次から次へと新しい想いは湧き出てくる。潤とはそこから、ろくな会話もしなかった。いや、したくなかった。
が、今思えば、この日から平凡な日常とは逆方面に、歩き始めていたのかもしれない。