「――麻沙美! おい、麻沙美! しっかりしろ!」
 自他ともに認めるおしどり夫婦は、突然の終わりを告げた。
 不慮の事故だった。道路に飛び出してきた猫を避けようとして、バランスを崩した。ブレーキを掛ける時間も、ハンドルを切り直す余裕もない。街路樹との距離は瞬く間に近くなり、強い衝撃とともに、気が付けば夜空を見上げていた。
 後から聞いた話では、乗っていたバイクは原形をとどめておらず、辺りにはバイクの破片が飛び散っていたそうだ。そして、一人の女性が投げ出されていた、と。
 感覚のない足を引きずり、遠のく意識を奮い立たせて彼女の元へと急ぐ。目と鼻の先と呼べる距離が縮まらない。
 その身体に触れた時、彼女はもう、息をしていなかった。
 占部麻沙美。
 明日で――いや、正確にはあと一分足らずで、結婚二十年の節目を迎えるはずだった。その瞬間を逃さないように時計を見ようと、一瞬だけ前方から視線を逸らした。その一瞬が、彼女の一生を奪うことになってしまった。
 何度も、何度も名前を呼んだ。しかし、叫んでいるはずの声が、自分の耳にも届かない。通行人が連絡をした救急車が到着するまで、人形のように静かに横たわる麻沙美を前に、無音の声を発し続けた――。

 占部真一は、写真の中で笑みを浮かべる麻沙美の姿を見ていた。あの日からどれだけの時が経とうとも、この笑顔が色褪せることはない。真一の髪が色を失っても、皺が増えても、麻沙美はあの頃と変わらない表情で、こちらに微笑みかけている。
 真一は今日の出勤をもって、長年勤めた会社を定年退職した。娘が産まれた時に購入したお気に入りの革の鞄も真一を労うように、今ではすっかり、その顔を変えている。
「もう四十年以上も勤めていたのか……人生の半分以上だな」
 鏡の前でネクタイを結び直しながら、不意に感じた時の流れの早さに、笑みが零れた。
「喜んでくれるだろうか……」
 慣れた手つきで美しいディンプルを作り出す。光沢のある、上品な赤いネクタイは、首元に優しい彩りを与えていく。まるで野に咲く一輪の薔薇のように、その存在を主張していた。
 真一がジャケットに腕を通すと、机の上に置かれたスマートフォンが振動する。画面に一瞥を投げ、耳へと運ぶ。
「もしもし」
『もしもし? あ、お父さん? 今日で定年だったよね……本当に長い間、お疲れ様でした』
 娘の彩華からだった。一人娘の彩華も二児の母となったが、今でもこうして、節目には必ず連絡をくれる。
「彩華。わざわざ、ありがとう。こうして父さんが働いてこられたのも、彩華と雅臣くんがいつも気に掛けてくれて、それから由紀ちゃん、颯太くんが元気をくれたからだよ」
 真一がそう言うと、電話越しが何やら騒がしくなる。
『『良い? いくよ? せーの……おじいちゃん! ごていねん、おめでどーござぁます』』
 身体の芯から活力が湧き出るような、愛くるしい二人の孫たちからの言葉だった。どうやら、この日の為に練習していたらしい。
「ゆきちゃん、そうたくん、ありがとう。じぃじ、とっても嬉しいよ」
『じぃじ、嬉しいってー』
 筒抜けとなった天使の声が、真一の心を包んでいく。
『どう? 上手に言えたでしょ? いっぱい練習してたんだよ』
「あぁ。もう、本当に上手だった。少し会わない間に、どんどん成長して……父さんも歳を取るわけだなあ」
『何言って――あ、ちょっと待って。雅臣も話したいって』
 ガサガサと物が擦れる音がしたあと、電話口の声が変わる。
『――……もしもし、お義父さん? ご無沙汰しています、雅臣です。今日まで本当にお疲れ様でした。僕はまだまだ働かないといけないですけど、少しでもお義父さんに近づけるように、これからも精進します』
「雅臣くん、忙しいのにすまないねえ。本当にありがとう。こんなに素敵な息子と孫を持つことができるなんて、私は本当に恵まれているな。君はもう、私なんかよりも遥かに立派だ。これからもずっと、応援しているからね」
『僕なんて全然、そんなことないですよ。……でも、ありがとうございます』
 雅臣は照れくさそうに口にした。
『……ちょっと、お父さん? 全部、聞こえてるんですけど。「素敵な娘と息子と孫」って言ってくれるかしら?』
 わざとらしく拗ねるような口調で彩華は言う。その顔が脳裏をよぎり、自然と真一の口元は緩んだ。
「すまない、すまない。もちろん、彩華がいるからに決まっているだろう?」
『なんだか取り繕ったような言葉ね』と口にしながら、後ろから聞こえる元気いっぱいの孫たちの声にかき消されそうな、彩華の小さな笑い声が届いた。
 一呼吸置いた後、彩華は再び口を開く。
『お父さん。今日ってさ……』
 先程までとは打って変わって、電話越しに感じる彩華の空気が重みを増す。その空気は空間を越え、真一のいるこの部屋にまで流れ込む。
 真一はその意味を理解していた。
「ああ。この日を二十年間ずっと……ずっと待っていたんだ」
 口に手でも当てているのだろう。真一の言葉を聞くと、しばらく彩華は息を殺すように静かになり、洟を啜る音だけが何度も聞こえてきた。
『ママー? どこか痛いのー?』
『違う……、違うのよ。大丈夫だから……向こうでパパと遊んでいなさい。ごめん、雅臣。やっぱり二人とあっちの部屋に……行っててくれる?』
 賑やかな居酒屋を後にした時と同じように、少しずつ、音は遠くへと消えていく。扉の閉まる音を最後に、小さな希望の象徴の声は眠りについた。
『ふう……ごめんね、お父さん。今日くらいは明るくって、思ってはいたんだけど』
 吐き出す息とともに、彩華は言った。
「良いんだ。いくら娘だからって……いや、娘だからこそ、複雑な想いなんだろう? やっぱりお前は麻沙美の娘だ」
『うん。私はお母さんの子。でも、私はお父さんの子どもでもあるの。血の繋がった家族なの』
「彩華……お前は強い女性で、優しい母親だ。あんなに素敵な家庭もある。彩華が私たちの娘だからじゃない。これは彩華という一人の人間が、一生懸命にその命を燃やしたから手にすることのできたモノなんだ。彩華はもう大丈夫。今まで本当にありがとう。父さん――行ってくるな」
『お父さん! やっぱり私は……』
「それ以上言うと、子どもたちから離れることになってしまうぞ。父さんは子どもたちからお前を、お前から家族を奪いたくはないんだ。わかって……くれるな?」
 真一の気持ちを汲み取ったのか、彩華は声にならない声を漏らした後、子どもようにしゃくり上げた。そして、大きな深呼吸をしてゆっくり息を整えると、震える声で「二人の子どもで幸せでした」とだけ、口にしたのだった。
 彩華の声を聞く耳が、じんわりと火照っていく。真一は唇を噛みながら、あの時の事を思い出していた――。

 ――今から二十年前。
 真一は個室のベッドで横になっていた。最後にある記憶は、抱きしめるように被さった麻沙美から、引き離された瞬間のモノだった。
 全身が焼けるように熱い。自分の意思では指一本動かすことさえできない。ただただ瞬きだけを繰り返し、他人事のように痛々しく処置の施された身体と、点滴の雫が垂れていく様を見つめていた。
 これが現実であると教えてくれたのは、彩華に握られた左手の温もりだった。奇跡的に一命を取り留めてはいたが、どうやら事故のあと丸三日間、意識を失っていたらしい。
 あの事故は真一から色々な物を奪っていた。それにも関わらず、心と身体には深い傷が刻まれている。目に映る自分の身体は別人のものなのではないかと、何度も錯覚に陥った。
 天井を見上げるだけの時間を過ごしていく。体調は少しずつ回復し、トラバーチン模様と呼ばれる天井材の穴の数を大方数え終えた頃には、会話もできるようになっていた。
 そんなある日、白衣に身を包み、首から「白石」のネームプレートを下げた男性が、真一の病室を訪れる。そこで、真一はある事実を知らされた。
「奥様はあの事故で、残念ながら命を落とされました。この病院に運ばれて来た時にはもう――」
 事故後に麻沙美のことを聞いたのは、この時が初めてだった。彩華から聞くことも、真一から聞くこともしなかったからだ。誰も話題にしないのは、自分の体調面を考慮してのことだとわかっていた。本当はすぐにでも聞きたかった。が、それ以上に、事実を知ることが怖かった。
 断片的に残る記憶が、嫌な予感を運んで来ていたから。
 白石はその後も淡々と事実を口にしていく。真一は黙って話を聞いていたが、白石が何を話していたのか、一切記憶に残らなかった。
 ――麻沙美はもう、この世にはいない。
 その事実だけが頭の隅々を駆け回り、酷い頭痛に襲われる。もうこれ以上、新しい情報を処理する力など残っていない――まるで脳が直接、そう語り掛けているようだった。
 しかし、残された僅かな隙間を埋めるが如く、その状況は白石の一言によって、絵に描いたように崩されていく。
「占部さん。私から一つ、あなたに提案があります。奥様に――〝会いたい〟ですか?」
 白石の言葉は鋭い矢となって、真一の頭に突き刺さる。
 麻沙美に――会える?
 思いもよらない話に戸惑いつつも、思考は恐ろしいほど冷静に、言葉を紡いでいく。
「それは遺体に……という意味ですね?」
 真一は白石に強い眼差しを向けたが、白石は迷うことなく、即座に回答した。
「違います。〝生前の奥様に〟という意味です」